28話 前哨戦
「何よ、マリーったら! あの幸せそうな顔は何さ!」
「心配して損した! まさか、『あの』アンタがあーんな蕩けるような顔をして、キスをするなんて……!」
「ねぇ、ねぇ! 何処までいったのさ! まさかお式の前に、契約神様に背くような事を、したんじゃ――」
「馬鹿ね、んなの当たり前でしょ! 若い男と女が一つの屋根の下で三か月も暮らしたのよ! 見た目だけは絶世の美少女のマリーを見て、手を出さないわけないじゃない!」
「そうよね、口さえ開かなきゃ、マリーは宝石みたいにキラキラしてるものね!」
「言えてる、言えてる! すぐ手や足が出る事さえなければ、完璧なお嬢様だもの!」
きゃいきゃい、と姦しく騒ぎ立てる少女達。
それに応える花嫁は、はにかむような笑顔を向ける。
「いやぁ、どうもどうも――って、それ褒めてます?」
時折『ん?』と首を傾げながらも、マリーベルは幸せそうだ。男爵家のメイドだという彼女達も、口でわぁわぁ喚きながら、花嫁の支度に腕を振るう。口と手が同時に動くその様は、何というか職人芸のようである。
そんな妻と友人達のやり取りを遠目で見ながら、アーノルドはホッとしていた。
彼女自身からそう聞いてはいたが、男爵家での日々は、やはり悪い物ではなかったらしい。
急に決まった結婚を心配し、こうしてわざわざ駆けつけてくれるのだから。
「――にしても、すげぇ喧しいな! この距離でも耳に響くってどういうこった!」
「あの年頃の女の子達なら、それほど珍しくもないでしょう。花が集まれば、そこに大輪が賑わう物です。まぁ、一番はうちのレティですが。輝く白百合、凛として立つ、一輪の薔薇――」
いつもながら、隙あらば嫁自慢を差し込むのが眼鏡だ。
それは上司の結婚披露宴でも変わらないらしい。
控えの間をそっと見渡し、アーノルドは軽く息を吐く。
「チェックは済んでいるな?」
「はい。女性客の方はレティが。それと先ほど、悪食警部の姿も見かけましたよ」
「あのオッサンも抜かりねえな。やれやれ、披露宴なんつう肩の凝る場でも、気を付けにゃならん事が多すぎる」
まぁ、文句を言っても始まるまい。
これも、アーノルドの宿願の為だ。
「アイツも嬉しそうだしな。出来るだけ、望むようにしてやりてぇ」
ふと見ると、何やらマリーベルが慌てている。
からかわれでもしたのかと意識を凝らすと、甲高い声がアーノルドの耳に入る。
「何それ、何それ!?! 知りませんでしたよぅ、そんなの!」
「開かずの間の噂、昔から有名らしいわよ? アンタが怖がるだろうから言わなかったけど」
「まぁ、何か幽霊屋敷? に住み始めたって聞いたし。ならもう大丈夫かなぁって――」
「うわぁ! あの塞がれた地下通路ってそうだったんです!? 知らずにお掃除してた!! 鼻歌混じりに!」」
聞きたくなかった、と。耳を塞ぎ始めるマリーベル。
どうやら、怪談話だったらしい。アーノルドは苦笑する。心配して損をした。
「そういえば、リチャード様! 最近、グッと大人っぽくなったんじゃない?」
「そうそう! 遠目から見てもわかるくらいに凛々しくて、見違えちゃったわ。礼儀作法も完璧みたいだし、あの悪戯お坊ちゃまが、化けるものねぇ……」
「ほほう! まぁ、当主の自覚が出て来たようで何よりですね!」
気が付けば、もう話が別の話題に変わっている。目まぐるしいにも程があった。
弟の成長を褒められて、マリーベルは嬉しそうである。
(……良かったな、マリーベル)
怯え顔から一転、得意そうに鼻を膨らます幼妻の姿を、アーノルドは眩しげに見つめるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
昨今の中流階級での流行は、軽食形式の披露宴だ。
利益と損益、そこに節約が加われば『節度と質実剛健』を尊ぶエルドナーク流の出来上がりである。
しかし、アーノルドが目指すは『上』であるし、今回の宴に招いているのは名のある貴族も少なくない。
何より、妻は男爵家のご令嬢である。というわけで、中流階級層からは眉根を潜められようが、方式は豪華な結婚披露宴。
