59話 一度の別れ
「――知恵熱が出そうなんですがっ!」
お屋敷の玄関。
アーノルドを出迎えるなり、妻はそう叫んだ。
時刻は既に、19時を回っている。
夜空に輝く月に吸い込まれるようにして、奥様の声は轟いた。
「そ、そうか……おぉ、お疲れさん……」
マリーベルの愛らしい、パッチリとした瞳は、無残に血走っている。
小っちゃくて可愛いお口も、今はパクリと開かれ、犬歯を剥きだす始末。
つまり、怖い。めっちゃ怖い。
「もっとこう、分かり易く肉体言語での殴り合い! とかの方が良いですぅ……権謀術数とかやだ、もぉ……」
いかん、奥様はもう、お疲れどころでは無さそうだった。
これを、アーノルドは心配していたのである。
推理小説脳だ何だ言っても、彼女の根は単純明快だ。
必殺の猫かぶりやらなんやらと、涼しげな顔で社交をこなせる能力があるからといって限度はある。
そればかりを続けていれば、こうもなろう。
「とりあえず、メシ! メシを喰おう、な! 甘ぁいケーキも買って来たぞ!」
「ケーキぃ……ごはん、たべるぅ……」
妻の頭を撫で、その背を押しながら、アーノルドは我が家へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――さて、お腹も膨れて、ひとしきり愚痴って、気も晴れました!」
余は満足じゃ、と。奥様はお腹を撫でながら紅茶を口へと含む。
この切り替えの早さは何だろうか。一種の才能と言えるかもしれなかった。
「そりゃ良かった。あぁ、マジで良かったよ。心の底からそう思う」
「いやですねぇ、旦那様。大袈裟なんですから」
大袈裟にもなろうというものだ。
マリーベルを宥めている最中は、生きている心地がしなかった。
アーノルドは、安心したように、コーヒーを啜った。
「しかし、そうか……いや、間一髪だったなあ」
妻の話を聞き、アーノルドもまた肝を冷やした。
(万が一を考えて色々と布石を打っておいたが、正解だったか)
密かに、シュトラウス老に助力を頼んでおいたのも、功を奏したらしい。
上手く、デュクセン侯爵に取り成してくれたようだった。
「しかし、何だ。王太子殿下を助けて欲しい――つうのも、穏やかな話じゃねえな」
件の侯爵令嬢から持ち掛けられたとかいう『相談』を聞き、アーノルドは自身の顎に手を当てた。
「はい。フローラ様を守るべく、彼の王太子は色々と手を打っていたようなのです。宮廷に居る時は、自身が傍に居れば安全だろうと護衛のように張りつき、常にぴたりと寄り添っていたとか」
「ほー。中々お熱いこったな。何だ、事前情報通りじゃねえか。王子自身もやはり、フローラお嬢様の事を憎からず思ってったってわけか」
「ええ、それはもう。顔を見れば愛の言葉をささやき、人目もはばからずに彼女の容姿や奥ゆかしさを称える。しまいには、自身の寝室に監禁し、鎖で繋いで傍に置こうとしたようで――」
「待て」
何だそれは。流石にあの眼鏡でもそこまではしない。
「ほら、フローラ様が狙われたとかいう、例の事件ですよ。王太子殿下は、それはもう激怒なさったようで。犯人を突き止め、しかるべき処罰をする。彼女は安全な場所で管理する。それすなわち、自分の目が届く場所こそ相応しい――」
「いや、その理論はやべぇだろ! 言い訳にかこつけて、恋人を籠の鳥にして囲おうってんじゃねえか!」
大丈夫か、その王太子。
アーノルドは自身の背に、先ほどとはまた違う類の汗が、だらりと流れるのを感じた。
「いや、でも。そんな話、『下』にはサッパリ伝わってこなかったぞ?」
「王家の醜聞にも繋がりかねませんからね。ただ、前に話した通り、上流階級の社交場では、王太子の『溺愛』ぷりは有名な話らしいです。流石に、監禁云々までは噂に流れてはきませんでしたが」
王太子の情報は、アーノルドも当然のように集めた。
陽気で社交好き、血統や身分差よりも能力を重視する、その気質。
新聞記事で見た時は、爽やかな好青年、麗しの王子様にしか見えなかったが――
「エルドナークの王族は、己が伴侶と定めた異性に、それはもう恐ろしく執着するそうで」
マリーベルが、夫の疑問に答えるかのように補足する。
「有名なのは、かの『革命王』アルフレッドでしょうか。彼は、生涯に渡って妻に愛を捧げたと聞きます。その様は、数多くの詩に残されているようですよ。『純愛』とは彼らの為にあるような言葉だとか」
「今代の王太子殿下も、その血を引いてるっつうのか……」
「ほら、恋愛伝説で有名な、彼のルスバーグ公爵。彼らの出自も、元を正せば王家に帰属しますからね。その愛は、神の定めさえも覆す――なんて詩が伝わってるとかなんとか。それは旦那様の方がお詳しいでしょ?」
それはもう、何と言っていいものか。
アーノルドは言葉を失ってしまう。
この国の最上位に位置する貴族や王族が、そんな恋愛脳で良いのだろうか。
「まぁ、『それ』を除けばみな、有能極まりない方々ですからね。今代の王太子殿下も、こちらが集めた資料の通り、現女王陛下の代行として、それはもう立派に務めていらっしゃるとか。ええ、『それ』を除けば」
