66話 仮病作戦進行中!
「はっ、はっ、は……っ!」
右も左も前も後ろもなにもかも。そう、何もかもが見えない、乳白色の霧の中。マリーベルはひたすら前へ前へと走り出す。他の何にも目もくれない。その瞳が見つめるのは、ただひとつ!
「旦那様、旦那様ぁぁぁ!!」
マリーベルは、勢いをつけた弾みのままに、ぴょんと飛び上がり、夫の胸へと抱きついた。
「おぉ、マリーベル! 見てたぜ、流石は俺の妻だ! 頑張ってるじゃねえか!」
「はい、はい! マリーベルは、旦那様の――私達の幸せのために、すっごく頑張りました!」
アーノルドの胸に頬を擦り付け、マリーベルはうっとりと目を瞑る。
「ちょっぴり怖い目にも逢いましたが、えいやっ!て、フローラ様を守って戦ったんですよ!」
だから、誉めて。
手を握って、頭を撫でて、甘やかして欲しい。
えらいぞマリーベル、って。そう言って抱き締めて欲しい。
いつもは恥ずかしくて言えない言葉も、何故か今は平気で口に出せる。胸の奥に閉じ込めていた想いが、後から後から溢れて止まらない。
「人形は逃がしちゃったし、王太子様には会えなかったけど、大丈夫! 絶対に私が助けてハッピーエンドにしちゃうんです! フローラ様の為にも、まだまだ頑張りますよ!」
「そっか、そっか! じゃあ、頑張りやのお前にご褒美をやらないと、な」
アーノルドが、ぱちんと指を鳴らす。
瞬間、マリーベルは歓喜の声を上げた。
無理もない。目の前には、色とりどりの御馳走が鎮座している。大好きなローストビーフのグレイビー・ソース掛けに、子羊のラグー、新鮮な野菜や果物、それにマーブル・エッグ。
テーブルの前に広がっているのは、マリーベルの好物ばかり。
「これ、全部食べて良いんですか!?」
「おぉ! いいぞ! ぜーんぶ、お前のだ!」
「わぁぁぁぁい!! 旦那様、大好き!!」
マリーベルは、早速ナイフとフォークでお肉を切り分けようとして、ぴたりと手を止めた。
もじもじと恥ずかしげに体を震わせ、上目遣いに夫を見る。
「あ、あのぉ……た、食べさせて……くれ、ます?」
「なんだ、そんなことか。良いぞ、ほれ。あーん、だ」
「あーん!!」
満面の笑みを浮かべたアーノルドが、肉汁溢れるお肉の切れ端を、こちらに向けた。
マリーベルはもう、たまらなく幸せな気持ちで、大きく、大きく口を開け――――――
――――――そうして、重たい瞼を開いた。
「え、あれ……だんな、さまぁ……?」
「あるふぁーど、さまぁ……」
答えた声は、夫とはまるで違う可愛らしいもの。
傍らを見下ろすと、そこにはすぅすぅと寝息を立てるフローラの姿があった。
「……え、ゆめ?」
とたんに、先程のやりたい放題な光景が脳内にばあっと広がってゆく。己が犯した恥辱の様に、マリーベルは顔を覆って悶えだす。
「ぉぉぉぉぉ……!」
隣で寝ているフローラを起こさぬよう、必死に唇を噛み締める。流石のマリーベルも、あれは恥だと認識している。いくらなんでも、『あーん』は無い。あれは無い。無い無いついでにお肉が食べれなくて勿体無い、という気持ちまで沸き上がってきて収集が付かなくなった。
「旦那様のせいですよ、もう!」
懐から取り出した『旦那様』を眺め、マリーベルは口を尖らせた。奥さまの理不尽な怒りに晒されて、写真の中の夫が怯えているように見えるから不思議だ。
「……でも、ちょっぴり元気は出ましたよ」
夢の中でも何でも、夫の声を聞けたのは嬉しい。
胸の内がじんわりと暖かくなり、何やら活力めいたものまで滲み出してくるかのようだ。
「うん、私達の幸せのために。今日もマリーベルは頑張りますね」
祈るように写真をおでこにくっ付け、マリーベルは微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そうして迎えた朝。
