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51話 何故か、とっても懐かしいのです


「私の生家はね、シュトラウス伯爵領のすぐ近辺にある、小さな地主だったの。そこにね、子守ナースの娘としてナーサリー・メイドを務めてくれたのが、サリア。貴女のお母様よ」


 微笑みながら、懐かしむように語る、男爵夫人。

 その眼差しはここではない、何処か。

 遠い、遥かなる空の向こうへと伸びているかのようだ。

 

 そんな話、初めて聞いた――と言おうとして、マリーベルは口ごもる。

 そうだ。昔、母が零した事があった。

 

『私が昔仕えていたお家のお嬢さまはね、それはそれはお転婆な女の子だったのよ。明るくて、朗らかで、優しくて。私達はみな、あの方が大好きだったわ』


 その時の母は、まるで親友を物語るかのような、とても優しい表情をしていた。

 男爵家の事を言っていたのかと思ったが、よく考えればあの家に『お嬢さま』は居ない。

 その事にマリーベルが気付いたのは、もう随分と後だった。

 

(そうか。この方が、お母さんの言っていた『お嬢さま』なんだ……)


 そう思うと、途端に胸が、ギュッと詰まるような気がした。

 

「うちは、家庭教師ガヴァネスに引き渡されるのが遅くて。八つの頃までナースの手を煩わせていたの。確か、あの頃のサリアはまだ十二歳だったかしら。私は彼女を、本当の姉みたいに慕っていたわ」


 ――エルドナークの富裕層、特に貴族階級の令嬢・令息たちの子育てに、実の親が関わる機会は少ない。

 昨今の風潮により、『授乳』は実母のそれが推奨され、乳母こそ減少した。が、それでも乳児期が過ぎると、娘は母の手を離れるのが常だ。ゆえに、彼/彼女等が子供時代を共に過ごすのは、ナース及び、ナースメイドや子供付き(ナーサリー)達。彼女達は時として、実の家族よりも深い絆を得るという。

 

「屋根裏部屋に遊びに行ったり、こっそり『大人たちの領域』を探検したり、ね。そうそう、キッチンで一緒に、御菓子を作ったりもしたわ。彼女は賢くて、優しくて。私の我儘にいつも『仕方ないですねえ、イセリナお嬢さま』って、そう腕を組んで笑ってっくれたっけ」

「あ――」



『仕方ないわねえ、マリー』



「おかあ、さん……」


 マリーベルの視界が歪む。

 遠い日に聞いた母の声が今、耳元で蘇った気がした。

 

「……あぁ、彼女はやはり素敵な母親になれたのね。良かった、良かったわ」


 夫人が優しく、マリーベルの目元をハンカチで拭ってくれる。

 その感触が、何故かひどく懐かしい。

 どうして、こんなにも切なく、狂おしい程の想いが胸にこみ上げてくるのか。

 マリーベル自身にも理解が出来なかった。

 

「サリアは、その後もハウスメイドと話相手を兼ねて、私が十五になるまで残っていてくれたの。けれどね、彼女の母親が亡くなったのと、そして私も仕上げ学校フィニッシングスクールに通う事になったから、職を辞する事になったの」

 

 夫人の声の調子が、一段落ちる。

 その先の予感に不吉な物を覚え、マリーベルも拳を握りしめてしまう。

 

「サリアが次に選んだのは――ハインツ男爵家だった。うちの紹介状を携えて、門を叩いたの。彼女なら、古き伝統の貴族家でも十分にやっていけると、私はそう信じていた――のに!」


 夫人の顔が一変する。わなわなと背を震わせ、苛立たしげに足を踏み鳴らしている。

 憤怒に歪んだその表情は、彼女に似つかわしくない程に、揺らめく炎の如く猛り立っていた。

 

「あの、恥知らずの男爵がッ! 貴族の風上にもおけない男だわ! 私も――そして主人も、例えあの魂が調和の神の御許に導かれようと、許す事は出来ない!」


 興奮する事に慣れていないのだろう。

 ぜぇ、はぁと。肩で息すらし始めていた。

 

「大丈夫ですか、イセリナ様!? お茶、お茶をお含みください!」

「ありがとう、ゲルンボルク夫人。あぁ、貴女は本当にサリアに似ているわ。そのやさしさも、そっくり……」

「あまり興奮してはいけない。気持ちは分かるが、ほら。お嬢さんもびっくりなさっているではないか」

 

 妻の激昂に心を引かれたのだろう。

 心配そうな声をあげ、足早に男爵が駆け寄って来た。

 

「申し訳ない、ゲルンボルク夫人。君のお父上の事だというのに、妻が声を荒げてしまって……」

「いえ、正論ですので」


 全面的に同意である。

 なんなら、もっと罵ってくれと言いたい。

 

