64話 唸れ祝福っ! 月下の死闘!
仄かに差し込む、柔らかな月の光。
淡い輝きに晒され、浮かび上がった『それ』は、ギクシャクとした動きでゆっくり、ゆっくりと。足を前へと動かした。
「にん、ぎょう……!?」
マリーベルがそう呟いた瞬間、真後ろから息を呑むような吃音が零れた。
「う、そ……アルファー、ド、さま、は……?」
マリーベルの思念を感じ取ったのだろう。
フローラの声は、悲鳴を通り越し悲痛な色を纏っていた。
(――まさか『人形遣い』の『選定者』!?)
にじり寄って来る『王太子』から意識を外さず、マリーベルは素早く周囲へ視線を巡らせる。
静まり返った部屋の中、動くものはマリーベル達二人と『王太子』のみ。突出した聴覚も嗅覚も、その他の異変を感じ取れない。室内に、人の気配はまるでない。
「マ、リー……!」
ドレスの布地が、引っ張られる。それを行ったのは、誰であろうフローラだ。
「こ、え、を……!」
必死に訴えかけるその叫びに、マリーベルはハッとする。
(そうだ――声、大声を出す! ここは王太子の寝室! 扉の向こうには衛兵が控えているはず!)
明らかな異常事態。ここにマリーベル達が居る事の説明は後回しだ。外から、人を呼び込めば――
迷いは一瞬。逡巡したのは、ほんの僅かの間。
そして、その空隙を縫うかのように、人形が突如として駆け出した。
「――なっ!?」
静から動へ。ぎこちなく鈍い足取りが、幻であったかのように、その身が霞むほどの恐るべき瞬足!
歪んだ笑みを浮かべたまま、『それ』はマリーベル達へ向かって腕を伸ばす。
「フローラ様ッ! 掴まって!」
叫ぶが早いかフローラの腰を抱き、ひざ裏を抱え、マリーベルは地を蹴った。
窓を開けている暇は無い。息を大きく吸うと、窓枠ごとそれを蹴り飛ばし、同時に体勢を入れ替える。
舞い散る破片からフローラを庇いながら、マリーベルは宙へと身を投げ出した。
「――ッ!」
悲鳴を噛み殺し、フローラが胸元へと顔を埋める。
息を少しも零さぬまま、マリーベルは体を捻り、生い茂る木の、その枝へと回し蹴りを見舞う。
激しい打擲音と共に、枝がへし折れた。その勢いと反動を利用し、少女は身を回しながら中庭へと着地する。
「大丈夫ですか、フローラ様?」
「え、え……! ありがとう、マリー……」
目をパチクリとさせながらも、侯爵令嬢のその表情に怯えた様子は見られない。
彼女の瞳は恐怖よりも、激しい惑いが浮かんでいた。
「マリー、アルファード、さまは、もし、や……」
「……はい。恐らくは、あの『人形』に入れ替わられ――」
言い終わらぬうちに、マリーベルはフローラを抱えたまま飛び退る。
――瞬間、月の光を纏い、影が落ちた。
重苦しい音が響き、先ほどまでマリーベル達が居たその場所に、『王太子』が着地する。
その蒼い瞳は血走り、狂気的な輝きが宿っている。
まるで意志を持つかのような、その凶相。
(あの、工場長の時と同じ……! 作り物の人形とは、とても思えない……!)
だが、マリーベルの本能は告げる。『王太子』が纏う気配は、かつての『工場長』と同じモノ。
マリーベルの鋭敏な聴覚は、彼の体から響く歯車の音をしかと聞き分けていた。
(――周囲に、人の気配は無い。庭園の警備兵は別の場所を巡回している、か……?)
今の音を聞きつけ、誰かが駆けつけてくれるやもしれない。
だが、それには時間が掛かるだろう。
――大声を上げるか? いや、それも厳しい。
宮殿とは距離もあるし、叫ぶために口を開けば、『祝福』が切れてしまう。
あの人形の動きは素早い。隙を突かれては元も子もない!
フローラが居るこの状況なら、尚更にその選択は悪手。
(なら――ここで、取り押さえる!)
フローラを見ると、こちらの思考を何となく読み取ったのだろう。令嬢は、決意を秘めた目でこくりと頷いた。
『王太子』から目を離さず、フローラを背後に下ろす。
「――カカッ!」
『王太子』がそれを待っていたかのように地を蹴り、矢の如く飛び出した!
五十歩はあろう距離を、ただの一歩で踏破し、マリーベルの眼前に両腕が迫る――
「カ……ッ!?」
――が、その凶手が少女の細首を捉える事は無く、空しく空を切る。
つんのめるような姿勢で前のめりになった『王太子』の腹に、身を屈めた少女の背がくっついた。
小さな手が、伸びきった人形の両腕をはっしと掴むと、その勢いのまま、思い切り振り下ろす!
為すすべなく『王太子』の体が遠く、宙へと投げ出され、そのまま大地へ叩きつけられた。
彼のクレーパイプの名探偵も使ったとされる、東洋の武術。
それを参考に、旦那様には内緒で練習し編み出してしまった、マリーベルの推理小説脳が為せる業である。
「――ふっ!」
息を吐き、吸い、吐き、また息を吸う。
『反動』は少ない。腹の空き具合もまだまだだ。
それを確認し、マリーベルは追撃を決行。
弾みを付けるように軽やかに地面を蹴り飛ばし、倒れてもがく『王太子』へと肉薄する!
