71話 愛は人を動かす力なのです
それは、彼女が十五を数えた頃。デビュタントを翌年に控えた、その年の春の事だった。
――お前は、器量が今一つであるな。
父に一瞥され、彼の期待を失い、そうしてミュウ・イーラアイムの人生は決まった。
家督を継ぐべき兄は別におり、気高く美しい姉が上に、見目も麗しく性格も明るい妹が下に居る。
間に挟まれた自分は、特別に美しいわけでもなく、さりとて性根が際立って優れているというほどでもない。
勉学や礼儀作法については一定以上の水準は満たせたが、それだけ。
社交界の花になる事など叶わない。更に言えば、そんなものに興味も持てそうになかった。
貴族の婚姻には、家柄や財産などが絡んだ政略結婚であることは間違いない。
けれど、それを踏まえた上で相手側――男性側に見初められ、恋のお相手として認められる事で成立するものも、実の所は少なくない。恋文を送り合い、逢瀬を重ね、絆を育んで婚姻が決まる。社交界とは結婚相手を探す場でもあり、そこには当然のように恋愛感情もまた、極めて重要な要素であった。
男の気も引けず、さりとて親が躍起になってお相手を探す程の娘でも無い。
だとすると、その家の令嬢はどうするのだろうか。
当然、家門の名目もあり、粗雑すぎる扱いをすれば陰口や攻撃の的となる。となれば後の未来は限られるもの。
離れを作ってそこで一生を飼い殺しにするか、近年の上層中流階級の成金相手に嫁がせるか、それとも――自活するか。
ミュウが選んだのは三番目の道だ。親を何とか説き伏せ、仕上げ学校ではなく貴族学院に通い、そこで優秀な成績を修めて卒業した。
貴族令嬢崩れの勤め先で、最も有効なのは家庭教師である。ナーサリー達の手元から離れ、本格的な教育へと移行する裕福な家庭の教師役。
待遇は良いとは言えず、力関係が強いわけでも無く、周囲から嫌われやすい。
それでも、貴族の令嬢が市井に下り、一人で生きて行こうとするならば、取れる道は多くは無い。
ミュウはその意味で、運が良かったと言える。
家柄も悪くなく、学院での成績も極めて優秀。そして気真面目すぎると言うほどに誠実で『お堅い』性格。
それらが認められ、王宮での勤務に就くことが許されたからだ。
十八で宮廷に上がり、堅実に着実に仕事をこなした。
けれど、生来性格的に不器用で仕事に誠実さを求めるミュウは、上司のウケこそ良かったが同僚たちには煙たがれた。
嫌がらせをされた事もあるし、陰口を叩かれることなど数え切れない。それでも、知識と経験を蓄え、少しずつ少しずつ重要な仕事を任されるようになった。
王宮は煌びやかな場所であるが、同時にドロドロとした膿が溜まる汚泥に満ちた伏魔殿。他者の足を引っ張り、時には陰険な方法で地位から引き摺り下ろし、破滅的な遊戯を楽しむ。
そこでは、表立っては行われない背徳的な男女の『情事』も数限りなく存在する。ミュウの同僚たちは、こぞってそういった『遊び』を自慢し、自身の容姿と恋の手管が如何に優れているかを論じあっていた。
しかし、ミュウはそこに加わることは一切なかったし、その手の話題に興味などあり得なかった。
(くだらない。色恋に夢中になるなど、時間の無駄です)
彼女達の声を聞く度に、胸の中に渦巻く感情を無視し、殊更に仕事に励んだ。
やがて、次期王太子妃の傍仕え候補として名前が上がるようにまでになったのだが――
そこで、彼女は人間関係に気を配らなかったツケを払わされることになってしまう。
ミュウの昇進を妬んだ同僚の手引きにより、社交界に浮名を流す放蕩貴族の三男坊に襲われたのだ。
人気の無い庭園の端。何とか逃れようとするも、男の手はミュウの髪をひっつかんで離さない。
恐ろしさと悔しさ、ようやく掴んだ栄光が遠ざかる絶望感。
(私の人生は、なんだったのだろう)
容姿を認められず、性格を笑われ、培った知識や能力すらも今、無残に踏みにじられようとしている。瞳から零れる涙と共に、ミュウは腹を抱えて笑い出してしまった。
もうなんでもいい。どうにでもなれ。
何もかもを投げだし、辱められたあと、身でも投げようかと己の未来を儚んだ、その時だった。
――妙なる音が響き、同時に世界が一変した。
気が付けば、周囲にあの三男坊の姿は無く、そこには何処までも続く庭園が広がるのみ。
