6話 隠し事を暴きます!
――マリーベルの朝は早い。
夜明けの光が差すか否か。そんな頃に起き出して、身支度を整える。男爵家時代からの習慣である。
部屋の隅っこに置かれた新品の洗面台。それがマリーベルの朝の相棒だ。まだこの後、諸々の掃除が待っているので、ごくごく簡単に身支度を済ます。立ち洗いを行うのはその後だ。
ちなみに、旦那様と寝室は別である。夫婦別ベッドだ。夜の営みは当分お預けするらしい。
子でも孕めば、旦那様との金づる関係がより強固になるのに。マリーベルはちょっとだけ残念に思った。
まぁ、貴族は夫婦の寝室を分けることも多い。個室の素晴らしさを享受するのも一つの贅沢である。
お気に入りのピンクのお仕着せに着替え終わると、直行するのはキッチンだ。
実家でも馴染みの開放式レンジに向かい合い、マリーベルは横に置かれたシャベルを手に取る。そうして、すっかり冷たくなった灰を掻き出す。とにかく掻き出す。親の仇の如く掻き出す!
「へいへいほ~♪ へいへいほ~♪ シャムシーおばさん灰まみれ~♪ 髪から顔まで真っ白け~♪」
鼻歌のリズムに合わせて作業は進む。ちなみにそんなおばさんは実在しない。マリーベルの空想の産物だ。
モデルは養母である。あの髪が真っ白く灰にまみれる姿は想像するだけで小気味いい。良く似合ってる筈だ。一度やったから間違いない。
それらをあらかた出し終わると、次に取り出しますはブラシと黒鉛。ここからが大仕事だ。すうっと息を吸い込み、腕まくり。
硬い馬毛のブラシが、マリーベルの剛力によりレンジ内を縦横無尽に駆け巡る。
前夜の焦げカスや灰が見る見る内に払い落とされ、地肌が姿を現していく。後は流れ作業だ。黒鉛を全体的に塗り付け、再びブラシで擦る。
これは速度と力捌き、手順の見極めが肝要。しくじると、すぐにお仕着せは真っ黒に染まってしまうのだ。
昔は、マリーベルもよく失敗したものである。今、こうして新居においても力を発揮できるのは、先輩メイドの厳しい指導の賜物だ。何事も経験。彼女達には深く深く感謝している。
(今の主流だっていう閉鎖式レンジっての、試してみたくはあるなぁ。でも、アレは掃除がもっと大変だって聞くし、使い方も面倒らしいんだよね。料理の幅が出来るのは嬉しいけど、直火じゃないからヤカンを沸かすのにも時間かかるらしいし……)
汚れを払い落とす部分は、開放式のそれとは比較にならない程に多い、らしい。それは嫌だな、と思ってしまう。便利と不便の境界線は近くて遠い。
このレンジも、旦那様は殆ど使っていなかったのか、初めて目にした時はその汚れっぷりに閉口したものだ。
大掃除をするのは大変だった。アーノルドの意向とやらで使用人が増やせない以上、手間はなるべく掛けたくない。
ままならぬ現実に悩みつつ、マリーベルはレンジに火を入れ、湯を沸かす。直火式は沸騰が早いのが利点だ。湯煙を吐き出すやかんを除け、冷ます。これは後で、マリーベルの立洗い用のお供になる。
「パンパンパン~柔らかふわっと白いパン~♪」
鼻歌を歌いつつ、隣接するパン焼き室に入り、オーブンを熱する。ハチの巣のような形をしたレンガ作りのそれもまた、昔実家で使っていたのと同じもの。何百年も前から使われている古い型だ。
(でも、鋳鉄製の新型よりこっちの方が使いやすいし、美味しく出来るんだよねぇ)
父の気まぐれとやらで新式のオーブンが導入された時も、キッチンメイド達は揃ってそう思ったものだ。
先のレンジと同じだ。何でも新しけりゃいいわけでは無い。マリーベルは働き者だが、ものぐさでもあった。
いくら便利だからといっても、使い方が良く分からないのでは意味が無い。覚えるの面倒くさいし。
さて。火が熱されるまでの間にやる事と言えば、お掃除である。息を軽く吸い込み道具を纏めて抱え上げると、マリーベルは駆け出した。
一口に掃除と言っても、ただ掃いたり拭いたりすればいいものではない。コツがあるのだ。
特に貴族の家ではお高い調度品が多い。滅多に触りたくはないが、さりとてそれらが埃を被るのは誇りが許さない。
全く、ご面倒な連中である。けれど、逆らう事は許されない。まぁ、マリーベルは時々逆らったが。
時と場合に応じて専用の薬剤や布を使ったり、工夫をしながら掃除を勧めていくのがハウスメイドのお仕事なのだ。
