52話 最新流行のマナーを学びます!
メレナリス男爵家が味方に付いてくれた事は、マリーベル達にとって大きな福音となった。
社交界において、未だ現役で名を売っている彼ら夫妻の助言は、非常に有難いものなのだ。
何せ、社交界の流行はドレス一つとっても日進月歩。昨日までの流行が、舞踏会一つを挟んでガラリと変わる事もあり得る。
マナーを作るも破るも、上流階級――それも上澄み層の気分しだい。
未だ新参者として燻っていたゲルンボルク夫妻では、最新のマナー・エチケットを知る機会があまりにも少ないのだ。
「……エチケットブックの一文に、『この本が発売される頃には、流行が変ずる可能性あり。要注意!?』ってわざわざ記載されてるの、そういう事なんですね」
「ええ、そうよ。ややこしいわよねぇ、社交界って。ほら、私も『上』の出身とはいえ、それは貴族ではない地主階級だったから……本当に、初めは苦労したわ」
男爵夫人――イセリナは、そう言って優雅に紅茶を嗜んだ。
「成るほど……! あ、ビスケットは如何ですか? これ、私が焼いたんですよ」
「あら、そうなの! それは是非とも頂かなくては、ね」
にこにこと微笑みながら、夫人はビスケットを一枚取り、そっと食む。まるで小動物めいた、その仕草。
所作ひとつとっても可愛らしい方だと、マリーベルは相好を崩してしまう。
昼下がりの、お屋敷の客間。
男爵夫人と交誼を結んだマリーべルは、早速彼女から最新最速の社交作法を学ぼうとしたのである。
教えを乞うのだ。勿論、こちらから先方へと出向こうとしたのだが――
『あら、それなら私から行きたいわ。貴女がどんなお屋敷で暮らしているか、見てみたいもの! ね、いいでしょう?』
そうおねだりされては、否とは言えない。
彼女は屋敷の噂を、むしろ面白がるように意気揚々とやってきたのだ。
(……ほんと、不思議な方。ニーナも和み系夫人だけど、イセリナ様のそれは、また違った――何というか、ぽわぽわした雰囲気の方なのよね。話しているだけで落ち着くし、癒されるなあ……)
年下の新米夫人にじっと見られている事に気付いたか、男爵夫人は頬を染め、恥じらうようにハンカチで口元を隠した。
あざとい、という気持ちは全く沸かない。それどころか、微笑ましげに感じてしまうから不思議だ。
これで、養母よりも少し下くらいだというから、驚きである。
何処となく少女めいた雰囲気の貴婦人。けれど、それは幼稚と感じる物ではない。
『あの人がしくじったから、断交してるけどね。メレナリス卿夫人は人気者さ。頭が足りないように見えるので、人が良く集まってくるんだ。見世物を眺めるみたいにね。けれど、話している内に皆、いつしか毒気を抜かれてしまう』
昔からそうだった。いつだかそう、養母は懐かしげに語った事がある。すなわちこれが、メレナリス男爵夫人の培った社交術なのだ。
マリーベルが養母から教わったのは、それとは真逆の隙を決して見せない攻めの姿勢。『上』の者達は、一度それを見付けたら、徹底的に叩き、笑い者にすると教わったのだ。
事実、これまでの社交でもそうだった。
マリーベルは『訪問』の度、舐めるような視線を幾度も感じたものだ。苦戦を続けてきた理由が、そこに在る。
『お前には向かないやり方だが、一応覚えておきな。『弱さ』も時としては、強力な武器になるのさ』
――成るほど、お養母様の言っていたのは、こういうことか。
つくづく、社交の世界は奥が深い。
「まぁ、どうしたの? ビスケットは美味しいわ。お紅茶もね。貴女のお母様の淹れてくれた味に似ているわ」
これは、男爵が夢中になるわけだ。
ニコニコと微笑みながら軽食を味わう男爵夫人に、マリーベルはそう実感する。
メレナリス男爵の愛妻ぶりは、社交界に轟いているらしいが、それも当然であろうと思うのだ。
「そうそう、お茶と言えば侯爵様――デュクセン卿のご夫人ね。あの方は茶器ひとつとっても、素晴らしい物をお持ちなのよ。先日も東洋系の新しい物を揃えたの」
「ほほう……」
「だから、彼女の招待会に招かれて、カードに『家庭招待会』とだけ書かれていたら、服装もそれに合わせた物を身に付けると良いわ。その茶器は、少し色合いが薄いから、あまり濃い生地の物は避けること」
