65話 夢で遭えたら……
天に浮かぶは白い月。
雲一つかからぬ、その光に照らされながら、草花が風に揺られてさわさわと音を立てた。
すぐ傍らにある、レンガ造りの花壇に手を触れ、マリーベルは呻く。
「……本物、のように思えますね」
「そう、ですか。どうやら、私達、は……」
マリーベルの言を受け、フローラが辺りを見回した。
「誰かの『祝福』に巻き込まれた、よう、ですね……」
彼方までも広がる、無限の庭園。
周囲に動くモノは他に無く、羽虫ひとつ見当たらない。
だというのに、四方八方から押し寄せ包み込むような気配を感じる。
(まさか、空間そのものに働く『祝福』……!? こんなに強力なものが、あるっていうの!?)
ひとたび発動すれば、逃れる事すら叶わない恐るべき力だ。
己の体にしか効果を及ぼさないマリーベルのそれとは、まさに格が違う。
(……しかも、どうやらその『選定者』が、この空間内に居るかどうかも怪しい。少なくとも、私が知覚できる範囲内には存在しない! なにこれ、ずるくない!?)
今までに遭遇した『選定者』たちの中でも、とびきり凄まじい『祝福』だ。出来うることなら、この担い手が敵では無い事を祈りたい。心からそう願いたい。
せめて何か手がかりは無いか。マリーベルが耳を澄ますと、風の音に混じって何やら涼やかな音が聞こえてくる。
ちりん、ちりん、ちりん――
微かに、ほんの微かに。その妙なる響きが耳に届く。
(……これは、ベルの音?)
だが、判るのはそれだけ。
音の方向さえ上手く特定出来ない。
しばらく聴覚に意識を集中していたが、それ以上の何も得られないと悟り、マリーベルは息を吐く。
「闇雲に歩いても体力を消耗するだけだと思います。解除の条件も分かりませんし、ひとまずは様子を見た方が良いかと」
「そう、ですね……」
マリーベルが花壇にハンカチを敷くと、フローラはその上に腰掛けた。
そこで、ようやく。彼女は大きく息を吐き出す。
その表情には疲労と、そして不安の色が濃く見える。
「アルファード、様は……」
泣きそうな声。堪えていたものが、溢れ出しそうになったのだろう。フローラはそれでも、必死に激情を押さえ込もうとしているのか、拳をギュッと握りしめた。
「いったい、どこに……」
「分かりません。ただ、先程に相対した『あれ』、私が以前に遭遇したものと同じかと。恐らくは、『人形』を操る祝福――」
既に、彼女にはある程度の事情を伝えてある。
それだけで、フローラは事態を呑み込んだのだろう。背を震わせながら、荒い息を吐き出した。
「それと、『変化』です、か……! もしかしたら、昼間。この庭園で見かけたアルファード様も――」
「可能性は、あります。微かに鼻を擽った香り。前に嗅いだものとは異なりましたが、上書きの為に使われていたとしたら、理屈は通ります」
相手が『選定者』であることを考え、『祝福』を出し惜しんだのが災いしたか。
――あの時に、嗅覚を最大限に行使していれば、嗅ぎ分けられたかもしれないのに!
後悔は尽きないが、今はそれを考えていても仕方が無い。
「殿下は、アルファード様は、ご無事なの、かしら……?」
「前の時は、『変化』を受けた本人は殺害もされず、手は出されていませんでした。もしかしたら、能力の発動条件に、対象の生存とか、そういうのがあるのかもしれません」
何の慰めにはならないだろうが、マリーベルはそう答えた。
「そう……今は、それに縋るしか、ない、のね……」
フローラは悲しげに微笑んだ。
その表情の奥に潜む嘆きと絶望。それは、『読心』を持たぬマリーベルであろうとも察するには十分過ぎた。
「フローラ様……」
自身のそれとはまた、種類が違うだろうが、その気持ちは痛い程に良く分かる。彼女にとっての王太子殿下は、要するにマリーベルにとっての旦那様なのだ。
夫が同じ目に遭ったらと思うと、想像しただけで血が凍りそうになる。
一体、王太子殿下は何処に居るのか。
いつから、あの『人形』にすり替わったのだろうか。
「フローラ様、この『祝福』が発動する前に、声が聞こえましたよね。男性――それも恐らくは成人した男の人の」
「え、え……。それと同時に、恐ろしいまでの『思念』を感じました。怒りにも似た、強い衝動を――」
『その娘に触れるな!』
その、『娘』とはミュウの事なのだろうか。
あの時の堅物令嬢の様子は、どう考えても敵の関係者とは考えづらい。
声の主も、警告をマリーベル達に、というよりはあの『人形』に向けていたように思える。
そも、彼女はどうしてここに居たのだろうか。
こんな夜更けに、うら若いご令嬢が庭園に居る等と、その理由が思い当たらない。
(まさか、逢引ってわけじゃあないでしょうが)
その可能性を考えたのだろう、フローラもまた怪訝そうに首を振っている。
(そういえば、フローラ様はイーラアイム嬢の思念から、第二王子の名前を感じ取ったのだっけ)
とすると、向こうの密偵の可能性もある?
