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26話 幽霊屋敷の真相


「何をやってんだ、俺は一体……!?」


 壁に頭を打ち付けたくなる気持ちを必死に抑え、アーノルドはぼやいた。

 

(違う、俺は単にアイツの様子を見に行こうとしただけで。あんな悪戯を仕掛けるようなつもりは――)


 ――無かった、と。そう言えるのか?

 

 おでこに口づけをした時の妻の、あの表情を思い出す。

 上気した頬。荒い息遣い。そして、こちらを見上げる潤んだ瞳――

 

 普段、快活すぎるくらいに元気で、こちらを振り回して男らしく笑うあのマリーベルが、まるで純情可憐な乙女のような顔をしていた。夫の行為を受け入れるように、そっと目まで閉じたではないか!

 

 怯えるように、期待するように。整えられたまつ毛が、ふるふると震えるあの姿。

 アーノルドの理性にヒビが入りそうであった。あのまま、唇を奪ってしまいたくなる。その衝動を押さえつけるのは一苦労であった。


 あんな場で、勢いで初めての口づけを奪うなど、鬼畜の所業。紳士のすべきことではない。

 それでなくても、あの娘には色々と苦労をさせてしまった。明かしたくないであろう『祝福』という秘密まで打ち明けさせたのだ。一生に一度の大切な行為くらい、望むようにしてやりたかった。

 

(がぁ……っ! 何が『してみるか、練習?』だ! 気障すぎるだろ!)


 あの娘は、アーノルドをどう思ったか。呆れてくれるならまだいいのだが。

 

(情けねぇ、十四も年下の娘相手に何をやってんだ、全く)


 アーノルドは三十を超えた大人である。

 だというのに、この体たらく、あまりにも愚鈍が過ぎた。


(明日、なんか美味いモンでも食べさせてやるか。ティムも連れて、何処か――)


 お腹に物を詰め込めば、きっと喜ぶ。マリーベルが幸せそうに笑ってくれていると、アーノルドも嬉しかった。

 あの笑顔を想像するだけで、心の内が仄かに暖かくなる。

 

 それは、遠い昔に失った筈の温もり。もう二度と得る事は無い、得る資格は無いと思い込んでいたその感情を、まさかこんな形で味わうとは思わなかった。

 

 色々な意味で、マリーベルには感謝を禁じ得ない。出来る限りの事をしてやらなくては。

 そう、改めて決意した、その時だ。

 

「ひゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」


 聞こえてきた、盛大な悲鳴。絹を引き裂くような、なんて生易しいものでは無い。

 屋敷を揺るがすような、それは恐ろしい叫び声だ。

 

 それが誰のものか、確認するまでもなかった。

 

「――マリーベルッ!」


 床を蹴り、来た道を駆け戻る。

 

(くそ、くそ、くそ! 油断した! 『奴等』か!? まさか、もう仕掛けてくるとは――)


 対策は、一応はしていた。しかし、心に緩みがあったのは事実だろう。

 何だかんだで、マリーベルに対して別格の信頼を持っていたのも仇となったか。

 自身の迂闊さを呪いつつ、アーノルドは『婦人の間』の扉を蹴り開けた。

 

「大丈夫か、マリー! ベ、ル……うごっ!?」


 部屋に踏み込むと同時。矢のように飛びかかって来た『それ』がアーノルドの鳩尾を強打した。

 それが誰かを確認する必要は、今度も無い。予想通りの奥様マリーベルであった。

 

「旦那様、旦那様! ゆゆゆゆ、幽霊ですぅ!!」

「ごが、やめ、やめろ! 頭、頭を振るな――って、なに!?」


 視界が激しくシェイクされ、前後不覚に陥りそうになる。

 『祝福』を使わなくても、マリーベルの馬鹿力は健在だった。

 嫁の凶行を何とか押しとどめ、アーノルドは呼吸を整える。

 

 ――今、何かあり得ない言葉が耳に聞こえたような?

