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33話 夕暮れ時は、不思議な気分になります


 ラムナック中央公園セントラル・パーク

 三百年以上前に建てられたという、歴史ある公園だ。上流階級の者たちもたびたび訪れ、また恋人達の逢引場所としても有名である。


 既に陽が傾き、夕闇の篝火が空を赤く染めてゆく。

 光と影が交差し移ろう園内を、マリーベルとアーノルドは散歩していた。


(今日は楽しかったなぁ……)


 生まれて初めて海を見て、美味しい物をたらふく食べて、可愛らしい銀細工まで買って貰えた。

 この後は、なんと歌劇オペラの劇場まで予約してある。こんなに幸せで良いものか。


(なのに、旦那様ったら――)

 

 日中の会話を思い出し、マリーベルはくすくすと笑う。

 

 あの後、そわそわした様子のアーノルドに手を引かれ、写真館にまで連れて行かれたのだ。

 お守り代わりに写真が一枚欲しいとまで言われ、マリーベルは流石に引いてしまった。

 

 二人で撮る写真もあるなら、と了承させ、渋々それを受け入れたが……果たしてその選択は正しかったのか。

 時々、嬉しそうに妻の彩色写真を取り出し眺める夫に、危惧を禁じ得ない。まさか、ディックと同じ道を歩みやしないかと、ヒヤヒヤする。

 

 それ程までに夫の関心を惹きつける、初代公爵夫人とやらに嫉妬を感じないでもないが、まぁ今回は許そう。そこに写っているのも、彼が見惚れているのも、マリーベルなのだから。

 

 こうして歩いている今も、子供みたいに嬉しそうな顔で、ちらちらとこちらを覗き見る旦那様。

 その様子が妙に可愛らしくて、吹き出しそうになる。

 

「もう、旦那様。いい加減にしてくださいまし。淑女の顔をそんなに眺めるものではありませんわ」


 つんとした態度でそう煽ってやると、アーノルドはバツの悪そうな顔で頬を掻いた。

 その仕草がまた、マリーベルの胸を弾ませる。

 彼にこんな顔をさせるのは自分だけ。きっと、世界で自分しか居ないはず。

 

 そんな感情が、胸の内から込み上げてきた。

 

「悪い。その……何だか嬉しくてさ。夢だったんだ、こういうの」

「初代公爵夫人とこうやって一緒に歩くのが、ですか?」

「いや――家族と連れだって王都の中央公園を歩くのが、だ」


 アーノルドの歩みが止まる。その瞳は、夕日の向こう側を覗き込むように、何処か遠くを見つめていた。

 

「俺の住んでた所も、こんな風に夕焼けが綺麗だったなぁ。鉱山の麓にある街だったんだが、山間に沈む紅い輝きを見るのが好きでさ。親父とおふくろの目を盗み、弟やあいつらとよ、こっそり見にいったっけなぁ……」


 過去を懐かしむように細められた眼差しは優しくて、儚くて、霞んでしまいそうで。

 マリーベルは夫の袖をぎゅっと掴んでいた。

 

「あのチビども、良く俺にせがんでいたよ。海水浴場で遊んでみたい。海から取れる魚や貝で、美味いメシを食べてみたい。洒落た店で買い物をして、最後は王都の中央公園を皆で歩きたい――ってな」

「だんな、さま……」


 アーノルドが妻の頭をそっと撫でる。

 まるで、壊れ物を扱うようなその手つきに、マリーベルは何だか泣きそうになった。

 

「すげぇな。みんな叶っちまった。お前のお蔭だよ」


 嬉しそうに微笑む夫の表情が、どうしてだろう。マリーベルには、泣いているように見えた。

 

「俺はこんな性格だからな。女とデートなんで柄じゃねえし、その発想も無かった。だから、今日の申し出は俺にとっても有難かったんだぜ? 本当さ」

 

 まだ、『それ』に触れさせてはくれないのだろうか。

 アーノルドの胸の奥に刻まれているであろう、その傷痕に。

 

 マリーベルはそっと地面を蹴り、夫の胸板へと飛び込んだ。

 