「この世の邪悪を煮詰めたみたいな男でしたからね! 笑い方も下品だったし! 何が下賤な娘の血が……ですか!」

「まぁ! やはり、そんな事を! あの男、やはり張り倒してやるべきだったわ! 主人が止めなければ、こう、バチンとやって差し上げたのに!」

「私も、事故に見せかけてこう、コキっとやってやるべきかと思っていた所存。あぁ、もう! 思い出しただけで腹が立つ――!」


 意気投合する奥様達。和気藹々と怒気を吐き出してゆく。

 そうして一通り悪口大会を開催したのち、マリーベルがふと気付いて隣を見ると、旦那様連合は少し腰が引けているように見えた。

「……旦那様?」

「……あなた?」


 奥様二人が揃って首を傾げると、夫達はびくりと背を震わせた。


「い、いや許せねえな! 女をヤリ捨てるとか、ふざけた野郎だ!」

「う、うむ! 彼の言う通りだとも! エルドナーク紳士として看過できん! まさしく唾棄すべき男だ!」



 野郎許せぬ、とばかりに頷き合う旦那様二人。

 どこか怯えたような気配が漂っているが、気のせいだとしておこう。

 

「……サリアが、貴女を身ごもった事は、彼女からの便りで知っていたの」

「え?」


 言いたい事を言い終えたのだろう。

 どこかスッキリとした顔で、夫人はそう呟く。

 

「もしもの時は、男爵家でメイドとして雇って貰えないか。そう打診があったわ。けれど、返事を出す間に、サリアは亡くなって――私達が訪れた時にはもう、貴女はハインツ男爵家に引き取られた後だった……」


 成るほど、母らしいとマリーベルは思う。

 恐らく、男爵が二の足を踏んだ時の事に備え、昔馴染みに娘を託す手筈も整えていたのだろう。

 

「私も、家内からよくサリア嬢の事を聞いていたよ。だから失礼ながら、君の事がまるで娘のように思えてね」

「失礼だなんて、そんな!」


 柔和な瞳でこちらを見る男爵。その顔は、慈愛に満ち溢れていた。

 まるで、遠い日に別れた我が子に会えたような眼差し。

 何故かふと、マリーベルはそう感じてしまった。

 

「肝心な時にサリアの手助けが出来なかった私が何を、と思い、デビュタント後の『お披露目』の時も、遠くから貴女を眺めている事しか出来なかったわ」


 でも、と夫人が涙ぐむ。

 

「どうしても、どうしても貴女に会いたかった。会って、一度でいいから話をしてみたかった……」

「イセリナ様……」

「こんなに大きく、立派になって。サリアも、さぞかし喜んでいる筈だわ」


 夫人の肩を抱き、男爵がマリーベル達に頷く。

 

「我らで助けになる事があれば、何でも言って欲しい。メレナリス男爵家は、君たちの味方となろう」

「閣下……!」

「誇るといい。奥方の母君との縁、というだけではない。かのおぞましき『薬』を撤廃せんとした、君達の勇気と決断。そして、先日の展覧会開催で見せた知恵と地盤。それらが私に、決意を固めさせたのだ」


 マリーベルの胸に熱いものが込み上げる。

 自分達のしてきたことが、ついに形になり始めていたのだ。

 そして、あぁ、母は。マリーベルの大切な『お母さん』は。


 ――死してなお、娘の為に助力を果たしてくれたのか。

 

「我が家は下級貴族とはいえ、それなりに顔は繋げている。さしあたり、家庭内招待会や舞踏会への招待状が届くよう手配しよう。既に、あの展覧会でゲルンボルク商会に興味を持ち始めている者は多い。ここが機会だ。逃す手は無いぞ」

「あ、ありがとうございます! メレナリス卿……!」

「あぁ、それだが、ね」


 何とも面映ゆそうな顔で、男爵はマリーベルに告げる。

 

「妻と同じく私の事も名前で――レリックと呼んでくれるかな?」

「それは……」

「不躾な願いだと思うだろう。だが、どうも畏まって呼ばれるのは苦手でね。かつて、この男爵家の当主だった男と同じ名だが、私は気に入っている」


 夫妻の目が、何処か切なげな光を帯びる。

 母との絆は、余程に深かったのだろう。

 関係の無い男爵にまで、その想いを継ぐほどに。

 

「はい、では私の事はどうかマリーベルと。そうお呼びください、レリック様、イセリナ様」


 マリーベルの答えに、男爵夫妻は満足そうな笑みを浮かべた。


「……『ルスバーグ卿』の言葉を信じて良かったな」

「え?」

「いや、こちらの話だ。縁と言うものは不思議だと、そう思ったのさ」


 男爵――レリックは感慨深げに頷くと、妻に目配せをした。

 

「どうにも湿っぽい話になってしまいましたわ。気を取り直しがてら、余興でもいかがかしら」


 そう言うと、夫人は背を屈め、雑草を一房引き抜いた。

 それを器用に丸めると、笛を作って唇に当てる。

 

「え、この曲……!」

「貴族らしくないと笑わんでおくれ。君に聞かせてあげたいと、妻が珍しく我儘を言ってね」


 それはマリーベルも得意とする、あの旋律だった。

 夕焼けの情景が鮮やかに浮かぶような、懐かしく、やさしいメロディ。

 

