39話 いざ! 家庭招待会!
マリーベルが中流階級層の社交を開始してから、早くも二週間が経過した。
一通りの『ご挨拶』を済ませ、奥様はその戦果を確認、ふむふむと思い返す。
幾つか、あわやと思える場面もあったものの、概ねは上々。大きな失敗も無い。
まずは、成功を収めたと言って良いだろう。
となれば、次の段階に進むべきであった。
「ふむむ……」
お屋敷の寝室。
レティシアから手渡された目録を見ながら、マリーベルは唸っていた。
「さてさて、どのお家から攻めていきましょうか。お家の位置取りと在宅日を照らし合わせて――」
目録には、ずらりと名前が連ねられている。
それはレティシアが厳選してくれた、『訪ねるべし』という御婦人方だ。
家柄と訪問予定日が書かれており、『ご挨拶』の際にも重宝したもの。
まったく、レティシア先生様々である。
マリーベルは最近、彼女に会うたびに手を組んで祈りを捧げていた。
「――社交の第二歩。家庭招待会、か。ふふ、奥様になったよ、って実感するね!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
上流階級の夫人と中流階級の夫人。
それら二つを隔てる境となるのは、富や名誉、そして大小様々な『役割』である。
貴族を中心とする上流階級層の伝統的貴婦人の基本、それは有閑たれ。
彼女達は日々の生活に余裕を持ち、あくせく働くのを由としない。女主人として、使用人の管理こそ行うものの、殆どの場合は女使用人の総括たる『家政婦』を通して指示を下すだけ。義理の娘であるマリーベルを一々呼びつけ、喧々諤々と舌戦を繰り広げた養母は、どちらかというと特殊な例であった。
暇を持て余すのが仕事でもある――そんな上流階級と違い、中流階級の夫人の役割と果たすべき仕事は多岐に渡る。
『家庭内の天使であれ』。賢く気高く麗しく、家のあらゆる事を捌き、時には辣腕を振るう事が求められるのだ。
もちろん、中流階級と一口にいっても、その中で更に上位下位の「層」はある。
裕福かそうでないかで、女主人としての仕事量が変わるからややこしい。
『家政に付いての知識量の差で、優位を取れるの。出納帳を把握し、目を通し、物の価値と高い安いを見極め、出入り業者が適正かどうかも測る。掃除に炊事、洗濯も出来なきゃ駄目よ。雇った使用人にそれらを教え込み、家事を代行させて管理もするの。場合によっては、軍隊のように厳しい上下関係を叩きこむ必要もあるわ』
レティシア先生はそう言って、マリーベルに女主人の役割を事細かく語ってくれた。
家族が病に倒れた時は、薬を飲ませたり、療養させたり。
医者の如き役割も果たさねばならない。ゆえに、ある程度の傷病にも精通する必要があった。
家政の手引書が、結婚の嫁入り道具扱いされるのも当然の流れであった。
あれもこれもと、それらをこなした上で、更に更にと必須になるのが――ご存知『社交』である。
――そして、中流階級層の女性たちの社交の大部分を占めるのが、『家庭招待会』なのだ。
「あ、あの……あぁ、お茶葉が切れて、ちが……あの、その――」
目の前で、可哀想なくらいにオロオロとするご婦人の姿に、マリーベルの方が手に汗握ってしまう。
「なんで、私、言ったのに……! あぁ、どうしましょう、どうしましょう……!」
「落ち着いてください、リレー夫人。ほら、私ビスケットを焼いてきましたの。塩味が効いたお味が特徴なので、白湯の方が合っていると思いますわ」
「あぁ、そう? そうですか? で、ではそのように――」
目に大粒の涙を湛えた若き女主人は、心からホッとしたように使用人へ指示を飛ばす。
(ああ、こりゃ舐められてるわね……可哀想に……)
如何にもやる気の無さそうな態度の使用人を見て、マリーベルはこっそりとため息を吐いた。
