25話 何だか、ちょっぴりおかしいです
久しぶりのお休みに、家事仕事を堪能した、その夜。
マリーベルは『婦人の間』で、届いた花嫁衣装をぼうっと眺めていた。
精緻な薔薇の刺繍が施されたそれは、まるで白雪のように淡く美しい。じっと見ていると、視線の熱で溶けてしまいそう。それが何だか怖くて、マリーベルは時々目を逸らすが、やはり堪らず吸い寄せられてしまう。
純白の衣装は純潔を示し、花嫁の証とも言える。もう何十年も前、彼の女王陛下が僅か十六歳でご成婚あそばされた時、纏っていたのが白いドレスだったことから広まり、今ではエルドナークのスタンダードになったという。
(この衣装を纏って、旦那様のお嫁さんになるんだ……)
既にもう書類上でも嫁であり、一緒の屋敷に暮らしてはいるが、そこはそれ。気分が違うのだ。
(……何か変、か。確かに、最近の私はちょっとおかしいかも)
レティシアと初めて会った日に、夫から言われた言葉を思い出す。
共に社交界に挑む、と宣言して以来、アーノルドとの距離は更に近付いた。
少なくとも、マリーベルはそう感じている。
旦那様もこちらをパートナーと認めてくれたのか、以前よりもずっと気安く接してくれていた。
それは嬉しい。金づる関係が一段と強固になった。もろ手を挙げて歓迎すべき状況。
なのに、それで満足できていない自分が居る。
――足りない。
飢えたようなその気持ちが、マリーベルを内側から灼く。
どろどろとした欲望が、後から後から首をもたげてくるかのようだ。
いけない、と。首を振って自制する。
これだ、これが怖いのだ。
マリーベルは、自分が欲の深い女だと知っている。ようく理解している。
求める所に下限が無い。底なしだ。貰える物は何でも欲しい。何処までも欲しい。
どうやら、関係が対等に近づいたことで、夫に対する独占欲のような物が湧いてきてしまっているようだ。
今は大事な時期、自重をせねばならない。
決意を新たにしたその時、控えめなノックの音が響いた。
「マリーベル、居るか? 入ってもいいか?」
「旦那様……? はい、どうぞ」
入って来たのは、誰であろうアーノルドだ。
どこか訝しげに、マリーベルに向かって探るような目線を向けてくる。
ははぁ、と。マリーベルは勘付いた。
多忙な妻を心配しているのだろう。自分だって似たようなものの癖に、旦那様は心配性なのだ。
「もう、子供じゃないんですから。そんなに気にしないでくださいよぅ」
「子供じゃねえから心配なんだよ。お前は自分の事より他人を優先しそうだからな」
何だそれは。マリーベルは、せせら笑う。ちゃんちゃら可笑しくてたまらなかった。
自分がそんな殊勝な女なわけないではないか。何より大切なのはお金と、マリーベル自身の幸福である。
旦那様とだって利害で結ばれた信頼関係。それ以上でも以下でも無い。
……無い、筈なのだ。
「何だ、ドレスを眺めてたのか? 良い出来だよな。お前に良く似合うと思うぜ」
「でしょう、そうでしょう! 世界一綺麗なお嫁さんを娶れる幸せを享受してくださいませ! だから、披露宴のお料理はうーんと豪華にしてくださいね! 中流階級の流行とかいう軽食式じゃないんでしょ? だったらケーキ! うずたかく積もったケーキを見たいです、食べたいです!」
「息が荒い」
いつものように顔を押しのけられる。やっと調子が戻って来たと、マリーベルは密かに安堵した。
「料理の前に、まずは式の方だ。段取りは覚えてるな? 当日は頼むぜ」
「お任せを! その後の結婚披露宴の知識だって十分です! レティシアさんに補足もして貰えそうですし、バッチリ完璧!」
えへん、と胸を反らし、奥様は得意げに指を立てる。
「お式の必須品『なにかひとつ、古いもの』だって用意出来てますよぉ。うちのお父様は儚くなってしまいましたから『ニュー』は弟が代用しますけど」
契約神の装いを誓約の証と謳い、生まれたとされる、古の韻文。
それに記された、結婚式に当たって用意すべき四つの物品とコインの事だ。
序文にある言葉から取られて、『何か一つ古いもの』と、そう呼ばれている。
基本、これらの要素を用意するのは新婦側だ。家門に伝わる、古き歴史の証。新生活への手向けとして、新婦の父が用意する新しき品。既婚の先達から借り受ける、あやかりもの。そして、聖典にも記された純潔を現す青い物。最後はコイン。繁栄と祝福を願う祈りの銅貨。
