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30話 初夜を遂行せよ!(パートⅡ)



「ラウル・ルスバーグの名前は有名よ。中流階級わたしたちの所まで、その噂は知れ渡っているわ」


 お屋敷アンソニーの応接間に、レティシアの声が朗々と響く。

 その口調に、呆れたような色が混じっている事から、どんな『噂』か察せれるものだ。マリーベルはそれを口には出さず、彼女の話に耳を傾ける。


「若くして参加した、植民地での戦争で手柄を立てたそうね。その後は探偵紛いの真似をして、あちこちに顔を出しているわ。上流・中流・労働者階級――そのどれに属することも無く、気軽に階級を飛び越えて社交を広げる。彼の『お相手』になった女性は、それこそ数に限りが無いそうよ」


 やはりか、あの破廉恥男。アレは少しばかり顔が良いからと言って、調子に乗っている面構えだった。マリーベルは憤りを隠せない。


 あの格好も、恐らく偉大なる先達の真似事なのだろう。彼の着こなしには見覚えがある。ベストセラー小説の主人公のスタイル。実際の文中には表現されておらず、近頃公開された挿し絵から広まった装いだ。


(何が名探偵だ、生意気な! 私だってあの格好してみたかったのに!)


 探偵令嬢・爆誕の夢が消えた。今からしたのでは、それこそ猿真似、二番煎じだ。


(ーーって、違う違うそうじゃない!)


 マリーベルはふむむ、と腕を組んで考える。脳が焼き切れてしまいそうだ。情報量が多すぎる。

 

 ――ホテルでのひと騒動のあと、マリーベル達はつつがなく祝宴を終え、そうして無事に帰宅する事が出来た。

 ラウルとの舌戦は、風に紛れたか人々の耳には届かなかったようだ。何かの余興だと思ってくれたらしい。

 そうして細々とした処理を終え、マリーベル達一行は屋敷に帰宅を果たしたのだった。


 披露宴でのあれこれを思い出したせいか。体に、どっと疲れが押し寄せてくる。今日だけで、色々色々あり過ぎた。奥様はもう、限界であった。


 急遽、養母や弟、メイド仲間たちを屋敷に泊めることにしたのもそう。あの口ぶりから察するに、男爵家にまで手は出してこないと思うが、念のためだ。ホテルやタウンハウスより、こちらの方が安全である。

 急遽の申し出に、養母がまたぶつくさ言っていたが、まぁ我慢して貰うとした。


「せっかく、結婚のお祝い品をいーっぱい貰ったのに! 開けるの、楽しみにしてたのに! それどころじゃありません! もう、台無しですよ! あんちくしょー!」

「落ち着け落ち着け、はいどうどう……」


 馬の嘶きを宥めるが如く、アーノルドが妻の手綱を捌こうとする。ぶひひんと鼻息を荒くする新妻の前に、紅茶とお菓子が差し出される。

 

「ほら、飲みなよマリー。疲れてるから気が昂ぶるんだろ?」

「そうですわ、奥様。まずは心を休めてくださいまし」


 使用人コンビが両脇からそう言って、マリーベルを気遣ってくれる。確かに、言う通りではある。ここで憤懣をぶちまけても仕方が無い。

 

 マリーベルは納得し、有難くお茶とお菓子を口にする。

 甘い、美味しい、素晴らしい!

 

「やれやれ、現金なもんだ。嬉しそうに笑いやがって」


 そう言いながらも、妻を見るアーノルドの目はひたすらに優しい。

 マリーベルは何だかむず痒い気分になり、お茶とビスケットの攻略に勤しんだ。

 

「はいはい、お熱いのはもう、お紅茶だけで十分よ。続きはこの後になさいね」

「レティ! ならば私達も、炎のような情熱の迸りを――」

「状況を考えて頂戴」


 マディスン夫妻による、いつもの小芝居。それが何だか、今のマリーベルにはホッとする。

 『敵』と思われる存在が明確化された事で生じる変化と緊張。

 それを感じさせないための、彼らなりの気遣い――なのだろうか。

 

