54話 享楽の宴
「取って喰おうというわけではないのだ。そう緊張することもなかろう。何か飲むかね?」
「いえ、お気遣いなく。喉はもう潤してまいりましたので」
アーノルドの答えに、しかしさほど気にした風もなく、侯爵は含み笑いを漏らすばかり。
「先日の返礼だよ。『本物の』クラブ、その空気というものを肌身で味わいたまえ」
「……ありがとうございます、閣下」
表面上はそう取り繕いつつも、室内に充満する、気だるげな雰囲気にアーノルドは閉口する。
(……大した趣味だぜ。これが、『伝統派』の貴族たちが所属するハイ・クラスのクラブ『エズフィル』か)
派手で豪奢な内装、享楽に耽る男達、その合間を行き交う蠱惑的な女性――
昨今の風潮の、真逆を行くその光景。
「私のような者をお招き下さるとは、思いもしませんでした。相応しくないと、そう断じられるとばかり……」
「クラブの前身を知っているかね? かつては街の至るところに点在し、広く間口が開かれたコーヒー・ハウスだ。そこでは、時には上流階級層とその『下』の者達が、階級を飛び越えた交流を行っていたそうだ」
――成るほど。つまるところ、これも伝統というわけだ。
「しかし、何とも……独特な雰囲気ですね。こう言っては何ですが、お集りの皆様は誰もが開放的でいらっしゃる」
「近頃の貴族連中は、その精神を履き違えておるのだ。質実剛健? 笑わせる。今さら、そんな語彙で取り繕ってどうしようというのだ」
まるで、女王陛下の治世を嘲笑うかのように、侯爵は首を竦めた。
不敬とも取れる言葉。だが、その眼の輝きに悪戯染みたものはない。
本気だ。彼は心の底からそう信じているのだ。
「そも、貴族とは何か。尊き選ばれた蒼い血。それを有する我らが、本来すべき振る舞いとは何か」
問うような眼差しに対し、アーノルドは首を横に振った。
「いえ。浅学の身ゆえ。宜しければ、ご教授願いたいですね」
「良かろう。とくと聞き給え」
侯爵閣下は上機嫌を装うかのようにワインを傾け、その口を湿らせた。
「この世の者、その大多数は働かねば喰っていけん。労働というやつだな。その行為自体は素晴らしいものだ。汗水垂らして勤しむ者が居るからこそ、そこから外れた者達は羨望の目で見られる」
「……貴族の方々は、不労を尊ぶと聞きますが」
「そうだとも。それこそ、貴族の特権なのだ。有事の際は剣を持ちて駆けつけ、領民を守る。その『義務』を持つがゆえに、平時はあらゆる患いから解放されねばならん」
それこそが『上』に立つ者の資格なのだと、侯爵は嘯く。
「まぁ、私に言わせれば、高貴なる者の義務など、後の世の言葉で装飾された振る舞いに過ぎんがな。元来は己の地位を守るための言い訳だよ。そこに貴族の本質は無い」
言葉遊びをするように、朗々と。
侯爵はアーノルドを睥睨しながら、声を吐き出してゆく。
「つまり、『余裕』だよ、ミスター。この世の労苦から解き放たれた我々は、良く遊び、快楽にふけねばならん。気高さ? 誇り? くだらんね。貴族の伝統は、そこに無い。己の欲望に忠実になってこその『貴族』なのだ」
伯爵が指を弾いて合図をすると、給仕をしていた女が一人、アーノルドに擦り寄って来た。
肌も顕わな高級ドレスを着た女性。
舞踏会など、夜会の服はこうした物を身に付けると聞くが、この女は貴族ではあるまい。
纏う雰囲気こそ気品があるが、他者の目の前でこうも『はしたない』行動をする令嬢はまず居ない。
そも、ここは貴族の――紳士のみが集う社交場なのだ。
「ルスバーグ公は、そこが分かっておらん。弟君の方は、まぁ見込みがあるがね。彼は貴族というものを良く理解しておる」
かの『名探偵』を自称する公爵家次男坊。やはり、侯爵と彼は交流があるのか。
アーノルドは女の体臭と香りに鼻先を擽られながらも、務めて表情を消し、無機質な目線で侯爵と対峙する。
「生まれが高貴で無き者に、その本質を得るのは至難の業だ。分を弁えるのは大事だぞ、ミスター」
「ご説教を賜る為に呼ばれたのですかな、私は」
「いいや、忠告だよ」
何処までも愉しげに、侯爵は嗤う。
「君が望むなら、この『エズフィル』――とまでは言わずとも、それに準ずるクラブを紹介してやろうではないか。欠員を出すのも私なら容易い事だ。私の言葉に素直に従うのなら、だがね」
「閣下の傘下に入れば、その恩恵を授かれる。そういう事でしょうか」
「そうだ。主人の言う事を良く聞き、二つ返事で鳴くよう躾けられるならば、獣を御するのも一興だろうさ」
なるほど、なるほど。
面白い事を言うものだ。
