24話 奥様は勉強中!
――そして始まる中流階級レッスン。レティシアの講義は、要点を的確に抑えたとても分かり易いもので、マリーベルの気質にもピタリと合っていた。
訪問すべき時間とやり取り、留守を誤魔化された時の対処法などなど。本に載っている内容を更に噛み砕いて、自身の経験を元に教えてくれる。人に物を教えるのが抜群に上手い。教師向きの性格ではないかと、マリーベルはそう思った。
日々の家事やアーノルドの『護衛』の合間を縫って、レティシア先生からのレッスンは続く。
元から顔を知っていたお蔭もあるが、彼女との会話は楽しく、ひどくマリーベルに馴染んだ。
知的さを感じさせるユーモアや、どことなく茶目っ気がある可愛らしい仕草もそうだが、根っこの所が似てるのだ。
多分、レティシアもその生まれ育ちは裕福な物ではないだろう。口にこそ出さないが、そう、マリーベルは何となく悟っていた。
「マディスン夫人は本当に、何をやっても様になりますねぇ……」
お屋敷の応接間にて。お茶を楽しむその所作を見ながら、マリーベルはうっとりと微笑んだ。
上流階級の貴婦人やお嬢さまたちが行う、洗練され切ったそれとは、また違う。
手付きの一つ一つが優しげで、穏やか。紅茶を口に含む仕草なんぞ、清楚な色気がたっぷりと香ってくる。
「ありがとう、奥様。きっとそれは、このお紅茶が、とても美味しいからね。思わず笑顔になってしまうもの。手ずから淹れて頂いて、光栄だわ」
楚々として笑むその表情。大輪の薔薇が咲いた――というより、白百合が風に揺れた、という方がしっくりくる。
こういう方向、こういう方向性なのだ!
マリーベルが目指す理想の奥様像は!
是非とも参考にしたい。物にしたい。
マリーベルは興奮していた。
「えっと、息が荒くない……? お余所では控えてね?」
「おっとすみません。つい、がっつきそうになってしまいました!」
「今の会話の中に、そうなる流れがあったかしら……?」
小首を傾げる動作もまた愛らしい。だというのに、同性のマリーベルから見ても、あざとさの欠片も無いのだ。
成るほど。これは眼鏡が夢中になるのも頷けた。
これで家事も万能でお料理も美味いというのだから、完璧である。その背中に光が差して見えるかのようだ。
「何故、拝むの……? 奥様は時々、面白い行動をなさるのね」
「はい、良く言われます! お前の奇行も慣れれば日常! って!」
「諦められてない、それ?」
結婚してからこれより、どうにも男所帯のため、同性との会話が無かった。
なので、こんな何でもない会話が楽しい。男爵家のメイド達とのお喋りを思い出し、マリーベルは懐かしくなった。
「もうすぐ結婚式ね。それが終わったら社交に励むのでしょう? あっちにこっちに大忙しで、疲れていない? 商会長やうちの人も心配しているみたいよ」
「元気と健康だけが取り柄ですんで! 動ける内に動くんです。後で、こうしてれば良かったー!って、後悔したくないんです」
過去は取り返せない。だから、今を頑張るのだ。
それが、マリーベルの信条であった。
「それにしても、貴女のお蔭で助かりました! 実際に訪問のやり方を見せて学ばせてくれるなんて、思ってもみませんでしたから」
「奥様には、そちらの方が向いていると思ったから。良い経験になれば幸いだわ」
懇意にしているご婦人宅に紹介がてらにお邪魔させて頂き、実地で作法や所作を見せてくれる。
その、なんと有難い事か! 至れり尽くせりの待遇に、マリーベルは喜色満面であった。
「本当に、有難いです! マディスン夫人は凄いですよねえ……新王国とか、そちらのご出身なんでしょ? なのに、すっかりこっちに馴染んでいるように見えますもの」
