56話 ここが勝負の招待会です!
色んな意味で狂乱の一夜が明け、マリーベルは眠い目をこすりながら社交の準備に励む。
人の旦那に手を出すな案件については、未だ憤懣やるかたないが、何とか心を静めた。
そう、あの旦那様の事だ、大体は想像が付く。
(どうせ、格好つけてキスされるがままにしたんでしょーよ!)
あの人はどういうわけか、一人にすると、やたらめったに気取った仕草で振る舞うようなのだ。
半泣きで謝っていた夫の姿を思い出し、マリーベルは頬を膨らませそうになった。
『まぁ、奥様。ほっぺたがパン生地のようになってございますよ』
アンの指摘に、マリーベルは自身の頬を両手で挟む。
「まぁ、本当ね。でも、旦那様が火をくべてしまうのだもの。仕方ないわ」
『不可抗力――とまでは言えませんね。けれど、あれもまたハッタリの一つでございましょう。眉ひとつ動かしていらっしゃいませんでしたし、ご容赦なさいませ」
「それは、分かってるけど」
何だろうか。見知らぬ誰かが夫の首筋に唇を這わせたなどと、想像するだけで背筋がゾワっとする。
『また怖いお顔になっておりますよ。今日はほら、家庭招待会に招かれたのでしょう? 心の内を表面に出さぬよう、お気を付けを』
「……ん。そうだね」
マリーベルは息を吐き、猫を被り直す。
「何だかんだで、旦那様は頑張ってくれたのだもの。私もそれに応えないと」
『その心意気でございますよ、奥様。そうして戦果を持ち帰り、ご主人様をご安心させてくださいませ。殿方は、淑女の微笑みに癒されるものですから』
「私が笑ったくらいで、元気になるものなの?」
『ええ、それはもう。出自の怪しい強壮剤などより、余程にお効きになりますとも』
アンが言うなら、そうなのだろうか。
世にも情けない顔でフラフラと出勤していった夫を思い出し、マリーベルはくすりと微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ようこそ、ゲルンボルク夫人。歓迎いたしますわ」
「お招きいただき、感謝を。デュクセン卿夫人」
扉の内側で待機していた、女主人――デュクセン卿夫人と握手を交わし、マリーベルはその中へと足を踏み入れた。
年代物の家具や花瓶。壁を彩る小さな円形の装飾。奥に見える正面のパネルには、レパシスの木の葉を蝶結びのリボンで留めた花綱飾りが収められている。それらは簡素であるからこそ、広々とした空間に何処となく神秘的な雰囲気さえ漂わせていた。
デュクセン侯爵家の応接間は、やや古めかしさが残る、古典回帰式の様式で統一されていた。
既に、中には三十人近い人数の参加者たちが集まっていた。
彼女達は部屋の内部にある、開け放たれた複数の扉から出入りし、その向こうにあるインテリアや絵画などを思い思いに鑑賞しているようであった。
ザッと見ただけでも、覚えのある顔がちらほら在る。
何人か、紳士も訪れているようだが、その殆どは女性だ。
それも、上流階級の由緒正しい貴婦人たち。
(……成るほど。中流階級の『お茶会』とはまるで意味合いが違うわね、こりゃ)
家庭招待会は、広義には二通りに分かれるという。
一つは、親しい友人を自由に招き入れるため、女主人が自身の『在宅日』を設定したもの。
これは中流階級層に於いて、マリーベルが広く活用したもの。
口さがないエチケット・ブックには『選ばれた一部の者にしか許されない、『お高い』習慣』等と記載されている。
上流階級の振る舞いを、真似て広めるのが中流層の常。身の程を知れとでも言わんばかりの書き方であった。
こんな所にも『上』の傲慢さ、排他的な部分は現れているのだ。
そして、今回マリーベルが参加するのは、もう一つ。
幅広い人数に『社交』をする『場』を提供するためのもの。
これは、音楽鑑賞会や演劇にダンス、見世物といった、幅広い意味でつかわれる。
正餐会を除いた、全ての集まりはここに収められるという。
(今日は『家庭招待会』とだけ書かれていた。すなわち、午後のお茶会。いわゆる『五時のお茶』だね。交流が主である、お喋り会。さて、どんなもんかな……)
物見遊山的にきょろきょろと辺りを見回していたのでは、いかにもな田舎者丸出しである。
マリーベルはしずしずと歩き出し、正餐室の方へと足を向けた。
長テーブルの上には白いテーブルクロスが掛けられており、清楚な花がその上に幾つも飾られている。
清らかな布地に置かれた皿の上には、パンやビスケットなどの定番の軽食が並べられており、夫人たちはそれを摘まんでは、優雅な仕草で口に運んでゆく。
