31話 朝チュンですねぇ、旦那様!
――やらかした。
窓から差し込む朝日に照らされながら、マリーベルは呻いた。
外から聞こえる鳥のさえずり声が、既に夜は過ぎ去ったのだと、明確に知らしめてくる。
ドッと汗が込み上げてきた。
今度こそ、妻の務めを果たそう。あわよくば子を孕んで一生の金づる関係を――等と強がるつもりだったのに。直前になって込み上げてきた不安と、アンがくれた安らぎの言葉に気が緩み、目が覚めた時には初夜が明けていた。
どうしよう。どうしよう。旦那様に呆れられる。
新婚初夜に眠りこけて、夫を放置する妻が何処に居るのだ。
――あぁ、ここに居たか。
三か月前の『初めての夜』を思い出し、マリーベルは頭を抱えそうになった。
(……って、ん? 何だか、体が重い、よう、な――)
顔をゴロンと傾けて見ると、そこには暖かな温もりが。
「ひぇ……!?」
上げかけた悲鳴を、慌てて飲む込む。
(な、なんで!? なんで、旦那様が――!?)
マリーベルを抱きかかえるようにして寝息を立てているのは、誰であろう少女の夫、アーノルド・ゲルンボルクその人であった。
(ゆめ……じゃ、ないよね? え、なにこれ? なんで旦那様が隣で寝てるの?)
いやまぁ、夫婦であるし。新婚初夜の明けた朝だ。
普通なら、それは必須の光景であるのだが。
どう思い返しても、マリーベルには『その』記憶が無い。
ついっと目線を下に向けるも、寝衣が乱れた様子も無し。
すると――どういうことだろう?
奥様の推理小説脳をもってしても、謎は解き明かせない。
「マリー……ベル……」
「――はいっ!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。
どきどきしながら夫の顔を覗き込むも、寝息を立てるばかり。
(寝言……寝言なの? え、私の夢を見ているの……?)
頬がかぁっと熱くなる。胸の鼓動が高まり、耳に響くくらいに煩い。
何だかもう、たまらない気持ちになる。もっと聞きたい、触れ合いたい。
(……ふ、夫婦だもの。そう! 寄り添って寝るくらい普通、普通!)
だから、こうしても許されるだろう。
マリーベルは夫を起こさないよう、気を付けながらにじり寄り、その胸板に頬をすり寄せた。
厚く、たくましい感触が跳ねかえって来る。
拳闘をしていたとか聞いたが、相当に鍛えたのだろう。まだ現役だと言っても差支えないのではなかろうか。
(え、へ……えへ、へ……♪)
鼻を擽る、甘い麝香の匂い。
前にマリーベルが見立てた香水だ。それを付けて、ここに来てくれたのか。
妻を愛してくれる――ために?
(だんなさま、だんな、さまぁ……)
毛布にくるまれながら夫の体の温もりを感じる。
すごく、すごく心地良くて安心する。アーノルドが起きていたら、とてもこんな事は出来ない。
それでも、以前のマリーベルなら躊躇したであろう行為だ。
結婚式を終えたから、気持ちが大胆になっているのだろうか。奥様は調子に乗り始める。
頬の当たる位置が胸板から首筋、頬へと擦り上がる。
チクチクとした髭の感触がむず痒く、でも気持ちが良かった。
そうして、間近に迫った夫の寝顔に、マリーベルはしばし見入ってしまった。
安心しきったような緩んだ御顔。とても心地良さそうに寝入っている。
(……こうして見ると、鼻筋はクッキリと通っているし、悪くない顔立ちなんだよね)
初対面の時に相対した厳つい山賊顔が、今では何だか愛おしく感じる。衝動の赴くままに、マリーベルはもう片方の頬に手を当て、自身のそれと挟むようにして撫でた。
奥様特製・旦那様サンドイッチの完成である。
「旦那、様……」
「ん、なんだ……? ん? あさ、か――ぬぉっ!?」
不意に、目がぱちりと開き、旦那様が目を覚ます。
素っ頓狂な声が響き、マリーベルの背中に冷や汗が流れ始めた。
――しまった。調子に乗り過ぎた。
熱に浮かされたような思考が、急激に現実のそれへと引き戻された。
鼻が突きあう程の間近で、目と目が合う。
さっきまで考えていた諸々の事が、赤っ恥となってマリーベルの脳内を駆け巡った。
(というか、旦那様サンドイッチって何さ!? 何を考えちゃってたの!?)
