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43話 美食伯の願い


 シュトラウス伯爵家。

 それは、マリーベルの実家であるハインツ男爵家と双璧を為す、最も古き貴族の名門である。

 ルスバーグ公爵家と並んで御三家の名を冠する伯爵家、その名は階級層を超えて広く知れ渡っていた。

 

 かの領地は『食の楽園』とも言われ、そこに住まう領民たちもみな、我が地の料理と食材は、如何なる国の美食にも負けないと自負している。元来、エルドナークは寒冷な地が多く、その気候ゆえに野菜や果物が育ちにくい国であるが、それすら覆すほどの評価が下されたのは、数代前のシュトラウス伯爵。通称『美食伯』の功績があまりにも多大であったから、とされていた――

 

 

「いやぁ、美味いねえ。このケーキは中々に味が良い。大量生産するからといって、手を抜いていないな。感心、感心」


 ひょいひょいと、フィンガーサイズに切り分けられたケーキを口に運び、世にも名高き伯爵閣下はご満悦の表情だ。

 アーノルドは、呆然とその姿を見守る他無い。

 御年、六十を数えると聞くが、その健啖ぷりはどうか。全身、これ胃袋と言わんばかりの食べっぷりである。

 

「む、これはイモだな。しかも、バターで蕩けさせるとはやりおるわ。知っておるのかな、ミスター。このイモ料理はな、かつてルスバーグ公爵家で開かれたという、正餐会。そのメニューにも出た名誉ある料理ぞ。けしからん、けしからん! これはもう、味をちゃんと見ておかねばな……!」


 ほくほくのイモバターを切り分け食し、伯爵は幸せそうな笑顔を浮かべる。

 何をしに来たのだ、この爺様は。アーノルドは戸惑いを超えて呆れかえってしまった。

 

「実はだね、このチャリティー。我が伯爵家からも食材を提供しておるのだよ。一応、匿名の寄付という形でな。しかるべき店を選んで出したから、怪しい物では無いと理解はして貰えたと思うが……」

「あ、あれは閣下の――」

「閣下ではないと言うに。ほれ、そうだな……うん、ミスター・スノウとでも呼んでおくれ。祖母殿が好きだった寝ぼけ花にちなんでみたが、どうか?」

「どうか、も何も……」


 伯爵閣下改めミスター寝ぼけ花殿は、腕を組んでうんうんと頷いている。どうやら自画自賛をしているようだった。


 しかたない、これもお貴族様の戯れだ。アーノルドはそう割り切る事にした。妻も義母もどこぞの公爵令息もそうだが、上流階級の面々とは、誰も彼もが濃い性格の連中ばかりだと、そう思わざるを得ない。


「分かりましたよ、ミスター・スノウ。それで、貴方はどうしてここに? 寄付してくださった食材がどう使われたか、お確かめにいらっしゃったので?」

「まぁ、それもあるがのう。私は、このようなお祭りが大好きでね。こういった場所でしか食せないものが、たんとある! それを食べ歩くのが何よりの楽しみ――なのだが、アレが煩くてなぁ……」


 途端にしょんぼり、と。

 伯爵閣下は身を縮こまらせてしまう。

 

「我が妻は、それはもう有能で素晴らしい女主人なのだが、口もまた喧しうてたまらんのだ。平民のチャリティーに変装してまで混じっていくなど、意地汚いと睨んでくるのだよ」


 披露宴のあの場で、彼の傍に控えめに立っていた、奥方の様子を思い出す。

 穏やかで優しげな貴婦人に見えたが――

 

「女はアレだ、猫を被る生き物ぞ。それも、ちょっとやそっとでは剥がせぬ、鋼の毛皮だ。君もそのうち、きっと分かるよ」

「いえ、それはもう、十分に理解しておりますよ、ええ」


 我が妻のそれを思い出し、アーノルドは実感を込めて頷く。

 と、同時にディックへ目配せし、手振りで指示を送る。まさか、伯爵家の現当主とあろうものが、本当に一人でお忍びとはいかないだろうが、念には念だ。

 

「しかし、君の奥方もやるものだ。あの宴で話した時は、無邪気で純真なお嬢さんだと思ったものだが、中々どうして。立派な夫人っぷりではないか。君も誇らしいだろう」

「ええ、それはもう。妻があっての私ですから」

「ふふ、嬉しそうだのう。良き連れ合いは宝ぞ。長く夫婦をやっておると、色々とまぁ、悩むものはあるが……この年になってみれば、それらは大切な財産だ。だから、それを儚い思い出にしてはならんぞ」


 ステッキをくるりと振り、寝ぼけ花伯爵はニヤリと笑う。

 