「あら」
レティシアの目が細まる。
「――私、言ったかしら? それとも主人が?」
「いえ、仕草でなんとなく。失礼ですけどコルセット、してませんよね? それに――」
言葉に、少しだけ訛りがある。男爵家を訪問した客人の中に、新王国出身者が居た事を思い出す。
彼らの語彙はエルドナークのそれに似ているのだが、ほんの少し特徴があるのだ。
『向こうはドレスからして作りが違いますから。一人で着替えも出来るそうですし、コルセットも付けないようですよ』
ーー思い返せば、ヒントはあった。
以前、彼女の夫と交わした会話、印象に残った幾つかの言葉。その中に、マリーベルは彼女の素性に思い当たる節を見出だしていた。
「良く見聞き、しているのね。頼もしいわ」
そう言って艶然と笑むレティシアは、先ほどまでの穏やかなご婦人とは、まるで別人のように見えた。
「能天気なお嬢さんかと思っていたけれど、評価を改めるわ。『あの』アーノルドに着いて行こうと、そう思うだけの事はあるのね」
やはりか。マリーベルは笑顔を貼り付けたまま、そっと頷く。
気安く話しやすい理想の奥様。それらに親近感を持ったし、憧れたのも確か。
けれど、時々。試されていると、そう感じることがあった。
まぁ、当然だろうとは思う。彼ら『三人』の間には、目に見えぬ絆のようなものがある。
それは強固で確かで、余人には入り込めぬもの。長年にわたって培ってきた関係なのだろう。
その事がモヤモヤしないでもない。羨ましいと思う気持ちもある。けれど、だからと言ってウジウジ悩むのは性に合わない。
誰であろうと、真っ向勝負。逃げない退かない、怯まない。
マリーベルは『彼』の妻になると誓ったのだ。
共に歩むと、告げたのだ。
だから――
「――絶対に『合格』をもぎ取って見せます! 私はマリーベル・ゲルンボルクなので!」
「ふふ……」
レティシアは、愉快そうに。とても楽しそうに笑った。
「――いいね、アンタ。気に入ったよ」
そう言って、ひゅうっと。レティシアが口笛を吹く。
悪戯坊主めいた顔はしかし、すぐに引っ込む。変わりに表に出たのは、いつもの微笑み。
しかしその表情は、何処か晴れやかなもののように、マリーベルにはそう見えた。
「探るような真似をして、ごめんなさいね。今後ともよろしく、マリーベルさん」
「はい、こちらこそ! 厄介な男の伴侶になった者同士、よしなにお願いしますね、レティシアさん!」
交し合うは、紳士の握手ではなく、淑女の微笑み。
こうして、マリーベルは。同じ境遇で、共に戦う友達を手に入れたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そうこうしている内にも、時間は流れて行く。
レティシアからのレッスンも一段落が付き、更に今日はアーノルドもお仕事休み。
久しぶりに朝からずっと家事に励めると、マリーベルは張り切っていた。
「今日も今日とてお掃除~♪ へいへいほー、へいへいほー! シャムシーおばさん水被り~♪ ドシャンと被って泥だらけ~♪」」
「前から気になってたんだけど、誰なのさ、そのおばさん? いつも歌の中で酷い目に遭い過ぎじゃない?」
屋敷内を掃除するマリーベルの鼻歌に、ティムが突っ込みを入れる。中々の呼吸である。こうして呼べば応える的な掛け合いは好ましい。
「いや、喜劇俳優として雇われた覚えはないんだけどね! ほんと、旦那は良く疲れないもんだ」
「もう慣れたものです。これが夫婦の絆ですよ、ティムくん」
「賑やかで喧しい絆だね‥…」
軽口を叩きながらも、手は止めない。
お屋敷を綺麗にするのは気持ちが良い。マリーベルにとってはもうここが自分の居場所なのだ。
