72話 首相さんは苦労性です
朝の光が差し込む、美しき回廊。そこに佇む一人の老人の姿が在った。
疲れたように腰を曲げ、疲労の色を濃くした顔で、彼は目の前の扉を睨む。
そこは、自身の執務室。長年にわたって慣れ親しんだ部屋。だが今は、そこが大層に禍々しく見えた。
取っ手に指を掛けようとして、老人は顔に脂汗を滲ませた。
「あぁ、胃が痛む……」
しくしくと、鈍痛を訴え始めた腹を抑え、ザッハドルン・グレーベルは呻いた。
巡り廻った首相の地位。それとて、縋るほどの価値を見いだせない。
王家と有力貴族、それに平民達との折衝に勤しみ、三重苦の板挟みに合う始末。
(譲れるものなら、さっさと譲り渡したいわい)
かつて、首相が宰相と呼ばれていた時代。貴族が貴族らしく生きたとされる、その頃ならば、まだマシであったろうか。
権力への暗闘、僻みや妬み、それらの悪意に抗い切るには、年を取り過ぎた。
その手腕と経歴、知識、そして彼自身の『特質』を買われ選出された地位ではあるが、そろそろ荷が重くなり始めていた。
時代は移ろい、国際間の火種がくすぶり始めた昨今。閣議を主宰する立場である、ザッハの役割は大きい。
それは何よりも、敬愛すべき女王陛下の容体悪化によるものが大きいが――
(ここのところ、アルファード殿下のご様子もおかしい。デュクセン嬢を退け、レーベンガルドの小娘を傍に置くとは。一体、どうしたというのだ)
きな臭い。どうにも体がムズムズとする。
それは直感。長年にわたって清濁を呑み込んで来た彼自身が持つ、危険に対する警戒の念。
ゆえに、ザッハは中央区にある首相官邸に身を置かず、こうして宮殿内にて執務を行っているのである。
今、彼がここを離れるわけにはいかない。
(国力は肥大しているというのに、それを担う者達が脆弱では話にならん。特に、アストリアだ。かの『人形』技術が一般化されれば、大いなる脅威に結びつく。だというのに、レーベンガルドめ!)
同じ八大侯爵家のひとつでありながら、破滅的な嗜好を持つ男の顔を思い浮かべ、ザッハはため息を吐いた。
(もはや、貴族が享楽を貪れる時代は終わったのだ。『祝福』の力もまた、遠ざかり始めた昨今。下手をすれば百年の後、この国に貴族階級が生き延びられていられるかも分からんと言うに。侯爵家の跡取りといえど、庭師がそこらに落ちぶれかねんぞ)
あの男が、何らかの手を使い、宮廷に――引いてはこの国に、混乱を招こうとしているのは確かだ。
性質が悪い事に、それに賛同する者達も少なくないのだから、あきれ果てたものである。
この国の貴族は、その成り立ちからして、人ならざる血脈の中に在る。
ゆえに、古来より特別視され、他国であるような革命は、ほぼ起こりはしない。
上から下まで、国民が階級制度を受け入れているからこその、奇跡的な国。
だが、押し寄せる近代化の波は、それすら押し流しかねない危険性を孕んでいた。
(いっそ、全てが朽ちて消えてしまえば楽なものを――と、いかんいかん! 私まで、あの男と同じ発想に行き着いてどうする)
この世の全てが健やかであれ、等とは言わぬ。
濁り、汚泥した道のりであれど、それでも自分達は己がやるべきと定めたことに、力を注いで来たのだ。
(……もう、在りし日の陛下を知る者も、私一人になってしまったなぁ。老いぼれが必死に足掻く様を、皆は笑うだろうか?)