その周囲で給仕に励んでいるのは、使用人ばかりでなく、明らかに良家の娘――恐らくこの家の令嬢――であった。マリーベルと同年代か、その前後くらいであろう少女達は、たおやかな笑みを浮かべ、招待客たちをもてなしていた。
(流石、レーベンガルド侯爵家に次ぐと言われた、八大家門の一つ、デュクセン侯爵家。何もかもが、洗練されてるなぁ)
ふと見れば、陶磁の茶器も薄い色地の精妙極まる造りのものばかり。
事前に得た情報の通りである。
「……あら。中々に上品な装いですわね」
「本当に。清楚さが際立ってよろしいと思いますわ」
マリーベルがテーブルへと歩み寄ると、扇で口元を隠した婦人達が、こちらに向けて話し掛けて来た。
彼女達は皆、にこやかな笑顔を貼り付けたまま、手の平で椅子に座るよう促してくる。
「ゲルンボルク夫人、こちらはリーセラ伯爵家夫人、ミューラー伯爵家夫人、イスリール子爵家の夫人ですよ」
何気ない足取りで寄ってきた侯爵夫人が、優雅な仕草で彼女達を紹介してくれる。
女主人に求められる重要な役割。それは主催として、客をもてなす事である。
見知らぬ他人同士が隣り合う場合など、素早く目聡くそれを見つけ、互いの紹介や会話の糸口などを開くのも、彼女達の務めだ。
(私が『成り上がり』の妻だから、向こうから声を掛けてくるまで待ち、その意を汲んだってわけだ。その辺の機微も流石だなあ)
いずれは、自分もこうならねばならない。
その場の人間関係や上下関係、身分差などを見極め察知し、如何にして快適な空間を提供するか。
それが、女主人の腕の見せ所というやつなのだ。
「ありがとうございます、デュクセン卿夫人。皆様、新参者ではございますが、どうぞお見知りおきを」
マリーベルが淑女の礼を取ると、三人の夫人は艶やかに微笑んだ。
そこから先は、意外な程に和やかに話が進む。
皆、マリーベルを気遣うかのように、たおやかな態度と仕草を崩さない。
茶道具の素晴らしさや、香りの芳しさなどを順繰りに話して、こちらを飽きさせないよう、配慮をしてくれる。
「この、取っ手の付いていない型のカップは面白いですわね。ほんの百年ほど前は、こちらを使っていたとか」
「ええ、ええ。ゲルンボルク夫人はご存知? 昔はこうして、受け皿にお茶を注ぐのがマナーだったそうよ。今、そんな事をすれば眉を顰められるだろうけど、時代は変わるものよね」
くすくすと、無邪気ささえ感じさせる微笑み。
そこには親しげな友人に対するような、気さくさと気安さがあった。
――そう、マリーベルが『訪問』を行っていない、見ず知らずの間柄であるにも関わらず、だ。
『――いいかい、お前はすぐに調子に乗るからね。先に言っておくが、その場で主催者に紹介を受け、和気藹々と会話が弾んだとしても、それで決して正式な挨拶を交わした間柄になった――というわけじゃあないんだ。これを忘れるんじゃないよ。次に何処かの招待会で顔を合わせたとして、いつもの具合で『ごきげんよう』等と言ってごらん。お前はもう、爪弾きもの確定さ』
ハインツ男爵家は、歴史ある名家とはいえ、所詮は貴族としては最下級。
それをゆめゆめ忘れるなと、養母は念を押したものである。
(身分の低い者が、親しくなったと誤解して、それより上の者に自分から話し掛けるのは厳禁――だったっけ)
じっと観察すれば、分かる。彼女達の目は同じ貴族の同胞へと向けられる類のものでは、無い。
成り上がりに嫁いだ、没落貴族の令嬢へと向けられた憐れみと嘲笑が込められたもの。
なんという陰険な場だ。マリーベルは舌を出しそうになる。
程なくして彼女達は口々に、次にお会いできるのを楽しみにしている、と言って席を立つ。
――そうして、マリーベルが知己を得たと『勘違い』して、次の機会に話し掛ければ、最後。
この気高き婦人達は、冷たくあしらい陰で笑い者にするのだろう。
『これだから、礼儀を知らぬ、成り上がりの奥様は困るのよ』
そんな風に嗤う彼女達の姿が、目に浮かぶかのようだ。
その後も、会う者達の反応は、大体が同じ。
中には、『訪問』を受け入れて貰えた家の夫人もあったが、マリーベルは殊更慎重に対応した。
養母の忠告を忘れてはならない。一つ間違えれば、これから行う『それ』の説得力が薄れてしまう。
あちらから声を掛けてくるのを待ち、笑みと共に会釈するのを見て、ようやく握手を交わす。
そんな、綱渡りのような心理戦を何度繰り返したろう。
背に汗がじんわりと滲み、疲れが色濃くのしかかってくる。
しかし、まだだ。まだ、機を待たねばならない。
辛抱強く、我慢強く、マリーベルはひたすらに社交に励む。
やがて参列客が倍以上にまで増え、よりいっそうにさざめく会話が賑やかさを増し始める。