しかし、とマリーベルは思う。この御屋敷はどうも設計の思想がちぐはぐだ。
例えば、入り口にある三角形のペディメント。その下を支えるのは精緻な飾柱だ。ポーティコと呼ばれる、古典回帰式の作り。百年以上前に流行ったとされる建築方法だ。
かと思えば、建物の尖塔は左右非対称の赤レンガ。質実剛健な作りのそれは、明らかにここ最近の志向だ。
例えば、貴族のカントリーハウスなら、先祖代々のそれを建て直し継ぎ接ぎし、色々と混ざり込む事がある。
けれど、この屋敷はそもそも作られた年代が新し目だろうとマリーベルは思う。実家の古めかしい作りにある、年季が入ったボロ感が無いのだ。
(そういえば、初日。馬車で送ってくれたおじさんも、逃げるように帰っちゃったっけ)
門扉にある守衛所も、今は空。昔はそこに人が居たのに、現在は成り手が居ないとアーノルドは言っていた。
その際、目を逸らしたのをマリーベルは見逃さない。何か隠してやがるな、旦那様。
お屋敷の中ではのらりくらりと躱される。朝食の席でそれとなく問い詰めてみたいが、駄目だ。どうしても食への欲望が優ってしまう。今日も多分、ごはんをお腹いっぱいに詰め込むのに夢中で、その他はどうでも良くなるのが目に見えた。
マリーベルは、自分自身の事が良く分かっているのだ。
実母の出身は、かの食の楽園と謳われるシュトラウス伯爵領らしい。自分にもその血が流れているのだろう、きっと。
美味しいは正義。料理の御残しは神への挑戦。マリーベルはそう、心から信じていた。
「ふうむ……? どうしようかなぁ」
キッチンとその他を往復しながら、マリーベルは考える。ようく考える。
「……そうだ! いい考えが浮かんだ!」
これぞ神の啓示だ。小躍りしながら、マリーベルはお台所へと駆け出した。
――きっと旦那様は驚く。びっくりするぞ!
階上で惰眠を貪っているであろう自身の金づるに向けて忍び笑いを零し、マリーベルは撥ね飛ぶように床を蹴った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――と、いうわけで。来ちゃいました!」
「何がというわけだ馬鹿!?」
お高そうな机に突っ伏し、アーノルドが悲鳴をあげる。
どうやら、奇襲は成功したらしい。相手は混乱している。びっくり大成功だ! マリーベルは、にんまりと笑う。
朝、送り出して貰った筈の奥様が、その数時間後には何故か職場に来ているのだ。その衝撃に、旦那様は背を仰け反らして目を剥いている。
「どうやって、どうやってここまで来た!? お前、商会の場所を知ってたのか!?」
「もちろん、その辺の抜かりはありません。万が一逃げられた時のために、旦那様の行き先は押さえておかねば! 基本ですよぅ!」
「何の基本だ、何の!?」
もちろん、マリーベルのである。
「鉄道馬車を乗り継いで、このストリートの近くまでくれば後はしめたもの。有名な会社ですし、さして苦労はありませんでしたとも」
そうして、頼もぉー! と商会に乗り込み、その辺の社員を捕まえて繋ぎを頼んだのである。
マリーベルは自分の容姿がそれなりに整っているのを知っている。女慣れしてなさそうな男を手玉に取るくらいお手の物だ。
ちょっと儚げな美少女を演じれば、すぐに取り次いでくれた。居留守なんぞ、使わせる余裕は与えない。
「しっかし、大きくて綺麗な建物ですねえ! さぞかし儲かってるのでしょう……くふふふふ……お金、お金の匂いがいっぱい……」
「その笑い方を止めろ! お前一応、商会長夫人なんだからさ!? 建前と面子ってものを守ってくれ!」
それくらいは分かっている。猫かぶりはマリーベルの必殺技だ。
「あ、これお弁当とお菓子です。皆さんでどうぞ!」
「しっかり手土産まで……無駄にそつがないのがムカツクなぁ!」
一応、主人にお弁当を届けると言う名目できたのだ。そこは外さない。
胸を張るマリーベルに対し、吹き出すような笑い声が向けられた。
「面白い方ですねぇ……失礼、レディ。ご挨拶が遅れました」
銀製の眼鏡を掛けた青年が、芝居がかった仕草で一礼する。
「私はディック・マディスンと申します。商会長の秘書兼金庫番兼お守り役ですね」
