38話 夕日の誓い
「旦那様はもう、もうもうもうもうっ!」
いつぞや同様、奥様は牛と化していた。鼻息荒く、夕焼け空を背景に、のっしのっしと歩く。
それを追いかけながら、アーノルドは世にも情けない声で懇願した。
「マ、マリーベル……! なぁほら、機嫌を治してくれよ……」
「知りません、旦那様のバカ」
いつも以上に子供っぽい仕草。すっかりお冠である。
妻が激怒するのは、基本的に『他人が害される事』だ。
自分自身に向けられる悪意などに対しては、さほどに気にしていないように見えた。
――根が善良で、不幸に慣れきっているのだ。この娘は。
「ほ、ほら! 飯でも食いに行こうぜ! お前が食べにいきたがっていた、あのレストランに行こう! 今日はお前の社交デビュー祝いだ。好きな物を、何でも頼んでいいぞ!」
「……む?」
ぴくん、と。マリーベルの背中が反応する。
もうひと押しだ。アーノルドは勇んで、矢継ぎ早に言い放つ。
「舌が蕩けるような高級肉を分厚く焼いて、カレースパイスを使った特製のソースを掛けて食うそうだぞ。付け合わせのイモも、ある地方でしか栽培していない、厳選されたものだとか。脂物をたっぷりと味わったあとは、サヴォイ・ケーキで舌の大掃除だ。これまた絶品らしいぞ! ロイヤル・アイシングを絞っているらしく――」
「……むむ、む?」
ぴたり、と。奥様が立ち止る。
アーノルドは己の勝利を確信し、妻の背を撫ですさった。
「反省してるって、反省してます! もう無茶はしねえから! だから、ほら! お高くて美味しいご飯を食べて、英気を養おうぜ。明日からもまた、社交だろ? な、な?」
「……おたかいごはん」
「そうだ、好きだろ!?」
すると、どうだ。長い、長いため息が聞こえてくる。
それが、お許しのサインだと知り、アーノルドもまた安堵の息を吐く。
「もう、しょうがないですね……今回だけですよ? もう無茶したりしないって、約束してくれます?」
「あぁ、あぁ! 分かってるって! よし行こう、やれ行こう! ティム、お前も来いよ。テーブルマナーを試す良い機会だぜ」
「えぇ……? 使用人が同じテーブルで食事していいの?」
背後から、嫌そうな声が聞こえてくる。
だが駄目だ。奥様を持ち上げて良い気分にさせるためには、生贄が足りない。
「お前用のフォーマルなやつ、仕立て屋に注文してあったろ? 受け取って着替えてから行きゃあいいさ。お前は元が良いからな。それ着て澄ました顔をしてりゃ、良い所のお坊ちゃんで通ると思うぜ」
「やだなぁ……そういうところってさ、堅苦しそうじゃん。飯の味とか分からなくなりそう」
「大丈夫だ、安心しろ」
アーノルドは、にこやかに告げる。
「俺も、最初はそうだった」
「やっぱりじゃん! くそっ気が重いなぁ……!」
何事も慣れである。この少年には、色々な経験を積んで貰いたいとアーノルドは思っている。
決してさっき、擁護をしてくれなかった事を、根に持っている訳では無いのだ。
「根に持ってるじゃないか! そりゃオイラだって男だし、旦那の気持ちは分かるよ! でも、こういう時はさ、女に逆らっても良いことないんだって! 黙って堪えて、嵐が過ぎ去るのを待つのが賢明ってやつだろ?」
齢十二の少年にして、真理を悟っている。
まぁ、だからこそ、その当事者であるアーノルドはたまったものではないのだが
「ったくもう、自業自得だろって……」
『まぁまぁ、ティムさん。わたくしがマナーを見て差し上げますよ。きっと貴方なら、すぐに慣れてお食事を楽しめますわ』
「アンだけが頼りだよ……」
ぼやくティムの声に反応し、誰かが笑い声をあげ、それがさざ波のように広がっていく。
いつしか、少年自身もその輪に加わり、楽しげに口元を緩めている。
「大丈夫大丈夫、失敗しても、慌てず平然としていればいいんです。相手に『あれ? 自分の方が間違ってる?』って思わせたら勝ちですよ!」
「何の勝負だよ、それ……!」
軽口を叩き合いながら、一行は川沿いを歩く。
その光景にふと既視感を覚え、アーノルドは立ち止まった。
賑やかに笑いあう妻たちの姿が、過去の記憶と重なる。
まだアーノルドが幼かった頃。まだ自分に『家族』が居た頃。
(やっぱり、夕暮れ時は苦手だな。どうにも妙な気持ちが沸きやがる)
まだ、戦いは始まったばかり。
感傷に浸っている場合ではないというのに。
「……旦那様?」
仄かに瞬く紅い輝きが、ストロベリーブロンドの髪を光に溶かし、美しく煌めかせる。
こちらを振り向くマリーベルの顔が、やけに眩しく感じられて、アーノルドはしばし見惚れてしまった。
「本当に、お前は綺麗だな」
「――え?」
「あ、いや……何でもねぇよ」
目をぱちくりとさせるマリーベルの頭を撫で、アーノルドは歩き出す。
夕焼けの中から聞こえてくる、幼い子供達の声を振り切るように、妻のその手を握りしめて。
「旦那様は……」
ふっ、と。マリーベルが、はにかむように笑った。
「意外と、甘えん坊さんですよね」
「あぁ……俺も最近、気付いたよ」
握り返して来る指先の温もりが、やけに心に染みる。
『アーノルド・ゲルンボルク。最後に聞かせて欲しい』
探偵事務所から去るその帰り際、ラウルから掛けられた言葉を思い出す。
『君は、奥方の事をどう思っているんだい? 彼女を、どうしたいと望んでいるのかな? 『上』に昇る為に利用したいのか、自分の欲望を満たしたいのか、はたまた――』
こちらを探るようなその問い掛けに対し、アーノルドは間髪入れずに答えを出した。迷いもためらいも、全くと言って良いほど感じられなかった。
『俺は、アイツをーーーーしたい』
あれは、どうしたことか。自分でも驚いている。悩むまでも無く、するりと言葉が滑り出たのだ。
そうして、口に出すことで、アーノルドは気付いた。
妻に対する自分の気持ち。ひどく馴染んだ、しっくりくるその表現に。
「ローストビーフも食べましょうね。でも、ワインは飲みすぎちゃだめですよ。健康の為にも控えめに、です」
ころころと楽しげに笑う妻の声。それが耳に心地良かった。
アーノルドは応える代わりに目を閉じ、繋いだ手を導くように、自分の腕へと這わせる。
肩の辺りから感じる確かな重みに、安心感を覚えてしまう。マリーベルの体を通して鼓動が伝わり、自分のそれと響き合うような錯覚さえ感じて――アーノルドは、苦笑した。
昼と夜の狭間。光と影が交差し、あやふやでぼやけた道を、アーノルドは進む。
歩んで来たこれまでの過去と、歩んでいくこれからの未来。
その先に、何が待っていようと。もう、心は定まっている。
そっと視線を落とすと、そこには寄り添うようにアーノルドの腕を抱きしめ、微笑む妻の横顔が。
『――幸せに、したい』
それは願いであり祈りであり、夢である。
あの言葉を、儚く消える幻にしてはならない。
確かな誓いと共に、アーノルドは空を見上げる。
紅い夕日の中からはもう、何も聞こえては来なかった。




