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45話 社交期スタート! いざいかん、侯爵家!!


 中流階級社会と上流階級社会の差異は、あらゆるところで表面化してくる。

 手紙一つとっても、そう。

 宛名の書き方から、既に社交のエチケットは存在しているのだ。

 

 例えば相手の爵位名。現在のエルドナークでは貴族への呼びかけの際、侯爵以下の爵位持ちに対しては『~男爵』『~子爵』等とは決して口述しない。けれど、筆記の上では逆。爵位を添えて記載せねばならないのだ。

 

 これは、知らない者はまず真っ先に引っ掛かる。

 資格なしとして弾かれ、社交界の門を潜るどころか、その前に立つ事さえ出来ないのだ。

 マリーベルは慎重に、慎重に。覚え習った事を思い返し、目録と手引書を引きながら一枚一枚を書き上げていった。

 

 その成果は、今のところ上々。

 少なくとも、無下に断られはしなかった。

 

 そして、今。

 マリーベルは自分達の夢への第一歩として、上流階級への『訪問』を開始しようとしていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 


「ひぇ、え……」


 マリーベルの後ろで、息を呑むような気配が伝わって来る。

 無理も無いだろう。これを見れば、初めての者は必ず畏怖し、身がすくむ。

 

 今、マリーベルとティムが見上げているのは、王都の北区に点在するタウン・ハウスのひとつ。

 エルドナーク御三家・レーベンガルド侯爵家の屋敷であった。

 

「こ、これが高位貴族のお屋敷……! なにこれ、でっかい……! デカ過ぎない!?」


 ティムが感嘆の声をあげる。

 そう、そうなのだ。中流階級のお屋敷も、見事な物が多かったが、これはまさに別格。

 

「何これカントリー・ハウスかな? ってくらいに馬鹿デカいですねぇ。これが御三家・レーベンガルド侯爵家。かつては、宰相を歴任したともされる、名門中の名門と言われるだけのことはあります」


 鉄の門の向こうに広がるのは、広大な庭園だ。

 かのセントラル・パークの三分の一ほどが、すっぽり入ってしまうのではないかと思うほど、それは果てしない光景だった。

 

 そして、そのやや手前にでんと構えるその屋敷は、左右に広がる古典回帰式のもの。

 目を凝らして見れば、その正門を飾る、円柱に支えられた三角形のペディメントが威容を放つ。

 古の神殿もかくや、という清廉で神秘的な雰囲気は、資格無き者を拒むが如く、無言の圧を放っているように思えた。

 

「ティム君、ここからは何に驚いても、顔に出してはいけません。黙って目を伏せて、付いて来なさい」

「わ、わかった――いえ、分かりました、奥様」

「よろしい」


 理解力と飲み込みの早さが、この少年の持つ最大の武器だ。

 焦りも何もかもを飲み込み、彼は優雅な仕草で一礼する。

 

 門の前でベルを鳴らし、守衛に訪問を告げる。

 程なくして現れたのは、立派なお仕着せに身を包んだフットマンだ。

 糊のパリッと効いたシャツを誇るように胸を反らし、ついでこちらに深々と一礼する。

 

 男爵家のそれとは、従者からして格が違う。

 仕草も洗練されており、動きに無駄が無い。

 

(ハウス・メイド達は前には出て来ないだろうけど、一度見てみたいな。参考になりそうだし)


 しかし、マリーベルは動じない。それを当然のことと受け止め、彼の案内に従って屋敷の門を潜る。

 

 中もまた、想像を超えた豪華さ。流石のマリーベルも見惚れてしまいそうになった。

 お高い絵画や調度品が、年代に合わせて均一に配置され、見事な調和を誇っている。

 

 中流階級の屋敷と上流階級のそれの違いは、部屋を見ればすぐに分かると言う。

 

 上流階級――特に貴族は、ある種のテーマを定め、その様式ごとに統一し、バランスがとれたインテリアを是とし、美とする。


 これは、カントリー・ハウスなどに顕著なのだが、貴族の屋敷は基本的に時代に合わせて増築するのだ。

 この侯爵家のように、昨今は古式のそれを保存する傾向も表れているようだが、基本は同じ。

 

 だが、お屋敷を一生の物とする中流階級層の金持ちは、そうもいかない。せっかく建てた豪奢なお家を一々、取り壊して改築などする者は少ないのだ。

 ゆえに部屋の内装を豪華に飾り、下品にならない程度に富みを示す傾向にある。

 そうすると自然と室内は、あらゆる国、時代の調度品が混雑し、『上』の者からすれば、不可思議な部屋の誕生だ。

 

 ――これも、上流階級層が成り上がりを蔑む理由のひとつであった。

 

 やがて、長い廊下を歩いた先、一つの部屋へとマリーベルは通される。

 応接間だ。ここもやはり、侯爵家は別格である。

 

