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7話 高級レストランでお食事ですよ!


 ――その日の夜。


 待ちに待った晩餐。マリーベルは念願の高級レストランにて、至福の時を迎えていた。

 

「このお肉、とっても柔らかいです! かかっているソースもまた絶妙! 何枚でも食べれちゃいますねえ……」


 うっとりとした目つきで、マリーベルは料理を口に運ぶ。

 羊肉マトンのカットレットは噛んだ瞬間に肉がほどけ、舌の上でとろとろに蕩けていく。

 付け合わせのマッシュ・ポテトがこれまた良いアクセントだ。イモはありふれた食べ物ではあるが、調理法に工夫を凝らしているのだろう。これはもう、たまらない美味しさ!

 満面の笑みでそれらを平らげると、マリーベルの対角線上に座っていたディックが、驚いたように目を見張った。

 

「奥様は健啖なのですね。見ていて気持ちよいくらいにお食べになる。だというのに、所作はとても綺麗だ」


 貴族令嬢というのはガセではありませんでしたか。そう呟く声をマリーベルは聞き逃さない。

 やはり、試されていたか。この青年は表面上はにこやかだが、それに騙されて油断は出来ない。

 人を寄せ付けない剣呑さを持っているようで、何処かお人好しのアーノルドとは真逆だ。

 

「お褒め頂いて、光栄ですわ」


 おほほ、と淑女の返しを試み、次の料理に取り掛かる。

 このお店の名物だと言う、うずらのパイ包みだ。

 お高いキノコとお高い鳥の肝臓を使って作るらしい。つまり、お高い料理だ!

 

 優美な皿の上に載せられた、小麦色のパイ。焼きたてなのだろう、実に香ばしい匂いが鼻を擽った。

 浮き立つ気持ちを抑えきれず、マリーベルは備え付けられたポットから、グレイビー・ソースを振りかける。

 あまり掛け過ぎては味が雑になる。見極めが肝心だろう。

 

「ものすげぇ集中力だな……? お前のそんな真剣な目、見たことねえぞ?」

「お静かに、旦那様。今、大事なところなのです」

「お、おう……すまねぇ」


 よし、ここだ。限界ギリギリの所でソースを引き上げると、ナイフで切り分けフォークを突き刺す。

 そうして、あんぐりと食してみれば――


「ふわぁ……!」


 マリーベルは泣きそうになった。口の中が芳醇な香りでいっぱいになる。

 続けてパイを食むと、複雑な味が重奏となって舌の上にメロディを奉じる。

 素晴らしい、これが高級料理。一度は食べてみたかった味。感無量とはこのことか。

 

「おい、泣きそうになるなよ、こんなことで……」

「だってぇ、美味しいんですものぉ……」


 アーノルドに嫁いで良かった。心の底からそう思う。

 美味しい、美味しいと料理を味わうマリーベルに、ディックが不思議そうな視線を向けた。

 

「貴族のご令嬢なら、もっと良い食事をなさっていたのでは?」

「うちは名ばかりの貧乏貴族ですから。広大な領地があったのも今は昔。切り売りしているうちに、殆ど無くなっちゃいました」


 何代か前の当主が放蕩者だったらしい。賭け事はこの国の貴族の嗜みだが、度を過ぎれば毒となる。

 宝石に調度品、名画に屋敷。果ては土地に至るまで抵当に入れてしまい、あれよあれよという間に没落。

 それでも、最も古き貴族の家名に助けられ、何とか今日まで細々と喰ってこれた。


「まぁ、それでもお貴族ですからねえ。労働者階級とかに比べれば、そりゃ暮らしは豪華ですよ。でも、それを保つには更にお金がかかるってもんで。見栄と名誉が爵位の証、みたいなところありますし」

「あぁ、成るほど。ハインツ男爵家と言えば、私でも知っているくらいに有名なところですものね。相応の苦労はおありでしたか」

 

 そも、いかに労働から離れた立場に居るか、が上流階級社会のステータスだ。

 ゆえに、没落した貴族は悲惨の一言。

 家を継げず、その他の職に就くしかない次男・三男坊ならいざ知らず、当主筋……嫡男たる本流がそうなってしまえば、後は誇りと共に心中するしか道が無い。そう思い込んでいるお家は少なくないのだ。

 

「ミスターは恐らくご存知なのでしょう? 男爵家うちの事情を」

「……ええ、まあ。当主たる、ドルーク・ハインツ卿が三月ほど前に――」

「――ディック」


 そこで、アーノルドが口を挟む。

 赤ワインで口を湿らせながら、マリーベルの旦那様は胡乱げな目で腹心の部下を見た。

 