それでも、最期まで。自分は抗い続けるだろう。
仲間達が次々に調和神の御許へと旅立ち、生涯ただ一人の主と定めた方は、病床に伏して久しい。
「せめてアリーシャ殿が傍に居れば、陛下の御心も安らいだであろうに……」
『美食伯』と謳われた、かの伯爵夫妻が天寿を全うしたこと。それそのものは祝福すべきだ。
だが、綻びはやはり、そこから始まったのではとも思う。
何故なら、彼女達が没したまさにその直後。悪夢としか思えない惨劇が、あの方を襲ったのだから……
(私は、あの方々を守り切れなかった。陛下の御嘆きを止める事が叶わなかった。何とも不甲斐ない男よ)
『バカ野郎、お前が屈してどうする。足を止めてどうする。お前が涙を流してどうなるというんだ』
親友であった男の言葉が、脳裏に蘇る。
平民でありながら、一代で財を成し、傲岸不遜とも言える態度でザッハに接し続けたあの男。
貴族を敬いもせぬ礼儀知らずの男であったが、自分も女王陛下も、彼に信を置いていた。
瞼を閉じれば、若き頃の思い出が。お転婆だった女王陛下に振り回され、幾度も大冒険を繰り広げた記憶が蘇る。
何度も死ぬような思いをした日々であったが、不思議と充実していた。
あれが、自分の青春であったのだろうと、今なら判る。
(エヴィン様や、リリアナ様も。みな、旅立ってしまわれた。これが寂しいという感情なのか。年は取りたくないものだ)
禿げ頭をつるりと撫で、ザッハは息を吐き出した。
(そういえば、あの男が死してから、もう六年か。早いものだ)
殺しても死なないと思っていた男の死は、ザッハをして衝撃を与えるものであった。
(しかし、あやつの最後の弟子、その伴侶が王宮に上がろうとは――これも、運命というものか? もしや、調和神の御導きであらせられるのか……)
まだ神は、自分に何かを為せと、そう言っているのだろうか。
ならば、是非も無し。この手が動き、心臓が脈を打ち続ける限りは、この国とそこに生きる民たちを守らねばならん。
それが、貴き血に生まれた者の使命であり、最後に残された者の務めであろうと――老首相は、そう思うのである。
(それに、望みはまだある。ランドール殿下の御心が正常である限り、まだ――)
と、そこで。ザッハは足を止めた。
今、自分は確かに扉を開いたはず。なのに、どうして。
「回廊が、そこに広がっておるのだ……?」
その疑問に答えるように、鈴の音が微かに耳に響く。
「これは……ランドール殿下の『祝福』……?」
壁に備えられた鈴が、一様に音色を奏で始める。
導くように、誘うように。
しばし、瞑目すると。エルドナークの老首相は、回廊へと足を踏み出した。
幾つかの角を曲がり、そうして彼は『そこ』に立つ。
草木の装飾が施された、鉄の扉。それが何者の部屋に続くものであるか、分からぬザッハでは無い。
取っ手に指を掛けると、掠れた音と共に扉が開く。
目に映るのは、相変わらず所狭しとひしめく『箱庭』の群れ。
精緻を極めたそれらの模型を一瞥し、ザッハは部屋の中へと入る。
部屋の奥、そこに立つ人影に向かい、老首相は恭しく一礼する。
「……何やら、危急にございますかな、殿下?」
彼が自分を呼ぶということは、そういうことであろう。
さして驚きもなく、ザッハは目の前の人物に、そう問いかけた。
「来たか、ザッハ。ご苦労であったな。まずは、この者達の話を聞くが良い」
人影――ランドール王子が手を振ると、その後ろに控えていた者達が、前へと進み出た。
「貴女は……デュクセン卿令嬢……!?」
ザッハが目を開く。
日の光に紅い髪を輝かせ、彼女は淑女の礼を取る。
「朝も早くから、ご無礼をお許しくださいませ、グレーベル閣下。その上で、どうか私の話にお耳を傾けて頂きますよう、お願いいたします」