「なんだ、どうしたんだ? おい、どうしてお前が泣くんだよ。しょうがねぇなあ……」

「旦那様が、泣いて、くれない、から……」

「そっか、そうなのか。そうかもなぁ――」


 ――泣き方なんて、もう忘れちまった。

 頬にハンカチを当ててくれながらそう呟く夫にすがりつき、胸に顔をすり寄せる。

 

 夕闇には、魔力が宿るという。

 人の心を暴き、郷愁を掻き立て、そして弱さを引き出し涙を流させる。

 

 その効果さえ通じぬ夫の姿に堪らず、マリーベルは声を押し殺しながら泣き続けた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 飲み物を買って来る。

 そう言って屋台へと向かう夫の背中を見送りながら、マリーベルはベンチに座り、ぼうっとする。

 冷静に思い返すと、気恥ずかしい。子供みたいではないか。顔が火照って仕方が無かった。

 夫の服を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしてしまった。これでは淑女失格である。

 

 でも、今日は少し。夫の心に近付けた気がする。

 例えそれが彼の古傷に触れることだとしても。はぐらかしてばかりではいられない。

 そうやって、自分達は一つずつを積み上げて夫婦になるのだと、そう思えたから。

 

(また、こうして旦那様と一緒にお出かけしたいな。その為にも、負けていられないよね)


 今日の思い出を糧に、社交の世界に挑む。

 マリーベルがそうやって、気迫を高めていた、その時だった。

 

(――あれ? あそこに居るのって……)


 遠目に見える、特徴的なシルエット。

 黒い外套に黒ズボン、歪曲したヘルメット――全身黒ずくめのその姿は、見間違えようが無い。


「悪食、警部……?」


 マリーベルは息を吸って目を凝らし、木々の向こうに霞む、その人影を見つめる。

 ぐん、と。強化された視覚が、マリーベルの瞳を通して見た世界を拡大させる。

 それなりに距離は離れているというのに、『彼』の傍にある木々の、木の葉の一枚一枚まで視認が出来た。

 

(間違いない。あの怪しい風貌は、まさしくまさしく、ベン警部! こんな所で何を――って、あれ? もう一人、誰か……)


 彼の傍らに見えるのは、やや小柄な人影だ。 

 灰色グレーの婦人服を身に付け、幅広の帽子を被った女性。

 その姿にも、マリーベルは見覚えがあった。

 

(記者会見の時に来ていた、女性記者……?)


 あの時、アーノルドが質問を投げかけた職業婦人だ。

 妙に気品がある物腰と口調が印象深かった。ディックが取りまとめた名簿によると、ウェンストン新聞社の記者だったはず。名前も記憶している。確か、セシリア・ベルベット――だったか。

 

(何を話してるんだろ? まぁ、悪食警部の事だから、ゴシップのネタには事欠かないだろうけど……)


 

 マリーベルは息を吐き、もう一度ゆっくりと吸う。今度、意識を集中させるのは耳。聴覚だ。

 風が唸り、葉の擦れ合う音が、ほんの間近で聞こえるかのよう。マリーベルは、脳がざわつくようなこの感覚が苦手であった。

 他の超感覚と比べて、どうも使いにくい。それに、盗み聞きと言うのは淑女的に品が無いとも思うのだ。


『――が――だ、な。君の質問には、YESうんと答えよう――』

『やはり――です――か。それでは、次に。ウィンダリア子爵家について、ですが――』


(……ウィンダリア子爵家?)


 マリーベルが十年近く受けた令嬢教育。その雑多な記憶の中に、閃くものがあった。

 

(ん、なんだっけ……? えっと、あぁアレだ。旦那様の記事の時にも騒がれたアレ!)


 かつての『暗黒組織』――大衆小説に出て来そうな仰々しい名前だが、要は大昔の小悪党どもの残党だ。

 それに繋がっていて、ご禁制の麻薬を広めようとした貴族が居たとか何とかで、お取り潰しになった家門が確か、ウィンデリア子爵家だった――はず。


『――です、ね。それでは、『fantoche』は必ず――』


(ん? なに、今の単語。ファント……?)