「飯の席で言うこっちゃねえだろ。酒が不味くならぁ」

「……確かに。失言をお許しください、レディ」


 素直に頭を下げるディックに、マリーベルの方が慌ててしまう。

 

「いえ、話を振ったのは私ですし! こんな美味しい物をご馳走になってるんですから、そんな話題くらい、お安い御用ですよぉ」

「だといっても、身内の不幸を話のネタにするこたぁねえだろ」


 憤然とした態度を崩さず、アーノルドはグラスを傾けた。

 その隣でディックが苦笑し、ソムリエを呼んで追加のワインをそこに注がせる。

 実に息がぴったりだ。長年連れ添った古女房感が出ている。そういう関係を、マリーベルは少し羨ましく感じた。

 その寂寥感を誤魔化すように、お料理を口に運ぶ。美味しい。美味い。

 

「……本当に幸せです。来てみたかったんですよ、こういう場所。私が『こう』なってからはお屋敷の外には出して貰えませんでしたし。心ゆくまで美味しくてお高い料理を味わえて、あの絵を見られたんだから、もう言う事無しです」


 マリーベルの視線の先にあるのは、壁に掛けられた一つの絵画。

 それは、上品な仕立てに身を包んだ老夫婦の絵だ。

 いかにも人の好さそうな微笑みは、見ているだけで心がほんわかしてくる。

 

「母から聞いたことがあるんです。故郷の有名な領主さまのお話。美食の普及に多大な功績を残した伯爵夫妻のお話を」

「……あぁ、何だったっけか。イモを広めるのに尽力したお貴族様だっけ。その逸話を聞いた時は、奇特な御方も居るもんだと思ったぜ」


 そう。『美食伯』と呼ばれた、先々代のシュトラウス伯爵だ。

 彼の場合、その妻君も有名で、彼女は現在にも通じるレシピ本の著者でもあるという。

 生涯を通じて仲睦まじい夫婦だったらしく、彼らをモチーフにした絵画は必ず夫妻が揃って描かれたとか。

 その晩年は老体に鞭を打ち、食料飢饉に喘ぐ人々を救うために奔走したと聞く。貴族の鑑のような偉大な伯爵夫妻だ。

 

(ようやく、見れた……あの方々がお母さんの言っていた『美食伯』様ご夫婦なんだね)


 穏やかな笑みを浮かべた老夫婦の姿に、マリーベルは少しだけ憧れる。

 恐らく、自分とアーノルドの間にあんな風な愛情は生まれえないだろうから。


「母が、寝物語として良く聞かせてくれたんですよ。子供っぽいって笑わないでくださいね」

「笑いませんよ。伝説に憧れるのは、貴女だけじゃありませんし」


 そうでしょう? と、ディックに水を向けられて、突然旦那様がむせ始めた。

 

「お、おいディック! それは――」

「良いじゃありませんか。奥様と通じる所があるのは幸いってものです」


 何の話だろうか。目をぱちくりとさせるマリーベルに対し、ディックが微笑んだ。

 

「貴女は『真実の愛』ってあると思いますか?」

「真実の愛……ですか? さぁ、どうでしょう。食べた事が無いので分かりませんね」

「ディィィィック!!」


 アーノルドが声を張り上げ、前のめりになる。

 他のお客たちが何事か、とこちらを振り向くのが見えた。

 いったいどうしてしまったのだろう。マナー違反もはなはだしい。

 まだ料理を全部食べてないのに、追い出されたら一大事である。

  

「商会長はね、ルスバーグ公爵領の出身なのですよ。ほら、二百年ほど前に起きたという『王太子交代事件』をご存知ですか?」

「あぁ、聞いたことがあります。確か、貴族学院の卒業パーティーで当時の王太子殿下が婚約破棄した事件ですよね」


 宰相の娘だという侯爵令嬢と婚約破棄し、選んだ相手はなんと男爵家の娘。

 しかも彼女は娼婦の母を持つ、育ちは平民の令嬢だったというから驚きだ。

 

 その王太子は自ら廃嫡を宣言し、弟王子にその座を禅譲。

 自らは公爵家の初代当主となり、妻である元男爵令嬢と一緒に王国を盛り立てたと歴史に刻まれている。

 

「えっと、そう――『ルスバーグの囁き』! 王都にも並び立つあのレパシスの木、その葉擦れが公爵夫妻の愛の語らいを現してるとかなんとか。有名な恋愛伝説ですよね」


 こちらも、伯爵夫妻同様に生涯を通じて仲睦まじい夫婦だったと聞く。

 最も、元王太子の場合は体が弱かったのか、若くして早世したようだが。

 