そうして、混乱の極みにあった彼女の前に、『あの方』が現れたのだ。
「……何故、笑う? どうしてお前は泣きながら、そんなにも悲しそうに笑うのだ?」
不思議そうな声。何処か稚気さえ感じるその言葉に、ミュウは呆気に取られてしまった。
「あなたは……ランドール、殿下?」
ボサボサで手入れすらされていない、黒い髪。
背を曲げ、如何にも陰鬱そうにこちらを見るそのしかめっつらに、ミュウは見覚えがあった。
「……『箱庭』造りのために訪れたのに、無粋な物を見てしまった。気持ちが悪い。吐き気がする。これだから外に出るのは嫌なのだ。公務など携わりたくもない。全て兄上に任せておけばいいのだ、兄上に」
ぶつくさと呟く王子を、呆気に取られて見ていると、不意にその目が細められた。
「あぁ、だが。二つだけ良いことがあったな」
背を丸めた姿勢のまま、ふらふらとミュウの元に近寄ると、第二王子殿下は、令嬢の目元をそっと拭った。
「美しい、花を見れた。それが手折られる事を防げた。まぁ、それでよしとしようか」
そう言って微笑む彼の瞳は、何処までも優しく、穏やかなものであった。
――この時の事を、ミュウは後に何度となく思い出す。
絶望からの希望。
救われた感謝の気持ち。
何処までも美しい紅い瞳の輝きと共に。
生涯、ただ一つと誓う恋に落ちた、その瞬間のことを。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(……気まずい)
マリーベルは、ほうっと息を吐き出す。
真横にあるのは、心配げな目で扉をじっと睨むミュウの姿。その眼に、微かに嫉妬の色が混じっているのは気のせいだろうか。気のせいだったらいいな。マリーベルの悩みは尽きない。
(早く話し合い、終わんないかなぁ!)
マリーベル達が居るのは、箱庭に囲まれた暗い部屋の中。フローラと第二王子様の姿は無い。彼女達は今、目の前の扉の向こうで密談をしているのだ。互いが互いに愛する人を持つ者同士、艶事めいた事にはならないだろうが、それはそれ。恋する女性には理屈が通じないのが世の常である。
段々と目が据わり始めたミュウに、マリーベルが慄き始める。
「えっと、あの……そう心配しなくても大丈夫かと。色っぽい話にはなりませんよ、きっと」
「……フローラ様は見目も麗しく、家柄も能力もお有りの方です。もしも、王太子殿下に障りがあれば、その時は――」
それ以上は不敬と思ったか、はたまたマリーベルに遠慮をしたのか。ミュウは悲しげに頭を振った。
「でも、ランドール殿下は貴女を愛しているのでしょ? 妃の座とか、狙わないんです?」
「狙えるわけがないでしょう? 名ばかり達者な伯爵家の、器量も優れていない娘が殿下の伴侶になど、畏れ多いにも程があります」
はきはきとした口調で、ミュウはきっぱりとそう告げる。
必要最低限の事しか言葉に出さない彼女だが、今宵はいつになく饒舌だ。
その事に後ろめたさを感じないでもないが、マリーベルは敢えて無神経を装って煽りを続けてゆく。
「そうですかぁ? ランドール殿下の溺愛ぷりは、傍から見ても凄まじいものですよ。貴女を失う事なんて考えられないでしょ。是非にと望んでいるのでは?」
「あの方は、お優しいのです。自ら陰に退かれ、それを良しと微笑む御方。私は、その慈愛の一端へ触れたに過ぎません」
唇を噛みしめるようにして、ミュウが俯く。
握りしめた拳が、痛々しい程に震えていた。
「これは、一時の夢なんです。私には過ぎた幸福な幻想。妾の地位すら望みません。ほんの少し、ほんの少しでも、あの方の無聊を慰められるなら――」
ミュウが、儚げに笑う。
「私は、それで……いいの」
全く、と。マリーベルは心中で毒づく。
王族の男子連中は、どいつもこいつも果報者ばかりである。
(フローラ様も、イーラアイム嬢も愛が深いや。人を好きになるって、こういう事なのかな?)
マリーベルにはとんと縁の無い感情。ここまで情熱的に異性を愛する事など、自分に出来るのだろうか。
『――お前が俺の妻で、本当に良かったよ』
どくん、と。心臓が跳ね上がる。
マリーベルの脳裏に浮かんだのは、またもや夫の顔。
本当に、自分はどうしてしまったのだろうか。親を恋しがる子供でもあるまいし、旦那様が傍に居なくて寂しいとでも?
