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35話 邂逅


 奥様マリーベルが『初めての社交』に勤しんでいたころ。

 旦那様アーノルドは車上の人となり、心配げにソワソワと身を震わせていた。


「大丈夫かな、アイツ……苛められたりはしないだろうが、あれで案外とおっちょこちょいだからな。ここんところ、様子もおかしいし……しくじって、落ち込んだりしなければいいんだが」


 そんな性格では無いとは思いつつも、心配の種は尽きない。

 

 ちゃんと一人で出かけられるか、相手の家で粗相をしないか、笑顔で帰ってきてくれるか。

 

 マリーベルは能力も人格も十二分に優れていると判っているし、信頼を置いてもいる。

 これまでも、彼女は一人で街へ出かけ、売買の交渉を取りまとめてきた実績もあるのだ。

 

(なのに、何でこんなに気になるんだ。くそっ、俺らしくもねぇ) 

 

 これではまるで子供扱いだ。妻を信じ切れていないようで、己にむかっ腹が立つ。

 

 アーノルドは、車の座席に背をもたれかけ、大きく息を吐き出した。最近、ため息を吐くのが増えている気がする。良くない傾向だ。

 

「商会長は最近、ため息を吐くのが増えましたね」


 そこですかさず突っ込んでくるのが、この秘書ディックだ。陰険眼鏡は、アーノルドを振り返りもせず、ハンドルを握ったまま喋り出す。

 

「いけませんね、老化の始まりですよ、それ。あんなに若くて綺麗なご令嬢を娶ったのです。夫が早々に老けこんでは、奥さまが可哀想でしょう。ただでさえ、年が離れているというのに」

「うるせぇ、余計なお世話だ」


 口では勝てないと知っている。アーノルドはそれ以上は反論せず、流れる景色に目を移す。

 王都は今日も、行きかう人々で通りを賑わせている。

 霧の悪魔が姿を消してから、ひと月近くが経つ。夜も大手を振って出かけられると、安心している者達も多い。

 

「……この数か月で、路上に立つ娼婦の数がずいぶんと減ったそうですよ」


 アーノルドの思考を読み取ったかのように、ディックが呟く。

 

「だろうな。次期の議会で、取締法が強化される動きもあるそうだ。表向きは、彼女達の安全確保と治安の強化だが――」

「上の連中は、随分とお清らかな方向に進みたがっているように思えますね」

「綺麗好きなんだろうよ。そら、黒い服が流行り始めたろ? 汚れが見えにくけりゃそれで、満足なのさ」

 

 調和神の教えは、決して娼婦等の性的職業を禁じていない。

 けれど、それを拡大解釈して当て嵌めたがる者達は、何処にでもいるのだ。

 

「『霧の悪魔』の事も、そうだ。自分の目に届くものでないなら、関係ない。そう思っている奴等も居るってこった」

「胸糞悪い話ですね」


 ディックが、吐き捨てるように舌打ちする。彼らしからぬ露骨な悪態だが、それも仕方あるまい。

 レティシアという、月明かりすら差さぬ暗闇であろうと、平気で出歩く妻が居る身だ。他人事ではないのだろう。

 それは、アーノルドだってそうだ。


「しかし、どうにも引っ掛かるな。俺達――いや、マリーベルの存在か。それを知って『悪魔』も動きを止めたかと思ったんだが。もしかしたら、違うのかもしれねぇな」

「どういう事です?」

「役割を果たしたから、かもしれないってこった」


 証拠があるわけでは無い。だが、妙に胸がざわめく。

 しっくりこないのだ。何処、辻褄が合わないような――いや。

 

(……()()()()()、のか?)


 何か、頭で閃くものがある。

 それこそ正に、霧の中に浮かぶ影だ。それを、もう少しで捉えられるような――

 

「それは、商会長の直感ですか?」

「んな大したモンじゃねえよ。だが、匂うんだ。ドブ臭い悪党のそれが――っと、ここだ。ここでいい。下ろしてくれ」


 ディックに命じ、車を停めさせる。

 アーノルドは待ってましたとばかりに飛び降り、凝りかけた肩や背中を手で解す。

 

「先に事務所に戻っていてくれ。お前も残ってる仕事があるだろ? 帰りは地下鉄でも使うさ」

「くれぐれも、ご用心を。奥様を悲しませるような真似をしてはいけませんよ」

「わかってる、無茶はしねぇよ」

「……どうだか」


 それ以上は何も言わず、昔馴染みの秘書は首を振り、車を走らせる。

 蒸気の煙が通りの向こうに消えるのを見届けて、アーノルドは踵を返した。


『……ディック様の言う通りですよ、ご主人様。何卒、無理はなさいませんように』


 胸元から聞こえてきた声に、アーノルドは苦笑する。

 自分も心配性な方だと思っていたが、周りの連中はそれ以上だった。


「ああ、ああ。大丈夫だ。俺も新婚早々、死にたくねえからな。下手をこいたら、アイツにどんな目に遭わされるか分かったもんじゃねぇ」


 ポン、と。アーノルドは外套の上から胸元を叩く。


(それにしても、本当に『祝福』って奴はすげぇな。依代を移して移動も出来るとは、な)


