4話 夫の戸惑い
『――おい、アーノルド。ボロは着てても心は飾れよ。いつも言ってるだろう? そう! 紳士たれ――って奴だ!』
陽気な笑い声が、耳に貼り付きこびり付く。
懐かしい、父の声だ。
安酒をチビチビ煽るのが大好きな、ケチで気障ったらしい鉱山夫。酒に酔うと決まってアーノルドに説教するのが常の、困った親父だった。
『もう、あなたったら。またこの子に絡んで! いい加減になさい!』
『あはは、おかあさんがおこった! おこったねぇ!』
『おにいちゃん、あそんで! あそんで!』
母と幼い弟妹の声が続いて唱和する。
その面影はおぼろげで、輪郭は霧が混じったように薄らいでいた。
アーノルドは笑いさざめく家族の幻影に向かい、恐る恐ると手を伸ばし――
――そうして、いつもの朝が来た。
「……ちっ、またあの夢か」
ボサボサに乱れた寝癖を掻き回し、舌打ちする。
どうせ化けて出るなら、顔くらいはっきり見せてくれれば良いものを。
毛布を跳ね除け、床に素足を付ける。暖かな敷物の温もりが足の裏に広がっていく。
かつてのアーノルドは、これが喉から手が出るほど欲しいと憧れ、僅かな稼ぎを必死に貯めていたものだ。
それが、どうだ?
父の給金ではとても手が出ない程の代物を、今のアーノルドは苦も無く買う事が出来る。
おかしくておかしくて、泣きそうになる。
とんだ喜劇だ。腹が痛いにも程があった。
ちらりと、ベッドの上を見る。そこに、あのやかましい新妻の姿は無い。
逃げた……わけではあるまい。出会ってまだ間もないが、それくらいはアーノルドでも察しが付く。
あの奇矯極まる娘のことだ。鼻歌交じりに屋敷の探検でもしているのだろう。
その姿がありありと浮かび、眩暈を覚える。
アレの事を考えると頭が痛い。気分を変えねば。
アーノルドは洗面台の前に立ち、一応の見栄えを整えようとする。
(本当は、こっちから迎えに行くつもりだったってのに。あのクソババァめ、何か勘違いをしやがったか?)
それとも他に目論見があるのか。お貴族様の考える事は分からない。
本来の予定通りなら、妻となるべき女性が住まうのは、埃まみれのこんな屋敷ではなかった。時期が来るまで、しかるべき場所で優雅に過ごしてもらう筈だったのに。全てが滅茶苦茶だ。
お蔭で、手入れも何もしていないみっともない姿を、あの娘に見せる羽目になってしまった! 髪を掻きむしりたくなるその衝動を、アーノルドは必死で堪える。
(とどめは、アレだ。昨夜の初夜もどきだ……!)
アーノルドが発した、閨に至るまでの行為と言動は、はっきり言って最悪の部類に入る。普通の貴族令嬢なら泣き叫ぶか、嫌悪に顔を歪めるに間違いなかろうに。むしろドンと来いと胸を張るとは思わなかった。
あの娘は普通では無い。もっとおぞましく逞しい何かだ。
(クソッ! こんなんだったら、変な『脅し』をするんじゃなかったぜ。自業自得とはいえ、あんな寒いソファーの上で丸まる羽目に――)
――と、そこで。アーノルドは違和感に気付く。
「暖かい……?」
エルドナーク王国は少しの例外を除き、全体的に寒冷な地だ。
それは王都・ラムナックであっても変わらない。
特に今は一の月。冬の真っ只中だ。朝は底冷えする程に体を凍てつかせるというのに、これはどうしたことか。
目線を彷徨わせ、アーノルドはようやくその大元に気付く。
(暖炉に、火が灯ってる……? 何時の間に――)
石炭をふんだんに使う暖炉は、それなりに裕福な家であっても使用を躊躇うものだ。
アーノルドは『それなり』どころでは無い金を持っているが、
それでも長年の貧乏性からか、節約出来る所はそうしていた。単に面倒だから、というのもあるが。
「……あの娘か。気配も感じさせずに暖炉に火を灯す……? アイツ、本当は暗殺者とかそっちの類の物の怪なんじゃなかろうな?」
あり得ないとは言えない所が怖い。
「他に何かやらかしてないだろうな……? くそっ! 不安になってきやがった!」
ごく簡単に身支度を整えると、ドアを開けて廊下へと足を踏みだし――
そこで、目を見張った。
「何だ、こりゃ……? 床が鏡みたいに磨かれてやがる……!?」
アーノルドの顔が映るくらい、ピッカピカに輝くそれ。
そして、その異変は廊下の先からも続く。
埃まみれだった階段は手摺から何から磨き抜かれ、新品同様のあらましを取り戻していた。
ぽかんとして天井を見上げれば、そこも同様。
はしごを使わねば届かないであろうガラス灯に至るまで、キラキラピカピカ眩く光る。
開いた口が塞がらない。まるで、魔法でも掛けられたようだ。これを音もなくやってのけるとか、何なのだろう。
暗殺者というか、お伽噺に出てくる妖精か何かではないのか?