寝ている時ならまだしも、思い切り目が開いているのに、この状況。
ちょっと言い訳が聞きそうになかった。
「えっと、あの、その、ですねぇ……」
どう誤魔化そうかと首を捻っていると、マリーベルの頭に手が載せられた。
「……おはようさん、マリーベル」
苦笑交じりのそのお顔は、ほんのりと赤く染まって見える。
それがなんだかむず痒くて、マリーベルは夫の胸元に顔を埋めるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「まぁ、当分はその……なんだ。夜のアレ――うん、子作りは後回しでもいいだろ」
ベッドに腰掛け、コーヒーを啜りながら、アーノルドがそう呟く。
ちなみにマリーベルは紅茶。それも旦那様手ずからのアレだ。
以前はもう、酷いものであったが、練習を積んだらしい。
それなりに飲める物に仕上がっているからびっくりである。
「良いんです? 男の人って、そういうの我慢できないんじゃ……」
まさか。別の方法で処理するつもりでは。
そういえば、娼館がどうの言っていたのを思い出す。それか、それなのか。
神の御前で誓いを果たしたのに、何というふしだらな……!
「その目を止めろ! 朝っぱらから寿命が縮む! 別に年がら年中、発情する生き物じゃねえぞ。いや、違う。お前に魅力が無いってわけじゃねえって! 涙ぐむな! 頼むから落ち着け!」
いけない、昨日から色々あり過ぎて情緒が不安定になっていた。
面倒くさい女と思われただろうか。
マリーベルは目元をハンカチで擦り、気を落ち着ける為に紅茶を口へと含む。
結婚した新妻の寝床へ、夫手ずからティーを運ぶ習慣。これは何十年か前に始まったことらしいが、今ではすっかり定着している。しかし、まさか自分がそれを体験できるとは夢にも思わなかった。マリーベルはふわふわとした心地になる。
「これから大変だからな。うちでもその――避妊具は扱っちゃいるが、万が一もある。腹をでかくしたままじゃ、いざって時に動けねえし」
正論である。マリーベルもそう言われたら異存は無い。
「そういうのは、落ち着いてからで良いだろ。もっと、こう……お互いの仲を深めて、だな――」
相変わらずの乙女思考な旦那様である。
そのうち、初めての夜は薔薇の花びらを敷き詰めたベッドで――とか言い出しかねない。
「いや、一応な、薔薇は用意しようとしたんだが……レティシアに止められた」
言い出してた。レティシア先生に大感謝である。
まかり間違って棘でも踏んだら、ベッドの上が別の血で染まりかねない。
夫から付けられる、初めてのしるしがそれでは、嫌すぎる。
「旦那様がそう言うなら、私は構いませんよ。あ、でも――」
マリーベルは俯いて、もじもじと両手を組み、それから上目づかいで夫を見る。
「たまに、その……一緒に寄り添って寝てくれると、嬉しいです……」
アレは良かった。とても気持ちが良かった。
大分恥ずかしくもあったが、その背徳めいたドキドキ感がたまらない。癖になりそうであった。
「それで、頭とか撫でてくれながら眠れたら、素敵だなぁ――って、どうしたんです旦那様?」
「お前、お前なぁ……! くそ、何でこういう所だけ純粋無垢なんだよ! 普段はあんだけ現実主義者の癖に! ズルいだろ!?」
「え、何がです?」
旦那様の言う事は、たまに良く分からない。いつも思わされるが、ズルいのは夫の方だろうに。
アーノルドはこちらをじっと見つめたかと思うと、盛大にため息を吐き出した。
失礼な旦那様である。
「まぁ、それはそうと。これからどうします? 今日から数日はお仕事もお休みなんですよね?」
「そりゃ、流石にな。ハネムーンに連れていってやれねぇのは、すまないと思ってる。義母上殿達のお見送りにしたって、途中までだ。いや、出来るなら、古巣の方でゆっくり、旧交でも温めさせてやりたいんだが――」
「今は大事な時ですから。王都から長く離れるわけにはいきませんし」
エルドナークの新婚旅行は、互いの親類縁者を訪ね歩く旅でもある。
しかし、マリーベルの親類なんてハインツ男爵家以外には存在しない。
そして夫もどうやら、天涯孤独の身の上であるらしい。
なら、余計な旅行をして回る必要はあるまい。
「だが、まぁ――そうだな。たまにはノンビリするのも良いだろ。これから忙しくなるしな。英気を養うってやつだ」
そう言って、アーノルドが窓の外を眺める。つられるようにして、マリーベルもまた視線を動かした。
雲一つない青空。新郎新婦が迎える朝としては、気持ち良いくらいに快晴だ。
「あ、なら! やってみたい事があるんです! お養母様を送った後、少しだけ寄り道しません?」
「やってみたい事……? なんだ、それ。俺に出来る事か?」
「はい!」
むしろ、旦那様にしか出来ない事だ。
マリーベルの心がウキウキと浮き立つ。そうだ、そうなのだ。
これから挑む長い戦いに備え、夫婦の絆を深める。
二人で美味しい物を食べ、お買い物をして、思う存分遊び回る!
そう――
「逢い引きしましょう! 旦那様!」