「とにかく、やる事は変わらねえ。中流階級層との社交を経て、来月のシーズン開幕と共にラムナック上流社交界へと殴り込みだ」


 アーノルドの宣言に、皆は一様に頷く。

 

「私は、ラウル・ルスバーグの情報をもう少し洗ってみるわ。あの余裕ぶった坊ちゃんヅラの裏に、一体何が隠れていやがるか。こっちも知りたいからねぇ」

「レティ、地が出ていますよ。そんな貴女も素敵ですが――っと、私は悪食警部から得た、件のリストを当たるつもりです。『彼女』という言葉も気になりますからね。披露宴の参列者と照らし合わせてみるとしましょう」

「気を付けろよ。無理はすんな。引く時は引け」


 たったそれだけのやり取りで、彼ら三人の間には了解の空気が流れる。マリーベルはそれが頼もしくも――やはり、ちょっぴり羨ましく感じた。


 奥様心は複雑なのである。

 

「私は、社交に勤しみますね。中流階級にも食指を伸ばしているなら、色々と得る物があるかもしれません」

「あぁ、頼む。お前の出自は大きな武器になる筈だ。だが、くれぐれも気を付けろ。絶対に無理はするな。少しでもヤバイと思ったら、迷わず引け。いいな、わかったな?」


 何か、マリーベルの時だけ戒めの言葉がパワーアップしている気がする。

 旦那様は、本当に心配性であった。

 

「俺も準備を進める。商会の方の、仕事の割り振りも考えねえとな。時間はあるようで短い。ここが正念場だ」


 何事もそうだが、大切なのは目標に至るまでの下準備だ。マリーベルはぶっつけ本番大好きであるが、それはそれとして入念な手間を惜しまない。その方が後で面倒な事になるからである。

 

「話は纏まったわね。それじゃ、後は頑張んなさい二人とも」

「ああ――って、ん? 何がだ?」

「あのね……」


 はぁ、と。レティシアがため息を吐く。

 何を言ってやがんだこの朴念仁の鈍感野郎は、という御顔であった。


「色々あって忘れているかもだけれど、貴方達は今日神さまの前で永遠を誓ったのよ。だったらほら、今夜はすることあるでしょう?」

「あ」


 忘れていた。

 それはもう、ガッツリと記憶の彼方に忘却していた!


 慌てて夫の方を見ると、彼も意表を突かれたかのような顔で目をまぁるくしていた。

 

 ああ、そうだ。そうだった。マリーベルは冷や汗を流しながら思い出す。自分達は結婚式を挙げて、披露宴までこなした。


 なら、今晩は――

 

 「新婚、初夜、だ――」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「変じゃない? ねえ私、変じゃない?」


 寝室のベッドに腰掛けながら、マリーベルはすがるような目をアンに向ける。

 

「何が変なものですか。奥様は、お綺麗でいらっしゃいますよ。ええ、ええ。いつも以上に眩く輝いていらっしゃいますとも」


 そう言われても、自信が持てない。

 手鏡に映った自分の姿を、マリーベルは何度となく見返した。

 

 有能なメイドの手で整えられた髪は、ほつれの一つも無い。

 夜着にと選んだ服も下品過ぎず、さりとて野暮ったさは感じられない。

 清楚と艶やかさのギリギリを狙った扇情的なもの。

 

「旦那様、気に入ってくれるかな? どうかな? 呆れたりしないかな?」

「勿論でございますとも。奥様のようなお可愛らしい御方を無下に扱うご主人様ではございません」


 そう言われても、不安が募る。手が震えて、汗も出てきた。どきどきと心臓の音が煩くて仕方が無い。

 

 マリーベルは、無意識の内に胸へと手を当てていた。

 薄い布地に隠された、炎の傷痕。それを、彼に見られるのが怖い。

 