アーノルドは、脳裏に焼き付いた少女の姿を思い浮かべる。
体を動かす度にふわふわと揺らめく、桃色の髪。ぱっちりとした水色の瞳は、見ているだけで吸い寄せられそうな不思議な光を湛えていた。それらが少女の愛らしい顔立ちと合わさり、可憐な薔薇を思わせる、ハッとするほどの美貌を作り出しているのだ。
(確かに、容姿だけは愛らしくて人間離れしているが――って違う!)
自分の内心に突っ込みを入れ、アーノルドは声よ枯れよとばかりに叫ぶ。
「おい、何処だ!? マリー……マリーベル!」
「はい、ここに! お呼びになりましたか旦那様!」
「ひいっ!?」
呼べば答えるにも程がある。
突如として背後から響いたその声に、アーノルドは文字通り飛びあがった。
「いいいい、何時からそこに居た――ん?」
震えながら妻を指さすその手が、ぴたりと止まる。
「何だその、ピンク色の服は……?」
「似合うでしょう? うちは伝統だかなんだかで、珍しくメイドにお仕着せを支給してるんですよ。安い生地ですし、お屋敷のハウスメイド達には評判悪かったですが、私は大好き! この髪と同じ色なんですよぅ!」
くるり、と。スカートの裾を翻してマリーベルが回って踊る。
宙に舞うストロベリーブロンドから、ふわり漂う石鹸の匂い。
それがアーノルドの鼻をくすぐり、何とも言えない微妙な気分にさせた。
「お前、ドレスの一つも持ってこなかったのか? あのババ――男爵夫人はそこまでケチかよ」
「いえ、一応はありますよ。でも、あれはお掃除や料理、洗濯には向かないので。いやー持ってきて正解でしたねえ! ちゃんと午後用の黒いお仕着せも用意してあるから安心、完璧!」
何がだ。
突っ込むところが多すぎて、何処から指摘すれば良いものか。アーノルドには分からない。
「それよりそれより、旦那様! ご飯、ご飯食べましょう! お腹ペコペコでたまりませんよぅ!」
「え、食べていなかったのか?」
「そりゃそうですよぅ。旦那様より先に召し上がるなんて出来ません! もう、それくらいの常識はありますってぇ!」
常識ってなんだろう。
カカカと笑う花嫁を眺めながら、アーノルドは人生で初めて、その単語に疑問を持った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「きゃぁぁぁぁ!! すっごい! 美味しそう! うわぁぁぁい!」
歓声を上げるマリーベル。今にも涎を零しそうな顔でテーブルに並べられた料理を睨み付けている。
あれは狼だ。餓狼の瞳だ。アーノルドの背が震えあがる。
食卓の上にはオートミール粥に焼きたてのパンや新鮮な卵にカリカリのベーコン、それにロースト肉や果物が所狭しと並べられている。香ばしい匂いが否が応でも食欲を誘った。
思い思いに料理を皿に取り分けていくビュッフェ式。
アーノルドも聞いた事がある。これは隣国、アストリアから伝わったという貴族伝統の朝食スタイルだ。
(……そうか。こいつ、一応は貴族令嬢だったな)
変な所で身分の違い、階級差が浮き彫りになる。
もっと別な機会に思い知りたかったと、つくづく思う。
食卓の料理、そのいくつかはアーノルドが昨日の内に頼んでおいた食材だ。
どうやら業者が無事に届けてくれたらしい。
それを受け取ったのも調理したのも、目の前で目をギラつかせているこの娘だろう。
良く我慢できたものだと感心する。今にも食器ごと食べつくしてしまいそうな迫力があった。怖い。
「聖句、聖句! はよ唱えてください旦那様! はーやーくぅー!」
「わかったわかった! 急かすな馬鹿!」
食事の始まりを宣誓するのは主人の務めだ。
調和神への祈りを捧げると、マリーベルもまた夫に習って手を組み瞳を閉じた。
その様子を薄目で見ながら、アーノルドはそっとため息を吐く。
黙っていれば極上の美少女なのに。なんて残念な娘だ。
聖句を唱え終わると同時、淑女の時間が終わりを告げる。
皿を構えた新妻がテーブルの端から端へと飛び回り、料理を山盛りに盛り付けていく。
見る間に前人未到の巨山が完成し、奥様はご満悦の表情でそれをテーブルの前に置いた。
「そ、それを喰うのか……? え、お前ひとりで全部……?」
「朝から一仕事終えて、お腹が減ってるんですもの! まぁ、これくらいは前菜ですね!」
「ぜん、さい……? 前菜ってなんだっけ……?」
アーノルドの常識に、また一つヒビが入る。
というかやはり、掃除をしたのはこの娘だったか。
アーノルドは懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認する。
――七時。朝食としてはまぁ、早くも遅くも無い時間だ。
(こいつ、一体何時に起きていたんだ……?)