「――君の母上と、この草笛を良く奏でたそうだ。どうか、聞き届けてやってほしい」


 夫人の眦から、透明な滴が零れ落ちてゆく。

 それを見ているうちに、マリーベルもまた、自分が同じように涙をにじませているのに気付く。

 目の前の男爵夫人の姿が、在りし日の母のそれと重なった。

 

 

『――貴女は、幸せになれるわ、マリーベル』


 脳裏に閃くは、在りし日の母の姿。

 マリーベルが身を震わせていると、優しげな手の感触が、背に当てられた。それが誰の物であるか、確かめるまでもない。

 

(うん、お母さんの言う通りだったね。私は、幸せだよ。涙が出るほど、幸せ)


 だから、それを自分にくれた人の、夢を叶えたい。

 

 マリーベルは誓いと共に、目を閉じる。

 不思議な事にその瞼の裏にも、また別の光景が広がっていた。

 

 それは何処かの川沿い。

 落日の朱の中、影法師が二つ伸びている。

 

 

『おかあさん、わたしね、おひめさまになりたい!』



 幼い少女の舌ったらずな声が、一回り大きな影に、そう語り掛けた。母親らしきその影は、娘の『夢』に対し、微笑ましげに聞き入っているようだ。

 

 ひどく、それはひどく懐かしい光景のように思えた。

 それは恐らく、マリーベル自身も覚えていない、遠い遠い昔の記憶。


 この曲の、せいなのだろうか。

 ふと、マリーベルの頭に過るものがあった。


 自分が、そして夫が。この旋律を奏でる度に沸き上がる、不可思議な郷愁。あれは何だろうと、マリーべルはいつも疑問に思ってはいた。その答えの一片に今、手が届きそうな気がする。


 そんな、忘我的な思考に身を彷徨わせていると、マリーベルの耳に、その会話が聞こえてきた。


「そうなのですか、では閣下が――」 

「――そう。妻は、私が迎えに行ったのだよ。一目惚れでね。この人しか居ないと、そう思ったのだ」


 これは現実の声だろうか? 

 懐かしそうに語るメレナリス男爵の言葉に、影が揺らめいた気がする。

 


『あなたは今でも私の可愛いお姫様よ。だから、いつかきっと王子様が迎えに来てくださるわ。きっと、ね……』



「……王子様というより、おじ様ですけど」

「あん?」


 目を開き、見上げたそこには旦那様の姿。

 今のは、夢か幻か。もしかしたら噂に聞く、白昼夢という奴かもしれない。

 

(……あんなこと、言ったっけ? 覚えてないなぁ) 

 

 やはり、ここは不思議な場所だとそう思う。

 あの公爵夫人――当時の男爵令嬢か。その絵姿を見てから、何だか妙に胸が疼くのだ。

 

(やっぱり、彼女も『祝福』を持っていたのかも)


 その残り香のようなものがマリーベルの過去と共鳴し、時を超えて自身に何らかの情景をもたらしたのだろうか。

 分からない。そんな事が起こり得るものなのか。

 単に、自分が感傷的になっているだけなのでは――

 

 未だ、草笛を奏で続ける夫人を、マリーベルはじっと見る。

 

 その姿が、何故だろう。先ほど見た影法師に重なった気がした。 

 

「……旦那様。公爵夫人愛好家の旦那様」

「いや、不名誉な称号で呼ばんでくれ!」

「彼女って、子供の頃は私と同じで下町育ちだったんですよね。それで、お母さんを亡くして引き取られたと」

「ん、あぁそうだぞ。確か、そう――公爵夫人がまだ十二歳の時のことだったらしい」


 それじゃあ、と。マリーベルは旦那様に問い掛ける。

 

「その母親の最期って、どんな風だったんです?」

「いや、それが諸説あってな。はっきりとした確証はねえんだが、有力な奴は確か――」


 アーノルドは少し考える素振りをしたあと、やりきれなさそうに天を仰いだ。

 

「――愛した男が迎えに来てくれると、信じていたそうだ。息を引き取る、その間際まで」

「……そう、ですか」


 マリーベルが再び目を前へと向けた。

 いつの間にか、夫人の傍にその夫が寄り添うようにして立っている。

 それは、どこか神話の再現めいた、尊い一枚画のように見えた。

 

「……頑張りましょうね、旦那様」


 その言葉が、するりと口から出た。何を、とは言わない。言わなくても、その答えはわかり切っていた。

 やや間が空いたのち、ぽん、と。マリーベルの頭に手が置かれる。

 

「そうだな、頑張ろうな」


 耳に響く美しいメロディと、肌に感じる暖かな温もり。

 それらの心地良い感覚に、マリーベルは再び目を閉じた。

 

 しかしもう、あの情景は何処にも見えない。夕焼けの輝きが遥か彼方へと遠ざかってゆく。

 

 夫の腕に身を寄せながら、少女もまた、懐かしい旋律を口ずさむのだった。

 

初代公爵夫人云々について、もしご興味のある方は

「想いの輪廻~馬鹿王子は男爵令嬢を幸せにしたい~」https://ncode.syosetu.com/n2865hw/

をご覧くださいませ。

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