「何だっけか、ディックが言ってたな。東洋の『龍』にたとえた格言。『逆鱗』だったか。それに触れると、どんな温厚な者でもたちまち怒り狂い、災厄をもたらす――」
つまり、王太子殿下のそれは、フローラ嬢なのだ。
「じゃぁ、デュクセン侯爵が言っていた、仲が冷えた云々は――」
「王太子殿下が、突然にフローラ様を遠ざけ始めたそうです。理由は定かではありませんが――」
――殿下は、レーベンガルド侯爵に疑いの眼差しを向けている。
そう、フローラはマリーベルに告げたそうだ。
「レーベンガルド侯爵家の娘に接近云々も、それか?」
「その辺り、フローラ様も口を濁していましたが、恐らく。相当に危ない橋を渡ろうとしているようで」
何でも、実際に暗殺紛いの事も度々起き始めているとか。
時期的にはやはり、アーノルドがレーベンガルド侯爵のクラブを訪れてから程なくして、のタイミングだという。
あれから今まで、一週間ほどしか経っていないのだ。
その間に、何度も暗殺の機会があったとは、穏やかでは無い。
事態は確かに急を要するものだろう。
「にしても、相手は一国の王太子だぞ? そんなあからさまな真似をするものか? くそ、今回もややこしい話になって来やがったな。んで、そのレーベンガルド侯爵家の娘っつうのは……」
「フローラ様は」
マリーベルは、引き攣った笑顔で、言う。
「彼女の心が、読めなかったと。そう言ってました……」
「また『選定者』か! どうなってやがる畜生め!!」
これで多ければ六人目だ。こっちの戦力が確保できそうかと思ったら、向こうも増えやがる。
調和神の天秤も、コレは少々片方に偏り過ぎではないだろうか。
「王太子が『選定者』かは、言葉を濁したんだな? で、今の話を踏まえたうえで、お前に助力を乞うたということは……やはり『祝福』の絡み、か」
「まず、間違いないかと。彼女の能力では補えない部分に、力を足して欲しいのでしょうね」
マリーベルは、少し疲れたような顔で、アーノルドを見た。
「そして、悪い話ついでに、もうひとつ。最近、宮廷内で第二王子の擁立派が動き始めているようですね」
妻の言葉に、アーノルドは顔をしかめる。
「流石はこの国の暗部も暗部、最秘奥の場所だ。今さら国王の座を巡って暗闘ってのもゾッとしねえ話だぜ。何百年も前ならともかく、議会の力も強まった近年のエルドナークで、お家騒動ってか? 良くやるぜ、全く」
二百年ほど前の、アルフレッド王による王権強化の政策により、それから百年近い間、王族による蜜月の時は続いた。
しかし、技術革新による新興成金の台頭や、教育の場が中流以下に開き始めたことで、民衆の力は強まり始めた。
下院に過ぎなかった平民院も、『上』が見逃せない程の影響力を持ち始めたのだ。
これにより、貴族院も己の実権を強化すべく立ち回った結果、王族の政治への干渉が弱まり出した。
それは、女王陛下の政策――王の絶対権力を減じる法案を押し通したためだとも言われている。
彼女が何故、わざわざ自分達の影響力を弱めるような真似をしたのか。
病床にある女王陛下は、未だ黙して語りはしない。
「確か、女王陛下の御子、先代の王太子は――不慮の事故で亡くなった、んだったな?」
「ええ。今聞くと、ものすっごく胡散臭い話ですよね……」
それは、今から二十五年前の事。王宮で流行病が出始めたのだ。
それにより、王位継承権を持つ者が軒並み病没。
残されたのは、女王陛下と、孫にあたるまだ幼い王子二人のみ。
「……二十五年前、なんだよな」
「ええ、ええ。これ、どういう符号なんでしょうね?」
夫婦は顔を見合わせ、ため息を吐く。
二十五年前。
あの、ウィンダリア子爵家の『怪死』事件があったのもその頃だ。
レーベンガルド侯爵家が糾弾を行い、取り潰された貴族の家門。
確証はない。当てずっぽうの推論。しかし、そこに嫌な気配を感じてしまう。
今まで、気にも留めていなかったこと。
それが、少しずつ、少しずつ収束されて、道筋を作っていく。
(本当に、打てる手を片っ端から打ちまくって良かったぜ。俺の勘も、まだまだ錆びついちゃぁいねえな)
アーノルドは手元にある、一枚の封筒を手に取り、そっと揺さぶった。
「それ、来たんですね。許可が、降りましたか」
「あぁ、信心も金で買える世の中だ。積み上げるのは徳でなく金貨つうわけだ」
そりゃ、カミサマの声も届かなくなるわな。
アーノルドは、自分からそうしたにも関わらず、忌々しげに封筒を眺めた。
「次の勝負は舞踏会だな。これは、なんとしても王太子殿下に目通りせにゃならん」
それまで、何としても王太子殿下には生存をして貰わなくてはならない。
アーノルドの言葉に、マリーベルは頷いた。
「近々、フローラ嬢は再び王宮に上がるそうです。表向きは妃教育の仕上げ――という事ですが」
「愛する男を守るためってか。覚悟を決めてんな、お嬢さまも。嫌いじゃないぜ、そういうの」
そう、嫌いではない……のだが。
アーノルドは、妻が微妙な顔をして足を揺すり始めたのを見て、嫌な予感を覚える。
「――おい、まさか。そういう話が出たんじゃねえだろうな?」
「流石、旦那様。察しが良いですねえ」
知恵熱が出そうだって、そう言ったでしょ?