数も、百は下らないだろう。マリーベルも目にした事がある、有力な貴族の夫人たちが顔を揃えていた。
そうしてデュクセン卿夫人があらかたの挨拶と場の調整を終え、微かに息を吐き出した――その、瞬間。
――それを、マリーベルは待っていた。
わざと皆の視界に移るように、大袈裟な足取りで侯爵夫人の元に赴き、笑む。
身分差が在り、特に親しくもないというのに、堂々と話し掛けるのが許される間柄。
それが客と主催者だ。
「デュクセン卿夫人。今日は素敵な集まりに招いて頂きまして、改めてお礼を申し上げますわ」
「ゲルンボルク夫人……?」
マリーベルは、用意しておいた、真新しい銀の板を取り出す。
「夫人へのお礼と、慣れぬ新参者の私へと親しく話し掛けてくださった皆さまへの感謝を込めて、贈り物をさせてくださいませ」
高々と、純銀の板を掲げる。眩く美しく煌めくそれは、シャンデリアの輝きに跳ね、招待客たちの注目を集めた。
「――ええっ!?」
それは、誰が発した驚きの声だったろう。
マリーベルは息を吸い込み、その細い指先を板へと這わせ、真っ二つにへし折った。
『――見逃すな、マリーベル』
夫の声が、脳裏に蘇る。
『俺達が考えた通りならば、お前が『祝福』を使った時、必ず兆候を見せる。お前なら、そうと分かるはずだ』
息を吸い込み、五感に意識を張り巡らせる。対象は、こちらに視線を向ける、全ての者達。
それらをくまなく目で追い、耳で聞き、肌で感じ、そのまま手を動かす。
さあ、ここからは時間との勝負だ。
この日の為に散々練習した『手品』の出番である。
マリーベルはまるで、紙でも折り畳むかのように軽々と銀の板を曲げては重ね、折り綴り、やがて『それ』を完成させた。
「――なんとっ!?」
「こ、これは見事な……!?」
数分後、少女夫人の手の平に載せられたのは、鳥を模した銀細工であった。
我ながら会心の出来だと、マリーベルは自負する。
今にも羽ばたきそうな、その銀の小鳥に、皆の目が吸い寄せられていく。
「どうぞ、夫人。手慰みの品でございますが、御収め下さいませ」
「ゲ、ゲルンボルク夫人!? 貴女、今、なに、を……!?」
百戦錬磨の女主人をして、信じられないような超常の現象。
ざわめき声が、部屋中に木霊する。
「――私は、物心が付いたばかりの幼き頃より、不思議な力を持っておりましたの」
マリーベルは微笑みと共に、淑女の礼を取った。
その際、ボンネットが僅かに外れるよう細工するのも忘れない。
「ぎ、銀色の、蝶……!? まさか――」
桃金色に輝く流れに沿って、密やかに現れたのは、あの銀細工。ストロベリーブロンドの髪が揺らぎ、添えられた銀の蝶が舞い踊る。光の差し込む位置、角度、それらを計算した上での動作。
ルスバーグの伝説を知る者ならば、『彼女』の再来と思うことだろう。敢えて、それ以上は何も答えず、マリーベルは頭を下げた。
「しゅ、しゅく、ふく……?」
侯爵夫人が、その言葉を呟く。やはり、知っていたか。
信じられ無いものを見たような顔をする彼女に、マリーベルはホッと安堵する。
「皆様、改めてご挨拶を。マリーベル・ゲルンボルクにございます。今後とも、どうぞお見知りおきを――」
息を呑んだように静まり返ったその空間の中心で。
マリーベルはその主が如く、女王もかくやと微笑んだ。
――見付けた。
マリーベルは、侯爵夫人に退出の挨拶を告げ、『彼女』の元へとしずしずと歩いていく。
居並ぶ貴族の中で、ただ一人。『彼女』だけが露骨に反応を示した。
マリーベルが、銀の板をへし折った時では無い。
息を吸い込んだその瞬間にはもう、視線も纏う空気も、劇的な変化を見せていたのだ。
その身に微かにたゆたう気配を察し、マリーベルは、見事に己が当たりを引いたと悟る。
「――お母君様のお招きに、感謝を致しますわ」
そう言って淑女の礼を取り、すれ違いざま、『彼女』の耳元で囁く。
「主より力を授かりし同胞として、今後ともよしなに……」
カチャリと、音がする。『彼女』が持つ茶器が、微かに震えているのが見えた。
「貴女、は――」
その問い掛けに微笑みで応じ、マリーベルは『彼女』の横を通り過ぎる。これこそが、次なる階梯を昇る為の第一歩。
以前から入念な準備を行い、八大侯爵家の中でまっさきに、この門を潜った甲斐があった。
そう、全ては『彼女』――デュクセン侯爵令嬢を見定めるため。
そして、それは今、望み通りに叶った。
(王太子妃最有力候補、フローラ・デュクセン――彼女は『選定者』だ)
マリーベルは一つの確信と共に、そっと目を伏せた。




