40話 土台を固めましょう!
「――聞きました? リレー夫人の噂!」
「ええ、まるで見違えるように所作も丁寧で美しくなられたとか……」
マリーベルがリレー夫人宅を訪問してより、十日ほどが過ぎた、その頃。
中流階級の社交場では、『ある話題』がもちきりであった。
両親や夫に甘やかされた、だらしない娘。教養に欠ける女主人。
陰で笑い者にされてきた少女が、どうしたことだろう。
あからさまに洗練されたマナーやエチケットを伴って、皆の前に現れたのだ!
これには奥様方もビックリ仰天。
話題を振られても、いつも泣きそうな顔で慌てふためくか、「私には分からない」というように俯いていた娘が、別人の如き賢夫人へと変化を遂げていた。
何を言われても如才無く、優しげな微笑みさえ湛えながら受け答えするその様に、誰もが目を疑った。
「そ、その。随分とお変わりになられましたね。一体、どういう――」
ある夫人が発した、不躾とも言うべきその質問に、しかし少女は慈愛の微笑を浮かべながら答える。
「それは、ゲルンボルク夫人のおかげですわ」
「え、あ、あのゲルンボルク夫人の……!?」
「はい。あの方は私の素晴らしい教師ですの」
にっこりと、天使のように愛らしく振る舞いながら、リレー夫人はその『宣伝』を行う。
「あの方は、その知恵と知識を必要となさる御婦人方に、寛容ですわ。いつでも、門戸を開いてお出でですよ」
この言葉に、奥様達が色めき立ったのは、言うまでもない。
『あの』どうしようもない失敗夫人が、淑やかな貴婦人めいた姿に成長してしまったのだ。
加えて、それを為したとされる『新参者』は素性が妖しい人物では無い。むしろその逆。
没落しかかった下級とはいえ、貴族の出身。しかも、その家門は最も古き名門男爵家だ。
見目も麗しく、知識も豊富。しかもその夫は今、世間を大いに騒がす大商人の成功者。
『ご挨拶』により、その所作やマナーが確かなものだと知っていた一部の婦人方は、リレー夫人の話に、真っ先に飛びついた。
それらを広く受け入れ、マリーベルは方々を訪ね歩き、その際に簡単なマナーの手ほどきを行った。
こうなっては、『居留守』を使う者など在るわけがない。
マリーベルを爪弾きにしようものなら、この『流行』に乗り遅れること必須。
むしろ招待状を送る事すらあったほど、入れ込みっぷりは激しくなる。
更に一部の厳選したご婦人達は自宅に招くことで、『客の応対』方法を経験する。
『幽霊屋敷』の噂も、奥様方の欲望の前には勝てず、招待に預かった夫人たちは狂喜しながら、我先にと屋敷に突撃して来た。その様は、まさしくご婦人突撃隊である。実際に馬に乗って現れた豪の者まで居たくらいだ。
評判は評判を呼び、マリーベル自身の評価を上げ、やがて彼女の傍に居る事自体がステータスとなる。
短期間のうちに、社交の場で親しくなった者達を招待するハイ・ティーやディナーにも少女は優先的に招かれ、笑顔と知識をさりげなく振る舞う。自然、マリーベルの周りには中流階級層の上澄みたちが集う事になった。
――それすなわち、『派閥』の形成だ。
人が三人も集まれば、そこには人間関係の軋轢が必ず生じる。それは何処の世界・階級とて同じこと。
マリーベルは幼い頃に下町での平民生活と、男爵家での令嬢・メイド暮らしを経て、経験としてそれを知っていた。
上流階級層の『社交界』に挑む為に、まずは中流階級層の地盤を固める。彼らは有権者だ。少なくない人数が平民院の議員として活躍している。アーノルドの『夢』を実現するために、それは必要不可欠の行い。
全ては順調。準備は万全。
しかし、一つだけ。予想だにしなかった『落とし穴』があった――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ヘイヘイホー、ヘイヘイホー。シャムシーおばさん腰太い~♪ コルセット締め付け、まだ足らず~♪ ぎゅぎゅぎゅと締め付け、息出来ず~♪ しまいにゃ仕立て屋大慌て~♪ 着れないドレスが溜まりゆく~♪」