(何でだろ……? 前の時は、そんな事は無かったのに)


 旦那様の旦那様を凝視しようという気概のあった、あの時のマリーベルは何処へ行ってしまったのか。

 今、同じことを頭の中で思い浮かべるだけで、火が付いたように顔が熱くなる。

 はふはふと、荒い吐息まで零れてしまいそうだ。

 

「私、レティシアさんみたいにお胸もおっきくないし、こんな傷痕まで残ってるし……し、失望されたらどうしよう……」


 手鏡の中の少女の顔が、泣きそうに歪む。

 何だ、何だこれ。いつから自分は、こんなに弱くなってしまったんだ。

 

 嗚咽が零れそうになるのを必死に堪えていると、強く握りしめた手に、そっと触れる物があった 

 

「奥様が恐ろしいと思うのは、きっと貴女が今しあわせを感じているからですわ」

「幸せになると、怖くなるの?」

「ええ。奥様はきっと、幸福に慣れていらっしゃらないのですね。嫌われるのを怖いと思うのは、その裏返し」


 指先の冷たさが、沸騰しかかったマリーベルの熱を引き下げていく。

 幼い頃、風邪を引いた時を思い出す。あの時は、母がこうしてマリーベルの傍で手を握ってくれた。


「……永遠は無いって知ってるから。どんなに一緒に居たいと思っていても、私を残してお母さんは死んじゃった」


 幸福は通り過ぎる物だ。留まる物では無い。

 だから、マリーベルはお金に拘った。目に見えないモノより、手の平に感じる確かな重み。

 その方が確実だからだ。下手を打たない限り、それはずっと自分の傍に居てくれる。

 

「旦那様は、私の金づる。互いに利益のある政略結婚。愛や恋なんて不確かな関係より、その方がずっと強くて安心するから。そう、思っていたのに。どんどん欲しい物が増えていくの」


 旦那様に、もっと自分を見て欲しい。お喋りして欲しい。触れて欲しい。その気持ちが、日に日に強くなってゆく。


「奥様は欲張りさんですものね」


 いつの間にか、マリーベルは目を閉じていた。

 アンに寄り掛かり、その膝に頭を載せる。

 

「私、嫌われたりしないかな?」

「旦那様は、奥様にもっとワガママになって欲しいと思っているでしょう。私も、ティム君もそうですわ」


 髪を撫でる手が気持ち良い。とても心が安らいでゆく。

 

「大丈夫、大丈夫ですよ奥様。誰もが皆、そうやって人を愛し、想いを育んでいったのです」


 何故だろう。彼女の言葉は、スッとマリーベルの胸の内に滑り込んでゆく。

 本当に、母のようだ。何処までも不思議で優しいメイドさん。

 

「――貴女は幸せになって良いのですよ、奥様」


 その言葉がとても嬉しくて。

 マリーベルはまるで、子供のように微笑んだ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「悪い、待たせたな! マリーベル――って、寝ちまったのか」


 アーノルドが寝室に入ると、そこには目を閉じ眠っている奥様の姿。メイドの膝を枕にして、あどけなくも安らいだ顔で寝息を立てている。

 

「申し訳ございません。御心を宥めているうちに、その……」

「あぁ、いい。手間を掛けたな」


 すまなそうに眉を寄せるアンに苦笑を返す。

 どうやら相当、不安を与えてしまっていたようだ。

 

 いつぞやの『初夜』を思い出す。嫁に押し倒されて、ズボンをはぎ取られそうになった悪夢の光景。

 今思い出しても震えが来るほどのトラウマであった。

 

 けれど、そのことよりも。アーノルドは一つだけ、後悔して止まない事がある。

 

 

『――ヒデェ』

 

 

 火傷を見て、思わず零れたその言葉。

 あの時、少女の顔が一瞬、哀しそうに歪んだのをアーノルドは忘れられない。

 