『リレー夫人の所は早めに一度、訪れておくと良いわ。失敗例を見て、学ぶのも大事よ』
家庭招待会とは、ご婦人がたが互いの家々を訪ね歩き、茶を頂きながら交流を深める、というもの。友人知人を作り、己の知見を広げたり、人間関係を維持したり。それは自身の夫や子供たちの将来にも影響しかねない、大事なものだ。
決して暇を持て余した奥様の遊びなどでは無い。
れっきとした女主人の『仕事』なのである。
――だから、それを怠ると『こう』なるという、教訓にせよ。
レティシア先生のレッスンはいつも的確で有難く、容赦が無い。
マリーベルはさりげなく、そっと周囲を伺う。
良い庭師を雇っているのだろう。一見、庭は小奇麗で、植えられた木々や花々のセンスも良いようにも思える。
だが、以前に訪れたラクンダ夫人の見事な庭園とは、決定的に違うものがあった。
(自己顕示欲が強すぎる。見せよう、見せよう、という気持ちが先走り過ぎて、周囲と調和が取れていない)
高い物をでん、と置くだけでは下品になる。それは陰で失笑を呼び、確実に評判を落とすのだ。
それでも、リレー夫人と交流を持つ者達がそれなりに居るのは、彼女の実家が裕福な資産家であり、夫もまた名うての法廷弁護人として活躍する、中流階級層の上澄みだからだ。
だが、それも――いつまでもはもつまい。
社交の恐ろしさというのは、そこに在る。
リレー夫人は御年なんと十六歳。マリーベルよりも若いのだ。
花嫁修業も積んだらしいが、それは恐らく形の上だけだろう。
(確か、リレー氏とは大恋愛の末に結ばれたって聞いたっけ。幼妻を溺愛して、甘やかして、その結果がこれってわけね……)
それは、彼女の罪では無い。愛する人と結ばれて幸せになりたいというのは、誰だって当然のことだ。
そして、リレー夫人自身は善良な少女である。
愛する夫の為に、慣れない社交に励もうとしているところから、それは明らか。
けれど――
「お、お待たせしました、ゲルンボルク夫人――」
その呼びかけとともに、息を切らせ、女主人自らポットを持って駆け込んで来る。
あちゃぁ、と。マリーベルは顔を覆いたくなった。
「リレー夫人? あの――」
「は、はいっ! な、なんでしょう……? わ、わたし、また、何か間違ったことを……?」
――さて、どうするべきか。マリーベルはしばし悩む。
レティシアは言った。彼女を味方に付けるか、反面教師として利用し切り捨てるかは任せる、と。
その様子を、別の意味と取ったか。
夫人の顔が青ざめ、血の気が引いていく。
「これじゃ、またウィルを悩ませちゃう……。あの人のために、ちゃんとしたいのに、どうして……」
夫人は、遂にポロポロと涙を溢しはじめてしまう。
人前で嗚咽を零し、取り繕う事さえ出来ない。
何もかもが失格。奥様未満のそれ以前。
この家以前に訪れた、幾つかの招待会。
マリーベルは、そこで聞いた『噂』を思い出す。
『――あちらの奥様、若く愛らしいのは良いのだけれど……度が過ぎるのですよねぇ』
『一緒に居ると、こっちまで恥を掻いちゃうわ。あの子、エチケットも何も知らないのよ』
『主人もあそこのお家には世話になっているから、付き合いは切れないけれど、あれじゃあ、ねえ……』
ここまで致命的な噂が広がっていては、女主人としては致命的だ。
いずれ、夫の仕事にも支障をきたすに違いない。
エルドナークに於いて、社交とはそれだけの価値と力を持つ。
社会的に成功を収め、上へと成り上がるには、必須なのだ。
アーノルドは、かつてマリーベルにこう言った。
『今のお前がどこの家の娘で、どんな利用価値があるか、だ』
家の名は担保、それに令嬢自身の知恵と知識が価値となって付随する。
リレー夫人には、後者が決定的に欠けていた。
「ウィル、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
