29話 幸せですよ、お養母さま
長年の憧れであったシュトラウス伯爵家。
彼らとの夢のようなお喋りの時間を終え、マリーベルはご満悦であった。
(流石、旦那様! こりゃ、私がわざわざ心配する必要も無かった、か)
如才無い形で『商談』を纏め、貴族たちと歓談する夫を眺める。
宴の置物、デクノボウと化していたのが嘘のようだ。
その隣にはリチャードが控え、こちらも涼やかな笑みで受け答えをしている。
いつの間に、あんな社交技術を身に付けたのか。ほんと、あの年頃の男の子の成長は早い、早すぎる。
「……大したモンだね。アンタが猫を被るなら、あっちはタヌキだ。顔の厳つい親分狸さ」
養母が軽く首を竦める。
「浪費を美徳とする、昔ながらの貴族を取り込んだか。隙あらば中流階級層とも繋がりを持ちたい連中だ。成り上がりが接触する相手としちゃあ、まぁ上等な方さね」
アーノルド達を囲んでいるのは、貴族の中でも下位~中位。大貴族程の豊かな財源を持たぬ、あるいは賭け事で『名誉ある借金』が嵩んだ者達だ。社交期という一大イベントを前にして、貴族の面目を保つのに苦悩する『伝統派』。
「昨今の『質実剛健』を良しとする風潮を、苦々しく思ってる貴族共さ。面目と言い訳の理由さえ用意してやれば、涎を垂らしながら喰い付いてくるってもんだ」
「お養母様、お言葉が下品ですわ」
「ふん、だとすりゃあ、お前の影響さ。責任を取ってもらいたいもんだ」
いけしゃあしゃあとそう言って、扇で口元を隠す男爵夫人。
タヌキはどっちかと問い詰めたい。
「あれは、お前の入れ知恵かい? いつの間にあの子まで取り込んだのか。男爵家の新当主、そのお披露目すら算段に入れていたとはね。これだから、商売人はいけ好かないんだよ」
「私がお伝えしたのは、社交の知識と常識だけです。後は旦那様の地力ですよ」
『たまには、俺にも格好つけさせてくれや』
そう言って、微笑むアーノルドの姿を思い出す。
有言実行をしてくれた夫を、マリーベルは誇りに思った。
「お仕事の出来る男性って、素敵ですよね……」
「ん……? お前――」
マリーベルが訝しげなその声に振り向くと、男爵夫人は目をぱちくりさせていた。
その眉が露骨に寄っている。何だ、何だと言うのだ。
「いや、別に何でもないさ。お前も、そんな発情した雌みたいな顔をするようになったんだね」
「言い方!」
全く全く、この養母と来たら。口の悪さは何処から来たのか。はしたなくてよ、お養母様。
自身の所業をおおいに棚に上げ、マリーベルは呆れたような声を出す。
確か、生まれは子爵家であった筈。
物腰も心根も立派な貴族夫人なのに、マリーベルは昔からそれが不思議であった。
「……私がハインツ男爵家に嫁いだのは、十七の頃さ。今のお前よりも幼かったね」
「お養母様……?」
彼女が、自らの出自を語るのは初めてだ。
問うような養女の視線から逃れるように、彼女は天井を仰いだ。
「貧乏な田舎貴族の子爵令嬢。その三女ともなれば、身売り同然さ。これでも社交界では名が売れちゃあ居たんだが、縁が無かったって奴かねえ。相手も見つからず、そうこうしている内に、名門とかいう張りぼての男爵家に嫁入りさ」
パタパタと、彼女は扇で頬を煽いでいる。
その表情はいつもみたいに悪意を装ったそれが、無い。
「子に恵まれず、チクチクと嫌味を言われる日々。それにも耐えたってのに、よりによってメイドに手を出して、即座に子を孕ませる。ふざけた話さ。あの時、私がどんな気持ちを抱いたと思う?」
「さぁ……? 私には想像も付きませんね。あえて言うなら、お父様が悪逆卑劣な鬼畜男だってことくらいで」
「だろうね! お前はそう言うと思ってたさ」
彼女にどんな事情があろうが、被害を受けたのはこっちも同じ。矛先を向けられても困るのだ。
それは、養母も分かっていたのだろう。憎々しげに口元を歪めている。
「お前を引き取らざるを得なかった屈辱、リチャードが生まれた時の歓喜。どれも忘れられないもんさ。まるで、昨日の事のようだ。今でも夢に見る」
「年を取ると、思い出話が増えるって言いますものね!」
「黙りな、小娘!」
招待客の挨拶がひと段落したのを良い事に、マリーベルは久しぶりの舌戦を楽しむ。
変に湿った同情を示される方が、養母にとっては余程屈辱だと、知っているのだ。
「――あの時、炎を被ったのがあの子だったなら。例え命は助かったとしても、癒えない傷が残ったろう。それは致命の痕だ。貴族として、終わりを意味する」
そこで、初めて。養母はマリーベルを正面から見据えた。
緑がかった淡い光の瞳が、少女のそれを射抜く。