ファッションプレートを幾つか持参して来たので、参考にして欲しい。
そう言って、しとやかに微笑む男爵夫人の背には、光が輝いて見えた。
まさに至れり尽くせりだ。マリーベルは嬉しくて嬉しくてたまらなくなる。
「ありがとうございます、イセリナ様!」
「お役に立てたなら良かったわ。他にも困った事があれば、何でも言って頂戴ね」
罠さえ疑うほどのお人好しっぷり。
無論、マリーベルもアーノルドもその線を捨てては居ない。
居ない、のだが……
(……無条件で信頼したくなってしまう。まるで『祝福』だね。これは確かに、強力な武器だ……)
一線は守りたいと思う。頼り過ぎ、依存し過ぎはそも論外だ。
夫人が善意の塊だと仮定するなら、それこそが信頼に応える術だと、マリーベルは思う。
(しっかし、なんだろうなぁ。イセリナ様とこうして向かい合ってお茶を呑んでると、まるでお母さんとそうしてるみたいに、錯覚しちゃうんだよね……)
勿論、性格は全然違う。掠りもしていない。
例えば実母は、豪快で颯爽とした下町のお袋さん。
養母は怜悧さと優雅さを併せ持つ、貴婦人的なお母様。
アンは誰であれ、広く包み込むような母性を持ったお母上。
――そして、目の前の彼女は。
(下町とかでたまに見かけた、姉妹や友達みたいに距離の近い、おかあさん……かな)
自分には、四人もの母親が居る。
そう思うと、何だか心強くなってくるから不思議だ。
「頑張ってね、マリーベルさん。私で良ければいつでも相談に乗るから、声を掛けて頂戴な」
「はい! その時は是非!」
のんびりとした口調の『おかあさん』に癒しを感じながら、マリーベルは彼女とのお茶を愉しむ。
「そういえば、ミスター・ゲルンボルクは男性の社交場には出入りしていらっしゃらないの?」
「一応、中流階級層の交流場には顔を出しているみたいですよ」
元は地主階級から発生した言葉である、紳士。
そう呼ばれる条件の一つが、クラブの会員と認められることだという。
新興成金と呼ばれる面々が台頭してきた昨今。『上』の階級層から自称紳士と蔑まれる者達は後を絶たない。
彼らは血眼になってクラブに入り、紳士として認められることに奔走するが、これが中々に上手くいかない、らしい。
「クラブの会員になるのって、家柄がどうとか品性がどうのとか、厳しい条件があるのでしょう? そも、欠員が出ない限り、基本的に補充も無いって聞いていますよ」
「そうねぇ。ああいう世界は、私達には良く分からないものねえ。ほら、女性は会員になれないでしょう。中でどんな事が行われているのやら。一応、活動が開放的なものもあるようだけど……」
マリーベルとイセリナは揃って顔を見合わせ、ため息を吐く。
閉鎖された男たちだけの空間。それは、ある意味では通常の社交以上に排他的だ。
中で何をしてるんだか、分かったものではない。
奥様の懸念は尽きる事は無いのだ。
(ただ、『上』にのし上がっていくには、クラブ――それもハイクラスのものに所属する必要があるのよね)
クラブとは、要するに小分けされた社交界の縮図のようなものだ。
飲食を楽しむパーティー的な側面を持つが、それだけではない。
政治的な物を話し合う場であったり、互いの趣味を自慢しあったり。
同好の士達が寄り集まるグループと言っても良いかもしれない。
もし、公爵夫人愛好クラブとかあれば、夫は一も二も無く飛び付くだろうと、マリーベルは踏んでいた。
奥様的には、美食クラブとかの方が、健全的でとても良いと思う。
ついでにそこからレシピとか持ち帰ってくれたら万々歳であった。
「主人のクラブは、牧歌的なものらしいのだけど、席が空いていないようなの。紹介や推薦を出来れば良かったのだけれど……」
「いえ、ご心配なく。一応、伝手は出来たんです。ええ、一応……」
申し訳なさそうにする男爵夫人に首を振り、歯に物が挟まったような曖昧な言い方で、マリーベルは微笑む。
――その伝手が、破滅への一歩に繋がるかもしれないとは、流石に言えない。
(……大丈夫かな、旦那様。また、無茶しなければよいのだけれど)
懸念があるとすれば、一つ。自身の夫の事だけ。
置時計が示す針の時刻を眺めながら、マリーベルはこっそりとため息を吐くのだった。