すすり泣く少女の背の向こう、使用人が意地悪気にほくそ笑んでいるのが見えた。
――気に入らない。
マリーベルはひょいっと、手近な石を鷲掴む。
「夫人、余興をご覧くださいな。私、手品が得意ですの」
「え……?」
ごく軽く息を吸い込み、手の平に力を込める。
メシメシメリメリと音を立て、石は無残に砕け散った。
「――ほえ?」
リレー夫人は、泣くのも忘れて、目をぱちくりさせている。
「あら、少し力加減を間違えてしまいましたわ。お茶の葉を買い忘れた、等とのたまう、呑気な愚か者がいるせいかしらね」
マリーベルはにこやかに微笑み、破片の一つをひょいっと投げる。
「おっと、手が滑りましたわ、盛大に」
「――!?」
爆音と共に、それはメイドのすぐ傍に着弾する。
標的となった木の中心、そこが綺麗に射抜かれ、ぽっかりと穴を開けていた。
「あらあら、いけませんわ。これ以上、貴女の顔を見ていると、もっともっと手が滑ってしまいそうで――」
「いやぁぁぁ!?」
悲鳴を挙げて、女使用人は何処かへと逃げ出した。
それを見て、マリーベルは満足げに腕を組んだ。
目下の者に、侮られるのは主人の責任。何をされても文句は言えない。
けれど、それはそれとして、あからさまに職務を放棄する輩は大の嫌い。
使用人の仕事を舐める者を、マリーベルは許さないのだ。
「え? え?」
事態を飲み込めていないのか。リレー夫人は逃げ去った使用人と、マリーベルを見比べている。
「リレー夫人? 貴女、夫に恥じない立派な女主人になりたいんですか?」
「えっと……?」
「どっちなのです?」
「な、なりたいですっ!」
ぴん、と。背筋を立てて、少女が直立不動の姿勢を見せる。
やはり、コルセットの力は偉大である。改めてマリーベルはそう思った。
「だったら、私が一から全てを教えて差し上げましょうか?」
「え、ゲルンボルク夫人が――」
「ミセスじゃないっ! レディを付けなさいっ!」
「ひゃい!!」
――あ、これ。ちょっと気持ち良い。
マリーベルは調子に乗りそうになる。
いけないいけない、自重せねば。
寸での所でグッと堪え、うぉっほんと咳をした。
「私はこれでも、元は男爵令嬢。上流階級でも通じる社交の作法と技術、聞きたくないですか?」
「じょ、上流階級に通じる社交の――」
ごくり、と。少女が唾を飲み込む。
「きっと、貴女の旦那様も喜んでくださいますよ? 見違えるように賢妻となった妻を、もっと、もーっと愛してくださるはず。想像してみてください、リレー夫人? 夫が貴女に向ける、熱情の籠ったその視線を……」
「ウィ、ウィルが……わたしを、もっと愛してくれる……?」
夫人の瞳が露骨に揺れる。息も荒く、何を想像しているか丸わかりであった。
「立派な女主人になって、その姿を皆に見せて差し上げましょう? それが貴女の、貴女達夫婦の為になりますもの……」
「で、できるの……? わたしなんかに、その……」
「出来ますよ、私の言う通りにすれば、ね……ふふ……ふふふふ……」
マリーベルは、レティシアが彼女と会うように勧めた、その真意をようやく悟る。
自分は、アーノルドの――商売人の、妻なのだ。ならば、売り込む商品を持たねばなるまい。
それはきっと、この先においても大きな武器になる。
虚ろな瞳で、夫人はふらふらと近づいて来た。
恐らく、精神的に、もう限界だったのだろう。
「おねがい、します……わたし、わたし……」
「えぇ、リレー夫人。万事、この私にお任せを。きっと悪いようにはいたしませんよ……」
少女の体を優しく抱き留め、マリーベルは涙に濡れた頬をハンカチで拭い取った。
――のちに、この様子を見ていたティム少年は語る。
「あの時のマリーさ、頭に角が、お尻に黒い尻尾が生えているように見えたよ……」
女って怖い。その話を聞いた旦那様は、少年と共に震えあがる事になるのだが。
それはまた、別のお話。