つまり、この男はこう言っているのだろう。
「私に――貴方の飼い犬になれ、と?」
「丁度、番犬が欲しかったところだ。毛並みは今一つだが、頑強そうで遊び甲斐があるなら十分だろう」
アーノルドもまた歯を剥き出し、愉快そうに笑う。
女の手が伸び、その顎を愛撫するに任せ、くつくつと身を震わせた。
「御冗談がお好きですね、閣下?」
「そうとるかね。君はもう少し賢しい男と思っていたがな。まぁ、生まれが貧しい鉱山夫の子であれば、それも仕方なかろうか」
その言葉を受け、アーノルドは自身の眉がぴくりと歪むのを感じた。
「紳士に憧れる父親と、夫を支える母親。可愛い盛りの弟や妹も居たそうじゃぁないかね。さぞかし、仲の良い家族であったのだろうな」
無言。アーノルドは何も答えない。
それがしかし、逆に雄弁の証であると悟ったか。
侯爵の口撃は止まらない。
「流行病とは運が悪い物だ。しかしてそれも運命であるのだろうな。何しろ、その時のアレは人から人に移る力は弱かったそうではないか。静かに休み、滋養のある物を食していれば、じきに治ったはずだ。だが、そんな事を一介の労働者階級の子供が知る由もなかろうて。なにしろ、医者に見せるほどの金は用意できんだろうからな。取る手段と言えば、一つ」
侯爵の目が、アーノルドのそれを真正面から捉えた。
「――『あらゆる病に通じる』と評判の薬を、苦労して掻き集めた些少の金で買い、与える。君もそうしたんだろう、ミスター?」
『お前にはいつも苦労ばかりさせるなぁ、アーノルド。病気が治ったら、俺もうんと働くから安心しろよ!』
耳元に、陽気な笑い声が響く。
久しく聴かなかった過去からの言葉。
それを振り払うようにして、アーノルドは肩を竦めた。
『覚えておくがいい。貴族の目は、節穴では無い。知ろうと思えば、これくらいは分かるものさ』
シュトラウス老の『忠告』が蘇る。そうか、あれはこういう事か。
「お貴族様は、どうにも趣味が悪い。人の過去をほじくるのがお好みなので?」
しかし、アーノルドの皮肉めいた言葉にも、侯爵は眉ひとつ動かさない。
「つまるところ、君を突き動かす物は復讐だろう、ミスター。だとすれば不毛であるな。醜い感情の発露に、周りを付き合わせることはあるまい?」
「ご忠告、痛み入りますよ。その先に待っているのは破滅だと、そう仰りたいので?」
「いいや、違うな。破滅するのは――君の愛らしい奥方だよ」
瞬間、アーノルドの臓腑が沸き立ち、熱い塊が喉を通って吐き散らしそうになった。
――だが、堪える。
ここで感情を表に出すようでは、失格も良い所。
それでは、彼女の横に立つ事さえ出来やしない。
「……どういう意味ですかね?」
「これは定められたことなのだよ、ミスター。やがて決定的な破滅が彼女を襲う。だからこそ、火傷を負う前に切り捨てる事を推奨するよ」
侯爵が顎をしゃくると、女がより一層アーノルドの体にしなだれかかり、その首筋に吸い付いた。
女の様子に躊躇いは無い。ここまでさせるのかと、逆にこちらの心身が冷えて行くようだ。
「復讐など、捨ててしまうといい。そして、分相応の妻を持ちたまえ。なんなら、家柄も器量も良い娘を紹介しようではないか」
侯爵は優雅な仕草でグラスを傾け、ワインを含む。
「いつまでも、意地を張る物ではないぞ。楽に生きるといい。君は財産的には成功したのだ、もう、良いのではないかね? ご両親も、息子が暗い炎に身を焦がす事を望まれまい。残りの人生を、有意義に愉しみたまえ」
揺らされたグラスの中で、赤い液体が舞い踊る。
まるで血飛沫のようだと、アーノルドは思った。
「ここで退けば、全ては丸く収まるぞ。奥方の身に迫るモノも、最小限度で抑えられるかもしれん。だが、あくまで君が復讐にまい進しようと言うのなら――」
侯爵が、一枚の金貨を取り出す。
女王陛下の顔が刻印された、記念硬貨だ。
「――全ては、終わる。誰も得をせんぞ」
指先からコインが弾かれ、テーブルの上で楕円を描きながら、くるくると回転し始める。
「私に従うなら、この金貨が回り終わらぬうちに、掴みたまえ」
突きつけられた選択。最後通牒と言うものだろうか。
しかし、その言葉の裏側に隠された意志を悟り、アーノルドは懐に手を入れた。
呼応するように女の唇が、首から頬へ、そして口元へと迫り――
「――悪いな、お嬢さん。俺はカミサマの前で永遠を誓っちまったんでね」
迫る蠱惑的な唇を、アーノルドは人差し指で遮り、抑えた。
「アイツも貴族だけあって欲深い。俺はまだ、命が惜しいのさ」
目をパチクリと瞬かせる女を指で押しやり、アーノルドは懐から取り出したそれを掲げる。