結婚により両家が即物的に結びつき、新婦の実家が利益を享受できますように――という生々しい代物だ。
正直で、マリーベルも嫌いではない。
「そう言うなや! 花嫁の幸せを祈ったり願ったりするには変わりねえだろ!」
「お為ごかしって奴ですね!」
「もう少し夢を見させてくれ! 今はそうでも、これから時代が変わればそうなるかもしんねぇだろ!」
そんな日が本当に来るのやら。旦那様は相変わらずロマンチストでいらっしゃる。
「招待客の目録も出来てますし、招待状は送り済みですしぃ。一番お金のかかる『嫁入り支度』はもう終わってますからねぇ。持参金云々は、そもそも私達には関係ないですし。あ、花婿付添人はディックさんにやってもらってるんでしょ?」
「あぁ、そうだ。花嫁付添人はレティと――」
「男爵家のメイド仲間が手伝ってくれるそうです。花嫁衣装の裾をあげる役は、ティム君にやってもらえばいいですし――」
ひとつひとつ、穴を潰していく。準備はやり過ぎるくらい入念に打ち合わせた方がいい。
披露宴にはアーノルドの顧客や界隈の名士だけでなく、上流階級層の貴族たちもやってくる。ここでの『顔つなぎ』は大事だ。
歴史の古さだけが自慢の男爵家だが、こういう時はその家名が頼りになるものだ。
「後は、司教様の前で『契約神』様に誓いの言葉を応え、口づけ――」
そこで、饒舌だったマリーベルの口がぴたりと止まる。
このエルドナークにおいて、口づけは神聖なものだ。家族に対してならともかく、身内以外にみだりに口付けたりしない。頬やおでこにだって御法度だ。他者からのマナーとしては存在するが、敬愛の印として精々手の甲に触れる真似をするだけ。
「ああ、そうだったな。お前、一応は貴族令嬢だったもんな。この国じゃ、キスがあいさつ代わり、なんて常識はねぇか」
「破廉恥です。口づけは、大切な人にだけ贈るんです。だから、大事に取ってました。高く売れそうですし!」
「破廉恥なのはお前の倫理じゃね……?」
それだけ大切な物なのだと分かってもらいたい。複雑な乙女心がそこにあるのだ。
「純真なご令嬢は、愛する方に初めての口づけを――とか、胸をときめかせてるんでしょうけど。自身の将来と安定した生活の為に目をギラつかせてる娘も少なくないって聞きますよ。そういう方々はまぁ、私と同じ考え方かと」
「聞きたくない……」
本当に、いつもながら恋に夢を見る男である。
マリーベルは何だかおかしくなってきた。
「まぁ、緊張はしますよ。私だって恥ずかしいです。出来れば、予行演習をしておきたいくらいに! いっそ、ここでしちゃいます? ぶちゅっと! なーんて――」
「お前がやりたいんなら、別にいいぜ?」
「えっ」
冗談めかして言った言葉に、アーノルドが軽く返す。いつものやり取り。変わらぬじゃれあいみたいな物。
でも、マリーベルは言葉に詰まってしまった。想像、してしまった。
「な、なんだよ! おい、顔を赤くすんなって……!」
「だ、旦那様こそ……」
ちらっと見上げると、アーノルドの頬もほんのりと赤い。
マリーベルは耐え切れず、俯いてしまった。どくん、どくんと。心臓の音がやけに煩く聞こえる。
(もう、どうしちゃったのよ。そもそも話を振ったの、私じゃないの)
そっと胸を押さえる。止まれ、と念じても一向に言う事を聞いてくれない、
これは主人への反逆だ。何を訴えようと言うのか。
こんな音がもし旦那様に聞こえたら、誤解をさせてしまう――
「――あっ」
大きな手の平が、マリーベルの頬に添えられた。壊れ物を扱うような、優しい指使いが肌を這う。
そこから伝わる温もりが暖かくて、気持ち良くて。頭が沸き立ちそうになる。
「だ、ん、なさま……」
「……してみるか、練習?」
はひ、っと。変な声が出た。
それを見て了承と取ったか、アーノルドの顔がゆっくりと近付いてくる。
(ちがう、今のは返事じゃないの。違うの、待って――)
しかし、その声が口から出る事はなくて。
代わりに視界が真っ暗になる。知らぬうちに、マリーベルは目を閉じていた。
無意識の内にか、手を祈るように組み合わせて。
まるで、キスをねだる乙女のような姿を取っていると気付いた瞬間、マリーベルは固まって動けなくなる。
――今の自分は、彼の目には、どう映ってしまっているだろう?