「その男爵令嬢の特徴、ご存知で?」

「え? いえ、そこまでは……」

「おい、やめろ! それ以上は……っ!」

「ストロベリーブロンドの髪と、空を思わせる水色の瞳。親が男爵のお手付きになり放逐され、市井で生まれ育った後に母を亡くし、男爵家に引き取られた娘。結婚当時は御年十八歳――」


 ――ん? あれ、それって何処かで聞いた事があるような。

 

「……私と、そっくり?」

「ええ、怖いくらいに。あなたの釣書を見た時の商会長のご尊顔、是非とも見せて差し上げたかったですよ。子供みたいにうきうき浮かれて、そわそわしてましたものねぇ?」


 それは初耳だ。え、まさか……とマリーベルは愕然とする。

 もしや、自分が花嫁に選ばれた要因の一つは――

 

「貴方の憧れでしたものね、ルスバーグ公爵夫人は。絵姿を密かに購入したことも知ってますよ」

「うわぁ……」


 どん引きである。まさかの理由にマリーベルも慄いてしまう。

 

「うっせぇな! 良いだろ別に! うちのお袋だってそうだよ! 公爵領の子供はみんな、あの伝説を寝物語に育つんだ!」

「それに焦がれるのって、小さな女の子じゃないんです? 旦那様って……」

「うるせぇ! 有るんだよ『真実の愛』は! あーるーの! そう、この世に純粋な愛情は存在するんだよ! 無私無欲で心の清らかな娘と出会い、それに惹かれた王子様が愛に目覚めて結ばれる。素晴らしいラブストーリィじゃねえか!」


 酒に酔ったか、赤ら顔の旦那様がそう捲し立てる。それはとてもじゃないが、三十を超えた男の台詞とは思えなかった。乙女だ乙女だと思っていたが、どうやらそれは筋金入りだったようだ。

 

「いや、おとぎ話じゃあるまいし。そんなのありませんってぇ。どうせその男爵令嬢もお金と地位目当てに近付いたに決まってますよ。似たような境遇らしいですし、私と性格もきっと同じですって。世の中はこれ全て金ですよ、お・か・ね!」


 マリーベルが目を瞑ってウィンクする。それがこの世の真理だからだ。

 けれど、旦那様はどうやら、その言葉がお気に召さなかったらしい。


「お前と一緒にすんな!! 麗しの公爵夫人を一緒にすんな! それを言うなら、そこの伯爵だってどうだ! 食の聖人だとかお前は言うが、単に食道楽が高じただけで、それ以外に興味の無かった変人伯爵かもしれねぇだろ!」

「なんですって!? そんなわけないでしょう! 伯爵様はきっと幼い頃より民を愛する、真のお貴族様だったに決まってます!」


 テーブルを境に睨みあうゲルンボルク夫婦。逸話にあった二組の夫妻とは大違いだ。

 お互いに譲れないものが、そこにあった。結婚一週間目にして初となる、夫婦げんかの始まりである。

 


 

「……まぁ、相性は良いんじゃありませんかね」


 その発端となった言葉を振った男はといえば、周囲に騒動を詫びつつ、伝票片手にカウンターへ。

 どうか出禁だけは勘弁して欲しいとチップを弾み、平身低頭して礼を尽くすのであった――

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 夜の王都を、四輪車が疾駆する。

 タンクから蒸気を吹かし、我こそが王だと主張するが如く、鉄の車はガス灯と月明かりの中を突き進む。

 

「……何であんな事で喧嘩しちまったかなぁ」

「お酒の魔力ですかね……高級店って怖い」


 その中で、げんなりとした様子の男女が二人。

 言わずと知れたマリーベルとアーノルドのゲルンボルク夫妻だ。

 夫婦揃って顔を見合わせ、肩を落とした。

 

「最後の方は、ろくに料理を味わいませんでしたしぃ……うぅ……デザートがぁ……」

「わかった、わかった! また連れてってやっから、そう恨めしそうな声を出すな!」


 旦那様の宥める声に、マリーベルはようやく機嫌を直す。

 

「約束ですよ! 今度はマーブル・エッグを食べさせてくださいね! 隣国の――アストリアで人気のデザートらしいんです!」

「お前はどっからそういう話を仕入れてくんのかね……」


 淑女にとって甘い物は必殺だ。ケーキにパイにプディング。世に素晴らしき物は溢れかえっている。

 それを一度、思う存分味わってみたかった。その野望が叶うと言うのだから素敵な話である。

 