「――ようこそ、ゲルンボルク夫人レディ・ゲルンボルク


 ノックの後、マリーベルが部屋に足を踏み入れたと同時、優雅な仕草で貴婦人が立ち上がる。

 作法通りに淑女の礼を取り、新米奥様は丁寧に挨拶を返す。


「お目通りが叶い、光栄に存じます。レーベンガルド卿夫人レディ・レーベンガルド


 年の頃は、三十の半ば過ぎくらい、だろうか。宝石のように紅い髪の美女。マリーベルの養母とほぼ同年代であろうその夫人は、にこやかな笑みを讃えたまま、訪問客に手を差し伸べた。

 

 ――初めての社交の相手として、下級の男爵・子爵家や、それより上の伯爵家を選ばなかったのは、理由がある。

 レーベンガルド侯爵家が、先の披露宴に不参加であったこと。

 そして、既に半公式的な場所で、マリーベルは他の御三家――ルスバーグ公爵家と、シュトラウス伯爵家とそれなりに親交を結んだ。

 

 ならば、残るひとつ。レーベンガルド侯爵家への『訪問』と『目通し』は必須であったのだ。


 ――まぁ、そういった建前を別にしても、マリーベル達はこちらを訪れるその、意義があるのだが。

 

「先の披露宴、参加が出来なくてごめんなさいね。急な『用事』が入ってしまったの」

「いえ、お気になさらず。今日の来訪を受け入れてくださっただけでも、十分でございますわ」


 うっすらと紅の入った唇を歪め、夫人は微笑む。

 近年のエルドナークでは、化粧の習慣が薄い。

 例の『質実剛健』とやらを尊ぶ傾向の為だ。

 そのせいか、中流階級の富裕層の中では、白粉さえ遠ざける婦人がいるくらいである。

 

 下品にならない程度、ぎりぎりを装い見せ付ける。その点、侯爵夫人は完璧であった。

 そう。既に、戦いは始まっているのだ。

 

 マリーベルは心の内で、そっと剣の柄に手を掛ける。

 

「さぁ、どうぞ夫人。お紅茶に良く合う、パンを用意しましたのよ。摘まんでくださいな。これは、貴女のお養母様も好物だったの」


 テーブルの上に置かれた雅な皿、そこに綺麗に切り分けられたパンを見て、マリーベルは顔をしかめそうになる。

 確かに柔らかく、美味しそうだ。ドライフルーツ入パン(バース・バンズ)であろう。

 湯気が立つパン生地に、バターがこれでもかと、たっぷり、たっぷりと塗り込められている。

 

(早速、牽制を放ってきおったな!)


 マリーベルはにこやかな淑女の仮面を被ったまま、内心で舌打ちする。

 

 今日のマリーベルは、男爵家の名代として馬車を使い、訪れている。

 すなわち、装いは上流階級用の仕立て。

 色濃いシルクの生地を使った、華美エレガントな外出用のドレスだ。

 家格にあった、中くらいの宝石ルビーをブローチとして胸に飾り、頭には花と小ぶりの宝石を散らしたボンネットを被る。

 

 当然、淑女のしるしたる手袋も仔山羊の皮革製で、八つのボタン留めであつらえたもの。

 上流階級社会において、この手袋は、ある意味では服装よりもよほどに、衆目に晒される。

 生地から何からマナーがあり、完璧なまでに指にフィットした物でなければ即座に失格の烙印を押される。

 

 つまり、脱ぎにくい。

 正餐会等ならともかく、短時間での『訪問』で、これをスマートに着脱するのは至難の業なのだ。

 

(軽食には、手袋の上から摘まめるビスケットが基本――なんだけど、わざとね)


 優雅な笑みを湛えたまま、夫人は身動きしない。

 彫像か何かかと、疑いの眼差しを向けたくなるくらいに、それは一つの芸術品の如き佇まいであった。

 

 もちろん、断る事も可能だ。

 手袋をしているからと、ティーだけで済ませ、菓子類は辞退する者も居る。

 だが――今回の場合、それをしたが最後。それを切り口に何を言い放ってくるか分からない。

 

 ケンカは先手必勝。相手に呑まれたら終わりなのだ。

 

「まぁ、美味しそう。それではお言葉に甘えまして、頂きますわ」


 マリーベルは、手袋をしたまま、パンを手に取る。

 指先に意識を込め、布地に染み一つ残さぬよう、バターが塗られた一部分を上手く丸め、丁寧に折り重ねて口へと運んだ。

 

「……大変、おいしゅうございますわ」


 作法通りに紅茶で口内のバターを洗い流し、マリーベルは微笑んだ。

 

「そう」


 夫人は笑む。悔しげな素振りを一切見せることもせず。

 

「それは、良かったわ」


 たおやかで、艶やかな表情を浮かべたまま、嗤う。


 ――そうして、それを皮切りとして。

 『茶飲み話』という名の舌戦が、始まりを告げた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「――まぁ、今の社交界ではそのような装いが。存じませんでしたわ」


 空気が張り詰める中、舌先を刃と変え、剣戟が舞う。

 