「借りは返す。それが、私の貴族としての矜持さ」
それが、不器用な養母からの精一杯の礼の言葉だと悟る。
だから、マリーベルもまた、淑女の礼を取って返した。
「ありがとうございます、お養母様」
「何がだい。お前から感謝される云われは無いだろう?」
「貴女のお蔭で、私は旦那様と出会えました。どれだけ感謝しても足りません」
「そうか、お前は今――」
養母が微かに首を振り、次いで口元を緩めた。
「――幸せ、なんだね」
今日は初めて尽くしだと、マリーベルはそう思う。
枷から解き放たれたようなその透明な微笑みは、とても美しく。薔薇の如く凛としていた。
「結婚祝い、頂けましたね。重ねてお礼を申し上げますわ、お養母様。これからもどうぞ、健やかにお過ごしくださいませ」
それに対する答えは返ってこない。
意地っ張りの養母はもう、そっぽを向いていた。
その目元が微かに赤らんでいるのに気付き、マリーベルもまた微笑む。
――今日は、本当に良い日だ。心から、そう思う。
上流階級社会から下されるであろう、夫への侮蔑を心配していたが、それも彼は見事に乗り越えた。
勿論、本番の社交はこんなものでは無い。悪意渦巻く貴族社会への挑戦は、始まったばかりである。
それでも、希望は見えた。マリーベルが確かな達成感に身を委ねていた、その時だった。
「ご歓談中、失礼。遅まきながら、結婚のお祝いを申し上げます。レディ・ゲルンボルク」
赤みがかった金髪の男性が、マリーベルの傍に寄り、恭しく紳士の礼を取る。
年の頃はアーノルドと同じか、少し上。明るいブラウンのコートに艶やかなパンタルーン、首元に巻かれたネクタイも格式に乗っ取った複雑なもの。隙が無い程にキッチリとしたその装いはしかし、窮屈な印象を感じさせない。見事な着こなしであった。
「まぁ――ルスバーグ公! 公爵閣下にお言葉を頂けるとは、光栄ですわ!」
養母の言葉に、マリーベルはさり気なくその紳士の胸元に目を移す。
木の葉が乙女の手の平に包まれている、独特の家紋。
それはこれまで、マリーベルが何度となく耳にした家名のものだ。
二百年前の王太子交代に纏わる、有名な恋愛伝説。アーノルドが憧れて止まない物語。
彼は、その主役であった初代公爵の――
「申し訳ない、来館が遅れてしまった。少し所用が出来てね。代わりに弟を先に行かせたのだが、どうだろう? またぞろ、不作法をしでかしやしなかったかな?」
「ええ、先ほどご挨拶を頂戴しましたとも。今は、あちらで淑女の皆様を相手に『ご活躍』なさっているようで」
ルスバーグ公爵と言葉を交わしながら、養母はしとやかな仕草で口元を扇で隠す。
「私も主人の訃報もあり、ここのところ社交からは遠ざかっておりましたが、相変わらず華やかでいらっしゃる。何よりでございますね。真っ先にお言葉を戴いたお蔭か、貴婦人方の視線が痛くて仕方ありませんでしたもの」
「全く、あいつと来たら。いつまでも享楽に耽って仕方が無い事だ。近頃では、大衆小説の真似ごとまでし始めたのだ。再三に渡って注意をしているというに、このようなめでたい席でも、変わらぬ態度とは――」
顔をしかめさせ、公は腕を組む。
その仕草を見て、養母から聞いた通りの御方だなと、マリーベルは納得した。
伝統の貴族の、真逆を行くかのような生真面目さ。
昨今台頭してきた『質実剛健』、その化身の如き公爵閣下である。
「しかし、本当に美しい花嫁殿だ。いやはや、噂には聞いていたが、この目で見るまで信じられなかったよ。まさに、我が家に飾られた初代夫人の姿絵に生き写しであるな」
「まぁ、光栄ですわ。あの有名な『伝説』の主演に私が似ている、だなんて。実は主人も、あのお話のファンなんですのよ」
記者会見の時に聞こえた『噂』を思い出す。
そんなに、自分とその『彼女』は似ているのだろうか。
いまいち、実感が沸かない。
「こうなると、弟を先に向かわせたのは失敗であったか……。変な口説き文句を吐きはしなかったかな? 愚弟は、どうも初代の伝説にやたらとこだわる節があって――」
そして始まる弟の愚痴。よほどの問題児なのだろう。御労しいにも程があった。
(公爵家のご次男、先ほどご挨拶をしてくださった方よね? そういえば昔、噂を聞いた事があったっけ)
ほんの僅かな間だけ、経験した社交の場。そこで囁かれた浮き名の中に、確か『それ』はあった。
(ええと、確かラウル――)
――瞬間、風が渦巻いた。
「――っ!?」
マリーベルの全身が総毛立つ。
想像だにしなかった『それ』が肌を粟立て、吹き抜けてゆく。
(まさか――そんなっ!?)