 聞き慣れない発音だ。このエルドナークの言語ではあるまい。

 けれど、これも、何処かで耳にした単語のような気がする。

 マリーベルの頭の中に、困惑が押し寄せ始めた。

 

『――では、私はこれで。くれぐれも、お気をつけあそばせ、悪食警部――』


 その言葉に、慌ててそちらを向くと、小さな人影がヤードの名物警部から離れて行くのが見えた。


 追うべきか、どうか。マリーベルは逡巡する。

 だが、そこで予想外な事が起こった。

 女性記者はそのまま歩む方向を変え、なんとこちらに向かって近づいて来るではないか!

 

 迷いや戸惑いは一瞬。何度も述べた通り、猫かぶりはマリーベルの必殺技なのだ。

 淑女の仮面を表情に当て嵌め、マリーベルは暮れる夕日に見惚れたふりをする。


「――おや! これはこれは、ゲルンボルク商会のご夫人ではいらっしゃいませんか!」


 やがて、人影はこちらを視認したか、小走りにマリーベルの元へと駆け寄って来る。

 作法の欠片も無い仕草。如何にもそれは記者らしくあった。


「あら、確か……記者会見の時にいらしてくださった婦人記者様ですわね? あの時は、ご足労頂きましてありがとうございます」

「なあに、良い記事が書けましたからねえ。お礼を言うのはこちらですよ、レディ」


 記者は芝居がかった仕草で膝を折り、まるで騎士のように礼を取る。

 男装の麗人めいた所作に、マリーベルは目を瞬かせた。

 

「まぁ! 最近の記者さんは、随分と大仰なご挨拶をなさるのね。どうか、お立ちになってくださいまし。私は女王陛下ではございませんのよ」

「ですが、美しき姫君でありましょう。彼の男爵家秘蔵の宝花。こうしてお話が出来て光栄です」


 マリーベルが手を差し伸べたら、そこに口づけを落としそうな雰囲気だ。

 彼の公爵家次男といい、ここの所会う人間はどうも、こんな大袈裟な連中ばかりである。

 歌劇の世界に迷い込んでしまったみたいで、何とも言い難い気分になる。

 

(けどまぁ、上流社交界ではこういった会話も未だに成り立つと聞くし。慣れておかないとね……)


 マリーベルは微笑みを絶やさぬまま、女性記者に問い掛ける。

 

「記者さんは、お仕事ですか? このような夕暮れ時まで大変でございますね」

「ええ、全く。昼も夜も無い世界ですよ。忙しくてディナーを取る暇もありはしない」


 『ディナー』と、そう言ったか。マリーベルは内心で疑惑の段階をひとつ、繰り上げた。

 この国は階級層と、その懐が温かいかどうかで食事の種類と呼び方が異なる。


 ディナーとは、その日の主たる食事。正餐のことだ。労働階級層や中流階級層の多数は、それを昼に持って来る。

 マリーベル自身、男爵家でもそうであった。屋敷の主人たる男爵とその夫人の昼食は『ランチ』。メイド達は『ディナー』。

  

 目の前の女性記者は、何ら躊躇うことなく、今のこの時間に摂る食事は『ディナー』と、慣れた口調でそう言ったのだ。

 

(――貴族? もしくは地主か。あるいは、上層中流階級出身)


 ウェンストン社は、お世辞にも格の高い新聞社では無い。どちらかといえば、大衆紙だ。

 そも。ただでさえ、職業婦人の給金は男性のそれより下になりやすい。

 忙しなく仕事に駆け回ると言う下っ端の、そんな彼女が口に出すには、違和感があり過ぎた。

 

(発音も、少し訛りがある。レティシアさんと似ている。彼女も、この国の人間じゃない?)