 懐中時計に忍ばせた、屋敷の木片。メイドの声は、そこから響いていた。

 そう、アーノルドの『企て』を聞いた彼女が、自分から付き添いを申し出てくれたのである。


 本当、自分も妻もアンの世話になりっぱなしだと、そう思う。


(一通りのカタが付いたら、記憶も探してやんねえとな)


 奉仕に対して、報いを与えぬ輩は紳士では無い。

 父の教え、その七とか、まぁその辺りだ。

 

 アーノルドは空を見上げる。まだ日は高く、風もさほどに冷たくはない。

 そして、その輝きに照らされるようにして。『それ』はそこに、そびえ立っていた。

 両脇の服飾店に挟まれるようにして鎮座する、小奇麗な二階建ての建造物。

 無駄な装飾が無く、意外と実用的な外見からして、成るほど。『事務所』と呼ぶにふさわしかった。

 

 ここは王都の南東部にある通り。

 比較的裕福な層が住まう南部と、労働者階級層が住まう東部の狭間に位置する場所だ。

 

 ゆえに、客層もまたバラエティに富んでいる。

 当然、そこに由来する悲喜こもごもも――

 

「アン、何か感じるか?」


『……微かに、残り香が。仰る通りの気配が致しますわ』


「そうか、そうか。どうやら、張りぼてじゃねぇみたいだな」


 それが判れば十分だ。

 アーノルドは軽く周りを見渡すと、入り口の前に立つ。

 さて、藪を突いて蛇が出るか、それとも隠れた財宝を見つけ出すか。

 心地良い緊張感が、アーノルドの体を包む。

 

 しかし、同行人はどうやらそうは思ってくれなかったらしい。

 胸元から、息を呑むような気配が伝わって来た。

  

「そう緊張するなよ、気楽に行こうぜ」


『そう仰られても……あぁ、奥様のお気持ちが今、ようやく理解出来ました。ご苦労が偲ばれますわ」


「向こう見ずな旦那ですまねえな」


 宥めるように胸元を撫で、アーノルドは呼び鈴を鳴らした。

 

 すると、僅かの間もなく。応答の声と共に戸が開いたかと思うと、中から少女が顔を出した。


 黒髪黒目に、色素の濃い肌。顔もやや平たく感じる。東洋系の人間に通ずる特徴だ。

 年の頃は、妻と同じ――いや、それより少し下、か。

 午後用の、黒いエプロンドレスを身に纏っている。

 

 アーノルドは少し、意表を突かれたような心持になるが、表情には出さない。

 

「どちらさまでいらっしゃいますか?」

「失礼、お嬢さん。予約アポは取っていないんだがね。仕事を頼みたいんだ。所長に取り次いで頂けるかな? アーノルド・ゲルンボルクが来たと、そう伝えて貰えれば解るはずだ」

「少々お待ちくださいませ」


 凛とした仕草で、少女は頭を下げる。

 およそ、感情の感じられない口調と表情。

 まるで人形のようだと、アーノルドはふと思う。

 

「所長、お客さまです。アーノルド・ゲルンボルク様――」

「知ってるよ、もう! 居ないと言ってくれ!」

「承知しました」


 そんなやり取りが、中から聞こえてくる。

 

 やはり、これはひと悶着あるか。

 アーノルドは身構えようとするも、戻ってきた少女は冷めた口調でこう告げる。

 

「お聞きになったかと思いますが、『居ないと言ってくれ』とのこと。中にご案内しますので、どうぞこちらへ」

「……良いのか? 主人はああ言ってるぜ?」

「ご依頼人を無碍には出来ませんので」


 主人は無碍に扱っても、良いのだろうか。

 アーノルドの疑問を余所に、少女は丁寧な所作で中へと案内してくれる。

 ギシギシと音を立てる廊下を歩き、突き当たりの扉を小さな手がノックする。

 

「所長、お連れしました」

「なんで!? 言ったよね、居ないと伝えてって!」

「ええ、御言葉の通り、そうお伝えはしました。では、お開けしますね」

「聞いてよ!」


 ドアの向こうから聞こえてくる訴えを、少女は完全に黙殺している。

 というか、眉ひとつ動かさない。ちょっと怖い。

 

「……イイ性格してんのな、君」

「良く言われます」


 有無を言わさず扉を開き、少女は手を翳して『どうぞ』と示す。

 流石に何かの罠を疑うが、ここまで来たら退けはしない。

 ディック曰くの『虎穴に入らずんば虎子を得ず』だ。

 

 中に足を踏み込むと、テーブルと椅子を挟んだ向こう、事務机に突っ伏し頭を抱える『彼』の姿が目に入った。

 

「あのね、君は僕を嘘つきにするつもりなのかい? 待っているのは社交界でって、そう言ったろうに!」」


 顔を上げ、恨めしそうな目で『彼』はアーノルドを睨み付けてくる。

 だが、アーノルドは飄々とした態度でそれを受け流した。

 

 喧嘩というものは、相手に先手を取らせては駄目だ。

 手綱を握らせたままリングに上がるのなんざ、御免こうむる。

 

「――よぉ、『迷』探偵。ちっとばかし早い再会だが、元気にしていたか?」


 まるで旧友に挨拶するかのような気安さで、アーノルドはひらひらと手を上げる。

 

 それを、どう受け取ったか。

 いつかのように大仰な仕草で首を竦め、『男』――ラウル・ルスバーグはため息を吐いた。



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