50話 何処か不思議な男爵家!
「いやぁ、よく来て下さった! お忙しい中、わが家を訪れて頂き感謝しておりますよ」
「ええ、ええ。どうぞゆっくりとなさってくださいな」
そう言って、メレナリス男爵夫妻はマリーベルとアーノルドの来訪を大いに歓迎してくれた。
彼らの顔に浮かぶ微笑みは、優雅というより柔和。春の兆しのようだと例えた方がふさわしいだろう。
如何にも人が良さそうである。そんな男爵夫妻に蛇蝎の如く嫌われていたという我が父は、一体何をやらかしたのか。
(まぁ、大体は想像が付くけどね)
傲慢が服を着て歩いていたような男だ。
レーベンガルド侯爵が、マリーベル達に敢えて見せ付けるかのように取った態度とは大違い。
天然なのだ。本気でやってるのだ。自然にそう思い込んでいるのだ。あの父は。
「こちらこそ、お招きいただき、感謝を。閣下におかれましては――」
「いやいや、そんな堅苦しい挨拶は結構。どうか、楽にしてください!」
アーノルドが恭しく礼を取ろうとするも、それを男爵は笑い飛ばした。
「今、庭の方で昼餉の支度をさせていますのよ。何か苦手な物がありましたら、言ってくださいね」
夫のそれを補足するかのように、男爵夫人もまた、柔らかな口調でマリーベルに声を掛ける。貴婦人、というより、愛らしい少女めいた気配を色濃く残した女性。
養母より年は下だろう。アーノルドと同年代くらいか。
夫である男爵は、妻より上に見えるとはいえ、四十に届くかどうかくらいだとマリーベルは判断する。
二人の姿はとても若々しくて、見ているだけで笑みが零れそうなくらいに互いを想い合っているように思えた。
「お気遣い頂き、ありがとうございます」
マリーベルが微笑むと、夫人は感極まったように頬にハンカチを当ててしまう。
――何だ、何なのだろう、この状況。
マリーベルはそっと、窓の外へと視線を動かす。
暖かな日の光がカーテンを煌めかせ、美しく瞬いている。
輝きのヴェールの向こうに広がっているのは、貴族にしてはこじんまりとした庭。
お屋敷より少し広いくらいだろう。実に調和が取れた木花の配置は、夫妻の人柄をそのまま落とし込んでいるかのように見る物の目を和ませる。
(何だろ、どうしてかとっても落ち着くなあ……)
まるで、実家に着いたような安心感がある。
庭の雰囲気だけではない。
このタウンハウス全体から感じられる温もりめいた暖かさが、マリーベルの心に染み込んでいく。
しかし、まったり気分を楽しんでいた奥様とは裏腹に、旦那様といえばソワソワ落ち着かないようだ。
しきりにチラチラと、応接間の暖炉の上に目線を動かしている。
そこに飾られた絵画を見て、マリーベルは苦笑してしまった。
(……また始まった。もう、旦那様ったら)
それは、一人の令嬢を描いたものであった。
ストロベリーブロンドの髪をなびかせ、穏やかに笑む少女。
その姿に、マリーベルも見覚えがある。あり過ぎるほどに、ある。
「おや、ミスター。こちらの絵画が気になるのですかな?」
「あ、これは失礼を! 見事な絵に、見惚れてしまいまして……!」
「主人は、初代公爵夫人の愛好家なんですの。それはもう、妻の私が呆れるほどの熱の入りようですのよ」
マリーベルがそう言うと、男爵夫妻は顔を見合わせ、次いで嬉しそうに破顔した。
そう、それはかのルスバーグ初代公爵夫人の似姿だった。
未だ彼女は、あらゆる階級のご夫人方に人気があるという。
けれど、こうも堂々と客間に飾る者は珍しい。
それに――と、マリーベルは小首を傾げた。なんだろう。少し、違和感がある。
それはアーノルドも同様であったようで、不思議そうな顔で口を開いた。
「あの、メレナリス閣下。こちら、私の知る『彼女』の絵より、少し若々しく見えますが……?」
「おぉ、流石にお目が高い! そうなのですよ、そうなのです! この絵に映った『彼女』は、公爵家に嫁ぐ以前。このタウンハウスで暮らしていた頃の絵なのです。ちょうど、十五歳かそこいらでしょうか」
「な、なんと!?」
公爵夫人愛好家を自負するアーノルドが目の色を変えた。
けれど、驚いたのはマリーベルもそう。夫と一緒に、思わず声を上げてしまう。
「こ、この家に公爵夫人が!? あ、まさか! 彼女の出身である男爵家というのは――」
「左様。我がメレナリス家だよ。当時は色々とゴタゴタがあったようでね、後の物語の中にも我らが家名を記したものは、極僅かであったはず」
「おぉ……それは素晴らしい……ここが、おぉ……」
感慨深そうに辺りを見回すアーノルド。
失礼極まりない態度であろうが、当の男爵夫妻はニコニコ笑うばかり。
貴族が良く浮かべる、虚飾に満ちた仮面では無い。それは、親しみの籠った暖かい視線だ。
「なんなら、どうでしょう。『彼女』が使っていたという部屋をご覧にいれましょうか? 当時のまま、保存をしておりますので」
「ほ、本当ですか!? 是非――」
「旦那様?」
「――せ、せっかくですが、その。またの機会に……」
じろりと睨んでやると、アーノルドはシュンと体を縮めてしまう。
――全く、全く! 旦那様ってば、もう!
