37話 獣と狩人
「……やけに、あっさりと引き下がったものですね」
『依頼人』が去ったドアを見つめながら、少女が呟く。
申し出を一蹴され、跳ね除けられたと、そういうのに。
『そうか、邪魔したな。色々と参考にさせて貰ったよ。次に会う時を、楽しみに待っていてくれや』
今、世間を賑わせる大商人は、焦るでも縋るでもなく、躊躇いなく席を立った。
まるで、少女の主人が、そう答えると知っていたかのように。
「いったい、何をしに来たのか。商会長というのは、よほどお暇な職業なのでしょうか」
「さぁ、どうだろうね。労働に喜びを覚える者達の気持ちは、今一つ理解できないが……それでも、分かった事はある。彼は過保護な男だよ。心配性とも言えるか。良く言えば愛妻家、だねぇ」
「はぁ……」
今一つ理解できない少女を置いてけぼりにして、しかして謎は解けたと、そう言うかのように。
ラウル・ルスバーグはニコニコと笑っている。
「ミスター・ゲルンボルクは根っからの商売人なのさ」
「それはまぁ、何となく分かりますが」
「そうだろう? だったら、商人が貴族の所に来る理由と言えば、一つしかあるまいよ」
少女は言葉の意味する所を察し、ハッとする。
まさか、それは――
「――あぁ、『御用聞き』さ。彼は、商売の交渉に来たんだよ」
「商売の、こう、しょう……」
「『勉強させて貰った』とは、そういう事さ」
満足そうに口元を緩め、うきうきとした調子で、ラウルは窓際に立つ。
こんなにも嬉しそうな様子の主人は、長い付き合いの少女でさえ、数えるほどしか見たことが無い。
胸の内に、燻るような嫉妬の煙が立ち上がる。
「溜まっていた依頼をこなそうか。来月は忙しくなるよ。彼は――彼らは程なくして、僕達の舞台にまで姿を現すだろう。その前に、やるべき事をやらなくちゃ、ね。お金を稼ぐというのは、大変なものだなぁ」
「随分と、買っておられるのですね」
貴族に対しても減らず口を叩く、無礼な皮肉屋をどうして、そこまで。
自分の事は棚に上げ、少女は不満そうに口を尖らせた。
「彼の嗅覚は大したものだよ。鼻が利く。優れた獣だね。僕が何を求め、何を必要としているか。正しく理解したのだろう。それは、彼が望む道を拓く鍵となる。貴族社会――それも、紳士達の根底にあるものだからね。こればかりは、あの麗しき花嫁殿も教えられまい」
「敵に塩を送ったというのですか?」
「うん? 君の国の言葉かい? 察するに利敵行為のようだが、なるほど良いね、素晴らしい! 塩は人間が生きる上で必要なものだし、万能の調味料ともなる。取り過ぎれば毒な所も合わせて、ピッタリだ。秘書クンに怪我をさせた事と、披露宴での不作法の詫びには丁度良いだろう」
そう言って、彼は窓の外へと目を移す。
つられるようにして、何気なくそちらに視線を動かし――少女は息を呑んだ。
「アーノルド・ゲルンボルク――」
窓の向こう、少し離れた路上に立ち、こちらを見つめる黒い影。
まるで、いましがたのラウルとの会話を聞いていたかのように、その姿は超然としている。
何ら感情の浮かばない表情と瞳。その眼差しに晒される事に、少女は恐怖を覚えてしまう。
メイドたれ、と。自分を律するために装っている仮面とは、また別種のモノ。
それは、己が主人と『同種』であろう――狩人の、目。
「……良いね、やはり獲物は肥え太らせねば、狩る価値が無い」
聞こえて来た言葉に振り向くと、少女の主人は顔を歪めて嗤っていた。
舌なめずりをするような、牙を研ぐ狼のような、獰猛な顔。
これではどちらが獣か、分からない。
けれど、その姿に表情に、少女はどうしようもなく焦がれてしまう。
惹かれて、しまうのだ。
ラウルとアーノルド。絡んだ二つの視線は、程なくして解け、宙を彷徨う。
黒い影は踵を返すと、こちらに背を向け、ゆっくりとした足取りで雑踏の中に消えていった。
同時に、部屋の中に漂っていた緊張感も弛緩する。
よろめきもつれた少女の体を、ラウルが受け止めた。
主人の腕に抱かれながら、少女は縋るような眼差しを向ける。
「教えて下さい、ラウル様。貴方は、彼に何を期待していらっしゃるのです? 去り際、ゲルンボルク氏にどうして、あのような問答を――」
事務所の出入り口を潜る際、アーノルドに問い掛けたラウルの言葉。
それがどうしても少女は気になった。
「何故、あのように『嬉しそうな』お顔をされたのです?」
「……証明してもらいたいのさ。『あの二人に』ね」
「しょう、めい……?」
「あぁ、そうとも」
待ちわびた何かに出会えた、そんな風に瞳を煌めかせて。
「想いは輪廻し、巡り合う。その証明を――ね」