マリーベルがハッとして目を見開くと、いつの間にか青年が一人。ルスバーグ公の傍らに現れていた。
眩く輝く金髪に、水色の瞳の青年。三十路には届いておるまい。ディックやレティシアよりも年若いように見えた。
幅広の、丈の長いグレーのコートにケープを合わせた衣装。その下から覗くのは、淡いブルーのジャケットに真っ白なベスト。その首に巻くのは襞の付いたレースの胸飾り(ジャボット)だ。良く見ると、ジャケットには幾つもの勲章をぶら下げている。
――軍服だ。それも、上級士官を示すもの。
派手な刺繍がふんだんに凝らされ、いっそ華美とも言えるそれは、雑誌で見たアストリア式に近い。
だというのに、その上に羽織る野暮ったいコートとハンティング帽は何なのだろうか。
どう見てもミスマッチなのに、着こなしが優れているのか、はたまたその雰囲気か。不思議と違和感を覚えない。
「改めて、もう一度名乗らせて頂きますよ、お美しいレディ。私はラウル・ルスバーグと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「あなた、は――」
優雅に一礼するその男を前にして、マリーベルはぞっとする。
何故、気が付かなかったのか。彼の纏う気配が、先ほど最初に挨拶を交わした時とは、まるで違う。
その長身から生じる威容に、震えが止まらない。
「どうした、マリーベル!」
騒ぎを聞きつけたのだろう。アーノルドが早足でこちらに駆け寄って来た。
「だん――あなた」
「顔が真っ青だ。汗も掻いている。失礼、妻は気分が悪いようで――」
花嫁を抱きかかえ、アーノルドはルスバーグ公達から遠ざかる。
そのまま、別室に向かおうとする夫の服の袖を、マリーベルは必死で掴む。
「あの人が――そう、です。あの、工場で見た――」
「――何?」
頬に顔を寄せ、耳元で呟く。
伝えねば、これだけは知らせねば!
マリーベルは震える唇で、言葉を紡ぐ。
「ラウル・ルスバーグは『祝福持ち』です! 間違いありません。あの時、ビュンって飛んできた能力使い――」
「――ッ!?」
アーノルドの頬が強張る。
予期せぬ不意打ちを受けたかのような気持ちなのだろう。
それは、マリーベルも同じだ! まさか、今。こんな所で――!
「それはいけない。日頃、苦労をされているのだろうね。痛ましい事だ」
その声が、すぐ間近から聞こえてきた。
先ほどと同様、吹き抜けるような風と共に、ラウル・ルスバーグがアーノルドの正面に姿を現す。
強風に吹き散らされた花が舞い、招待客たちが手で顔を覆ってざわめきだす。
慌てふためくような声が響く中、アーノルド達の行く手を塞ぐように、美貌の貴公子は燦然と立ちはだかった。
「ラウル! お前の仕業だな! 何処へ行った! いきなり、何という事を――!」
「おっと、兄上様からのお小言だ。彼は他者へ敬意を持てだの、真面目に生きろだの、とにかく煩いんだ。貴族らしくないよねぇ」
遠くから聞こえる怒声。獅子の如く吠える兄の、その叫びを飄々と聞き流し、ラウルは苦笑する。
「それに、本当に間の悪い人だ。銀の懐中時計――そう、君の持つそれだ。その時計を間近で見る機会を逸してしまったのだから、ね」
アーノルドの片手から零れた銀のチェーン。
それを指差す公爵家次男の目は、爛々と輝いていた。
まるで、欲しかった玩具を見付けた子供のような表情。
「それが、かつてルスバーグ公爵家の物であったと知っているかい? 初代の公爵がまだ王太子であった頃、常に肌身離さず持ち歩いていた代物――だ、そうだよ」
「え……?」
それは初耳だ。
アーノルドの方を伺うが、どうやら彼も同じであったらしい。
困惑したように懐中時計とラウルを見比べている。
「やはり、知らずに持っていたのか。面白い、面白いね。これはやはり、大当たりであったかな? ストロベリーブロンドの髪に淡い空色の瞳の娘。その夫となるべき男は、初代公爵と同じ瞳の色をして、彼の命綱であった懐中時計を有している。これは偶然なのかな? それとも――」
猫を思わせる、大きく平らな瞳が――不意に、すっと細まった。