「しっかし、この蒸気自動車? でしったっけ。初めて乗りましたが、意外と速いんですね。振動も馬車より少なめだし」

 

 色んな意味で安定していると、マリーベルは思う。 実家の男爵家は、いつもの伝統がどうたらいう言い訳で車の購入を見合わせていたから、乗るのはマリーベルも初めてであった。


 石炭こそ喰うし、発進まで多少の時間はかかるが、生物である馬と違ってその他のエサ代は要らないし、機嫌を伺う必要も無い。

 それに何より、馬糞や小便をまき散らす事が無いのだ。これは素晴らしいと手放しで褒めたい。


「でしょう、そうでしょう。これはね、アストリアから取り寄せた自慢の愛車でして。これからは外燃機関で走る、車の時代ですよ。古くて非効率な馬車など、その内に無くなります」

「お前は大の車党だからなぁ。俺は馬車も馬車で味があると思うぜ? 何より、伝統を重んじるお歴々にはそっちの方が評判も良い」


 まぁ、確かに。マリーベルも頷く。

 馬車が全て消えてしまったら、それはそれで寂しいものだ。何より、御者たちのお仕事が無くなってしまう。

 男爵家でも馬廻りを司る使用人は居た。真面目に仕事をする彼らから、お給料を奪い去るのは非道であろう。

 

「それを選ぶのは時代ですよ。既に機関の小型化・低燃費化・お手頃価格化は進んでいます。馬車で出来る事は車で賄える。もう二十年もすれば、辻馬車なんてみな、姿を消してしまうのではないでしょうか」

紅旗法フラッグが未成立に終わっちまったからな。アレが議会を通ってりゃ、今頃この車の方がおさらばだったろうに」

「ほぼ確実に通ると睨んでいましたが、まぁ結果は万々歳です。科学の勝利ってやつですね」


 見知らぬ単語が飛び出すが、マリーベルはそれをサッと聞き流す。

 難しい法律とか法令とか、覚えるのは苦手なのである。

 お金儲けに必要だとは思っているが、騙されない程度の最低限の知識さえあれば良いとそう思う。

 

「大体、科学がどうのって言うなら、電気やらガスやらで走る車も実用化されつつあんだろ? 主流になるのはそっちな気もするけどな。これ、音は喧しいし手入れやらが面倒だし。走り出すまで時間もかかるじゃねえか」

「無粋、無粋ですよ商会長。そこが良いんじゃぁないですか。手間が掛かる所にロマンがあるのです。レティも『いいと思うわ!』って言ってくれたんですよ? だから勝つのはきっと蒸気自動車です」

「あいつの場合は頭に『どうでも』が付くんじゃねえかなぁ。自動車より自転車を見せた方が反応良いと思うぜ」


 そんな風に男二人は雑談を交わす。ディックの奥様も気になる所だが、それより『自転車』という言葉にマリーベルも興味があった。ちょっと前に、前輪が異様に大きなモデルが発表されたのだとメイド仲間に聞いた事がある。乗りにくそうだが、とにかく速度が出るらしい。


(今度、おねだりしてみようかなぁ。移動にも便利そうだし)


 マリーベルがそんな事を考えている内に、やがて車は郊外に差し掛かり、雑木林を抜けて門扉に辿り着いた。

 

 車体は、マリーベルの背三つ分はあろうという高さ。中ほどに拵えられた座席から地面まではそれなりの距離がある。梯子を下ろせるとはいえ、普通の貴族令嬢・ご婦人は躊躇ってしまいそうな高度だ。

 まぁ、マリーベルは普通ではないので平気のへっちゃらだ。これくらいの高さ『は』問題ではない。


(……さて、旦那様はどうするのかな?)


 そっと顔を向けると、アーノルドは手を指し示してマリーベルに道を譲る。お先にどうぞ、という奴だ。

 むぅ、とマリーベルは唸る。どうやらこの旦那様、エスコート慣れはしていないようだ。

 

 ディックに礼を言って車から降り、マリーベルは地面に着地する。

 さて、一応は言っておかねばならないか。

 アーノルドが後から続いて下車したところで、すかさずマリーベルは釘を刺した。

 

「……旦那様。それはいけませんよぉ」

「……へ? 何がだ?」


 本気で分かっていないような顔つきに、マリーベルは確信する。

 なるほど、これは確かに自分の知識が役に立てるかもしれない。

 

