44話 社交期前夜の作戦会議!
「――社交界とは、つまるところ何か。旦那様は分かりますか?」
社交界への『挨拶』を間近に控えた、その夜。
マリーベルとアーノルドはお屋敷にて、最終確認を兼ねた、作戦会議を行っていた。
「ん、謎掛けか? いや、待て待て。改めてそう言われると、どう表していいか悩むな。えっと、紳士淑女が集まって、茶とか飲みながら談話する……?」
妻の問い掛けに、旦那様は首を捻る。今一つ、理解が及ばないのだろう。
うーんうんと唸り始めた彼に、奥様は正解を提示する。
「『我らが知る者達』です。すなわち、身内と認めた者同士を対象にした社会。一言でいえば、『排他的』ですね」
「あぁ、成るほどな。この間の披露宴の、それの更にアレな場所ってわけだ。分かり易いぜ」
そう言って、苦笑するアーノルド。彼もあの一件で、身に染みて良く分かったのだろう。
「私も、中流階級を攻略しようとした時みたいには、上手くいかないでしょうね。何せ名門とはいえ、ハインツ家は男爵家。しかも没落しかかり、商人の援助でどうにか糊口をしのぐ。典型的な貴族達にとっては、かっこうの標的でしょうから」
「他人の失敗は蜜の味ってか。相変わらず、吐き気がするような場所だな、おい」
だが、彼らにとって、娯楽は重要なのだ。暇を飽かすのが貴族の務めだと、未だに信じる者も少なくない。
「それでも、旦那様の機転のお蔭で、リチャード(あの子)の名目は保たれたでしょうね。彼が正式な社交デビューを飾る、その露払いも私達のお役目――そうでしょう?」
妻の眼差しを受け、アーノルドは楽しそうに唇を歪めた。
「あぁ、その通りだ。やるべき事は多いが、この日の為に準備も重ねて来た。後は何を言われようが、どんな目で見られようが、堂々と乗り込んでやろうぜ」
「流石、旦那様。クソ度胸とハッタリはお手の物ですね!」
「まぁ、そうなんだが……その、お前の口からクソとか言われると、なんだ……変な気分になるな」
妙な所で細かい男である。
相変わらず、女性に対して偏見というか、憧れを抱きすぎているのだろう。
「しっかりしてくださいよぅ。貴婦人の色気にコロッと騙されて、寝床に引っ張られたりしたら、タダじゃおきませんから」
「しねぇって! そんな恐ろしいこと出来るか! 俺はまだ、命が惜しい!」
なら良いのだが、その震えた瞳を妻に向けるのは如何なものか。
マリーベルとて悪魔ではない。流石に夫の首をへし折ったりはしないのだ。きっと。恐らく。多分。
「やめ、やめろ! その空の手で、何を練習してやがる!? コキっと手首を捻るの、やめてくれ。心臓に悪い!」
「ふふふ、どうやら良い感じに緊張もほぐれて来たようですね?」
「恐怖という感情はせり上がって来たがな……! ったく、お前って奴は――」
首を竦めながらも、アーノルドの瞳は優しげだ。妻への労わりに満ち満ちている。
その目こそ止めてくれ、とマリーベルは思う。
何だか体がもぞもぞして、落ち着かないのだ。
かち、こち、と。部屋に響く時計の針の音が、やたらと煩く聞こえる。
何となく気まずい雰囲気となり、やがてどちらかともなく咳払いをしてしまう。
「さ、さて。おさらいですよ、旦那様! 社交界はそれだけで一つの集落みたいなものですが、その中は更に細分化されています。最上層は宮廷の天上人。女王陛下を中心とした重鎮たちですね。その下は有象無象が横並びに蠢いていますが、代表的なのは大きく分けて二つ、ですね」
「あぁ、王太子周りと、上級貴族の集団か。その集まりは、クラブみたいなもんらしいな。名前まで付いてるっていうじゃねえか」
蟻の巣穴の如く、細かく分かれたグループ。
芸術に重きを置いた者達もいれば、文学界にその名を轟かせる者も居る。
どこに狙いを定め、成り上がるか。その順序は大切である。
「王太子殿下周りを狙うのが、中期目標ですかね。グループに入る条件も、家柄を重視してはいないとか。ただ、この辺はどうもハッキリしないので、情報収集は必須ですね」
没落した上に夫を亡くし、社交の場から遠ざかりつつある養母。何かと頼りになる彼女だが、そういった意味では紳士の社交場の知識、その鮮度が、やや心もとない。
「初めは、中流階級への挨拶と同じ、『訪問』。そこから、前に話した通り昼の社交をスタートさせ、舞踏会や正餐会への招待と、昇格を目指していきましょう。本来の旦那様の階級であれば、まず初めの『それ』に辿り着くにも幾つかの手間と時間、段階を踏まねばなりませんが――我々には、『これ』があります」