久しぶりに回転し始める、推理小説脳。しかし、考えればキリが無い。何せ、確たる結論を導き出すための証拠が無いのだから。
「フローラ様、あの――」
他の考えがないかどうか、フローラに確認しようとした、その時だった。
「あ、また、揺れ、が……!?」
地面から感じる振動。それは小刻みな振動から始まり、やがて周囲を揺るがすように巨大なそれに変化する。
咄嗟にフローラの肩を抱き、マリーベルは緊張した面持ちで周囲を睥睨。些細な予兆も見逃すまじと、目を光らせた。
先ほどの空間振動と違い、外側から押し寄せるように迫る『気配』が、今度は逆。
内部から押し広がるようなそれが、外殻に広がり達する。そんな風に思えた。
やがて、何かが割れるような音と共に、空気が一変する。
「元に、戻った……?」
茫然と、フローラが呟く。
周囲は、先ほどの――『人形』と対峙していた、その時と同じ様相を取り戻していた。
草むらには乱れがあり、見上げた先には宮殿の姿が在った。
しかし、見当たらないモノが二つ。
『王太子』と『ミュウ』である。
「マリー……?」
「いえ、駄目です。分かりません。二つとも、近くには居ないようですね」
そう言うが早いか、よっこらせとマリーベルはフローラを担ぎ上げる。
「乱暴な姿勢でごめんなさい! とりあえず、戻りましょう!」
大きく息を吸い込むと、跳躍。
何度か壁を蹴りながら、マリーベルは目当ての窓に取り付いた。
こんなこともあろうかと、既に鍵は外してある。
なるべく音を立てないように窓を解放すると、すぐさまにその中へと滑り込んだ。
着地と同時に戸を閉め、室内に異常がない事を見て取ると、サッと外を確認する。
間一髪だった。わらわらと衛兵たちが庭園に雪崩れ込み、あちらこちらを見回している。
「すみません、フローラ様。あの場で説明を出来る自信が無くて」
「ううん、ただしいと、思う、わ……。何せ、アルファード様の偽物が、いないの、ですもの……」
フローラは、うっすらと微笑んだ。
その眦に光るものを見付け、マリーベルは思わず目を逸らしてしまう。
「わたし、は……間に合わなかった、の、ね……」
泣き笑いの表情で、フローラは目を瞑る。
「まだです、フローラ様。まだ、何も終わってはいませんよ!」
フローラの手を握り、見開かれた侯爵令嬢の瞳を、マリーベルは真正面から見つめた。
「探し出すんです、王太子殿下を。そして、その方が苦難に陥っているのだとしたら!」
マリーベルは拳を握りしめる。
「――助けましょう、私達の手で」
フローラの瞼が、微かに揺れる。
やがて、その瞳の中に、決意の光が灯るのを見やって、マリーベルは笑った。
「ありがとう、マリー……。あなたが、私の傍にいてくれて、本当に良かった……」
手を肩を、全身をわななかせながらも、それでもフローラは頷いた。
「やるべきこと、知らなければならないことは、それこそいっぱいありますね!]