ラウル・ルスバーグは、満足げに微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ルスバーグ探偵事務所を去り、幾つかの『調整』を終わらせた後。
アーノルドは一人、川沿いを歩いていた。
南街区と東街区を遮るように横たわる、ネーバス川の水面は、暮れなずむ夕日の輝きを受け、茜色に煌めく。
『宜しかったのですか、あれで?」
「ああ、上等だ。流石はお貴族様だ、羽振りの良いこった」
知りたい事は、大体分かった。
後はマリーベルに確認を取ったうえで、お望みの『商品』を見繕うだけ。
せいぜい、高く買い上げて貰おうではないか。
『はぁ……依頼がどうこう、というのはどうなので?』
「そっちもまぁ、急ぎの案件じゃねえしな。『依頼人』も焦ってはいねぇよ」
『ご主人様の仰ることは時折、常人の理解の範疇を、逸脱することがございますね』
聞こえて来た不満げな声に、アーノルドは苦笑する。
「そう言うなって。悪いな、こういう性分なんだ」
『ルスバーグ卿と同じ事を仰いますのね。お二人には、何処か通ずるものを感じますわ』
「う……! そ、そうか? そうかなぁ……?」
言われて、げんなりとする。あの放蕩貴族と一緒に見られるのは勘弁願いたい。
誤魔化すようにしゃがみ込み、雑草をひとつ手に取った。
『あら、草笛ですの? 奥様も良くお吹きになっていらっしゃいますよ、何故かとても懐かしく感じる旋律。わたくしは大好きですわ』
「そうかい? なら、俺も礼代わりにひとつ、奏でてみるかね」
茎を器用に丸めて即席の笛を作ると、アーノルドはそれを自身の唇に当てる。
幼い頃より、何度となく吹いた曲。これひとつしか知らないが、それなりに自信はあった。
程なくして、メロディが零れ出す。アンの言う通り、それは郷愁を掻き抱くような、切なく美しい曲であった。
(そういえば、前にも。川沿いで笛の音を聞いたっけな)
ほんの二か月かそこいらの前なのに、何故だか懐かしく感じる。
あれから今日に至るまで、色々と在った。
あの時は、そう。マリーベルがこの曲を奏でていて、それに惹かれた自分が――
「――あれ、旦那様?」
笛の音が止まる。
まさかと思って振り向くと、川沿いの道の向こうに、見覚えのある二人の姿があった。
「マリーベル、か……? お前、どうしてここに――」
「それはこっちの台詞ですよぅ。旦那様こそ、どうしてここに?」
言うなり、てててっと、奥様がこちらに駆け寄って来る。
「怪我とか、していませんよね? 何か変な事を言われませんでした? 無下にされたとか、バカげた要求を突き付けられた、とか。もしイビられたのなら、言って下さい! 私がビシッと文句を――」
「お前は俺のおかあさんか」
いや、前にもやったな。このやり取り。
アーノルドは、肩から力が抜けるのを感じた。
自分も心配性だとは思っているが、どうやらそれは、妻も同じこと。
要は――
『似たもの夫婦、という事ですわね』
胸元から響く、にこやかな声にアーノルドは頬を掻く。
何だか、照れ臭くて仕方がなかった。
「アン、ご苦労様! この人、無茶をしなかった?」
「おいおい、信用しろよ。んなの、当然――」
『滅茶苦茶なさいました』
「おい!」
へぇ、と。マリーベルの瞳が氷の刃の如く、研ぎ澄まされる。
それは、事務所で見たあのメイドのような、凍てつく眼差し。
大分怖い。
(そういえば、あの娘は東洋人みたいだったな。綺麗な顔立ちをしてはいたが、どういう関係なのやら)
単なるメイドにしては、距離感がおかしい。
まさか、彼女も『選定者』とやらではないだろうが――
「……今、他の女の子のこと、考えてませんでした?」
「ひいっ!?」
何で分かるのか。怖い、怖いが過ぎる。
ディックが時々羨ましがる、アーノルドの直感なんぞ、この娘のそれに比べたら天と地だ。
勝負にもならない。
「マリー……奥様。その辺に、その辺に。旦那も悪気はないと思うんだ。男ってのはね、ちょっと可愛い女の子を見ると、勝手に目が動いちまう生き物なのさ。父ちゃんもそうだったし、オイラだってそうだよ」
『本能ってやつですわね。奥様、何卒広い御心でお許し下さいまし。出来れば、罰はお軽めに……』
「お前ら、誤解をしたままフォローをするな!!」
段々と、マリーベルの目が剣呑な輝きを帯び始めた。
浮気とか絶対に出来ない。したら殺される。
元より、するつもりもないけれど、アーノルドは冷や汗が止まらなかった。
ラウル・ルスバーグと対峙するより、奥様と対決する方が何十倍も恐ろしい。
(最近のこいつ、独占欲みたいなものが出て来てねえか?)