マリーベルの手に握られているのは、『目録』と委任状だ。前に男爵家に里帰りした際、養母から譲り受けたものである。
「男爵家の名代として、大手を振るって招かれる事ができますからね。偉大なりはハインツ男爵家の名と――」
「――義母上殿の評価、だな。感謝してもしきれんよ」
それに関しては、マリーベルも同意である。
そも、夫と引き合わせてくれたのも、養母なのだ。
今では、深く深く感謝の念を抱いている。もちろん、易々と口には出さないが。
「あれ、そういえば。旦那様は、どうやってあの養母と知り合ったのです?」
「あぁ、それな。元は爺さん――ディックの親父の伝手なんだが。現役時代に付き合いがあったらしい上流階級の面々を、片っ端から調べてな、条件に合った令嬢を探していたら、お前が出て来たわけだ」
そう、感慨深げにアーノルドは述懐する。
「なんつうか、ここまでピタリと嵌ったお嬢様が居たのかと、最初は詐欺を疑ったよ。だが、この機を逃しちゃなんねぇとそう思ってな、何か月も掛けて口説き落としたわけだ。いや、中々に手強かったぜ、あの義母上殿は」
「旦那様の趣味にもピタリと嵌ってたんですものね」
「そう揶揄すんなって、まぁ趣味が合ったっつうのは同意だけどよ。今じゃ、お前以外の女を妻にするなんて考えられねえ」
――心臓に悪い事をサラッと言うの、いい加減にどうにかして欲しい。
「本当だぜ、マリーベル。まぁ、胡散臭く聞こえるかもしれねえけどよ。俺は、お前が傍に居てくれて感謝してる、本当だ。これからもよろしく頼まぁ」
末永く、な。
そう言って夫は、マリーベルの頬を優しく、愛おしげに撫でる。
(あ、それ、だめ……っ!)
――腰が、砕けてしまいそうだ。
膝ががくがくと震え出しそうになって、止まらない。
息が、知らずと荒くなる。呼吸が乱れて、上手く言葉が出て来ない。
「旦那、さま……」
「あ、や……その――」」
ガシガシと、アーノルドは自身の頭を乱暴に掻いた。
「――あぁ、今日は変だな。らしくもなく、気が昂ぶってやがるのかね」
「そ、そう言った時は……」
言葉が、勝手に口から飛び出る。すると、それにつられるようにして、体も動きだす。
マリーベルはドレスの裾をぎゅっと掴み、次いで床を蹴った勢いのまま、夫の胸へと頬を寄せた。
「お、女の人を抱きしめると、落ち着く……とか……」
「いや、お前。それは意味が――わかって、ねぇんだろうなぁ……」
はぁぁぁぁ、と。アーノルドは長い長いため息を吐く。
「ったく、純真な目をしやがって。いつもみたいに欲望にギラついてくれりゃぁ、こっちも楽なもんを」
「あ……っ?」
アーノルドの指先が、マリーベルの頤をそっと掴む。
何を――と思った次の瞬間、少女の唇に柔らかく暖かいものが触れていた。
その想いが交わされたのは、ほんの一瞬。
だけど、マリーベルはそれを無限の如き時間のように感じてしまう。
「――景気付けに、これくらいは良いだろ?」
「あ、はぅ……だんな、さまぁ……」
何を言っていいか、分からない。
心臓が破裂してしまいそうだ。頬が火照って体が熱くて、たまらない。
「お前は、もう……」
苦笑交じりのその声も、マリーベルの耳には入らない。
ふわふわした夢見心地のまま、少女は夫の体にしがみつき、その首筋にかじりついた。
腰に手が回され、マリーベルの体がそっと抱きしめられる。
「お前と俺なら、きっとやれるさ。頼りにしてるぜ、マリーベル」
「はい、はい……旦那様……」
窓から差し込む月明かりに照らされながら、二人はお互いの温もりを確かめ合う。
深い幸福の只中にありながら、ふとした予感を覚え、マリーベルは顔を上げた。
(あ、スノウ・フラワーが――)
旦那様の肩越しに、窓の向こうの景色が映り込む。
マリーベルの瞳が捉えたのは、月光の輝きの中で花開く、白き雪の群れ。
――寝ぼけ花が咲く頃、それすなわち紳士・淑女の場が開く。
雪のように白い花々、その蕾が解ける、五の月の半ば。
それを合図にするかの如く、上流階級層が待ちに待った『エルドナーク・シーズン』が訪れる。
アーノルドとマリーベルが挑むべき、『社交界』の開幕だ。
それは、エルドナークの伝統。貴族たちが己が隆盛を示す、剣なき戦場。絢爛豪華な輝き、その幕に閉ざされた先にある、渦巻く欺瞞と嘲笑の坩堝。
この国の光と闇が凝縮されたその場所へ、ついにゲルンボルク夫妻は足を踏み入れる。
その先にあるのは栄光か、それとも破滅か。
その答えは、未だ霧の中。神ならぬ人が知る由もない。