「まぁ! それはそれは、こちらこそご挨拶が遅れてごめんなさい。マリーベル・ハイ――いえ、ゲルンボルクです。マリーベル・ゲルンボルク! わぁ、他人様に名乗っちゃった! 夫婦って感じがいいですね!」
はしゃぐマリーベルと、にこやかに笑うディック。そしてしかめっ面のアーノルド。
「おい、誰が誰のお守り役だ! というか、お前も少し落ち着け! 淑女! 淑女の態度! 頼むからさぁ!」
ガクリとうな垂れるアーノルド。お仕事が忙しいのか、お疲れ気味のご様子だった。
「式を挙げてから、それから披露宴で皆に紹介しようと思っていたのに……全部が予定外だ。くそ……っ!」
「まぁ、宴の席で初対面の人の結婚を祝うより、既に面識ある相手の方が心情的にやりやすいですってぇ」
マリーベルがそう慰めるが、旦那様は唸るばかりだ。
どうやら、相当に参っているようだった。おいたわしい。
「その目を止めろや! 同情に潤んだ瞳で見るな! 弁当は有難く貰っとく! きちんと味わわせてもらうから、もう帰れ!」
「何というか、律儀ですよね旦那様。でも、ここで引き下がるわけにも参りません!」
手を広げて威嚇のポーズを取る。対するアーノルドも机から立ち上がり、拳闘のファイティング・ポーズ。
夫婦の間に熱い視線が絡みつき、炎となって飛沫をあげた。ゴングの音は今そこか。
「そろそろ止めて良いですかね? 仲がよろしいのはもう十分に分かりましたから」
水が差された。
その声に従ってマリーベルが腕を下げると、アーノルドが顔を真っ赤にして頭を抱えてしまった。
「お、俺は何を……? 何をやってしまったんだ、今……?」
「いや、面白い。面白い見世物でしたよ、商会長。出来れば全社員に見せたいところですが、あいにく時間は有限でして」
冷ややかな視線が旦那様を射抜く。
その一瞬で、マリーベルにもこの場の力関係が把握できた。
「で? 奥様は何をしにいらっしゃったのです?」
顔は笑っているが、目がそうではない。これは難物だ。
嘘や誤魔化しは利かないだろう。
「お屋敷について聞きたかったんです。それと、出来れば旦那様のお仕事関係とかもちょちょいと」
「お屋敷……?」
「ええ、私達の住んでるおうちなんですけど、何か周囲の反応がおかしくて」
あぁ、と。ディックが頷く。
「……話していなかったのですね。あそこは少し、曰くがありまして。少し前に偏屈な資産家が建てたのですが、完成を前に急死してしまったのです」
「きゅうし」
「すぐに競売に掛けられて、持ち主も決まったのですが……変な音が聞こえるだの、妙な人影が見えるだの、売り払う者達が続出しまして」
そんな話は聞いていない。
マリーベルがアーノルドに目線を向けると、サッと逸らされた。
「いや、違うんだ。俺は見たことねぇし、聞いた事も無い! 噂を怖がって物盗りの類も近付かないから、こりゃぁ便利だと思ってな……!」
「へぇ」
旦那様の好感度が急激に下がる。お化けとか幽霊とか信じている訳ではないが、さりとて得意なわけでもない。
マリーベルだって女の子だ。怖い物は怖い。
「そのうち、そのうちにもっと良い家を見つけるから! だから、あそこで我慢しちゃくれねえか? 防犯という面じゃ、本当に良いんだよ。お前を一人残していくのも心配だしさ」
「むう……」
そう言われては、納得せざるを得ない。
何だかんだで屋敷に移り住んでから一週間。隅から隅まで綺麗にしたし、お庭も整えた。
既に愛着が湧いているのだ。手放すのは惜しい。
「分かりました! なら仕方ありませんね! あの御屋敷は気に入ってますし、少し小さいけど中々豪華な作りだし! 否とは言えません!」
その代わり、と。マリーベルは手を組んでおねだりの姿勢を取る。
「ここに来る途中、お高そうなレストラン見つけたんですぅ! ローストのお料理が売りのやつ! ワインとお肉のマリアージュが、きっと私のか弱く繊細な心を慰めてくれると思うんですよねぇ……」
「く……っ! わ、わかった……!」
再び項垂れる旦那様。勝った。マリーベルの勝利である。栄光とお肉は自分の物だ。
「……いや、本当に面白いですね。まさか、こんな方が嫁いで来るとは、ねぇ」
ディックの呟き声が、マリーベルの耳に届く。
何故かその声は、ひどく優しげなもののように聞こえた。