流石は欲深令嬢を自認するマリーベルであると、アーノルドは変な所で感心をしてしまった。
それが面倒くさいと思いつつも、何処か嬉しく思っている自分に気付き、苦笑する。
(――大分重症だな、俺)
「ほれ、そこまで。全部話すよ、誤解がないようにな」
ぐりぐりと、アーノルドはマリーベルの頭をげんこつで撫でる。
「また、そうやって誤魔化すんですから……もう」
ぷうっと頬を膨らませる妻が愛らしい。
ちょい、と頬を突いてやれば、マリーベルは顔を赤くしてそっぽを向いた。
本当に可愛いな、こいつ。アーノルドは己の頬が緩むのを感じた。
「最近、隙を見せるとすぐにこれだよ! マリーも、旦那の前だと本当に変わるね。向こうじゃ、完璧な淑女っぷりだったのにさ」
「お、その辺も聞かせろよ。どうだったんだ? ちゃんと出来たか? イジメられたりしなかったか? 迷子になったりしなかったろうな?」」
「旦那様は私のおとうさんですか。ちゃんと出来たに、決まってるでしょう!」
『……本当に、似たもの夫婦ですわねぇ』
「だねぇ」
聞こえて来た使用人コンビの声に、アーノルドとマリーベルは顔を見合わせて微笑み合った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「へぇ、やはり難物ですね、ラウル・ルスバーグは」
人気の失せた、夕暮れの川沿い。
アーノルドとマリーベルは、示し合ったように互いの情報を交換する。
「俺の考えに間違いは無いか?」
「ええ、正しいと思います。成るほどなぁ……そういう視点はありませんでしたよ。何で気が付かなかったのやら」
「お前は淑女として、女主人として教育を受けたからな。あの義母殿に仕込まれはしたんだろうが、男性側の目線ってのを持つのは、難しいと思うぜ」
むむむ、と考え込むマリーベルを諭し、頭を撫でてやる。
猫みたいに擦り寄ってくる妻を抱き寄せながら、アーノルドはホッとしていた。
どうやら、『交渉』は思った通りの結果を生めそうだった。
「お前も、よく頑張ったな。聞いてはいたが、えげつない罠を仕込むもんだぜ。俺だったら完全に引っかかってるな、そりゃ」
「ええ、まあ。ほんと、肩が凝りましたよ……」
首をコキコキ揺らす妻の肩を、そっと揉んでやる。
マリーベルは目を閉じ、うっとりと微笑んだ。
「いやぁ、すげぇ自然にイチャつくようになったよね! 見てらんないよ、まったく」
『素晴らしい……これぞ愛の睦み合いですわ……素敵……』
二つのボヤキ声が耳に痛い。
アーノルドは咳払いをして、マリーベルから離れた。
ちょっと不満そうなお顔の奥様に、何とも言えない気持ちになる。
「でも、本当に旦那様がご無事で何より。心配したんですよ、もう!」
この企てを申し渡した時、真っ先に反対したのはマリーベルだった。
危険だやめとけ行くなと、もの凄い勢いで捲し立てられた。
何なら自分が付いていく、そう鼻息を荒くしていたのを思い出す。
「ちゃんとピストルも、持って行ったんでしょ? それならいざという時も、まぁ少しは安心ですし――」
「ん、これのことか?」
アーノルドはポケットから『それ』を取り出し、妻に向かって放る。
「ちょ!? 危ない――って、あれ?」
マリーベルが『それ』を受け取り、不思議そうに振り回す。
「良く出来てるだろ、それ。今度うちの玩具部門で売りだそうと考えてる、新型の銃型オモチャだ」
「おも、ちゃ……?」
「あぁ、ほら。流石に貴族の――それも公爵家の次男坊の所に、物騒な物は持ちこめねえだろ? 何かあった時に言い訳利かねえし。また逮捕されんのは御免こうむるからな」
つまりは、ハッタリである。
向こうが何処まで理解していたかは不明だが、まぁ脅しくらいにはなってくれた。
「つまりは、なんです? 祝福持ちのところに、無手で、無防備で、のりこんだ、と?」
「お、おぉ。いや、ほらアンも居るし。下手に武装するよりは、安心だから――」
『ちなみに、わたくしがヒヤヒヤするくらいに、煽りに煽り倒しておりましたわ、ご主人様』
「アン!?」
「へぇ」
再び聞こえてくる、低い声。
アーノルドの頬を汗が伝う。
『猛省なさいませ、ご主人様。貴方を心配する者達の、そのお気持ちにも少しは寄り添うべきかと』
使用人の言葉が死告神の宣告のように感じられる。
「マ、マリーベル? 違うんだ、ほら、その――ひぃっ!?」
奥様の形相が一変する。目は吊り上がり、口元が三日月に裂ける。
アーノルドは、以前に見た、東洋の仮面を思い出す。
そう、それはつまるところの――般若、であった。
「旦那様の――バカッ!!」
久しぶりに炸裂する淑女キック。
空を引き裂くかのように唸るそれは、茜色の空に、高らかな打擲音を響かせた。