「ねぇ、聞いても良いかな? 君たちは、『真実の愛』ってあると思うかい?」
「……さて。質問の意味が計りかねますね」
道化師のようにおどけた言葉に対するは、冷たい声音。
夫は既に、冷静さを取り戻していた。その口元は微かに歪み、瞳は鋭い輝きを持って公爵家次男を射抜く。
矢の如き視線をしかし、ラウルは肩を竦めて受け流す。
「僕は知りたいんだ! 愛に真実はあるか、愛に運命はあるか、愛に永遠はあるか!」
歌劇の主演にでもなったつもりか、芝居がかった動作で彼は天を仰ぎ、嘆くように手を掲げる。
「――結婚式を迎えたばかりの新郎新婦への問い掛けとしては、いささか不作法かと存じますわ。兄上様が危惧なされるのも当然かと」
まるで自分がこの場の主役とでも言わんとする、その態度が気に喰わない。
今日は晴れの日、花嫁はマリーベル。そのお婿さんはアーノルドなのだ。
三流俳優はすっこんで居ろ。
「強いお酒でも召されたのでは? 良ければティーをお持ちしますが、いかがかしら。酔い覚ましには丁度良いと思いますわ」
紅茶で顔を洗って出直して来い。その気持ちを込めて、マリーベルは優雅に微笑む。
夫が怯まぬなら、自分だって負けちゃいられない。
「ふふ、可憐な薔薇には毒があると言うね。我が家の口伝によれば、初代の公爵夫人もそうだったようだ。その舌鋒の鋭さを間近で聞けて、光栄だよ」
感慨深そうにラウルが微笑む。一体、何が言いたいのだ。さっぱり要領を得ない。
マリーベルの訝しげな視線に気付いたか、彼は右手を胸元に下ろし、紳士然とした態度で頭を下げた。
「僕は探偵さ。人の心の情愛、その謎とほつれを紐解く名探偵。だから、君たちには大いにそそられるんだ。是非とも、その絆と想いの深さを知りたい、味わいたい。極上のワインを愉しむように、恋の輝きで喉を潤し、愛でたい。『彼女』と相対した時に見せた、あの儚き尊さ! それをもう一度見せておくれ!」
「『彼女』だと? それ、は――」
「知りたければ、舞台に上がってきたまえ。アーノルド・ゲルンボルク」
口元を緩め、ラウル・ルスバーグは招くように腕を広げる。
「間もなく、寝ぼけ花がその花弁を開く。シーズンの幕開けだ。有象無象の魑魅魍魎渦巻く、おぞましくも華やかな日々の始まりさ!」
そう告げると、ラウルは軽やかなステップと共に、マリーベル達から遠ざかり始める。
しかし、ほんの数歩を後ずさった所で。彼はぴたりと足を止めた。
目を輝かせ、体を震わせながらこちらを見ている。
何かと思って公爵次男の視線を辿り、そうして『それ』を目の当たりにしたマリーベルは、なるほど、と納得する。
そう、その表情の赴く先は――
「いいねぇ、その顔、その瞳! 獰猛な獣を思わせる、その面構え! 獣狩りは貴族の嗜みだ。今から胸がときめいて――あぁ、止まらないよ、どうしよう!」
「お貴族様は、優雅な趣味をお持ちでいらっしゃる。胸の高鳴りとやらに気を取られて、足元を掬われないようにご注意を。大抵、そういう余裕ぶった方ほど――」
アーノルドが、低い声で嗤った。
「――獲物に喉笛を喰いちぎられてから、後悔するものさ」
二つの目線が虚空で交差する。
周囲からさざめく声も、まるで耳に入らない。
凍り付いたような時間の中、マリーベルは固唾を呑んで、その攻防を見守った。
しばしの間の後、先に引いたのは、ラウルであった。
彼はお辞儀をするように一礼し、次いで片目を瞑る。
愛嬌がたっぷりと込められたその仕草――だからこそ、マリーベルは恐ろしいと、そう思った。
「――社交界で、待っているよ」
その言葉を最後に。まさに風の如く、伊達男は去ってゆく。
残されたマリーベル達はまんじりともせず、その背中を見送った。
「旦那様……」
「クソッタレめ、何が探偵だ。謎を解くでもなく、増やしていきやがった。とんだ迷探偵だぜ」
口調とは裏腹に、いかにも楽しげな様子のアーノルドに、マリーベルは苦笑する。
呆れ半分、頼もしさ半分。まぁ、そうでなければ、旦那様ではない。
「勝ちに行くぞ、マリーベル」
短いその一言だけで、十分だ。
静かに闘志を燃やす夫の手に指先を添え、マリーベルはそっと頷くのだった。