そして、それはどうやら。今の所は功を奏しているようであった。
高級ホテルの会場を借り切り、開いた宴の席。そこらかしこに備えられた豪奢な料理の数々が目を引く。マリーベルと相談し、メニューから位置取りまで、入念に準備をしたものだ。味も見た目も自信を持って提供できる。
進行役として場を仕切るのはお馴染み秘書のディック――なのだが、要所要所でそれを補い、各種の挨拶を進んで行ってくれたのは、なんとも意外な人物であった。
「――いやぁ、お久しぶりですなあ、ハインツ夫人! 見事な宴の席ではございませんか!」
「卿がそう言ってくださり、胸を撫で下ろしておりますわ。マリーベル、こちらがルドマン・リュシモンド卿。あのリュシモンド子爵家を率いる、偉大な御方。騎士の称号もお持ちなのよ」
「まぁ、貴方がリュシモンド卿でいらっしゃいますのね。お会いできて光栄ですわ……!」
血の繋がりの無い母娘二人は、揃って薄く微笑む。
貴族は感情を表に出すのを良しとしないとは聞いていたが、徹底したものだ。
というか、猫を被り過ぎである。
うっすらと頬を染めるマリーベルと、それを優しげな眼差しで見つめる養母。
その姿は誰が見ても微笑ましく、仲の良い母娘であろう。
当然、彼女らの本性を知っているアーノルドの心胆は、大いに冷えた。
「女って、こっわ……!」
「いやはや全く。身内ながら、あの豹変っぷりは戸惑いますよね」
義弟と顔を見合わせ、アーノルドは囁き合う。
「――聞こえてますよ、旦那様」
いつの間にか傍に近寄ってきていた新妻が、夫の腕を掴んでにこやかに微笑む。
その指先から感じる圧の凄まじさ。アーノルドは、悲鳴を噛み殺せた自分を褒め称えたい気分になる。
「リチャードも、何か言いたい事があるなら、お姉様のお顔を見て話しなさいね?」
「いえ、今日も姉上はお美しいと、そう言いたかっただけで……! ちょ、その視線は止めてください姉様! 本気で怖い!」
「何をやってるんだい、アンタ達」
アーノルドの姿を目晦ましの壁として、義母がリチャードの頭を扇ではたく。
「遊びに来てるんじゃないんだよ。そら、次のお相手だ。外面が良いのは夫婦そろって同じだね。アンタは、ただでさえ厳つい顔をしてるんだからさ。せめて、そうやってにこやかに笑ってな」
そう言って、お義母上殿はアーノルドの背を扇でつつく。
「あれだけ大きな口を叩いたんだ。壁の花ならぬ、置物になる事くらい、覚悟して来たんだろ? これが社交界の――上級階級層の洗礼さ」
男爵夫人の囁きに、アーノルドは心得ているとばかりに、頷く。
そう。この宴の席で挨拶に来た貴族が声を掛けるのはみな、義母か妻。
すなわち男爵夫人か、男爵令嬢かである。
アーノルドの姿は目にも入っていない。いや、意図してそうしているのだろう。
そしてその姿は、会場に居る中流階級層の招待客たち――付き合い深い銀行の頭取や、同業の社長などの目に、どう映るか。それくらいはアーノルドにも察せられる。
分不相応の貴族令嬢を妻に迎えた成金男。連中は、そんな図を描こうとしているのであろう。
招待客と言葉を交わし、謝辞を述べながらも、時折マリーベルがこちらに視線を向ける。
心配そうなその眼差しに、アーノルドはそっと苦笑を返した。
『この国の上流階級社会――特に貴族の本質は、何だと思います?』
マナーやエチケットの手ほどきを受けた時、妻がそう言って指を立てたのを思い出す。
『紳士的精神、高貴なる義務。貴族を語る上で、良く言われる言葉ですよね? それらの根本にあるのは他者に対する優越心です』
いかに自分の自尊心を満たし、他人を見下すか。すなわち『軽蔑の美学』だ。
労働から解き放たれ、所領から得た収入で遊び暮らす。それが選ばれた者の特権である。
大なり小なり、殆どの貴族はそういった『特別感』を持ち、それがゆえに彼らの物腰は優雅で紳士・淑女たるのだ。
アーノルドも、その良し悪しは論じない。時間の無駄だからである。
ここで重要なのは、自分の立ち位置だ。