令嬢の瞳は、かつてない程の真剣な輝きを孕んでいる。
知らず、身構えはじめた首相を見て取り、フローラ・デュクセンは言葉を紡ぐ。
「ことは――王家の、一大事ゆえに」
――首相の胃に、最大限の痛みを与える、その一言を。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お、王太子殿下が偽物ですと!? そ、それは真で!?」
痩身痩躯をのけぞらせながら、ザッハ首相が目を剥いた。
その顔色は、可哀想な程に青ざめ、しきりに胃の辺りを手で押さえている。
見た目からしてそうだが、苦労性の御方なのであろう。
昨日の交代式での様子を思い出し、マリーベルは気の毒になってしまった。
「はい。それは、ここに居る全員が目撃しております。間違いはございません」
きっぱりと言い切ったフローラの言葉。老首相は身を屈めて、ぐぅぅ……と呻き始めている。
「なんだ、じい。また持病の胃痛か。少しは体を労われ」
「私も常々、そうは思っておりますがな! 状況がそうさせてはくれませぬ! なんという、なんという……!」
荒い息を吐きながらも、その瞳には確かな輝きが宿っている。
絶望的な状況を理解しながらなお、悲嘆ではなく、その先へと切り抜ける為の意志が込められた目だ。
その様に、マリーベルは自身の夫と似通ったものを感じた。重荷を背負う事を厭いながらも、決して手放さない。
自分から『貧乏くじ』を引く人種である。養生して欲しいと、強く思う。
「レーベンガルドめ! よもや、何という大逆行為を! そこまで堕ちたか!」
「閣下、レーベンガルド卿を問い詰める事は叶いませんか?」
「あの男のことだ。その程度の立ち回りは確保しているでしょうな。下手につつけば、王太子殿下の身も危うい」
フローラの訴えを冷静に退け、ザッハは歯ぎしりをする。
「ええい、陛下が病床に伏せていらっしゃるのを良い事に、好き勝手しおって!」
「じい、そう喚くな。脳に悪いぞ。そら、これを持っていけ」
憤懣やるかたない、という様子の老首相に対し、ランドールが何かの紙切れを放って寄越す。
それをはっしと取り、目を滑らせていたザッハの表情が、見る見るうちに変化する。
「殿下、これは……!」
「兄上が様子をおかしくしてから、私に接触してきた貴族どもの目録だ。裏取りは任す。お前はすぐに、首相官邸に戻れ」
ハッとして顔を上げた老首相に、あくまで淡々と、淡々と。第二王子は事務的に指示を下す。
「お前が睨みを利かせていた連中も、そうすれば浮足立って動くだろう。この際だ、膿は全て出してしまえ。兄上もそれを望んでいる」
「殿下……」
はあっとため息を吐き、ザッハが首を振った。
「その様をお示しになられれば、皆の見る目も変わるでしょうに」
「何度も言わせるな。私は陰で良い。面倒事は嫌いなのだ。それでいい、そう思っていろ」
気遣うような声を一蹴し、ランドールは顎をしゃくって見せた。
「連絡は密に取りたい。お前の力が必要だ。言わんとする事は、分かるな?」
「う……! や、やはり。そうなりますか」
「その通りだ。お前の『祝福』を差し出してもらいたい」
その言葉に、マリーベルは驚かない。
事前に、聞かされたいたからだ。
ザッハドルン・グレーベル侯爵もまた――『選定者』である、と。
「よう、ようございます……! 我が心、我が身。骨の髄まであの方に捧げたと、お見せしましょう!」
観念を決めたかのように呟くと、ザッハはおもむろにその手を己が後頭部に伸ばし――
「あぁっ!?」
――毟った。勢いよく、何十本と。
残り少ない、彼の髪の毛を!