 マリーベルはそう、密かに疑いを深める。

 しかし、当の本人はこちらがそう思っている事に何も気づいていないのか、明るい口調で話を続ける。

 

「でも、その甲斐はありましたよ。ほら、そこで誰と会ったと思います? 何とあの悪食警部! ベンジャミン・レスツール氏ですよ!」

「――まぁ」


 それを口に出すのか。マリーベルは軽く驚く。

 婦人記者は丸眼鏡を揺らしながら、興奮した口調で捲し立てる。

 

「実は、ここだけの話ですがね。私いま、とっておきの『謎』を追いかけておりまして。それ絡みで、あのベン警部にお話を伺っていたのですよ!」

「謎……ですの?」


 こんな所まで、あの名探偵を名乗る男と似通るのか。

 マリーベルは眉根を寄せた。

「その昔、違法麻薬を流通させた、として取り潰された子爵家があったのですが……」

「それは、ウィンダリア子爵家のこと――ですの?」

「おぉ、ご存知であったとは話が早い! それで、その子爵家なのですが、一族全員が謎の死を遂げまして」


 彼女の語る所によると、彼らが幽閉されていた塔がある日突然崩落し、子爵家一家はみな圧死した――らしい。

 更に、更にである。彼らの罪を告発したともされる、子爵の弟もまた、直後に惨殺死体で見つかったそうだ。

 そこまでの事情は、マリーベルも知らなかった。思わず驚きの声を上げてしまう。


「で、ここからが本題なのです。崩れた塔を何日も掛けて調べたところ、遺体がひとつ、足りなかったとか」

「え……!? どなたか、生きていらっしゃった、とか?」

「そこなんです」


 女記者は人差し指を立て、マリーベルの興味を惹きつけるように左右に振った。

 おのれ、焦らすとはちょこざいな。早く、続きを、早く!

 いきなり湧いて出たミステリの匂いに惑わされ、奥様の推理小説脳が暴走し始める。

 

「遺体は損傷が激しく、判別が困難だったそうですが、どうもその家の幼いご令嬢の姿が無かったそうで」

「それでは、その子だけが難を逃れて……?」

「それが良く分からないのです。ただ、最近になって――彼女を見た、という人物が現れまして」


 女記者は名前を明かしてはくれなかったが、その者は、ウィンダリア子爵家に縁深い人物だという。

 

「そのネタが、わが社に持ち込まれた、と。そういうわけなんです。彼の話によると、それはもう出るわ出るわ、興味深い話が盛りだくさん! 下手をすれば、当時の子爵一家に掛けられた罪が、冤罪だった可能性まで発展しまして」

「まぁ!」


 人が大勢死んでいるのに不謹慎だとは思うが、マリーベルもつられて興奮してしまった。

 もしその真実が暴かれたなら、一大センセーショナルを巻き起こす。

 貴族のみならず、大衆もみな、娯楽に飢えているのである。

 

「まぁ、ウチの上の連中も半信半疑ではありますが、それでも追わせてくれと私、頼み込みました。子爵家一家の無念を晴らす為にも、きっと謎を解いてみせますよ!」

「頑張ってくださいまし! 私、応援いたしますわ!」


 マリーベルが殆ど本心からそう言うと、女性記者は再び芝居がかった口調で頭を下げる。

 

「おぉ、麗しき姫君の御言葉が在るとは有難い! 百万の騎士を味方に付けた気持ちです」


 彼女は口元をゆるゆると緩めると、裾に着いた土を払って立ち上がる。


「ところで、レディ。こちらへは、おひとりで? ここは治安が良いとはいえ、こんなお時間に一人では危ないですよ」

「いえ、主人がおりますの。もうすぐこっちに戻って来るかと――」

「あぁ、やはり! では『坊や』が来る前に退散するとしましょうか」

「え?」


 マリーベルが問い返そうとしたその時、既に彼女は颯爽と身を翻していた。


「では、お元気で! またお目に掛かれる事がありましたら、その時は夫婦生活のお話を聞かせて頂きますよ」

「あ、ちょ――」


 こちらの反論を許さず。まさしく風のように去ってしまう。

 取り残されたマリーベルは、今のが夕闇が見せた幻か何かではないかと、疑ってしまう。

 

 茜色に染まる空を、ただただ茫然と眺めているばかり。

 

「悪い、待たせた――って、どうした?」

「あ、旦那さま……!」


 横合いから聞こえてきた声に振り向くと、そこに居たのは旦那様。

 湯気の立つカップを手に、アーノルドは怪訝そうな顔でこちらを見ている。

 

