75話 次なる一手
アーノルド・ゲルンボルクがその『建物』から外へと出たとき。既に、周囲は薄い朱の光に包まれ始めていた。
後ろを振り返ると、夕焼け雲に差し掛かるように、暗色の壁がそびえ立っている。
(まさか、俺がこんな場所に足を踏み入れることになるとは、な。人生、何が起こるかわかりゃしねえ)
エルドナーク中央区・エイリル街十番地。
セントラル・パークの傍に隣接されたそれは、代々の首相が執務兼住居として活用する、王都の心臓部の一つ。
すなわち、首相官邸である。
そんなところに呼び出されただけでも緊張するというのに、おまけに相手が相手。
アーノルドと面会を望んだのは、なんと時の首相。八大侯爵家のひとつにも名を連ねる、ザッハドルン・グレーベル閣下であった。
その話を持ち掛けられたときは、さしものアーノルドもギョッとした。
更に更に、とり急いで準備を重ね、慌てて出向いたその先で聞かされた『事情』にはもう、目を剥く他ない。
マリーベルが王宮に出仕してから、まだ四日である。だというのに、彼女が得た縁と情報は、どうだ。あまりに濃厚過ぎて胃もたれしそうだ。 あの奥様は一体全体、何をしたのか。どんな魔法を使えばこうなるのだ。
黒塗りの制服、その襟元を緩め、アーノルドは大仰にため息を吐いた。
「ヒッヒヒ……これだから、貴方と居ると退屈しないよ。こうも事態が動くとは、いささか予想外であったがねぇ?」
アーノルドのその様子を、隣に居た『同行者』が、さもおかしげに笑う。
頭頂部を帽子で隠してこそいるが、首相以上につるりと禿げた後頭部を愉快気に撫でている。
切なげな笑みを浮かべていたザッハドルンとは違い、己のそれを大して気にしていないようであった。
「俺じゃねえよ、アイツだ。ぜんぶアイツの手柄だよ。つうか、たった数日で首相や、偏屈で有名な第二王子と知り合うとか、なんなんだそれ。どういうことだオイ。おまけに侯爵家の令嬢も手懐けたとか何とか――あぁもう、早い、幾らなんでも展開が早すぎる!」
思わず頭を抱えそうになる。
あの天下無敵な奥様のことだ。ただ王宮に出仕するだけでなく、何らかの情報を持ち帰ってくるだろうとは思っていた。そう、思ってはいたが……
「いやはや、なんだい。随分と嬉しそうだねえ。顔がにやけているよ、だらしなく」
「うっ」
指摘を受け、アーノルドは口元を抑えた。
そうだ、戸惑いと驚きは確かにある。
けれどもそれを上回るのは、妻が無事であるという安堵と、彼女が為した功績に対する誇らしさ。
つまるところ、うちの奥様すげえんだぞ! であった。
叶う事なら、胸を張って喧伝したい気分だ。声を上げて自慢したい。むっちゃしたい。
「いや、まあ、その。うん、流石はアイツというか、なぁ?」
「なぁ、と言われても困るのだが。いやはや人間、変われば変わるもんだ。」
「……そうか? 自分じゃ良くわからんのだが」
「あの眼鏡秘書クンに聞いてみたまえよ。同じ言葉が返ってくるだろうさ。ヒヒ、仲良きことは美しきかな。夫婦とはかくあるべしというもんだ」
揶揄するような口調に、アーノルドは黙り込む。
気恥ずかしさから否定したが、心の持ちようが変わった事は、認めざるを得ない。
全て。そう、全ては、自身の妻。マリーベル・ゲルンボルクのお蔭であった。
「アンタにゃ感謝するよ悪食警部。急な話を持ちかけたってのに、よくもまぁ都合を付けてくれたもんだ」
アーノルドの礼に、ベンジャミン・レスツールはニヤッと唇を歪めた。
「貴方の願いなら、最優先で叶えるとも。それが、私の望むものへの近道だ……ヒッヒヒ……」
くつくつと不気味に笑いながら、名物警部は楽しそうに肩を震わせた。
相変わらず、趣味の悪い男である。そこそこに長い付き合いだが、この悪癖は出会った時から変わらない。
アーノルドはそうひとりごちると、己の服装を見下ろした。
今、自分が身に付けているのは、丈の短い黒のフロック・コートに歪曲したヘルメット。全身黒塗りのそれは、ザ・ヤードの代名詞とも言える警官服だ。
一応、念には念を入れて。人目を忍ぶために、かの悪食警部の協力を仰いだのである。
それは、偽装と身分詐称の同行者として彼が最適だからということもあったが……一番は、ベン警部の言う通り。
そのことこそが、彼との契約。約定に繋がるものであったからだ。
「互いに、目的に近付けてなによりだ。ここまで来た以上は、詰めを誤らんようにしねえとな」
「ふむ? というと、どう動くのかね?」
「あぁ、念の為にな、ひとつ布石を打っておいたのさ。それがどうやら役に立ちそうだ」
先へ先へ、前へ前へ。あらゆる手段を使い、どんな局面にも対処する。
それが、アーノルド・ゲルンボルクを今日まで生き延びさせた、最大の要因。
「まぁいい。足がわりにはなってあげようかね。その服も着替えねばならんだろう?」
「あぁ、うん。いや、ほんと有難いっちゃ有難いんだが」
警部の申し出に、アーノルドはげんなりとした顔になる。
「なぁ、アレにまた乗るのか?」
「なにか不都合でもあるのかね? 君の奥方なら、きっと気に入ると思うのだがなぁ」
敷地外へと出ると、通りに停められた蒸気自動車が目に入る。
番をしていたらしき若い警官が、恥ずかしげに身を震わせているのが見えた。
――可哀想に。思わず同情してしまうくらいに、それは生き恥めいた光景である。