「お持ち下され……! これが、我が忠誠……!」
「うむ、しかと受け取った。見事であるぞ」
恭しく差し出された毛髪を、大事そうに手に取る王子様。
自分は今、何を見せられているのだろうか。
マリーベルの頭に、『?』が渦巻き始める。
「こやつの『祝福』は『伝心』だ。この男を中継ぎとすることで、この毛を持った者達の意志を伝達し合う事が出来る。たとえ、どれ程に遠く離れていようと、だ」
無論、時間の制限も、使用の条件もあるが。
そう告げるランドールと、その手に握られた毛髪。そして悲しそうに頭を抑える首相様。
それらを眺めながら、マリーベルは嫌な予感を覚え始める。
「あの、その。そんなにモサッと毟らなければならないんです?」
「祝福の使い手同士は、権能が通じにくいのはお前も知っておろう。只人なら数本で済むが、我らの場合、その十倍、二十倍は必要だ」
大量の毛髪を手で弄びながら、王子様はそう告げる。
「大事に使わねばならんぞ。何せ、毟った場所の毛は二度と生えてこぬ」
「え」
何だそれは。もしや、もしや。
彼の『祝福』の、その代償は――
「毛根が死滅するのですよ、お嬢さん。不毛の大地と化すのです。まぁ、殿下達の『祝福』、その代償に比べれば、身に響かないだけマシというものですぞ。お気になさいませぬよう」
そう言って、悲しく笑うグレーベル侯爵。
神は何故、このような過酷な運命を彼に課したのだろう。
これが高貴なる者の義務というものか。
女王陛下に捧げた忠誠に、マリーベルは畏敬の念を覚えてしまう。
そんな少女の感傷に構わず、王子が言葉を続ける。
「それともうひとつだ。こ奴等の話を聞いて、確信を深めた。やはり、二十五年前の事件に、『アレ』が関わっている可能性が高い」
「と、申しますと……?」
「テンダリア公爵家だ」
聞き慣れない言葉が、王子の口から飛び出す。
マリーベルは内心、首を捻った。
この国に存在する公爵家の中に、そんな名前は無かった筈だが……
「……かの、ルスバーグ公爵家。その前身である、家門、です……」
こちらの様子を感じ取ったか、フローラがそう補足してくれる。
そういえばと、マリーベルも思い出す。
恋愛伝説で有名なルスバーグ公爵家。あの『名探偵』を有するそれは、比較的新しく勃興した家門だ。
(初代当主が、当時の宰相を務めていた公爵家の領地を、そっくりそのまま継承した――んだっけ?)
頭の奥にしまわれていた知識を引っ張り起こす。
二百年前の王太子交代事件。確か、そこで不祥事めいたことがあり、公爵家は没落。
臣籍降下した元王太子が、新公爵となって今に至る――だった、はず。
「これは一説にすぎませんが」
マリーベル達の話を聞いていたのだろう。
鉄の人形の如くピシッと背を張り立つミュウが、こちらに言葉を投げた。
「かの、エスベレルの魔薬。その製造と流通に、テンダリア公爵家が関わっていたのでは、という意見もありますね」
「エスベレルの魔薬が!?」
かつて、夫を陥れようとした違法麻薬密造事件。
その大元に触れるかのような言葉に、マリーベルは思わず声を上げてしまった。
心臓が、ドキドキと音を立て始める。
何か、これまでに自分達が辿ってきた道のりが、関わり合ってきた事象が。
ひとつに、つながって、ゆくような――
背筋を震わせ始めたマリーベルを一瞥し、第二王子は首相に向き直った。
「お前のことだ、ある程度の調査はしているのだろう? それをもっと深く掘れ。この問題は根深きものぞ」
「で、ございましょうな……すると、やはり。あの『毒殺』事件も――」
待った待った。なんだその物騒な言葉は。
どんどんと話が妙な方向に飛んでゆく。
フローラと二人、顔を見合わせる。
すると、その様子を察したか。
ランドールが初めて、疲れたように身を震わせた。
ミュウがそっと彼に近付き、その背を撫でる。
痛々しそうな表情と、労わりに満ちたその様子から、彼女が事情を知っている事は明らかであった。
「二十五年前。王位継承権を持つ者達が、次々と没した事件。あれはな、流行病が原因では無い」
王子の言葉には、無念そうな響きが在った。
「苦しみ悶えながら死んでいったと聞いている。当時、乳飲み子であった私と、幼い兄。それに祖母である女王陛下以外の、全ての王族が――」
朝焼けの光に包まれ、静まり返った部屋の中。
「――毒を飲まされ、死に絶えたのだ」
彼の声だけが、朗々と響き渡った。