マリーベルは早速『行動』を開始した。
まずは、近辺の警戒段階を上げることである。
朝食は食堂に赴かず、フローラには自身の寝室で召し上がってもらうことにする。
昨今の風潮で、ベッドの上で食事を取ることも、上流階級の間では珍しい事ではない。
王太子が待っているのなら別であろうが、幸か不幸かそれはない。
多少、気鬱気味だと話せば、宮廷側から勝手に慮ってくれるから楽である。
「――殿下は、体調不良で臥せっておられます」
使用人からそう伝えられ、マリーベル達は昨晩の出来事が隠ぺいされたことを悟った。
宮廷の人間か、それとも王太子を隠した何者かなのか。
使用人の心からは、主を心配する心情以外、何も伝わってはこなかったという。
毒見をしつつ、共に朝餉を口にしながら、マリーベルはフムと考える。少しでも味や香りにおかしなところがあれば、即座に取り除く。それが肝要だろう。
だが、そうすると食事の量は確実に減ってしまい、当たり前のことだが、空腹に繋がる。そしてそれは、マリーベルにとっては致命的な事であった。
(……『祝福』も使い所を限定し、極力消耗を抑えないと)
肝心な時に燃料切れでは、笑い話にもならない。
一応の携帯食料は持ちこんではいるが、それだって限りはある。まずは七日のこととはいえ、この先に何があるかは分からないのだ。食料の調達方法も、考えておかねばならないだろう。
「……しかしまぁ、予想外というか、なんというか」
マリーベルは、そっと右側の扉を見やった。
そこに居るであろう『彼女』の存在に、思わず首を捻ってしまう。
「イーラアイム嬢、まさかサラッと戻って来るとか……」
朝、フローラを自室に戻し、マリーベルは何食わぬ顔で正面側から出直そうとした。そうして、自身に宛がわれた部屋から廊下に出ようとしたところで、『彼女』――ミュウ・イーラアイムと出くわしたのだった。
流石にマリーベルも驚いてしまった。昨夜の事をそれとなく尋ねようとするも、彼女は惚けたように首を振るばかり。
『――私は、何も見ておりません』
淡々と、いつもの無表情な顔でぴしゃりと言い放たれ、二の句を継ぐことが出来なかったのだ。
『気分がすぐれないため部屋に下がります』その言伝てをマリーベルに頼み、その場を去ったミュウ。
あからさまにフローラを避けるようなその仕草。そこに、何らかの意図を感じないわけがなかった。
「……やはり、フローラ様の『祝福』を警戒しているんですかねえ」
「可能性は、あります、ね……」
フローラが『読心』の祝福を授かっていることは、秘中の秘である。それを、いくら傍仕えとはいえ、一介の侍女が知っているとは考えにくい。
たとえデュクセン侯爵家の息が掛かっているとしても、だ。
だというのに、昨晩のあれから今朝の態度だ。勘ぐるな、という方が無理であろう。
(……そも、本当に彼女は『こちら側』の人間なのかなあ。イーラアイム伯爵家については、あまり良く知らないんだよねえ)
ミュウから教育を受けたあの日、マリーベルも彼女と会話を試み、仲良くなろうとはしたのだ。けれども、余計な情は挟むなとばかりに、にべなく撥ね付けられてしまったのである。
全く手強い。手強過ぎる。
しかし、こうなってくると本当に、誰も彼もが怪しく見えてくるのだから、王宮とは怖い所だ。食事一つ摂るのすら、信用する事が出来ない。
それでも、マリーベルにはフローラが居るし、フローラにはマリーベルが居る。
初めて出来た、『祝福』仲間。そこに、少女は何処となく安らぎと親近感を覚えていた。
それは侯爵令嬢も同じなようで、彼女がマリーベルを見る目には絶対的な信頼の念が籠っていた。
神から選ばれた、権能を持つ者同士。
強く太い線のようなものが、互いの魂に繋がっているかのようだ。