奥様が憤慨していると、アーノルドは世にも情けない声で、妻を宥めにかかった。
「いや、違くて。その、収集家精神がちょっと刺激されただけなんだよ。ほら、お前に似てるし。そっくりだし。だから、俺が気になるのも仕方がないっていうか……」
「いや、最初に好きになったのは『そっち』でしょ? 私は代替品みたいなもんですものねー」
プイッとむくれて見せると、アーノルドは妻の手を握りしめ、慌てたように声を張り上げた。
「だから違ぇって! 確かに最初に憧れたのは『あっち』だけど、今はお前だけで――」
「男の人はみんなそう言うって聞きました!」
マリーベルはしかし、そっけなく横を向く。
そんな言葉で誤魔化されやしないのである。
「本当に、お前だけだって! 俺には、お前しかーー」
妻のご機嫌を何とか取ろうと思ったのだろうか、アーノルドの口調に熱がこもり始めた、その時だった。
「う、うぅぅぅ……」
すすり泣くような女性の声に、ゲルンボルク夫妻はハッとしてそちらに向き直る。
しまった、完全にいつもの雰囲気でやらかしてしまった。
この家の空気がそうさせるのだろうか。それとも男爵夫妻の人柄か。
『社交』の場で、かつてないほどに気を緩ませてしまった自分に、マリーベルは愕然としてしまった。
「あ、あの……夫人! その、大変申し訳な――」
「あぁ、貴女は幸せなのね。良かった、本当に良かった。サリアも、きっと喜んでいるわ……!」
泣き伏した妻の肩を抱き、男爵は優しげに、愛おしげに彼女の背をさする。
遂に声を上げて夫にしがみ付き始めた夫人の姿に、マリーベルもアーノルドも困惑を隠せなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
庭に置かれた白亜の架台テーブルの上には、色とりどりの料理が載せられていた。
急ぎで取り寄せたのか、肉料理には狩猟肉を使ったであろうものも多い。
ミートパイやロースト。出来たて熱々の薄切り肉には、芳ばしいワインの香りが漂うクリーム・ソースが添えられている。
どれもこれも、はしたなくも涎が零れそうなほど、美味しそうである。
「先ほどは、お恥ずかしい所を見せてごめんなさいね」
作りたての料理を前に、照れたように頬を染める男爵夫人。
養母と同年代くらいの女性であろうに、可愛らしい人だと、マリーベルはそう思う。
「さぁ、召し上がってください。うちの料理人が腕に寄りを掛けましたぞ! 遠慮せずに、たらふくお腹を満たして頂きたい」
男爵の宣言と共に、和やかな昼食会は始まりを告げた。
それでは、と言わんばかりにマリーベルも皿の上へ盛りを作る。
もう既に、先ほど本性を垣間見せてしまった。今さら取り繕っても、もう遅い。
なら、美味しそうに沢山食べた方が、彼らは嬉しいだろうと結論付けたのだ。
決して、食欲に敗北したわけではない。乙女の名誉に掛けてそう言いたい。
「いや、めっちゃ負けてるだろ……」
夫の容赦ない突っ込みも、気にならない。
マリーベルは快哉をあげて料理を次々と口にしてゆく。
――美味しい、美味しい、とても美味しい!
形式ばった正餐会とは違い、昼食会は何処でも砕けた雰囲気が漂う、らしい。
男爵家もまた例に漏れず――いや、それ以上に気安い空気に満ち満ちていて、マリーベルは食事を大いに愉しんだ。
「まだまだ、お代わりもありますからね」
「そうだとも、用意させよう。何でも言いなさい」
何だこの人達、聖人か何かか。
いつもなら警戒心に満ちた猫の如きマリーベルも、これには骨抜きになってしまいそうだった。
「本来、うちの息子や娘たちにもご挨拶をさせたい所なのですが、 上の息子は今、学院に居りましてな。下の者達はまだデビュタントにもなっていないような幼子でして。いずれの機会、ということで平にご容赦を」
「そんな、そこまでお気遣いされなくとも……!」
何故だか、男爵はアーノルドに対して妙に恭しい気がする。
マリーベルに対しては、へりくだるどころか実の娘や孫みたいに接してくるというのに、だ。
これでは順序が逆だろうとも思う。
「主人はね、ミスター・ゲルンボルクにとても感謝しているのよ。ほら、あのガヅラリーの強壮薬。うちの子達も、あれを常習する所だったの。子守のメイドが手抜きをしようとして――」
「あぁ……」
何処にも、抜いてはいけない手を抜きたがる者は居るのだ。
メイドマスターを目指していたマリーベルとしては、サボるならもっと上手くしろと言いたい。
「でも、それが無くても私もあの人も、ミスターには心から感謝を捧げていますよ。貴女が、こうして幸せにしているのですもの」
「メレナリス卿夫人……」
「イセリナでいいわ。貴女のお母様にもね、そう呼ばれていたのよ」
そうだ。それを聞きたかった。
マリーベルが皿を置き、居住まいを正す。
「……イセリナ様。あの、貴女は母とどういう――」
「ええ、是非とも聞いて頂戴。貴女にこの話をする日を、どれ程に待ちわびたことか」
感慨深そうに目を細める夫人の、その眦に涙が浮かぶ。
「サリア――貴女のお母様はね、かつて私の子供部屋付きメイドだったの」
そっと、労わるようにマリーベルの髪に手を触れながら、彼女は儚げに笑った。