 

「幽霊だと……? あの噂は噂に過ぎないって言ったろ?」

「でででも、あれ! あれ!」


 マリーベルが指差した先を見ると、壁に半分埋まった姿勢でこちらを見ている女性の姿。

 

「……うわぉっ!? なな、なんだアレ!?」


 心の底から震えあがる。

 先ほど受けた妻のタックルに匹敵する衝撃が、アーノルドの常識を揺さぶった。


「さ、下がれマリーベル! 何だお前は!? まさか『祝福』使いか……!?」

「あ、これは申し遅れまして。こんな姿で失礼をいたしました」


 壁からスッと抜け出し、女は丁寧に礼をする。

 スカートの裾を摘まみ、背を屈めたその姿勢は、紛れもなく儀礼的挨拶カーテシー。妻が必殺とするアレだ。


「いや、別にカーテシーが決まったからって、人がぐおおーって斃れるわけでは無いのですが」

「少なくとも、男どもの心は撃ち抜かれるみてぇだからな――って、そんなのどうでもいい!」


 こんな状況下だというのに、マリーベルは夫の呟きにどうでもいい突っ込みを返して来る。

 

「まぁ、仲がよろしいですのね。まるで、夫とわたくしを見ているようですわ。仲良きことは美しきかな。名言ですわね」


 しかして、幽霊の言葉は更にのほほんとしていた。


「え、既婚者でいらっしゃるのです? あの、幽霊さん?」

「それが、よく覚えていませんの。気付いたら、こうしてここに居まして。困りましたわ……」


 ちっとも困ってなさそうな声で、幽霊女はのんびりと微笑む。無駄に気品のある仕草だ。

 抜けるように白い髪と肌。長いまつ毛から覗くのは、紅くぼやけた瞳。すっと通った鼻筋は美しいラインを描いており、色素の薄い小さな唇からは、鈴の鳴るような美しい声が響く。

 

 一見した所、まさに深窓のご令嬢、と言った風情だ。

 その動作は一々優雅で無駄が無く、マリーベルのそれよりも洗練されているように思えた。

 妻の礼儀作法は完璧である。だというのに、その上を行くと感じさせる、とは。


「わたくしをご存知の方はいらっしゃらないかしら、と。来る方来る方、皆様にお声を掛けているのですが、誰も答えても下さらず、悲鳴を上げて逃げてしまわれて……」


 ん、と。アーノルドはマリーベルと顔を見合わせる。それは、何処かで聞いた話だった。

 

「あー、その。アンタ、いつからこの屋敷に居るんだ?」

「そうですねぇ。もう――六年ほど前からになりますか。多分、間違いはないと思うのですけれど」


 六年。間違いない。それは、この屋敷が建った辺りと一致する。

 アーノルドは頭に痛みを覚え始めた。まさか、例の『噂』は、もしや――

 

「あまりにも申し訳が無くて。途中から黙っていることにしたのですが、その。どうしても我慢が出来なくなってしまいましたの」


 申し訳なさそうに、幽霊は縮こまる。しかし、その目は言葉とは裏腹にキラキラと輝いていた。


「丁度奥様がこのお屋敷に嫁いでいらっしゃった頃から、でしょうか。今までは寝たり起きたり、みたいなぼやけた感覚の毎日だったのですが、今ではもう四六時中、意識もはっきりくっきりとしておりますの」


 それは良い事なのだろうか。

 判断が付かないアーノルド達に、しかし幽霊はニコニコ笑いながらお喋りを続ける。


「わたくし、このお屋敷には愛着がありまして。ここの所は埃だらけでどうしましょうと思っていたのですが」

「う」


 アーノルドは痛い所を突かれたように黙り込んだ。

 無精過ぎて、屋敷に帰る事も少なく、ついついと放置気味になってしまっていたと、認めざるを得ない。

 

「そこに現れた救い主が、そこの奥様ですわ。隅から隅まで丁寧にしてくださって、感謝の言葉もございません。意識が明瞭になったのも、もしかしたらそのお蔭かもしれませんわ。いつか、お礼を申し上げようと機会を伺っておりましたの」


 それで、あの――と。幽霊はアーノルド達を赤らんだ頬で見つめる。

 