「無茶をするのは若者の特権。それを止めはせん。時には無謀と言えることでも押し通さねば、開けぬ道はある」

「それは説教ですか?」

「うんにゃ、単なるぼやきだよ。爺の戯言さ。聞き流してくれていい」



 そう言いながら、彼はいつの間にか手に持っていたカップを、口に寄せる。

 何処から取り出したのやら、電光石火の早業であった。

 

「――ルスバーグの小僧のところへ行ったそうだな」

「……良く、ご存知で」


 動揺を顔に出さずにいれたのは、我ながら僥倖だったと思う。

 平然と頷くアーノルドを見て、伯爵は愉快そうに口元を緩めた。

 

「覚えておくがいい。貴族の目は、節穴では無い。知ろうと思えば、これくらいは分かるものさ」

「肝に銘じておきますよ。精々、品行方正に生きるとします。偉大なる女王陛下にならい、酒も毎晩、一杯に抑えましょうか?」

「いや君、酒は人生の友だよ。上手く付き合いなさい。溺れなければ、これ程に良いものは無いぞ。どれ、お近づきのしるしに一本、贈ろうじゃないか」


 にこやかに笑いながら、老シュトラウスは空を見上げた。

 

「良いな。良い天気だ。日差しも心地良く、気分も健やかだ。人々の顔にも、笑顔がある。素晴らしきことだね」


 柔和そうに目を細めるその姿は、好々爺にしか見えない。


「……百年前よりも、この国の食は長じた。流通は発達し、調理法も食材の保存法も格段に進歩を遂げた。それを為したきっかけの一つは、我が祖父と祖母殿――と自負をしておる」

「それは、事実でしょう」


 彼の『美食伯夫妻』の功績は、枚挙に暇がない。

 彼らが居なければ、エルドナークの食は他国に劣り、宮廷にあがる料理人もアストリア辺りが選ばれ、料理もそれに応じて並べられたろう、とは酒場で良く出る、定番の冗談だ。

 

「妻も憧れておりましたからね。特に先々代伯爵夫人は、貴族でありながら感情豊かな方で、その微笑みは宝石のように尊く清らかだったと、良く聞かされました」

「……ふふ。そうか。それを耳にしたら、祖父もさぞ喜ぶだろうな」


 述懐するかのような口調に、アーノルドは微かな違和感を抱く。


「祖父母がやり残した事が、ひとつあるのだよ。実は祖父は、不思議な力を持っていてね。舌に触れた全ての食材を暴く事が出来たのだよ」

「え……? それは――」

「そう、『祝福』と呼ばれる力だ」


 そこで、その言葉が来るか。

 微かに身構えようとするアーノルドを、伯爵がにこやかに制す。

 

「そう緊張するでない。我が伯爵家にはもう、そのような大それた力は残っていないよ。そも、祖父の『力』だって、大したものではなかったのさ。四六時中、常時発動する祝福ゆえに、幼い頃は食事が嫌いで仕方なかったそうだ」

「『美食伯』が、ですか……?」

「そうとも。人は変わるものさ。良しに付け、悪しに付け。変わっていくものだ。時代と同じだな」


 説諭めいた言葉と共に、伯爵は周囲を睥睨する。

 

「――祖父は、その力と祖母の助けを借り、食を変えた。だが、彼をもってしても、手が回らぬものがあったのだよ。晩年の祖父は、自身の力をそちらにも振るえれば、と良く零していたものだ。『さて、それ』は何だか、分かるかね、ミスター?」


 問うような、探るような、挑むような目。

 それを真っ向から見返し、アーノルドはしばしの黙考の後、応えた。

 

「――『安全』では? 食の、そして『健康』にまつわるすべての。美食伯の能力がそうだとすれば、『それ』は口に入るものに限定されます。知ろうと思えば、これくらいは分かると豪語する貴方が、わざわざ私に問い掛けるとすれば、その事くらいしか思い当たらない」

「……ご名答だ。あの小僧より、よほど名探偵に向いているな」


 それは止して欲しい。推理小説脳は妻だけで十分である。

 

「祖父母は生涯を賭して『食』に身命を捧げた。これにより、餓死者の数は相当数に減っただろう。だが、幾ら栄養を得ようとも、病に倒れ、誤った知識で命を落とすものまでは減らせなかった。時代も悪かったのだろうな。あの頃は、技術の革命と古くからの民間医療がせめぎ合っておった。混迷とした時代であった。そして、その負の遺産は、未だに世にはびこっておる」