 服装・食事・振る舞い・交遊場。

 ありとあらゆる話題を短く的確に振るい、夫人は次々と斬りこんでくる。

 

 小娘相手などと、欠片も侮ってはいない。

 ほんの少しでも揺るぎを見せれば、即座に首を刈り取られる。

 

 マリーベルはそれらを受け止め、流し、時にはこちらから話題を振って斬り返す。

 

 それはまさに、騎士が行う果たし合いの如く。

 

 不可視の剣閃が幾たびも翻り、虚空に火花を散らす。

 

「貴女と話すのは、楽しいわ。ふふ、娘時代の日々を思い出すわね。ベルネラとも、こうして良くお茶を飲んだものよ」

「養母もさぞかし、充実した時間を過ごしたことでしょう。彼女に代わってお礼を申し上げますわ」


 削られるのは、体力で無く精神力。

 これは、いかに相手の心を屈服させるかの戦いなのだ。

 

(なるほど、お養母様の言っていた通り。一筋縄ではいかないね……!)


 バターパンの勧めなど、序の口どころか牽制ですら無かった。

 わざと下品一歩手前な稚拙な振る舞いで、こちらを精神的に優位に立たせたと誤認させる。

 恐らくそれも、彼女が持つ無数の手札の、ほんの一枚に過ぎない。

 

 ――やりにくい。マリーベルの苦手な相手だ。

 感情を真綿でくるむように押し包み、いつの間にかこちらを潰してしまう。

 養母とは何もかもが、まるで真逆の貴婦人。

 


『あの女は、見た目こそ麗しの蝶々を装っちゃぁ居るがね、その実は腹黒い蛇さ。それも、猛毒の牙を隠し持ったおぞましい獣』



 披露宴ののち、いつものように扇をパタパタと振るいながら、彼女はマリーベルにそう言った。

 


『披露宴に出なかったのも、私が居たからさ。顔も合わせたくないという素振りを見せ、面目の一つでも潰したかったのだろうよ』



 社交界で名の知れた、艶花と呼ばれし養母。

 彼女と公爵夫人の間に、そこにどんな確執があったか、想像に難くは無い。

 

(ったく、親同士の因縁を、子の世代まで持ち込まないで欲しいなぁ!)


 毒づきながらも、口撃は止めない。ほんの少しも、気を抜くことが許されない。

 それを阻む『圧』が、夫人からは放たれている。

 

 まるで、巨大な剣と盾を構えた重騎士だ。

 武具も何もかもが厚みを持ち、余人を寄せ付けない。

 

 まだ単なる序の口の『訪問』。人の目が無いというのに、これだ。

 多人数が集まるパーティーや舞踏会などでは、恐らく取り巻きを連れて集中攻撃を重ねてくるに違いなかった。

 それをどう防ぐか、いなすか。糸口はまだ見つからない。

 

(これが、上流階級の社交……! 『下』とは格がまるで違う!)


 中流階級層ではトップもトップ。最上位の上澄みだったマリーベルも、貴族社会ではほぼ最下位の男爵家。

 その実力と経験、貫禄は天と地ほども違う。

 中流層の社交を通じてで学び、多少なりとも場を踏んでいなければ、即座に押し切られていたろう。

 

 そうなれば、この夫人のことだ。

 あっという間にその失態は上流階級の社交場に広がり、マリーベル達の出足を挫かせる――

 

 

 ――だが、そんな事は最初からわかっていたのだ。



(負けられない……! 屈さない! 私の後ろには、旦那様が居るんだ!)


 それは、長い永い二十五分間だった。

 時計の針の音さえ耳に痛いほど、神経を細く尖らせ、マリーベルは敵に喰らい付いていく。

 

「……正直に言って、驚いているわ。貴女の知識と弁舌、そして度胸に、ね」

「お褒め頂き、光栄ですわ」


 やがて、戦いは最終盤に近付く。

 マリーベルは汗を流しこそしないが、優雅な仕草を装うだけでも精一杯となっていた。

 夫人は、それを見計らったように頷くと、賞賛の言葉と共に扇を開き、口元を隠す。


 鮮やかに彩られた紙地の向こう。塞がれた頬から覗く目が、暗い光を放つのが見えた。

 

 マリーベルの背筋が、ぞくりとする。

 

「この先、『上』を目指すにあたって必要な学びを、受けたいとは思わないかしら? 私はこう見えて、顔が広いわ。当家の血筋は、遡れば王家にも至る。女王陛下の御髪も、その証拠。あの御方の見事な銀の髪は、レーベンガルド侯爵家の娘から継がれたものなのよ」


 傲慢とも思われるほどに、その言葉は圧倒的な重みを持っていた。その意味を察し、さしものマリーベルも慄然とする。


「それは――」

「そう」


 公爵夫人は笑みを崩さない。

 圧倒的強者の印を浮かべたまま、マリーベルにこう告げた。

 

 

「――私の開催する、交流会に入りなさい。きっと、悪いようにはしないわ……」


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