「先ほどの、素晴らしき愛の営み。若者たちが交わす恋の睦言の、なんと素晴らしきこと! わたくし、もう我慢が出来なくなってしまいまして……」


 つい、声を掛けてしまいました。そう、可愛らしく舌を出して幽霊はおどけた。

 

「い、いや! 愛の営みも何も……なぁ?」

「そ、そそ、そうですよ! 恋の睦言も何も、旦那さまとはそんな関係じゃ――って、見てたんです!?」


 マリーベルの顔が真っ赤に染まる。見たことも無い程の火照り具合に、アーノルドもまた妙な気分になった。

 

「いえ、そうでしたわね。他人がそれを指摘するなど、無粋極まりありませんわ。静かに、二人で愛を育む。それが素晴らしいと、『彼女』に聞いたものです――」

「……彼女?」


 マリーベルが首を傾げる。

 

「え、あ……誰でしょう。小さな頃に、とてもお世話になったご夫人で。美味しい料理を、色々と教えてくれた――よう、な……」「おいおい、アンタ大丈夫か? 思い出せてんじゃねえか。もっとほら、記憶を探ってみろよ」


 顔をしかめて黙り込んでしまった幽霊が、何だか哀れに見えてしまう。


「ダメ、ですわ……他は、何も思い出せなくて……」

「ご夫人の名前は? 何か手がかりがあるかもしれませんよ? ほら、さっき旦那様が居る、みたいな話も――」


 マリーベルの言葉に、しかし幽霊は首を振った。

 

「これ以上は無理のようです。でも大きな一歩ですわ! お二人と話すまで、何も思い出せませんでしたもの!」


 幽霊は特に気にしていないのか、にこにこ笑っている。悪意の欠片もないその表情に、アーノルドは毒気を抜かれてしまう。それは、妻も同じのようだ。少し呆然とした顔で、美女を眺めている。


「そこでお願いがありますの。わたくしを、このお屋敷にこのまま置いてはくださいませんか? もちろん、お手伝いはいたしますわ。わたくし、家政婦とか、メイドというものに憧れていましたの。『彼女』も、とある使用人を母のように慕っていたと――」


 ハッとしたように、幽霊が口をつぐむ。その顔は、明るい希望に輝いていた。

 

「また思い出しましたわ! すごい、すごいですわ! お二人の傍にいればきっと、もっと色々思い出します! ですから、是非!」

「いや、元から居たってのが本当なら、アンタを追い出すのも気が引けるしな。そりゃ、構わねえけどさ」


 しかし、この女が本当に味方かは判断できない。

 幽霊がどうのこうの、という怪奇現象を差っ引いたとしても、だ。

 

「……信頼、出来るかも、しれません」

「マリーベル?」


 マリーベルが信じられない、と言った顔で幽霊を指差した。

 

「この方――『祝福』を使っています。多分、今の状態そのものが彼女の『能力』――」

「んだとっ!?」


 ハッとして女の方を見る。常人であるアーノルドには、その違いが分からない。

 

「だが、それなら『奴等』の可能性があるんじゃねえのか? 送り込まれた刺客、とか」

「そのつもりなら、とっくに襲われてますよぅ。分かりました、このお屋敷にやってきた当初から妙にしっくりきて、愛着を持てた理由。この『アーノルド二世』から感じる謎めいた親近感は、彼女の持つ『祝福』の残り香だったのですね」


 マリーベルは得心した、という風にうんうんと頷いている。その顔にもう恐怖の色は無い。

 正体が分かったから、安心したらしい。

 

「あの時感じた、いやな気配が無いです。直感ですけど、この方は信じられる――気が、します」

「ふむ……」


 妻の本能めいたそれは、時として野生の獣よりも鋭い。

 アーノルドはマリーベルをそんな風に評していた。

 

 しばしの熟考ののち、アーノルドは判断を下す。

 

「分かった。丁度、使用人の手が足りなかったしな。コイツを手伝ってくれると助かる。出来るか?」

「はい、毎日毎日、奥様のお仕事を見ていましたもの。最近では、少しお手伝いもしていましたのよ」

「ここのところ、掃いた覚えのない所が綺麗になってると思ったら、そんな事が――」


 マリーベルの目は輝いている。そらもう、ギラッギラだ。

 