一歩、二歩、三歩!
そうして『王太子』の姿が眼前に迫ったその瞬間。
マリーベルは両手を地面に叩きつけ、倒立をするかのように足をピンと空へと伸ばす。
ドレスの裾が、花びらのように舞い広がり、人形の視線を遮った。
(――てぇいっ!)
勢いと反動を利用し、少女の両足が空気を切り裂き、弧を描く。
その踵が向かうは、『王太子』の両肩!
恐らく、偽りの王子は己が身に何が起きたかさえ理解出来はしまい。
鈍い音と共に付け根へと衝撃が叩きこまれ、その手に持っていた銀のナイフが地面に落ちた。
再び地に伏した人形の背へと膝を落とし、足を手で捉え、マリーベルはその身を押さえ込もうとする。
「グルァァァァ!!」
が、一瞬早く『王太子』が人間の可動域を超えた動きで跳ね上がり、猿の如き俊敏さで後方へと飛び退った。
しかして、マリーベルもその可動は予測済み。
身を捻る事で体勢を立て直し、敵に向かって相対する。
月の光に照らされる中、二つの影が互いの隙を伺うように、再び睨み合った。
「すごい、マリー……!」
マリーベルの背の向こう、フローラが感嘆したように声を上げた。
――『祝福』の担い手は、生まれながらにして本能的にその使い方を悟る。
マリーベルの『祝福』は身体能力の超強化だ。
息を吸い、肺に空気を流し込むと同時に、神がかった力がその身に満ちる。
ゆえにか、少女は自身の体の動かし方、その全てを十全に理解しているのだ。
足音を殺す歩法や、最小限度の動きで力を出し切るコツまで。
それは、天性ともいえる才覚。誰に習ったわけでも、教えを乞うたわけでもない。
知っているのだ、分かっているのだ。
呼吸の仕方を学ばずとも実践できるように、体が自然のままに最適な動作を行ってくれる。
マリーベルの『祝福』の最も際立った利点は、それであるのかもしれない。
こと、純粋な近接戦に於いて。
マリーベルの右に出る者は、そうは居まい。
(……勝てる。私の方が、力も技術も上!)
見れば、無理な脱出を行ったせいか、『王太子』の足はあらぬ方向にねじ曲がっている。
前の時もそうであったが、人形は無敵では無い。
普通の人間よりも高い身体能力を持つが、それだけだ。
追撃に入ろうとしたマリーの耳に、遠くの方から複数の足音と、同時に困惑したような声が届く。
(――見回りの兵?)
一瞬、そちらに気が向いた、その瞬間だった。
「――え?」
それは、まさに突然の出来事だった。
『王太子』がもがく、その庭園の向こう。茂みの合間から顔を出したのは、一人の女性。
涼やかな音が響き、その手に持たれたハンドベルが微かに揺れた。
「――イーラアイム卿令嬢!?」
フローラが、愕然としたような声を上げる。
そう、人形の、まさにその背後から現れたのは、あのお堅い侍女。マリーベルの『同僚』である、ミュウ・イーラアイムであった。
もうとっくに就寝しているはずの彼女が、どうしてここに居るのか。想像もしない人物の登場に、流石のマリーベルも戸惑いを隠せない。
「ア、アルファード殿下? どうして、こちらに……」
ミュウの瞳が困惑に揺れる。
(――マズい!)
マリーベルの体から、力が抜ける。
予想外の事態を目の当たりにしたせいか、息を吐き出してしまったのだ。
慌てて呼吸を整え、息を吸い込むが――遅い。
「殿下!? その御足はどうなさったのですか!?」
「――駄、目……! 離れて……!」
フローラの叫びも届かず、ミュウがハッとした顔で王太子へ向かい足を踏み出した。
(――間に合えっ!)
マリーベルが飛び出そうとするよりも早く、王太子の腕が閃き、その指先がミュウへと伸び――
『――その娘に触れるな!』
――怒号の如き叫びと共に、ちりん、と音が響き。
瞬間、世界が揺れ動いた。
地響きのようなそれは地を震わし、空を歪め、月の光さえも遮り始める。
ミュウを捉えるかに見えた人形の指先が、先ほどと同様に宙を切る。
しかし、今度はかの伯爵令嬢が身を屈めたわけではない。
消えたのだ。その姿が、こつ然と。
(――フローラ様ッ!)
マリーベルの判断は迅速だった。
人形に背を向けると、揺れる大地を物ともせずに駆け抜け、蹲るフローラの傍らへと滑り込んだ。
そうして、その背を庇うように身を投げ出し――た、ところで。
世界が、一変した。
「……なっ!?」
あれ程の揺れが一瞬の内に収まり、辺りは静けさを取り戻している。
しかし、マリーベルの視界に映る『それ』は先ほどとはまるで別。
目視の範囲内にあった筈の王宮の姿はどこにもなく、そこには花と草むらが広がるばかり。
「なに、これ……」
フローラが身を起こし、呆然と呟く。
果てが無いかのようにどこまでも続く庭園。
奇怪極まる光景を前にして、マリーベルは声も無くその場に立ち尽くすのだった――