『貴族同士でも目と目が合えば、『お洒落決闘』が抜き撃ち勝負的に始まったりしますが、同階級層ならあくまで『同胞』。例え名誉を掛けて殺し合いをしたとしても、そこには互いに敬意が存在します。これ、相手が公爵でもう片方が男爵とかでも関係ありません。でも、旦那様は違います。この意味が、お分かりですよね?』
(――やはり、な。マリーベルが言っていたのは、こういう事か)
アーノルドは妻の言葉を反芻する。
不労所得を善とすべき価値観の者達の住処に、『労働によって莫大な富を得た』アーノルドのような成金商人が土足で踏み入る。当然、良い気分にはなるまい。それは道理であろう。
この国の社交に於ける、挨拶のエチケット。
それは、目上の者から目下に話し掛ける、というものだ。
こちらから割って入って話すわけにはいかない。
「やぁやぁ! これは麗しき花嫁だ! 兄の到着が遅れていてね! 私が先に挨拶をさせて頂くよ!」
見れば、目の前でもう一人。
気取った仕草で礼を取り、妻と義母へにこやかな挨拶を交わす者が居る。ジャラジャラと胸に勲章を下げたその男は、紳士淑女の注目を浴びながら颯爽とした語り口で弁舌を繰り出す。
周囲の反応を見るに、社交界の花形とも言うべき男なのだろう。
そんな彼の目は、アーノルドを完全に避けている。
無視、というより存在を認めていないかのような態度。
それを皆、当然の事のように受け入れている。
(露骨というか、何というか。これが上流階級の『社交』ってやつか。成るほど成るほど、上等だ)
こういった場合、養母や妻から『夫が』『義理の息子となる~』と紹介して貰うのが一般的な手段だ。
本来、下の階級の者が上へと喰い込むには、そうやって取り成してもらうのが常。
だが、今回。その手は使わないよう、二人には予め言い含めてある。
以前のアーノルドなら、それを良しとした事だろう。手っ取り早い方法を厭う理由が無い。
けれど、今は違う。
マリーベルとこの三か月間を過ごした今、アーノルドの価値観と感情に変化が生まれていた。
(こんくらい自分で乗り越えなきゃ、格好が付かねぇよな)
でなければアーノルドが、妻の傍に立つ資格などあるまい。いつまでもおんぶに抱っこでは、怪異渦巻く社交界を攻略することなど不可能だ。それは意地であり、人生のパートナーとなるべき少女への敬意でもあった。
アーノルドが余裕の態度を崩さないせいか、はたまた『妻』や『義母』が何の反応も起こさない事を不審に思ったか。貴族たち、その何人かは新郎へと微かに目線を投げかけている。
襟に付いた家紋を確認。その中に、目星となるべきそれをアーノルドは見付けた。
(わざわざ紋章院にまで出向いて確認し、頭に叩き込んだ甲斐はあったな)
ある程度の注目がこちらに向くのを確認し、アーノルドが動く。
「あなた……?」
妻の真横に立つと、アーノルドは懐から『それ』を取り出そうと腕を上げ――指先から、銀の光が零れ落ちた。
「おぉ……!?」
窓から差し込む陽の光が、チェーンに反射し眩い煌めきを放つ。
銀糸が舞うかの如く、光輪が宙に残像を刻み込む。
アーノルドが常に持ち歩いている、懐中時計だ。
鮮やかな光を描く銀の輝きに、周囲の視線が引き寄せられていく。
そうして、床に落ちる寸前のそれを、小さな手が掴んだ。
「おっと、っと――!」
くるり、と。『彼』は見事なターンを決め、アーノルドが目標と定めたその男の前に立つ。
身長差から、手に持つ『それ』は絶妙な位置で見えたことだろう。
男の目が食い入るような光を帯びた。
貴族は基本、洒落ものだ。
他者に対する優位がその本質。そう、マリーベルは言っていた。
「失礼、グレイブランド卿! 義兄の無礼をお詫び申し上げます」
涼やかに笑った『彼』――リチャード・ハインツが、男に向かって紳士の礼を取る。
ほう、という吐息が周囲から漏れた。
それは、齢十歳の子供が家格を正確に判断し、如才無い礼を取った事に対する賞賛か。
それとも――
「大変な失礼を致しました。お召し物が汚れては、お詫びの申し上げようも無かった所です」
「ああ、いや……何という事は無かった。大した事では無いよ」