「無料で雇える使用人なんです!? すごい! すごいですよ旦那様! それも、もしかしたらオールメイドワークスを!」


 やったー、と両手を上げるマリーベル。現金が過ぎる妻の姿に、アーノルドは涙を禁じ得なかった。

 

「あ、でも。それだけじゃ申し訳ないので、して欲しい事があったら言ってくださいね! 雇用契約も結びましょう! 字、書けます?」

「はい。このお屋敷の中なら実体化出来ますので。睡眠も必要ありませんわ。変な輩が来たら『やあっ!』って後ろから殴ってそのままポイする事も可能です」


 何それ凄い。

 防犯効果が凄まじいとは思っていたが、もしやその何割かはこの女性の力添えだったのだろうか。

 

「この屋敷の中では無敵ですの、わたくし」

「た、たのもしい……! 旦那様、これってとんでもない幸運ですよ! 『奴等』の刺客に怯えずにも済みますし!」


 アーノルドも妻と同意見だ。しかし、これは何というか出来過ぎではないだろうか。

 商売柄か、どうも穿って考えてしまう。罠の可能性を捨てきれない。

 

「多分、調和神様の『天秤バランス』じゃないでしょうか。ほら、『祝福』は天にまします主が授けるって言いますし」

「……向こう側に戦力が傾きすぎたから、調整したってのか? スポーツや遊戯やってんじゃねえんだぞ」


 自分達は神の駒か何かか。流石に気分が悪くなる。

 

「それは違いますわ、ご主人様。幸運を呼び寄せたとすれば、きっとそちらの奥様のお蔭でしょう」

「へ? 私です?」


 ええ、と。幽霊は優しげに微笑む。

 

「貴女の努力と誠実さが、わたくしの存在を明瞭にし、声を掛けさせるという勇気を呼び起こしたのです。誇ってくださいませ、貴女の技能と想いの全てを、わたくしは尊敬いたしますわ」


 マリーベルは、しばし呆然としたような顔で幽霊を眺めた。アーノルドも、恐らく同じ顔をしているだろう。

 その笑顔は母性的な笑みに彩られていた。友人(レティシア)のそれも柔和だが、あっちは地がアレだ。

 彼女の微笑みは、遠き日に忘れ去った懐かしい感情を呼び起こすような、本能的な安らぎをもたらした。

 

 恋愛的な感情では無い、男女のそれを超えた――母の、愛。

 まだ二十かそこらに見える娘から、どうしてそれを感じるのか。アーノルドは信じられない気持ちでいた。

 

「あ、あの……貴女は、なんて呼べば良いのです? 幽霊さん、じゃその――」

「そうですわね……」


 小首を傾げ乍ら美女は考え込む。ややあって、ぽん、と彼女は手を叩いた。

 

「――アン、と。そうお呼びくださいませ」

「アン……?」

 

 マリーベルとアーノルドが同時にそう呟く。

 短く、語呂の良い名前。彼女に対しては、妙にしっくりくる気もする。

 つくづく、不思議な女だとそう思う。

 

「はい、このお屋敷の名から取らせて頂きました。メイドのアンにございます。これからよしなに、ご主人様、奥様」


 そう言って、見事な礼を示すアン。

 

 アーノルドは妻ともう一度顔を見合わせ、そして同時に笑った。

 

 彼女が本当に信頼できるかは、まだわからない。

 けれど、彼女との出会いは、ここの所の妙な鬱憤を吹き飛ばすような何かを感じさせた。

 

 社交場という戦場を控えた自分達にとって、それは確かな力となってくれるだろうか。

 

 ふと、アーノルドの手に暖かいものが触れる。

 それが何なのか、やはり確かめるまでもない。

 指先から感じる温もりに力強さを覚え、アーノルドは妻のその手を、そっと握り返すのだった。

 

      ーーおまけーー


「というわけで! 同僚が増えましたよティム君!」

「アンと申します。わけあって実体はございませんが、よろしくお願いいたしますね」


「なにそれ!? どういう事だよ……っ!?」

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