「うちの秘書が言っていた、東洋の格言なのですがね。ご存知ですかな、閣下。曰く――」
親指に載せたコインを、宙に向けて弾く。
回転しながら舞い落ちるそれは、狙い違わずテーブルの上へと振り注ぎ、甲高い金属音を響かせた。
「――『賽は投げられた』、と」
ぶつかり合い、弾き合い、別々の方向に分かたれた二枚のコイン。
それを睥睨し、レーベンガルドは口元を歪めた。
この意味が分からぬ、侯爵閣下ではあるまい。
アーノルドは確信と共に、恭しく一礼した。
「貴方の本当の望みは、『それ』では無いはず。 ゆえに今ここで、ご所望の物をお売りしましょう」
「それはまさか、私の『対戦相手』になってくれると、そう言うのかな?」
答える代わりに、アーノルドは手のひらを差し出した。
「半月後、王太子殿下の舞踏会が開催されるそうですね。格式高い、高名なものだとか」
「ああ、そうだね。そうだとも。招待されるのは名誉なことだ。彼に近付くには格好の機会だろうさ」
どこかうきうきとした口調で、侯爵は目を輝かせる。
「枠をひとつ、頂きたい。貴方ならそれは容易い筈だ」
「勝負はフェアでなくてはいかんからな! いいとも! 安い物だ! あぁ、これがお買い得という奴か! 平民の感覚が少し理解出来たぞ」
傲慢そのものの態度で身を揺すり、レーベンガルド侯爵は破顔した。
「殿下は、血筋や家柄に拘らん。能力や見た目の麗しさなど、一芸に秀でた者を好まれるからな。君に向いてるかもしれんな! だが、場に立てるかどうかはまた別だ。 あと半月で、それが出来るかね?」
「私と妻なら。きっと、ご期待に沿えましょう」
「結構だ! いや、君を誤解していたな! 実に、実に面白い男じゃあないかね! 悪童ラウルが気に入る筈だ!」
――誤解していたのは、こちらもそうだよ、侯爵サマ。
アーノルドは、目の前の男の評価を改める。
会話をするうちに、気付いたのだ。ひしひしと伝わる、その違和感を。
御三家に共通するもの。それをこの侯爵閣下も備えているのだ。
其れすなわち、欲望の発露。
(ラウル・ルスバーグは『愛』に狂っている。シュトラウス老は『美食』だ。そして、こいつは――)
――『危険』だ。
自身も含むであろう破滅的行為を、この男は何よりも好むのだろう。
その、爛々と輝くギラついた眼差しが、何よりの証拠だ。
退屈に身を委ねているにも関わらず、それを厭う気質。
(厄介な手合いだぜ。まったく、どいつもこいつも……)
御三家連中は癖が強すぎる。
そう、心中で毒づいていると、侯爵閣下が陽気な声で、先ほどの娘を手招いた。
「そうだ! なんなら、その娘と一晩愉しんでいってはどうだ? ベッドもあるぞ。羽目を外すのも紳士の嗜みだ」
「いえ、お気遣いなく。それは妻一人で間に合っておりますので」
もう、用件は済んだ。長居は無用だろう。
一礼し、アーノルドが立ち去ろうとして――足を止める。
「閣下、最後にお聞きしたい。何故、ガヅラリー社をこの国に招聘し、あんな真似をしたのです?」
侯爵は応えない。相好を崩したまま、にこやかに言葉を受け止めるだけだ。
どうやら、カマ掛けには引っ掛からなさそうだ。
アーノルドは諦め、踵を返そうとする、が――
「――貴族にとって、政治とは何だと思うか?」
背を向けたその瞬間を狙うように、声が投げかけられた。
振り返り、侯爵を見る。その瞳は未だ愉快そうな輝きを帯びたままだ。
アーノルドは目を閉じ、彼との会話や、あのラウル・ルスバーグとのやり取りを思い浮かべる。
答えは、程なくして出た。
「成るほど、『遊戯』というわけですか。義務ですら無い。暇を持て余した貴族の遊び――」
「趣味とも言えるがね。だからこそ、金に興味は無い。大切なのは暇を潰すことだよ」
いつの間にか、侯爵はその手にカードを持ち、扇のように広げている。
「そして、遊びであればこそ、真剣にやらねば楽しくあるまい。地位や名誉も、私にとっては後から付属するトロフィーのような物だ」
「……お答えいただき、感謝いたしますよ、閣下」
――下衆野郎が。
その言葉を飲み込み、アーノルドは来た道を引き返す。
重い扉が開かれ、外へと足を踏み出すと、既に雨は止み始めていた。
凝った肩をほぐすように腕を回し、アーノルドは差し込み始めた月明かりの中を、歩き出す。
一度だけ後ろを振り向くが、戸は閉ざされたまま。他者を拒むような佇まいでそこに在るばかり。
吐いた息が、白く濁って空へと昇ってゆく。
アーノルドは、何故だか無性に、妻の笑い声が聴きたくなった。