緊張と興奮が最大限に達しようとする。
蒸気を吹かすように疾駆する心臓の爆音が、耳に煩い。
(何これ、わかんない……私、どうしちゃったの……?)
怖い、嬉しい、恥ずかしい。
相反する感情がグルグル、グルグルと。マリーベルの頭の中で巡って溢れ出す。
唇から漏れ出す吐息が、やけに熱い。火をくべられたみたいだ。
今にも燃えてしまいそうで、あぁ、もう!
耐えられない――
「――んっ!?」
吸着音と共に、マリーベルのおでこに柔らかな物が触れた。
目を開けると、そこにはお馴染みの山賊顔。
マリーベルの弟も良くする、悪戯坊主のような表情で、アーノルドはニヤリと笑う。
「――練習、つったろ? 本番は、当日にな」
マリーベルの髪を優しく撫で、アーノルドが身を起こす。
「ふ、あ……」
「お前も、そんな顔をするんだな」
ちょん、っと。マリーベルの頬をアーノルドがつつく。
柔らかく沈むそれを、面白そうにプニプニと弄む旦那様。
「おもちゃ、じゃないんです、よぅ……」
「そうだったな。悪い悪い」
「も、もう……も、う――」
やっと絞り出すように吐いた反論の言葉にも、力が無い。
いつもとは立場が逆だ。完全にアーノルドが優位に立ってしまっている。
息が苦しい。体が熱い。立っているのもやっとなくらいに、ふらふらする。
「ん、あ―……その、なんだ。すまん、あまりにもお前が可愛すぎたから――」
「――ふ、え?」
アーノルドが自身の頬をぽりぽりと掻き、そんな事をのたまってくる。
もう、マリーベルの心臓は激情を通り越して止まってしまいそうだった。
「わたし、かわいい、です、か……?」
「あ、あぁ……」
ごくり。唾を飲み込む音が『婦人の間』に響く。
それは、どちらが発した音なのか。マリーベルにはもう判らなかった。
「すまん、ら、らしくねぇよな! そろそろ寝るわ! お前も早く休めよ!」
「ちょ、あ――」
手を振り、アーノルドが背を向ける。その顔が照れ臭そうに歪むのを、マリーベルは見逃さなかった。
その表情と仕草の妙に、心臓がまた一段跳ね上がった。
そうして、こちらの調子を乱すだけ乱し、旦那様は去ってしまう。
扉が閉まると同時に、マリーベルの膝から力が抜け、そのまま床にへたり込んでしまった。
まるで嵐のようだったと、そう思う。さっきのは本当に現実だったのか? 自信が持てない。
(まさか、工場長みたいに偽物……? あの旦那様が、あんな気障な事を言えるるわけないもの!)
でも、『祝福』の嫌な気配は感じなかった。
両頬に手を当てる。熱い。熱すぎる。冷まさなきゃ、溶けて消えてしまいそうだった。
「み、ず……おみ、ずを――」
「――はい、どうぞ」
サッと差し出されたグラスを受け取り、そのまま飲み干す。
ほど良く冷えたお水だ。火照った体に良く染みる。
聞こえてきた声も、何処となく親しみを感じられて、とても心が落ち着いた。
「ありがとう、美味しかったです――」
――待った。今の、誰だ。
空のグラスを返そうと、伸ばした手の先には誰も居ない。
「え……? え……?」
状況を整理しよう、助手くん。マリーベルは推理小説脳でそんな事を考える。
今の今まで、ここには二人の人間が居た。一人はマリーベル。もう一人はアーノルド。
そして彼はこの場から立ち去った。残るは一人。奥様のみ。
扉が開いた様子は無い。幾ら熱に浮かされたようにぼうっとしていたとしても、流石に誰かが入ってくれば分かる。
証明終了。ここに居たのはマリーベルだけだ。
「じゃあ、このグラスは誰が……?」
応える声は無い。何にも無い。ある筈が無い。
「あ、はは……そっか、水差しから無意識に水を注いだのね。とすると、旦那様のアレもきっと幻想! 今日はお昼からあり得ないものを見過ぎたから、頭がちょっと混乱して――」
「――いえ、現実ですわ。とても素晴らしい物を見せて頂きましたもの。私、はしたなくも興奮してしまいました……!」
声が返ってきた。
驚いて振り向くと、すぐ傍に人の顔。
色素の薄い、白髪の女性が頬を染めてこちらを眺めている。
ながめて、いる……!?
「ひ、ひゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」
マリーベルの口から、世にも恐ろしい叫び声が飛び出した。