「さっき、あの。記者会見の時に居た女の人が――」


 身振り手振りで先の事を伝えると、夫の顔が嫌そうに歪んだ。

 

「――やはり、アイツか。丸眼鏡なんぞ着けて誤魔化しやがって。子爵家の謎、だと? また変なゴシップを追いかけてるみてぇだな」

「え、知り合いなんです?」

「あぁ、お前の話を聞いて確信したよ。俺を坊やとか抜かす女は一人しか居ねえ」


 だから、記者会見の時にカマを掛けたんだが。そう言うと、げんなりした表情で、旦那様は肩を落とす。

 何か、余程に嫌な思い出でもあったようだ。おいたわしや。

 

「昔、新王国の方でな、会った事がある。その時は、アンナミラとか名乗ってやがった。何でも爺さん――ディックの父親の知り合いらしい。しかもな、驚くなよ? ああ見えて、俺より年は上だ」

「うえ!?」


 まさか、そんな。

 確かに野暮ったい格好ではあったが、肌に張りもあったし、声も若々しい。

 アーノルドより年上なら、三十代半ば以上。養母と同じか、それより上の年齢?


「し、信じられません……」

「良い所の令嬢らしいんだが、何故か『この世の不思議を追いかける!』だの抜かして、いっぱしのジャーナリストを気取ってやがったぜ。何なんだあの女」


 遠い目をしてそう述懐する夫の目は、どこか虚ろだ。

 一体、何が二人の間に在ったのだろう。


「とにかく無茶で無鉄砲でな。一度、巻き込まれた事があるんだが……ほとほと懲りた。その時の事は思い出したくもねぇ」

「成るほど……」


 マリーベルは頷く。と、同時に安心する。

 偽名を使っているのは気になるが、あのディックの関係者なら、悪い女性ではあるまい。

 夫の様子を見るに、『悪い虫』にもならなさそうだ。

 

 マリーベルはホッと息を吐く。これ以上、謎を増やされたらたまったものではない。

 何でもかんでも疑ってかかるのは、心が疲れてしまうのだ。

 

「にしても、悪食警部は何でここに来たんでしょう? 何かの捜査ですかね?」

「……墓参り、だろうよ」

「え?」


 夫の目は、マリーベルが示した、悪食警部が居た方に向けられている。

 

「前に、悪食野郎に聞いた事がある。日の沈む頃に必ず詣でる場所があると。あっちは、上流階級出身者の墓標が在る方角だ」

「何で、警部がそんな場所に……?」

「さぁな」


 見当もつかん。そう言いながらも、アーノルドの目は微かに哀愁を帯びていた。

 何かしら、彼とベン警部の間に通じるものがあると、マリーベルは確信する。

 恐らく『それ』が、彼ら二人を同盟者として結びつける要因なのではなかろうか。

 

「いつか――」


 夫の横顔に見入っていると、アーノルドは視線を動かさぬまま、そう呟く。

 

「――いつか、お前を俺の『家族』だった人達の場所に、連れて行ってもいいか?」

「旦那、さま……」

「俺の、自慢の花嫁を見せてやりたいんだ。償いにもならねぇけど――」


 アーノルドは、そこでようやくマリーベルを見る。

 紅の光と影が夫の表情を覆い、その顔を浮き彫りにさせる。

 それは何処までも優しく――夕日に溶けてしまいそうなほど、悲しい笑顔だった。

 

「ありがとうな、マリーベル」


 それは、何に対するお礼なのか。まだ、何も返事をしていないのに。

 けれど、マリーベルは聞かない。聞けない。言葉を出せない。

 ただ、応えるように夫の手をそっと握る。

 

 間もなく休息の日々が終わり、新たな戦いの幕が上がる。

 社交界という未知の世界。そこは欺瞞と傲慢が交差する欲望の地だ。

 

 それでも、寄り添いあい支え合えるパートナーが居るなら、戦える。指先から感じる、柔らかな温もりと、握り返してくれた手の平の力強さ。


 それをただ信じようと、マリーベルは思った。

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