 嘆かわしいことだと、伯爵はため息を吐く。


「偉大なる、そして敬愛する彼らの最後の願い、それを私は果たしたい。その想いを継ぐ者に、夢を託したいのだ。出来れば、この老いぼれの息がある内に、な」


 老シュトラウスはそう言い切ると、口を閉じた。

 まるで、こちらの答えを待つかのような、その沈黙。

 それが意味する真意を悟り、アーノルドは唾を飲み込んだ。


「……『閣下』。貴方は、協力をしてくださると、そう言って下さるのですか? 私が行う、その事業の――」

「ーーかつて」


 アーノルドの言葉を遮るようにして、シュトラウスは謳う。

 

「かつて、二百年の昔。初代ルスバーグ公爵は宮廷に漂う汚職と腐敗を一掃し、魔の薬を滅した。そして、それから百二十年ほど下り、我が祖父母は『食』を変えて人々に福音をもたらした。そして――それから八十年目の、今日だ」


 シュトラウス伯爵の眼差しは、乞うような輝きに満ちていた。

 それは祈りであり、願いであり、死者に捧げる弔いの光のようでもあった。

 

「三度目の『革命』。それを君が、君たちが為せるかどうか、見せてほしい。この先、社交界に於いて。君たちが確かな力を示すなら――」


 ステッキが、地面を打つ。

 重い響きが、地を這うようにして、アーノルドの足元まで伝わったかのように感じる。


「――シュトラウス伯爵家は、協力を惜しまん」


 そう言って、シュトラウス伯爵はアーノルドに背を向ける。

 

「……あちらに、馬車を用意させています。良ければ、どうぞお使いください。タウンハウスまでお送りします」

「有難う。では、乗せてもらうとするかね。ついでに、言い訳も手伝って貰えたら嬉しいんだが――仕方が無いね」


 まぁ、素直に怒られるとしよう。伯爵閣下は、そう愉しげに笑う。

 

「最後に、閣下。私と『彼』が会った事を、どうやって知ったか。後学のためにご教授願えたら嬉しいのですが」

「あぁ、あれか。あれはねぇ……」


 山高帽を手で抑え、ふりむきざまに、彼は言う。

 

「――本人に、聞いたのさ」


 成るほど、それは確実だ。確実過ぎて、肩が落ちそうだ。

 喰えない爺さんだと、アーノルドは苦笑する。

 

 もしや、今日ここで、アーノルドにこうして出会ったのも、偶然ではなく……


 だが、それを問い返す事はもう、出来そうになかった。

 

 アーノルドが静かに見送る先で、伯爵閣下の姿は人混みに紛れ、静かに消えていった――

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 日が傾き始め、夕焼け色が街を照らす中。

 路地裏に、無念そうな叫び声が響き渡った。


「旦那様、ずるい! ずるい! 私もシュトラウス卿とお話したかったのに!」


 その後もつつがなく見回りを終え、大盛況のうちにチャリティー・ティーは幕を閉じた。

 

 しかし、誤算と言えば誤算がひとつ。まさかの伯爵閣下との出会いを羨まれ、アーノルドは、ぶうたれた奥様の『口』撃に晒されていた。

 