「本当に、俺はどうしようもねぇ旦那だよな」


 二人に近付き、マリーベルの寝顔を眺める。

 赤みがかった、ふっくらとした頬。

 丁寧に切りそろえられたまつ毛がふるふると揺れ、小さな口から吐息が漏れる。

 時折、むにゃむにゃ寝言を呟く様が、何とも愛おしい。

 

「とても優しい目で奥様をご覧になりますのね。まるで、大事な宝物を愛でるかのようですわ」

「……あぁ、そうだな」


 くすくす笑うメイドの揶揄に、アーノルドは素直に答える。

 

「こいつは、俺の宝物だ」


 まぁ、と。メイドが楽しそうに目を細めた。


「今度、お目を覚ましているその時に、面と向かって仰ってあげてくださいまし。きっと喜びますわ」

「笑われる、の間違いじゃねえかな。腹を抱えて大爆笑されそうだ」


 その光景がありありと浮かぶ。似合わない! と、指を指して笑い転げそうだ。

 

 およそ貴族令嬢らしからぬ、感情豊かで欲張りで、剛毅で優しい女の子。

 そんなマリーベルだからこそ、アーノルドは手放せなかったのだ。

 

「……アン、後は良い。俺と二人にしてくれるか?」

「はい、ご主人様。ですが、その――」

「寝こみを襲うような真似はしねぇよ。俺はこれでも紳士を目指しているんでね」


 冗談めかしてそう言うと、アンは微笑んだ。

 

「どうぞ、良い夜を。おやすみなさいませ、ご主人様」


 メイドの姿が薄らぎ、やがて空間に溶けるようにして消えていく。いつもながら、不思議な光景であった。『祝福』とは、かくも常人には理解の及ばぬ力だ。

 

 アンが退出したのを確認し、アーノルドは妻の髪をそっと掻き上げた。

 

「焦る事はねえよな。俺達は、まだまだこれからだ。始まったばかりだもんな」


 この胸に灯った感情が、想いが何なのか。

 守りたい、大切にしたい。笑顔で居て欲しい。

 

 これは単なる庇護欲か、はたまた別の想いによるものか。

 そこまで考えて、アーノルドは首を振った。

 十代の若僧でもあるまいし。恋に惑い、ときめくような年ではなかろうに。

 本当に、調子が狂う。この娘の前では、いつもそうだ。自分を繕っていられない。

 

「……だんなさまぁ」


 起こしてしまったか。

 そう思って見るも、妻の目は閉じられたまま。

 どうやら、寝言であったらしい。

 

「ローストビーフ……マーブル・エッグ……トライフル……えへへぇ、美味しい物がいっぱぁい……」

「何の夢を見てんだ、こいつ」


 奥様の食い意地は天井知らず。世界中の美食にでも囲まれているのだろうか。

 うえへへへ、と。まさに令嬢らしからぬお言葉を呟きながら、口から涎まで零していらっしゃる。

 これが新婚初夜に、花嫁の見る夢なのだろうか。アーノルドは呆れを通り越して笑ってしまった。

 

「……ありがと、だんなさま。わたし、しあわせ……しあわせ、なの……」


 だから。そう呟かれた寝言が、不意打ちのようにアーノルドの胸に突き刺さる。


「だい、すき……」


 それは、夢に見るほどの食べ物に対するものか。

 それとも――と期待してしまっている自分に気付き、アーノルドは己の頭を掻きむしった。


「ったく。ズルいのはどっちだよ……」

 

 マリーベルと出会ってからこれまで。どれだけ心を乱された事か。クウクウ眠るこの娘には、想像も付かないだろう。


 全く罪深い女だ!

 自分がどれだけ魅力的か、分かっているのだろうか。童女のように安らいだ笑みを浮かべる妻の、その頬に顔を寄せる。

 

 

「――俺も幸せだよ、マリーベル」


 

 万感の想いを込めて呟いたその言葉が、マリーベルに届いたかどうか。


 アーノルドは愛しい妻の頬に、そっと口付けた。



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