「それは良かった! 義弟の機転とはしっこさに助けられました。ご覧になったように、彼は幼ないながらも立派な男だ。情けない新郎の面目まで立ててくれましたよ」
そう言って、茶目っ気たっぷりに、いかにも哀れな風を装ってアーノルドは肩を落とす。
途端に周囲から、失笑が漏れ聞こえた。
「時代の寵児と言われ、もてはやされているようだが、自分への見積もりが随分と低いようだね?」
「ええ、何せ金勘定だけが得意な商売人なので。こういった席でも、売込もうと考えるのは商品や――私に繋がる人々の縁ばかり。金払いの良い銀行を紹介は出来ても、とても胸を張って皆様の前に立てるような身柄ではありません」
アーノルドは笑みを浮かべて礼を取ると、リチャードを前に押し出すようにしてその後ろに控える。
そう、今日売り出すべきは、自分だけでは、ない。
紳士の仕立てに身を包み、懐中時計を手にしたハインツ男爵閣下の堂々たる姿。
それは幼い子供だと侮っていた貴族たちの意表を突き、その注目を集めるには十分過ぎた。
更にそれを後押しするのが、大きく腕を動かした事で見えた、シャツの袖ボタン。懐中時計と対になるような、金色の光が煌めく。これもチェーンの銀色に良く映えるよう、特注したものだ。
「見事な懐中時計だね。ハインツ卿、君の義兄上は良い趣味をお持ちのようだ」
涼やかな笑みを浮かべて話し掛けてきたのは一人の紳士だ。年の頃はアーノルドより二十は上だろう。白く染まった髪の下、赤い瞳が柔和な輝きを帯びている。その傍らには、これまた温和な笑みを浮かべた夫人の姿があった。
その家紋を目にした時、アーノルドはハッとする。
「私は以前、これと同じ物を目にする機会があったよ。王家の縁の物ではないかな、ミスター・ゲルンボルク」
「流石のご慧眼、痛み入ります。シュトラウス閣下」
背後でマリーベルが、息を呑んだような気配が伝わって来る。
そう、彼こそがあの『美食伯』――その孫にあたる、第六十二代シュトラウス伯爵だ。
「グレイブランド卿もそうは思わないかね? 随分と目を奪われていたようだ」
「あ、はい……! いや、まこと見事な造り。年代を感じさせる代物だ。出来れば、じっくりと手に取ってみて見たい」
グレイブランド子爵の目が泳ぐ。
意外な援護射撃に、アーノルドは心の中で喝采を挙げる。
「シュトラウス閣下、実は妻が先々代夫妻に憧れていまして。どうか、貴重なお時間を頂戴することは叶いませんでしょうか? このような成り上がりに着いて来てくれた、健気な人なのです。その願いを叶えてあげたくて」
「ほう、ミスターは愛妻家でいらっしゃるのだな。こちらこそ、こんなにもお美しいお嬢さんとお話が出来るとは光栄だね。よろしいかな、レディ?」
「は、はい! ぜぜ、是非……!」
猫かぶりが外れている。目をキラキラと輝かせる花嫁の姿に、アーノルドは苦笑を漏らす。
傍らに目を落とすと、母姉に似て演技達者な義弟が、パチンと片目を瞑るのが見えた。
アーノルドもまた、それに応えるように手を差出し、拳を合わせた。
そうして二人、密かに健闘を讃えあっていると、そわそわしたような声が振りかかる。
「それで、だね。ミスター・ゲルンボルク。私はその時計に興味が湧いたのだが――」
「ええ、ええ。少し向こうでお話しましょうかグレイブランド閣下。その際、『友人を紹介させて』頂きますよ」
「ほう、興味があるね」
「私もだ」
――喰い付いてきた。アーノルドは態度を表に出さず、ひっそりと笑む。
お客が真に求める物を察し、提供できてこその商人。
何も、相手のステージで勝負する事は無いのだ。
在るべき方向に視線を向ければ、『友人』――民間銀行の頭取が舌なめずりせんばかりの表情で、歓喜の笑みを浮かべている。これは、三方にとっても素晴らしき『商談』なのである。
「では、皆様。あちらのテラスでお話しましょうか。グラスも運ばせましょう。今日は素晴らしき日だ。得難い方々と知り合えた縁を祝い、とっておきのワインを開けましょう」
彼らの目が、一段と鋭い輝きを放つのを見て。
アーノルドは己が『前哨戦』に勝利した事を、確信した。