マリーベルは、そう言ってベッドの下を見る。気配も無ければ、物音もしない。
王太子殿下の寝室に、誰も踏み込まなかったのだろうか。
一歩でも部屋に入れば、自分達が開いた扉が目に入る筈なのに。
どちらにせよ、今夜はこれ以上の捜索は出来そうにもない。
「フローラ様、用心のために――」
「ええ、わかって、る……マリー、貴女の部屋で休ませて、もらえる、かしら?」
得たりと頷くフローラ。こちらの思念を感じとったのだろうか、なんにせよ話が早くて助かった。
マリーベルは右側の壁、そこに在る扉を見据えて耳を澄ました。
王太子妃候補の世話の為、傍仕えの人間はその両側の部屋に控えているのだ。
マリーベルは左。そして、右の部屋は――
「……ミュウは、戻って、いない、でしょうか……」
「――ええ。寝息も何も聞こえません」
彼女の身は心配だが、今は考えてもどうしようもないことだ。
すぐさまに割り切ると、マリーベルは反対側の扉を開き、フローラを招き入れた。
幾つかの荷物を運びこんだ後、家具をずずずと寄せて、扉を塞ぐ。よしよし、コレで良し。
マリーベルは一連の動作を終え、うんうんと頷いた。念には念と言う奴だ。
就寝用の装いも、万が一を考えてこちらの部屋で行う。
着替え等々、テキパキと用意を整えると、マリーベルはフローラをベッドへ案内しようとする、が――
「マリーも、ねま、しょ?」
「え……? いやでも、それは――」
「ソファーで寝るなんて、だ、め。あなたは、疲れてる、んだから……」
有無を言わせぬ強引さでマリーベルを連れ込むと、フローラは微笑みながらマリーベルの手を握る。
「だれかと、こうして寝るの、初めて、よ……」
「いや、そらぁそうでしょうけどぉ……」
ちな、マリーベルは経験済みである。といっても旦那様とのアレコレという、艶めいた話では無い。
メイド仲間とはしゃぎ、一緒のベッドでシーツにくるまり、夜更かしして女子トークをしたのである。
思えば、随分と遠い所まで自分はやってきた。
貧民街で育ったと思ったら男爵家に引き取られ、旦那様のお屋敷に住まい、その果てには王宮生活だ。
波乱万丈とは、マリーベルのためにある言葉ではなかろうか。
(……でも、一番慣れて、落ち着いたのはやっぱり、旦那様のお屋敷だな)
自室のベッドの感触を恋しく思っていると、握りしめた手から、微かに震えを感じ取った。
(フローラ様……)
いくら王太子妃候補と言えど、彼女はまだ、十九歳のうら若き令嬢なのだ。
恋した相手が危機的状況下にあり、得体の知れない出来事に次から次に巻き込まれ、不安や恐れを感じない筈が無かった。
それでも弱音を口に出さず、優しげに微笑む彼女に、マリーベルは初めて尊敬の念を持った。
「……頑張りましょうね、フローラ様」
「うん、マリー……」
顔を見合わせ、二人は揃って笑い合う。
強がりでもなんでも、それを貫き通すが貴族令嬢の道である。
やがて、フローラが目を瞬かせたかと思うと、見る間にその唇から可愛らしい寝息を立て始めた。
無理も無い。今日は色々あり過ぎた。身も心も疲れが溜まっているのだろう。
主の寝顔を痛ましげに見つつ、マリーベルは懐から『お守り』を取り出す。
それは、一枚の写真。写っているのはマリーベルと、そして照れた顔をした夫の姿。
(今頃、あなたもお休みになっているでしょうか。夜更かしとかしちゃ駄目ですよ。女の人を引っ張りこむのは、もっといけません)
穴が空くほどに、じっと写真を見つめる。
何故か、胸の奥から、じんわりとした切なさが広がって来た。
たった二日。たった二日間離れただけなのに。自分はこんなにも寂しがり屋だっただろうか。
苦笑と共に、マリーベルは夫の顔に口付けた。
(――おやすみなさい、旦那様)
明日はまた、やらねばならない事、考えなければならない事が山ほどある。でも今は、今だけは。マリーベルは、隣で眠るフローラを見つめた。
繋いだ指から伝わる温もりに、自身の口元が緩んでいくのが分かる。
(おやすみなさい、フローラ様)
――せめて、今だけは。
愛しい人との、幸せな夢が見れますように。
願いと祈りを込めて、マリーベルはそっと目を閉じた。