「切ない歌だね……」
鼻歌を口ずさみながら、マリーベルは炊事に洗濯お掃除と、隅から隅まで大奔走。
汗をしたたらせながらも、しかしその顔は満足げだ。
「いやぁ! きっもちいい! アハハハハハハ!! いやっほう!!」
目をキラキラと輝かせながら、箒や雑巾を剣の如く振るい、汚れや埃を撃滅していく。
その様は、何処か音国の伝説で語られた、狂戦士もかくや。
今の少女に近付くことは危険だと、誰が見ても理解できる光景。
それを自覚しつつも、マリーベルは手足を止めず、屋敷中を駆け回る。
「こわい、こわいよ!? 大丈夫なの、マリー……?」
「余程、御心に積もり溜まる物があったのでしょうね……御労しや……」
使用人コンビの痛ましげな眼差しに晒され、マリーベルはようやく足を止める。
「いやぁ、やっぱり適度な労働は気持ち良いね! 体を思う存分に動かすって素敵! 今日は料理も思い切り作るよ! 食材もいっぱい仕入れたし、旦那様の好物を沢山、沢山、用意しよう!」
「ほ、程々に! 程々にね! もう、旦那が『注意して見ていてくれ』って言ってたのはこの事かよ!」
「もう、旦那様ったら、相変わらず心配性ですねぇ……」
「いや、そら心配にもなるよ? うん、旦那の気持ちが十二分に理解出来た。心から納得した。うん、うん……」
「大袈裟ですねぇ、ティム君は。アンもそう思わない?」
「黙秘を行使いたしますわ」
慄く少年と、ニッコリと笑うメイドさん。その二人の表情を見比べながら、マリーベルは腕を組む。
少し、はしゃぎ過ぎたかもしれない、と。
順調満帆に見えた社交生活。しかし、一つだけ誤算があった。
――そう、奥様自身の精神的負担である。
「知りませんでしたよ……。猫かぶりの長期使用が、ここまで心身を蝕むとは。反動が凄い」
広げた指先を見つめながら、マリーベルはため息を吐く。
「私も、修業が足りませんね……。もっと、長い時間使いこなせるように鍛えねば。この先の相手には通用しません」
「禁断の奥義とかそういうアレみたいだね。なんだっけ、俠義小説とかであるやつ」
元来、口さえ噤めば絶世の美少女、と男爵家で謳われたマリーベルである。お転婆を超えた野生の令嬢として(養母や弟に)評判だったのだ。堅苦しいこと大嫌い。伝統・しきたり、面倒くさいの心得である。
しかし、人一倍欲深いマリーベルは、己の求める事の為なら何処までも努力が出来る。
深窓の令嬢に擬態する『猫かぶり』もその業のひとつであった。
「でも、こんなに長期間、多数の人達とふれあう機会はありませんでしたから。やはり、学ぶと実践するでは大違いですね。経験って大事です」
「でも、その学びとやらであのリレー夫人を一人前のレディにしちゃったじゃん。あれは見直したよ、凄いよなぁ」
「ああ、あれ」
マリーベルは何でも無さげに頷く。
「彼女はまだ、一人前には程遠いですよ? 一部のマナーに特化させて学ばせただけで。さっきの私じゃないですが、長時間の社交にはまだまだ堪え切れるものでは無いでしょうね」
「え、そうなの? 立派なものに見えたけど」
「そう思わせるのが技術なんです。旦那様も良く使うハッタリですね」
当たり前だが、十日かそこらで社交を完璧にマスター出来たら世話は無い。
まして、それまでそういった世界に全く無関心だった彼女なら尚更のこと。
だから、マリーベルは連日、付きっきりで彼女に合わせた『指導』を行った。
レティシアと旦那様の力を借り、厳選したベテラン使用人を複数人目遠しさせ、雇わせ、屋敷内の煩雑事から解放させる。そうして家庭内での懸念を消し、後は対人訓練の繰り返しだ。
相手の言葉をどう受け止め、どんなふうに受け流すか。
淑女の微笑みは強固な武具なのだ。それを徹底的に身に付けさせた。
その際、大丈夫だ、見事なものだと褒めるのも忘れない。
