32話 逢い引き
「わぁ、見て下さい旦那様! 海! 海ですよぅ!! 海だぁ!!」
はしゃいだ声を上げ、マリーベルが蒼く霞んだ白波へと突貫する。
騎兵隊もかくや、というその突撃っぷり。いかなる勇猛な兵であろうとも尻尾を巻いて逃げ出しそうだった。
「はしゃぎ過ぎて、転ぶなよ! 今日は中までは入らねえんだからさ!」
「はぁい!!」
元気なお返事と共に、奥様は波打ち際で踊るように足に水を浸した。
既に靴は手で持ち上げている。いつの間に脱いだのか。電光石火の早業であった。
女性は元来、家族以外に肌を見せぬもの。足を剥き出しにするなど、言語道断。
そんな古い価値観は、時代の流れと共に薄れ始め、消え始めた。
太腿を顕わに――というならともかく。
足首を見せるくらい、昨今は上流階級の貴婦人だって平気で行う。
もちろん、時と場所を選ぶなら、という申し書きが付きはするが。
「冷たい! しょっぱい! あはは、何これ! あははははは!」
快活な笑い声をあげながら、マリーベルは波と戯れる。
眩い日差しに照らされた美しいストロベリーブロンド。それは、煌めきながら水飛沫の中で舞い踊る。
この世の物とは思えない光景だ。アーノルドは思わず見とれてしまった。
(本当に、こうしていると絶世の美少女だな。妖精の姫様って言われても納得するぜ)
まぁ、その実は俗っぽい欲望塗れの娘なのだが。三度の飯より好きな物が、この世にあるかも怪しい。
それすら、最近は好ましいと思い始めてしまったのだから、アーノルドも重症である。
辺りを見回すと、アーノルド達の他にもちらほらと人影が見える。
休日では無いせいか、賑わいを見せている――というほどでは無い。
そもそも、今がシーズンから外れてる、というせいもあるが。
未だ肌寒さが体の芯を冷えあがらせる。
コートも羽織っていないのに、どうしてあの娘はあんなに元気なのだろう。
ディックが言っていた『子供は風の子』とやらは真実だったのか。
(……まぁ、アイツが喜んでいるなら、それでいいか)
ここは、王都郊外にある海水浴場だ。
古くからあるものらしく、何十年か前に使われていた水浴小屋もまだ、そのまま残されていた。
エルドナークに於いて多くの場合、リゾート用の海辺は男女別に分けられている。
場所によっては、開放感から丸裸で海の中へと飛び込む牧師まで居るそうだと、アーノルドは耳にした事がある。
しかし、昨今では家族用の水場も需要があり、用途も限定的ではあるが、男女両方が利用できる海辺も増え始めていた。ここも、そのひとつだ。
(海、か。まさか、俺が『家族』と海水浴なんぞに洒落込むとは、な……)
何だか、信じられない気持であった。
以前から、確かにマリーベルに『行きたい』と話は向けられていた。けれど、こうして実際に海辺に足を付けてもなお、自分がこうしてここに居るのが不思議で仕方が無い。
――こんな日が来るなんて、思いもしなかった。
『おにいちゃん! おにいちゃん! あのね! あのね――』
『――行きたいな、行きたい! 海って、きれいなんでしょ? おおきいんでしょ!?』
寄せては返す白波の向こう、無邪気で幼い声が幾重にも木霊する。
『――やくそくだよ、おにいちゃん!』
首を振って、アーノルドは幻影を追い払った。
(……ったく。どうかしてるぜ、俺は)
ため息交じりに懐中時計を取り出し、その針の向く先を確認する。
時刻は11時。腹具合を考えても、そろそろ良い時間であった。
(……この時計。親父が『爺さん』から貰ったものだって、そう言ってたっけ)
アーノルドの恩師であり、ディックの父――老マディスン。
父が若い頃に彼の事業を手助けし、その礼という事で貰ったもの、らしい。
(これが初代公爵の持ち物? ルスバーグ公に確認出来れば良かったんだがな。あの後、弟を追いかけて行っちまったようだし)