「降りるのは、男性が先です。女性には手を差し伸べて、降車をエスコートするのがエチケットですよ」

「……お前なら一人で飛び降りれるのに?」

「出来るか出来ないかの問題じゃないんですよぅ!」


 そう、上流階級層にコネを作るんなら、社交は必須だ。

 そこには幾つものマナーやエチケットが存在する。下の階級の者が上に喰い込もうとするなら、それを避けては通れない。

 

「さっき旦那様自身が言ったでしょ? 伝統を重んじるお歴々が居るって。馬車から降りた時に女性を手荒に扱うような真似を見せたら付け込まれちゃいますよぅ」

「む……。成るほどな。それはお前の言う通りだ」


 意外と易々と頷いてくれた。それどころか、感心したように頬を掻いている。

 柔軟な男だ。非を認めればすぐにそれを是正し、取り込む。

 部下の前で女に真っ向から指摘されて、面白い気持ちではないだろうに、それを欠片も見せる様子が無い。

 商売で大成功を収めたその非凡さを、マリーベルは垣間見たように思う。

 

「いや、助かるぜ。どんどん指摘してくれや。遠慮する事はねえぞ」


 ニッと笑って、旦那様はマリーベルの頭を撫でる。

 

「もう、気安く女性の髪に触るのも無しですってば!」

「っと、そっか! 悪いな、どうも妹を相手にしているような気分になって――」


 すまんすまん、とアーノルドが手をひっこめる。

 妹では無く妻なのだが。まぁ、既成事実も無いし年の差もある。

 そう思ってくれた方が都合は良いのかもしれない。

 

(……そういえば、男の人に頭を撫でられたこと、なかったな)


 記憶にあるのは母の温かい手。実の父である男爵には、そんな事はして貰えなかった。

 そう思うと、マリーベルは何だかくすぐったい気持ちになる。

 

「……アレが商会長の一番の武器ですよ」

「へ?」


 声のした方に振り向くと、運転席でハンドルを握りしめたまま、ディックが苦笑していた。

 

「ま、お気を付けてお嬢さん。その男は天性の人たらしですからね。泣かされないよう注意することです」

「おいディック! 何を人聞きの悪い事を――」  


 上司の反論に手を振って応え、ディックの駆る蒸気自動車は闇夜に消えてゆく。

 

「……面白い人ですねえ」

「お前には負けるよ」


 失礼な。論破しようと振り返り――そこでマリーベルは硬直する。

 夜の闇に照らされたお屋敷は、何というかこう……迫力があった。

 昼間の話を思い出す。ぶるり、と背が震えた。

 

「ん? どうした、マリーベル? まさか、お前――」

「ちちち、違いますよぉ! 幽霊なんて怖くありません! 平気のへっちゃらですとも!」


 手と足を同時に出しながら、ぎくしゃくとマリーベルは歩く。

 何処からか、鳥の声が聞こえた気がする。屋敷の窓に人影が映ってはいなかったか?

 考えるな、考えるなと思えば思うほど、想像の翼は広がって――

 

「……ったく。ほら、行くぞ」

「わひゃっ!?」


 手のひらに、温かい感触。驚いて視線を落とすと、そこに見えたのは武骨な手の甲。

 ごつごつとして、逞しい。マリーベルの小っちゃな手とはまるで違う。

 旦那様の力強い指先が、そこにあった。

 

「あー……こういう場合も、許可がいるんだっけか? まぁ、許せ。それを適用するのは明日からにしてくれや」

「……はい」


 月明かりに誘われるようにして、門を潜る。

 繋いだ手のひらから伝わる体温の温かさが、冷えた空気を退けてくれた。

 

(……なんだか、嬉しいな)


 自分の手を引いてくれる人など、母を亡くしてからこれまで居なかった。

 父はアレだし、養母は喧しいし、弟は幼い。

 だから一人で全部できる。何もかもがマリーベルだけで事足りる。

 ずっと、ずっとそう思っていた。

 

 けれど、ちょっぴり冷たく怖い夜に、ひとりぼっちで歩かなくていい。

 寄り添い進んでくれる、誰かが隣に居る。

 それは、とても素敵な事じゃないだろうか。

 

 恋じゃない、愛じゃない。利害一致の政略結婚。

 

 それでも、今。目の前で道を先導してくれる男の人は、自分の伴侶なのだ。

 この世でただ一人の、マリーベルだけの旦那様。

 

(……そっか。そうなんだ)

 

 その時、初めて。

 少女は、自分に新しい家族が出来たのだと――そう、思った。

 

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