心に浮かんだ馬鹿な考えを振り払うと、マリーベルはミュウに向き直った。今は、自分の事よりミュウのこと。そして、フローラのことである。
「でも、その条件の全てが解決するとしたらどうです?」
「貴女、何を――」
「レディ・イーラアイムの能力は、万人に認められる所でしょう。『祝福』の有無だって、どうにかなる範囲内です。器量の良し悪し? 見る目の無い野郎どもの戯言でしょうに」
そう言い切ると、ミュウの顔が苦渋に歪む。
「それは、貴女が美しく愛らしいからそう言えるのです。私など、デュクセン卿に見出してもらわねば、宮廷勤めすら敵わなかったでしょう」
(なるほど、あの親父さんは学院の優秀な貴族子女に唾を付けてたってわけだ。恩を売りつけておけば、いずれ娘が宮廷に上がった時に大きな助けになる)
そしてそれは、ミュウ一人ではあるまい。
流石は八大侯爵家の一角。王太子妃の第一候補の生家だけはある。強かな侯爵様であった。
(けど、それは良い事ばかりじゃないね。当然、同じことを考える貴族は他にも居るでしょ、これ)
宮廷で働く女官や使用人、それらが誰の配下で誰が背後に居るのか。
考えただけでもうんざりとするような探り合いだ。
「ランドール様は、素敵な御方です。あの方を支え導くに相応しい令嬢が、きっと――」
「いや、いないでしょ」
断言できる。そんな事が可能なのは、目の前に居る鋼鉄の令嬢ただ一人だ。
「レディ・イーラアイム。誰にも文句を言わせないような状況まで仕立て上げられるとしたら、いかが? 貴女は誰に構う事無く、憂いも無く。大手を振って王子様の花嫁になれるとしたら?」
「馬鹿な。そんな夢物語があるはずが……」
「実現出来ますよ。先ほどフローラ様が仰ったでしょう? 貴女との未来を与える、とね」
ごくり、と。ミュウの喉が揺れ動く。
マリーベルの言っている事が決して戯言の類でないと、理解できたのだろう。
話が早い。やはり彼女は優秀極まりない女性だ。
――こちら側に、是非とも欲しい。
「王子様の望みも叶い、貴女の願いも成就する。誰も損をしない素敵なお話ですよ。何も悪い事をするわけでもありません。王宮に渦巻く悪意を払う、その御手伝いをしてもらいたいだけ」
「レディ・ゲルンボルク――」
「マリーベルでいいですよ、ミュウさん。もしかしたら長いお付き合いになるかもしれませんし。同僚として、良い関係で居たいと思うのです」
惑いに揺れるミュウの瞳。
礼節と貞淑、それと欲望がぶつかり合って葛藤しているようだ。胸に渦巻く罪悪感を押し込み、マリーベルはミュウの手を取った。
「私は、王太子殿下を助けたい。フローラ様の想いを成就させる手伝いをしたいのです。力を貸してください、ミュウさん。きっと、あの扉の向こうでも、同じような話が行われていると思いますよ」
「え……!?」
ハッとしてミュウが振り向くのと、扉が開くのはほぼ同時であった。
「ランドール様……!」
「待たせたな、ミュウ。そこの小娘に苛められはしなかったか? したら言え。処す」
「ちょっとは躊躇いとか持ってもらえませんかね!?」
王族への不敬的な台詞など、かなぐり捨てる。
持って回ってへりくだるような言い方は恐らく、この王子様は好むまい。
そして、どうやらその対応は間違っていなかったらしい。
ランドールはそれ以上は何も問わず、黙ってミュウの元へと歩き出した。
こちらに背中を向ける王子様を横目に、フローラの方をちらりと見ると、彼女は微笑みながら首肯する。
すなわち、それは。マリーベルの目算が正しかったということだ。
「フローラ・デュクセン。約定を違えるなよ」
居ても立っても居られないというように、ミュウを己が腕の中に抱き入れて、第二王子はフローラを睨む。
「はい、殿下。貴方の望むままに」
腰を落として淑女の礼を取る侯爵令嬢に、ランドールは鼻を鳴らす。
いかにもかったるそうな顔であるが、少なくとも協力的にはなったらしい。
「では、早速ですが、この後の段取りを図りましょう」
そう告げると、フローラが一瞬だけマリーベルを見る。
その、信頼の籠った瞳に、少女は笑みを浮かべて頷き返す。
「――お二方の知恵とお力を、どうかわたくしめにお貸しくださいませ」
震えも怯えも何もない。
フローラのその声は、何処までも凛とした響きを持って、第二王子の耳朶を打った。




