53話 来訪
ーーゲルンボルク商会、商会室。
奥様が社交のお勉強に勤しんでいた、ちょうどその頃。
アーノルドは、相変わらず収まりの悪い椅子に腰掛け、頬杖を付いていた。
視線の先にあるのは、机の上に置かれた一枚の手紙。
金縁で彩られ、複雑な文様が秒面に刻印されている。
簡素なデザインが推奨されている昨今の風潮とは真逆を行くような、華美な物だ。
それを指でつつきながら、アーノルドはぼやく。
「最近の俺、たるんでるよな……」
「自覚がおありでしたか」
冷たく突き放すように言い切るのは勿論、秘書のディックだ。
「聞けば先日も、メレナリス男爵家で『粗相』をなさったとか。仲がよろしいのは大変に結構ですが、場は弁えませんと。でないと、私のようになりますよ?」
「なんつう嫌な説得力だ……」
流石にそれは願い下げだ。
この男の領域にまで堕ちるのは御免こうむりたい。
「多少の苦戦はあったとはいえ、まずトントン拍子に成功を収めたと言っていい結果ですし、気が緩むのも分かります」
ですが、と。彼は眼鏡を頬で押し上げる。
「貴方には立場があるのですから。惚気も大概にしてくださいよ。分かってるでしょうが、それで恥を掻くのは奥様です」
「正論だな、ド正論。あぁ、わかってる。わかってるよ……」
どうも、ここの所の自分はおかしい。アーノルドは疲れたようにため息を吐く。
あの破天荒な妻に、こうも魅了されてしまったのか。十四も下の娘に、ここまで入れ込むとは、何というか面映ゆくて仕方が無い。
少し、気を引き締めねばならんだろう。
「まぁ、私個人としては、貴方が他人に執着してくれた、というのは好ましいことです。重しが無ければ、風に吹かれて何処かに飛んでいってしまいそうですからね」
「俺は風船かよ。そのうち弾けて消えちまいそうだな――って、そろそろ時間か」
懐中時計を確認し、アーノルドは席を立つ。
「車を出しますよ」
「いや、蒸気を吹かして乗り込むのもいいが、やはりな。馬車の嘶きの方が向こうのお好みだろうさ」
コートを羽織り、帽子を被る。
姿見の前で身なりを整えると、アーノルドは相棒の肩を軽く叩き、ドアノブに手を掛けた。
「商会長。貴方は、貴方だって――」
後ろから聞こえる、歯切れの悪い、言いよどんだ風な声。この秘書にしては珍しいものだ。
「――幸せになる、権利はあるのですよ」
答える代わりに手をひらひらと振り、相棒に背を向けたまま、アーノルドは部屋を後にした。
ゲルンボルク商会を出て、手配していた辻馬車に乗り込む。
背もたれに身を沈め、アーノルドは深く、深く息を吐き出した。
近頃は、自動車の隆盛に押されてきたせいか、馬車はお手軽な利便性より高級感。質を押し出してきているものが増えたように思う。中々に良い乗り心地だが、固くごつごつとした狭苦しいシートも、あれはあれで味わい深いものがあった。
マリーベルはどうだろう。お高いものに目が無い少女の事だ、やはり今現在の流行の方が――
(……気が付けば、あいつの事ばかりを考えてんな)
知らず、苦笑が漏れる。
こんなにも、誰かに心を囚われる事があったろうか。
(……そういえば、あいつ。今日もメレナリス夫人とお茶会してんだっけ。会ってまだ早々、そんなに時間も経ってねえっつうのに、随分と仲が良いよなぁ)
先日の、男爵家での出来事を思い返す。夫人の奏でた旋律。あれはアーノルドの心に、染み入るように響いた。
これまで、何度となく耳にし、自分でも吹いた事さえあるのに。何故だろうか、アレはひどく胸を掻き乱したくなるほどの、そんな懐かしささえ呼び起こしていた。
(……『男爵令嬢』の絵画に当てられたかね)
そこで、ふと思う。ディックやレティシア、アンやティムなど、身内同士の時ならともかく。他者の目が在る社交の場で、アーノルドのタガが外れてしまう時、そこにはいつも、公爵夫人の関係者が居た気が、する。
(そういや、ラウル・ルスバーグに会ったくらいの頃からか……?)
今まで、胸に秘め、仄かに感じ始めていた妻への感謝と想い。
それが抑えきれようもなく、口から溢れ出したのは――
(……考えすぎか。俺も疲れてんな)
凝り始めた肩を無意識に揉みながら、アーノルドは姿勢を正した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬車から降りると、アーノルドは空を仰いだ。既に陽は陰り、夜の帳が街を包み始めている。
月は見えない。薄い雲が広がるばかりだ。微かな雨が、霧に煙るようにして降り出し、外套を湿らせてゆく。
五の月も半ばがとうに過ぎたとはいえ、冷気とこの国は切ってもきれない仲にある。首筋から忍び寄る冷たい風を振り払い、アーノルドは周囲を見渡した。
ここは、ラムナックの中央区、やや北区よりの歓楽街だ。歓楽、とはいえ東区のように雑多な、娼婦が路上に立つような場所では無い。整然と立ち並ぶ建物はどれも清潔で、手入れも怠られていない。
富裕層――それも、上流階級層御用達の『羽目を外す』所なのだ。
だがそれは、アーノルドの目にはひどく無機質な、寒々しい物に見えた。
雨と霧の幕が掛かった街並みは、肌寒さと相まり、まるで墓場のように不気味である。建物の隙間から零れる蒸気の煙は、空模様と遭い混じって奇妙に青白い。
それはまるで、死者がこちらを手招しているかのような、そんな荒唐無稽な妄想さえ覚えてしまうかのようだ。
首を竦めると、アーノルドは歩き出す。
目当ての場所は、すぐそこだ。
古い――古典様式というやつだろうか――ものらしき豪奢な文様が刻まれたドアの前に立ち、軽くノックしてベルを鳴らす。
程なくして、扉は開き、中から見事な仕立てのフットマンらしき男が姿を現した。
『招待状』を見せ、名を告げると、彼は恭しい仕草でアーノルドを内側へと招き入れてくれる。
二つの扉を潜り、薄暗い階段を上がると、急に場が開けて目の前を眩い光が照らしだした。
(……こいつは、また)
壁一面に飾られた、煌びやかな内装。
立ちならぶ長方形のテーブルは年代を感じさせる厚みがあり、その上にはルーレットやカード、ダーツなどが並べられていた。
それを囲む紳士達の姿は、どこか弛緩した気だるげなもの。
しかし、羽織る衣服にだらしのない印象は無く、むしろこちらを圧するが如き上等の装いだ。
その周囲にへべり、ワインや軽食を給仕して歩くのは、肌も顕わなドレスの女性たち。場所によっては娼婦と見紛うかの如き彼女達も、しかし立ち振る舞いは洗練されていて、何処か気品があった。
ーー下品と上品の狭間、境界線を行きかうような、その光景。
俗世から切り離されたような、目が眩むが如きそれは、一言で表すなら『享楽』そのものだ。
周囲の注目を集めながら、アーノルドは歩を進める。
向かうはひとつ。主催者であろう、その紳士。
「――臆せず、来たか。定刻通りとは几帳面なことだな」
「お招き頂き、感謝を――レーベンガルド閣下」
瀟洒なブルー・グレイの装いに身を包んだ紳士――レーベンガルド侯爵は、年下の新興成金を睥睨し、愉快そうに嗤った。
「ようこそ、我が紳士社交会『エズフィル』に。歓迎するよ、ミスター・ゲルンボルク」