「ほんと、アンタの趣味はどうなってんだ……?」
悪食警部の愛車。
それはなんと若草色に塗られた車体に、可憐な花の意匠が、これでもかとばかりに施された……少女趣味的なものであった。鷲鼻の怪人が乗りまわすにしては、不釣合いが過ぎる。
「良いだろう? 可愛らしいだろう? 素敵で素晴らしいだろう?」
その問いに答える術を持たず、アーノルドは呆れたように口をひん曲げるのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――邸内は、明るい喧騒に包まれていた。
敷物や装飾品に調度品、そのどれもが当主の意を反映しているかのように、慎ましやかで上品なもの。
招待されている客層もまた、それに相応しい身なりと振るまいを持つ者ばかり。
時刻は既に真夜中へと差し掛かり、参列客たちはみな、グラスを手に思い思いの相手と談笑を楽しんでいる。
そんな中、本来なら場違いであろう男が一人、ホールの中心に近い場所で人に取り囲まれていた。
(全く、マリーベル様々だぜ。王太子妃最有力候補の傍仕えに抜擢されたんだ、ちったぁ注目を浴びるかとは思ったが、想像以上に効果的だったな)
こちらを探るような物言いと共に、付かず離れずの距離を保って接してくる上流階級のご歴々。
顔は笑っているが、その瞳はそうではない。
気詰まりするような時間。ひとつひとつ対応をこなすだけでも、心が摩り減りそうになる。
これを毎回毎回、平気な顔でそつなく行っているのだから、我が妻ながら大した女であった。
傍にあの、お日さまのような笑顔の持ち主が居ない。それが何とも寂しく、頼りなく感じる自分自身に、アーノルドは苦笑を漏らす。
(俺は、こんなに弱かったか? まったく、情けねえこったぜ)
それに比べて、マリーベルはどうだ。彼女の活躍と、その心の持ちようは賞賛に値する。
王宮は堅苦しく、気の抜けない場所だ。多分、寂しさなど感じている暇もあるまい。
肌を合わせたわけでも無い夫を、あの少女が恋しがるとは思えなかった。
とはいえ、それは無条件に妻の心が強い、ということには繋がらない。
彼女は何処か甘えん坊な所がある。いや、というよりも、甘え方を知らないのだろう。
マリーベルは、そうせざるを得ない人生を生き抜いてきたのだ。
少しでも、自分が妻にとって、気を休ませられる場所になれればいい。
あの娘が心安らげて、穏やかに過ごせるパートナーでありたいと願う。
(帰って来たら、うんと褒めて贅沢させてやろう。アイツの望みは、何でも叶えてやりたい)
わぁい! と声を上げて微笑む妻の姿を幻視し、アーノルドは胸の辺りに広がるような、淡い温もりを感じ取る。
「……口元が緩んでおりますよ、義兄上」
こっそりと囁かれた指摘に、アーノルドは身を固くする。
またか、と思って振り返れば、そこには幼さを残す少年の姿が在った。
少し離れた場所で、義母上殿がやれやれと首を振っている姿が見える。
「……姉上の事を考えていらっしゃったのでしょう?」
人が丁度離れた機会を見計らい、義弟――リチャードが意地悪気に笑う。
その表情が、何処となく妻のそれに重なり、アーノルドは何とも言えない気分となった。
「何のことだか判りかねますね、男爵閣下」
「素直でない方だ。姉様も苦労するね、これは」
言葉遣いを年相応の物に戻し、リチャード・ハインツ男爵は肩を震わせ始める。
昼間の悪食警部といい、何だかここのところ、自分の扱いが雑だ。見世物の珍獣のように思われてはいないか。
そんな不安を見透かしたかどうか、義弟は貴公子めいた仕草で周囲に視線を配る。
「私は良い傾向だと思いますよ、義兄上。少し肩の力を抜くくらいが丁度よろしいかと。何せ、これから――」
リチャードが言い終わらぬうちに、ホールにどよめき声が走る。
若いご婦人方の視線と熱い吐息が、入り口から現れた『彼』へと集中した。
「――あぁ、おいでなすったか。お前の言わんとする事は分かってるよ。後は任せな」
「どうぞご武運を、義兄上」
見送りの視線を背に受けて、アーノルドは歩き出す。
すると、それを待っていたかのように、宴の席へと現れた『彼』は、足を止めて微笑んだ。
あと、十歩も歩けば肌がふれ合いそうな、その位置で。両者は相対する。
アーノルドは無言。立場は向こうが上だ。挨拶の言葉も何もかも、下位であるこちらが先んじるわけにはいかない。
「……僕の予想よりも、更に早い。君たちと相まみえるのは、舞踏会でと思っていたのだがね。まずは見事と賞賛しようか、ミスター・ゲルンボルク」
「お褒めの言葉を頂きまして、光栄に存じますよ、ルスバーグ閣下」
恭しく礼を取るアーノルドを見て、ラウル・ルスバーグが破顔する。
「いやぁ、ようやく言えるね、ミスター! うずうずしていたんだよ、これでもさ! 今か今かと待ちかねていた!」
その言葉が示す通り、公爵家の次男坊は子供のようにわくわくと目を煌めかせ、早口でそう捲し立ててくる。
相変わらずだ。全く変わっていない。その様は、一種の安心感すら覚える。
こちらの雰囲気を見て察したか、ラウルは大仰に腕を広げて天を仰ぎ、次いで流れるような動作で右手を付き出す。
「――ようこそ、我が社交界に。君の来訪を、心より歓迎しよう」
輝くような金の髪を揺らし、『名探偵』は招くように手を差し伸べた。