少なくとも、マリーベルはそう思う。
――そう、それは。
他の『選定者』達にも同じことが言えるのかもしれない……と。
やがてつつがなく食事を終えると、二人は改めて『作戦会議』を練る。
実際の所、王太子妃教育自体、フローラはほぼほぼ課程を終えていたらしい。
その最終確認も含めた、まさしく『仕上げ』の段階であった。
ゆえに、無理をしてまで、今更早急に詰め込むような事は少ない。
つまり、サボリが可能なのだ。
今後の予定や立ち回りについてアレコレと話していると、ドアがノックされた。
フローラへの慰問を告げる来客、その先触れであった。
それも一人では無い。複数人だ。
女官長に王宮務めの高位貴族のご夫人方や大臣、それに首相まで。
時には人を寄越し、あるいは本人が直接訪問し、フローラの息災と見舞い品を届けて行った。
部屋の中に積まれたその品々を見て、マリーベルは慄いた。
一応、中身を確かめてはみたのだが、どれもこれもがお高い宝石や装飾品ばかり。
質実剛健云々も、宮廷内部には通じてないのだろうか。
そう訪ねると、フローラもまた困惑気味に首を振った。
「いつもは、その。アルファード様が、贈り物は、自分をとおせ、と――」
「ああ……なるほどぉ……」
すごく納得の行く話だった。
ほぼほぼ顔を合わせて話した事もないのに、人となりが既に想像できてしまう。
要するに、あの秘書を高貴にパワーアップさせたのが王太子殿下なのだ。
愛する令嬢に負担を掛けないため、という気持ちも勿論あるのだろう。
だが、そこには別の意図もあるとマリーベルは睨んでいる。
――要は、人の女に色目を使うな、だ。
男女問わず、フローラに誰かが接近するのは好まないのではないか。
少し、寒々しい想像ではあるが、案外と的を得ているようにも思える。
フローラもまた、困ったように苦笑している所からして、想像はあながち間違ってはおるまい。
そうマリーベルが判断する。
「けど、数が少ない、わ……」
「え、これで?」
「は、い……私が、そうと判断できる範囲でも、この数倍は届く、かと――」
どんだけだ、王太子妃候補。
マリーベルが思わず凝視してしまうと、フローラはくすりと笑った。
「私では、なく……『妃候補』の威光、です、よ……」
ゆえに、この贈り物の多寡でそれが減じたか、如実に分かるのだと言う。
一度も自分自身で受け取ったことがないだろうに、それを把握している辺り、やはり彼女は大したものだと、マリーベルはそう思う。
「こういうとき、真っ先にくるであろう、第二大蔵卿――財務大臣が、姿を現せていない、わ」
その言葉は、マリーベルの背筋をざわつかせた。
「鞍替え、しようと、しているの、かも……ね」
誰に、とは聞かない。
とすると、恐らく。相手は――
「マリー、午後は……外に、出ましょう。『交代式』を見届けないと、いけ、ないわ……」
今日の予定を素早く思いめぐらせ、マリーベルは頷く。
そうか、それがあった。王宮伝統と言われる、あの――
「……それに。もし、交代式にアルファード様が出られないのならば、あの方が、御姿を、見せる、はず――」
フローラから向けられる、決意を込めた眼差し。
それが誰を示すか。理解が及ばぬ筈もなし。
「わたしたち、は……後手に回り過ぎて、いる……わ。先を見て、動かない、と……」
「ですね! うちの夫も言ってました。ケンカってのは先手必勝だと!」
昨夜の『祝福』が誰のものか。何の意図を持って放たれたか。
それを行使したであろう何者かの、その立ち位置はどこにあるのか。知らねばならないことは、あまりにも多い。
「接触しましょう、彼に……」
己を鼓舞するかのように、フローラ瞼を閉じる。
しばしの間のあと、開かれたその瞳は、決意の輝きに満ちていた。
「王位継承権第二位――ランドール殿下、に」