「仕方ねぇだろ、引き留める雰囲気じゃなかったんだからさ! 今度な、今度! 社交界でなら幾らでも会う機会があるだろ!」

「うう、これはもう、頑張る理由が一つ増えました……! 食の談義を愉しむ為にも、やり切りましょう、旦那様!」


 趣旨がすり替わってる気がするが、まぁ気合が入ったなら文句は無い。アーノルドは妻の頭をぽんぽんと叩き、色々と有意義な時間を過ごせるきっかけとなった彼女をねぎらう。




「しかし、伯爵閣下は信用が置けそうなのですか? 話を聞く限りでは、ラウル・ルスバーグと繋がっているやもしれませんが」


 当たり前ではあるが、ディックの方はそこまで楽観視は出来ていなかったようだ。眉を潜めるようにして、疑問を呈してきた。


「さぁて、どうだかな。信じたいとは思うし、信じられると願いたいものだが、こればっかりはなんとも言えんよ。まぁ、俺個人の勘でいいなら、どうとでも答えられるがね」

「なら、良いです。そっちの方はあなたにお任せしますよ、商会長」


 秘書と夫の掛け合いを見ながら、マリーベルがふむうと息を吐く。


「かのシュトラウス伯爵が敵側とか、考えたくも無いですね……。私の心情的にも、憧れ的にも、ファン的願いとしても」

「全部お前の好みじゃねえか」


 こつん、と。軽く頭を小突いてやると、マリーベルはそこを押さえ、えへへと笑う。


 ーーなんだこいつ、あざと過ぎる。そんな仕草で誤魔化せると思うな。可愛こぶりやがって。馬鹿にしてやがるな。そんな手に引っ掛かるか。


 しかし、頭でどう思おうと、体は正直だった。妻の誘導行為にあっさりと引っ掛かり、アーノルドの手は無意識のまま、撫で体勢に移行してしまった。


 奥様がうっとりと目を閉じたのを良いことに、ストロベリーブロンドの髪を優しく、丹念に鋤く。

 しばし、弛緩したような空気がその場に流れ出した。


「最近、隙あればコレね。あのアーノルドがここまで骨抜きになるとか、いつ見ても信じられないわ、ほんと……」


 ハッとして、アーノルドは手を引っ込める。

 完全に二人の存在を忘れていた。 

 

「あー、その、なんだ……ほら、アレだ、アレ! 他にも話すことはあるだろ! あのーー『香り』について、とかよ」

「露骨に誤魔化しましたね。けれども確かに、お二人ともが『匂い』を嗅ぎ分けましたか。気になりますね」

「ええ、私に感じさせないくらいですもの。ごくごくわずかな、常人には分からない『祝福』絡みのものの可能性は高いわね」


 アーノルドの上げた議題に、マディスン夫妻が頷き合う。

 それに関しては、アーノルドも同意見ではあった。


「俺はこいつと違って、何の力もない単なる凡人なんだがね……。まぁ、心当たりがあるとすれば、あのとき。レズナーもどきから嗅いだ匂いを、本能的に覚えていたかどうか、くらいだな」

「確かに、私もあの場所に居ましたから。旦那様の言う通り、それで分かったのかも」


 ふむむう、と奥様は腕を組む。

 ちょっと楽しそうに見えるのが、マリーベルらしいというか、なんというか。アーノルドは妻の考えが手に取るように理解できた。


(推理小説の犯人の動機探しみたいになってきた! とか思ってるんだろうな……)


 得体の知れない相手が紛れ込んでいたかもしれないというのに。図太いというか、なんというか。まぁ、頼もしいには違いないとアーノルドは思う。


「もしかしたら、何らかの発動条件を満たしに来たのかもしれませんね。化ける、ためのーー」


 ディックの言葉に、レティシアが反応する。


「パッと見で分かるような怪しい人物は居なかったわね。マリィが気付かない所を見ると、『祝福』で化けてもいない。かといって、変装しているような素振りの者も無し」


 誰かを演じようとする者特有の、不自然なぎこちなさ。それを持った人物が近付いてくることは無かったと、レティシアはそう話す。


「もしくは、レティの目を誤魔化すほどの演技達者か、ですね。手袋を確かめましたが、針の類いの細工をされた様子もなし。はてさて、何を目論んでいるのか。不気味なこと、この上ない」

「そうやって、疑いを深めて混乱させるのが目的なのかもな。まぁ、分からねえことを考え過ぎても仕方ねえや」


 油断はならないが、気を張り詰めすぎるのも毒である。

 相手は、それを狙っているのかもしれないのだ。


「ですねぇ……と、そうだ! アンもご苦労様! 疲れたでしょ、お屋敷に帰ってゆっくりと――」


『はい……』


「アン? おい、どうしたんだ?」


 返ってくる、ぼうっとしたような声。

 アーノルドはマリーベルと顔を見合わせ、心配げに声を潜めた。

 

「屋敷を長く離れすぎたか? ここのところ、駆り出す事も多かったしな。悪かった、少し休んでくれ。ティムに持たせるから、一足先に帰っていいぞ」


『……すみません、何だか頭がぼうっとして』


「そ、そうか。それは重症だな。あの爺さんの陽気に当てられたわけでもねぇだろうが――」


 そういえば。ふと、アーノルドは思い出す。

 自分達よりも先に、アンは伯爵の存在に気付いていた。

 何か、ひどく驚くかのような、その態度。

 

『……わたしは、知っている、気がします。彼に、よく似た――『彼』と、『彼女』の事を』


「アン? それって、まさか……」


『分かりません。でも、酷く懐かしい……あぁ、旧知の友に遭えたような、そんな気さえします……』


 マリーベルが、心配げにアーノルドを見上げる。


「旦那様……」

「あぁ、分かってる。これは、何が何でもあの爺さんに認められて、個人的に話す機会を設けなきゃいけねぇな」


 やるべきこと、為すべき事は数多い。

 未だ謎の多くは霧の向こう。しかし、確かに光明もまた、兆しを見せてきた。

 

「社交界、か。やってやろうじゃねえか」


 確かな決意と共に、アーノルドは妻のその手を握りしめた。

 

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