マリーベルは疲れたような笑みを見せる。
「フローラ・デュクセン嬢は、王宮に上がる際に、侍女をお求めだそうです。話の流れ的に、分かりますよね?」
「あぁ、そうなっちまうよなぁ……くそ、助けてくれって、そういうことかよ」
こうなる可能性を、考えなかったわけではない。
先んじて行動していけば、当然のようにそこへ行きあたるだろう、ということも。
だが、アーノルドは無意識の内に、そこから目を逸らしていた。
「行ってきますよ、旦那様」
妻は、にっこりと笑う。
「社交は一時、中断ですね。フローラ様から話を聞く前に、招待会へ片っ端から出といて良かったです」
メレナリス男爵から得た知己。ここ一週間、マリーベルは毎日のように社交に励んでいたのだ。
何処までも穏やかな瞳でこちらを見る妻を、アーノルドは直視出来なかった。
「あぁ、そうだな……。俺の言う通りになったな……」
「そんなお顔をしないでくださいな。ずっと向こうに居るわけではありません。まずは、ほん一週間ほどのお泊まりです。正式に宮廷へ出仕するのはその後ですよ。もう、小旅行みたいなものですってば。今生の別れってんじゃないですからね」
――勝負は、舞踏会。
それに変わりはないと、マリーベルは頷く。
「あの人もそこで待ってるんですよね? ほら、あの名探偵さん。だから、旦那様はそんな物まで用意した」
「――そうだ、その通りだ」
アーノルドは額の前で手を組み、俯いた。
妻に、合わせる顔が無かったのだ。
「私は幸せものですねえ、旦那様。貴方と結婚したら、なんと王宮にまで上っちゃうんですよ! 憧れの宮廷! 目も眩むような高級品がいっぱいの、ゴージャスの極み! 贅の限りを尽くしたとかいう、あの宮殿に。デビュタント振りに訪れる事が出来るんです」
はしゃいだような、その声。心から嬉しそうに、妻は叫んだ。
「――応援してくださらないの、旦那様?」
上手くいけば、憧れの正餐会だって思いのままなのに。
そう、マリーベルはころころ笑う。
「次期王太子妃候補の侍女様です! 誰もないがしろに出来ませんよ! 成り上がりの妻だなんて、もう誰にも言わせません!」
それは、夫であるアーノルドの地位も著しく向上させるだろう。
自身の夢への一歩として、喉から手が出るほどに欲しいもの。
例え、マリーベルの身に何かがあったとしても、それは美談としてアーノルドに同情を集め、世論を大きく動かすだろう。
どっちに転ぼうと、損は無いのだ。この申し出には、得しかない。
そんな損得勘定を瞬時に行ってしまえる自分自身に、吐き気が止まらなかった。
「帰ってきます、このお屋敷へ。貴方の待つ、この場所へ」
――アーノルドの肩に、そっと手が置かれた。
暖かく、柔らかい、優しい指先。
「私に幸せをくれた、あなた。お返し出来る時が来ましたよ」
「もう、十分に貰ってる。俺は、もう十分に――」
「私が、足りないと言ってるんです」
私はもっともーっと贅沢がしたいのだと、妻は笑う。
「私の大切な金づるさん、貴方こそお気をつけて。次に会うまでに怪我でもしていたら、許しませんから」
アーノルドは、そこでようやく顔を上げた。
(情けねえな、俺は。コイツの方がよっぽど腹が据わってるってのによ)
美しく微笑む妻と目を合わせ、両肩に置かれた手を握る。
「あぁ、そうだな。お前なら、何処へ行ったって何が相手だって、負けやしねえさ」
「そうですとも、そうですとも! ばーんと! 頑張ってきますよ!」
マリーベルが、そっと目を閉じた。
それが何を意味するか、分からないアーノルドでは無い。
「――景気づけ、くださいますか?」
答える代わりに、アーノルドは己のそれで可憐な唇を塞ぐ。
――三度目の口づけは、とても優しい味がした。