レンジに火を付け、湯を沸かし、掃除道具を掻き集めてそれらの家事を一通りこなす。
昨日の今日に嫁いで来た貴族令嬢に、そんな事が可能なのだろうか。
「おいっしぃぃぃぃぃ!! パン、ふわふわ! ふわふわですよぅ、旦那様ぁ!!」
アーノルドの疑問を余所に、マリーベルは涙を流しながら次から次へと料理を口に放り込んでいく。
やはりこいつは妖精か何かだ。確信が深まる。それを示す証拠とばかりに、魔法の如く皿から消えていく料理達。
前人未到の頂きが、僅か十八歳の少女に攻略され、儚くお腹に消えてゆく。
恐ろしい食べっぷりだ。貧民街の子供たちでもここまで飢えてはおるまい。
美味しいよう、美味しいようと料理を平らげていく様は気持ちよくもあり、涙を誘うような光景でもあった。
「お、俺はあまり腹が減ってないし……好きなだけ喰っていいぞ?」
「えぇ!?」
マリーベルが目を見開く。
信じられない、というような仕草で口に手を当て慄いている。
「な、なんて素晴らしい旦那様なの……? 大好き! 愛してますぅ!」
「もっと別の場面で聞きたかったなぁ、その言葉!」
ばくばくばくと、ベーコンや燻製肉、熱々の粥に砂糖漬けのリンゴが奥様のお腹に収められてゆく。
仕草だけは無駄に優雅でマナーに乗っとっているから始末に終えない。
パンにたっぷり、たっぷりと。これでもかとバターにジャムを塗り塗りし、輝くばかりの笑顔でそれにかぶりつく。
まるで、お日様がそこに鎮座してるかのようだ。圧倒的な陽の化身!
最初は呆気に取られていたアーノルドも、その喰いっぷりと至福の笑顔に何だか気持ちが浮きだってゆく。
(まぁ、いいか。辛気臭い顔でメシをつつかれるより、美味そうに喰ってくれる方が万倍マシってもんだ)
曲芸を見ているような気分で、妻の食事を見守る。
と、そこで。マリーベルの顔が固まる。
ギョッとしたようなその表情に、アーノルドは慌てて立ち上がった。
「な、なんだ!? おい、まさかメシに何か――」
「だ、旦那様……旦那様が……」
青ざめた顔で、マリーベルが夫の顔を凝視する。
「山賊顔じゃなくなってる……!?」
「そっちかよ!?」
マリーベルが恐る恐ると近づき、ペタペタと旦那様の顔を触る。触りまくる。
「ボサボサの髪が整えられてる!? お髭も……あ、これ付け髭!」
「いてぇ!? 止めろ馬鹿!」
慌ててマリーベルを引き剥がし、距離を取る。
かつては拳闘で鳴らしたアーノルドだ。この間合いなら迂闊に仕掛けてこれないはず。
「何でファイティング・スタイルを取ってるんです? シュッシュッて妻を威嚇しないでくださいよぅ」
「黙れ。そこから動くな。一歩でも前に出たら、俺はこの食堂から出る。脱兎のごとく逃げ去るからな!」
「殴るんじゃないんです……?」
流石に女に暴力は振るわない。
父の教えは今もアーノルドの心に根付いているのだ。
「……昨日、何度も頭をボカッてやりませんでしたっけ?」
「あれは緊急避難だ。神もお許しになるアレだ」
ふぅん、と納得がいかないような顔をしながらも、マリーベルは食料を口に運ぶ。
いつの間にか、その皿は更に高度を増している。難易度の上昇は留まるところを知らない。
「髭に関してはアレだ。貫禄が欲しいからな。自前の髭が生えそろうまで、伸ばしてたんだよ。外に行くときはコレで十分……っていうか、お前今の今まで気が付かなかったのか? え、どんだけ俺に関心無いんだ……!? 当たり前っちゃそうだけどさぁ!」
理不尽な敗北感に、アーノルドの肩がガクリと落ちる。
しかし、朝から燃え尽きそうになる旦那様など、どこ吹く風。
マリーベルはそのまま、実に美味しそうに料理を平らげたのだった。