肩を怒らせて、憤懣やるかたない! といった様子の公爵閣下を思い出す。
彼はこの件に関わっていないのか。
しかし、あの時に聞こえた言葉から察するに、公は弟が『祝福』を持っている事に、気が付いているはず。
銀時計を日に翳し、じっと見る。歴史の重みが、アーノルドの肩にのしかかった気がした。
かつて、二百年の昔。彼の初代公爵もこうして、懐中時計を眺めていたのだろうか。
煌めく銀の鎖は、何も語ってくれない。
ため息を吐くと、懐へと時計を仕舞い込む。
今日は休日だ。余計な事を考えていても仕方あるまい。
波打ち際ではしゃぐ妻に向け、アーノルドは声を張り上げた。
「おい、そろそろ行くぞー! 昼飯の時間だ! 海の幸、味わうんだろ!」
「そうでした!! 美味しい海鮮ご飯!!」
砂を蹴り、風を巻きながら、マリーベルが恐るべき速度でアーノルドに駆け寄って来る。
しかし、それくらいではもう驚きはしない。旦那様だって慣れっこだ。
少し腰は引けたが、それくらいは愛嬌というもの。
磯の香りが、髪から漂う。健康そのものな笑顔を前に、アーノルドはホッとする。
ここの所、疲れが溜まっていたのだろう。今日は、思い切り発散させてやらねばなるまい。
「喰い終わったら、買い物するか。近頃流行の、商店巡りと行こうや」
「わぁい!! やったー!! 旦那様、大好――」
そこで、マリーベルが言いよどむ。
何だ、と思ってみると。その頬がほんのりと赤く染まっていた。
「だ、だいす……うぅ……」
「て、照れるくらいなら、最初から言うなや! 一旦区切ると、変な気持ちになるだろうが!」
これだ、これなのだ。アーノルドは頭を抱えそうになる。
快活の化身みたいなその姿から、何の前触れも無しに純情可憐な乙女めいた顔を出す。
そのギャップに、くらくらする。
アーノルドとて、それなりに付き合った女は居る。見た目だけ麗しくても、腹の中で舌を出す者は少なくない。
人を見る目はそれなりに肥えている。だというのに、妻の前では、どうにもそれが上手く行かないのだ。
顔を朱に染め、潤んだ瞳でチラチラとこちらを見上げるマリーベルの姿は、恐ろしい程に愛らしかった。
演技なら良かった。打算があるならマシだ。けれど、今の彼女から感じる空気は、そのどちらでも無かった。
家族を死なせてからこれより、深い関係に踏み込ませた事は無い。
女とも、一定以上の付き合いは控えていた。意識して遠ざけた。
そうしていれば、なにしろこの『山賊顔』だ。世の淑女にモテる筈も無い。
なのに、このマリーベルと来たら。
ずかずかとやって来てアーノルドの心の内を踏み鳴らし、そのど真ん中にすっかり居座ってしまっている。
彼女から受ける、激しい体当たり的な誠意と好意。
これ程までに、溢れるほどの熱を示されるのは――初めてだった。
(クソッ、こっちの方があんな連中よりもよっぽど『謎』だぜ……)
これ程に名探偵が居て欲しいと思った事があったろうか。
夫の裾を、ちょんと摘まみ始めた妻を見ながら、アーノルドはしばし途方に暮れるのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
海の幸をふんだんに使った料理を平らげ、奥様が色気よりも食い気を発揮したその後。
アーノルド達は街へと繰り出し、ショッピングを楽しんでいた。
訪れたのは、十年ほど前に出来たという、評判の『百貨店』。
幾つもの店がひとつの施設に収まった、画期的な代物だ。
階級を問わず、身分に構わず広く開かれた門戸。ずらりと並んだ大量の商品に、日によって安売りのイベントまで行うらしい。隣国・アストリアで発案された店を元にしたというが、それまでの常識を覆すような店舗形態の誕生に、人々はみな衝撃を受けた。
それは、奥様も同様。一度、行ってみたかったんですー!と、大はしゃぎである。