不安を一つ一つ取り除き、自信を付けさせること。
それが今の少女夫人には、何よりも必要なことだったのだ。
「私が後ろ盾として居る、だから何にも心配する事は無い。言われたとおりにこなせば、結果は必ず付いて来る……彼女は、優秀な生徒でしたよ」
才能も必要ではあるが、社交とは学び経験する技術なのだ。
正しい努力をすれば、おのずと答えてくれる。
そして、リレー夫人は夫の為なら如何なる労苦も惜しまない娘であった。
「世間で言われるほど、何も出来ない甘ったれの小娘じゃありませんよ。駆け落ち紛いの事までして、結婚にこぎつけた子です。行動力は人一倍あると踏んでましたから、後はその情熱をちょいっと別方向に傾けてやれば大丈夫」
あの世代の少女特有とも言える、燃え上るような恋の灯火。
それが冷める前に薪をくべ、煽り上げて炎と化してやれば良い。
後は、少しずつ。体系化して知識や技術を教え込んでいくことで、学ぶ楽しさと共に実力を付けて貰えば完成だ。
その辺のケアも当然、忘れない。今後も継続してお付き合いと指導は行う。
彼女は互いに利用できる関係というだけでなく、良いお友達にもなってくれそうなのだ。
多少地を見せても受け入れてくれる相手というのは、社交場では貴重。
彼女と接する日々の中で、その人格は信頼できるものだと、マリーベルは判断を下している。
目的の為に努力を惜しまない女の子を、嫌いになれるわけがなかった。
「夫への愛情って奴ですか。恋に恋する女の子は凄いですよねぇ。私には縁の無い感情なので、ちょっと尊敬しちゃいます。旦那様の為に、あそこまで頑張れるんだから、私も恋の一つくらいしてみたく――って、どうしたんです?」
何言ってんだこの奥様。
白けたような使用人の顔には、その言葉が張りついているように見えた。
「いや、それマジで言ってる……? 言ってるのかな? 言ってるんだろうね?」
「本気でしょうね……あぁ、何ということでしょう。自覚無き愛情の尊さ、生きている実感が沸き上がりますわ」
「アンがそれを言うと説得力が違うね」
ひそひそと、声を潜めて、使用人たちは女主人をチラ見する。
何だ、何だというのだ。マリーベルは首を傾げた。
それを見てか、彼らの表情が何とも言い難いものへと変化する。
「あぁ、そっか。恋愛感情の方向性がどうの、とか。どうも、マリーらしくない不確実な手を使うと思ったら、自分自身が『実践』していることだからか。そら、自信を持って勧められるよね……」
「鋭いですわ、慧眼ですわ。正しくその通りかと」
「どうする? いい加減自覚させちゃう? 旦那の方は、多分それとなく気付いてるよ?」
「なりません。私がお世話になったあの方……そう、あの方もご友人から自分で気付くべし、と助言を受けたのが何よりも幸いだったと言っておりました。ええ、思い出しましたわ。ここは先人に習うべきかと。その方が自覚した時に、尊さと愛を増すのです」
この二人は、何を言ってるのやら。マリーベルはますます疑問を深める。
(自覚って、何を自覚するんだか。私は、旦那様を――)
マリーベルは胸をそっと抑える。
アーノルドの事を考えると、心がほんわかして温かくなる。
彼は妻の頭を撫でてくれたり、そっと抱きしめてくれたりと、奥様のご機嫌を取る行為に余念がない。
流石は旦那様である。流石の金づるである。
マリーベルの身も心も懐も満たしてくれる、素敵な人だ。
(それだけ、うん。それだけの、はず――)
無意識の内に、その『想い』に蓋をして、マリーベルは深呼吸をする。
よしよし、少し落ち着いてきた。
「あ、そうだ! さっき、手紙が届いてたよ。はい、これ」
「お、おぉ! 来た来た、来ましたね! 社交界への殴り込みの前の、最後の下準備!」
ティムからその封筒を受け取り、窓から差し込む陽の光に翳すと、マリーベルはにんまりと笑う。
「社交の第三歩、慈善事業――『チャリティー・ティー』です」