安めの商品、お買得の物品はあるかどうかと、目を皿のようにして駆け回る。
その姿は淑女というより、主婦である。子だくさんを抱えたお母ちゃんのようだった。
やがて、一通り見終えて満足したのか。マリーベルは装飾店で足を止めた。
そこは貴族御用達、とまではいかないものの、それなりに高級な物を扱っているようだ。
アーノルドの目から見ても、品の良いアクセサリーが陳列されている。
「このネックレス、素敵ですね……! あ、こっちのイヤリングも――」
うっとりとした声を出し、マリーベルはアレコレと物色に励む。
元々彼女は、御用聞きに商人が訪れるよりも、こうやって実際に足を運んで店を巡るのを好む。
アーノルドとしても、今は屋敷にあまり他人を入れたくはないので、願ったり叶ったりではある。
「好きな物を買えよ。お前なら、何だって似合うさ」
「もう、旦那様! 真面目に見てくださいよぅ!」
妻の不満げな声に、アーノルドは首を竦める。
誤魔化すように周囲を見回し――『それ』が目に入る。
「お、これ……」
引き込まれるようにして手に取ったのは、アーノルドの持つ時計と同じ色の銀細工。
蝶の形をした髪飾りだ。
「ん、なんです――うわぁ」
「おい、なんだその声。後ずさるな、おい!」
「だって、それ、アレでしょう? 初代公爵夫人が身に付けていたっていう装飾品。旦那様、憧れの人の品を妻に身に付けさせようとするんです? 淑女的にどうかと思いますよぅ、それ」
奥様は気持ち悪そうに舌を出し、気品の欠片も無い態度で、そうのたまう。
そう、ルスバーグ初代公爵夫人の絵姿に、必ず描かれる銀の蝶。
当時、王太子だった夫が奉仕活動などで資金を貯め、自力でプレゼントしたものだと、伝説は語る。
何でも、未だにそれは公爵家の家宝として、代々の令嬢に引き継がれている、らしい。
これは、その模造品だろう。良く見れば、形が少し違う。
些細だが、公爵夫人愛好家であったアーノルドには違いが分かるのだ。
――勿論、そんな事を言えば妻が暴虐の魔神と化す。口が裂けても言葉には出せない。
「いや、別にそんなつもりじゃねえって! ちょっと目が惹かれただけで……!」
「全く、旦那様ったら仕方ありませんねぇ。ほら、これでどうです? 似合います?」
ため息交じりに銀細工を強奪すると、マリーベルは己の髪にそれを付けた。
「お、おぉ……おぉ、おぉ……!」
アーノルドがちょっと感極まるくらいに、それは良く似合っていた。
ストロベリーブロンドの髪に、銀の蝶が羽を寄せる。窓から差し込む陽の光に照らされ、それは妙なる輝きを放った。金糸の花畑から、今にも蝶が羽ばたきそうな、躍動感すら感じる。
ある種の神々しさを覚え、アーノルドは言葉を失った。
このまま写真とか撮って、持ち歩きたい。自慢したい!
眼鏡の気持ちがちょっぴり理解出来た、その瞬間であった。
「え、そこまで感動するんです……? え、えぇ……?」
マリーベルが、げんなりとした仕草で肩を落とす。
「まぁ、旦那様が気に入ったなら良いですよ。このまま身に付けてあげますから、買って貰えます?」
「いいのか!?」
「近い近い、お顔が近い! もう、いつもと逆じゃないですか、もう!」
何がそんなにおかしいのか、不機嫌そうだった顔が一転。
奥様はコロコロと楽しそうに笑い出す。
「いやぁ、すげぇ似合ってるよ……いいなぁ、うん。すげぇ……すげぇ……」
「語彙が貧弱になってますよぅ旦那様! もう、しっかりしてください!」
これもいつもとは逆。マリーベルに背中を叩かれて、アーノルドは文字通り飛び上がる。
それは、とても紳士と淑女らしくない光景だろう。遠くからこちらを見ている店員も、失笑を禁じ得ないようだ。
だが何故だろう。自分達にはそれが、しっくりくるようだ。
頬を赤くし、そっぽを向きながら文句を言う妻を見て、アーノルドはそんな風に実感するのだった。