窓から差し込む朝日が眩しい。今日も一日、頑張るぞ! とお日さまに向かって宣言したくなる。
「この屋敷も、不思議だよね。内部が雑多になってるのは良くあるって聞いたけど、外見からしてそうなのは珍しいよ。貴族の屋敷でもないのにね」
「ですよねぇ。ちなみにレティシアさんの話だと、元の持ち主ってのはなんと、ディックさんのお父様だったらしいですよ」
「そうなんだ? 確か、裕福な貿易商――なんだっけ? 新王国とかあっちが拠点の」
アーノルドの恩師というのが、そのマディスンさんらしいのだ。
商売の知恵や知識、経験を一揃い教えてくれたのが、他でもない彼なのだと。
『俺が声を掛ければ、王族だって無下に出来ねえんだ! って良く笑ってたっけ。懐かしいわ、亡くなってからもう六年も経つのね』
酒の席での大言壮語が持ちネタだったらしい。愉快な人みたいで、マリーベルも一度会ってみたかったと、そう思う。
「幽霊騒ぎが出始めたのはその頃から、なんだろ? オイラはまだ見たことが無いけどさ、ひょっとしてその人の――」
「――やめましょう、その話は。今はお掃除の時間。余計な雑念を抱いてはなりません」
決して怖いからでは無い。そうでは無い。
「へいへい。にしても、この屋敷も意外と部屋数も多くて広いよなぁ。もう少し、人手が居るんじゃない?」
「そう、そこなのです。今は大事な時期なので、人は選ばざるを得ないのですが――」
そもそも、応募が来ない。
「なんなら、オイラの救貧院仲間を連れてきてもいいけど。でも仕込むのも一苦労だし、マリーの言う通りに下手な奴を増やせないもんなぁ」
少数精鋭にすれば秘密と結束は保てるが、手が足りず。
人を呼び込み増やせば、逆にリスクが高まる。ままならないものだ。
東洋格言男曰く「帯に短し襷に長し」である。
「メイド、メイドは必須なんです。奥様付が居ないんじゃ、上流階級へ殴り込みに行くのに箔が付きません。見る人が見れば、すぐに分かっちゃいますからね。それと、出来ればオールワークスメイドが最低一人……」
旦那様も奔走しているようだが、こればかりは巡り合わせだ。
「ほんと、お伽噺の魔法使いみたいにポン、と! メイドさんが湧いて出てきてくれると良いんですけど」
「おとぎ話の魔法みたいなのを使える奴が言うと、真実味があるね……」
物理では人を遠ざけられても、増やす事は出来ない。
応用性があってこの『祝福』は気軽に使いやすいとは思うけれど。
人を魅了して惹きつける能力とかでも良かったなぁ、と感じるときはある。
(そうしたら、旦那様は私に夢中になって、もっとお金や食べ物を――)
気障な仕草で愛を囁こうとする旦那様を想像し、マリーベルはくすくすと笑う。
ないない、あの人に限ってそれはあり得ないと断言できた。
たとえ淑女らしくなくとも、剛力を振るい、直接誰かを守れるこの力が、やはりマリーベルには一番合っているのだ。
「ない物ねだりはしてもしょうがないですね。配られた手札で勝負しないといけません! さぁ、お掃除の後はお料理ですよ! 良い羊肉の胸肉を仕入れたので、ケイパーソース添えで一気に作ります! しっかりお屋敷を綺麗にして、腹ごしらえです!」
「あの、十人前はありそうなやつ……? ほんと、良く喰えるよね……」
ぶつくさ言いつつも、手は止めない。ティムの仕事は堅実で真面目だ。
彼の負担を減らす為にも、やはり人手は欲しい。
「――ん?」
「どしたの?」
「いえ、今――」
気のせいだろうか。今、誰かに。
(お礼を、言われた、ような……?)
ここの所、たまに奇妙な視線を感じる。
決して不快ではない。暖かくて、優しい。
そう、まるで母親が娘を見守るような――
「――ま、まぁ。どんだけ調べても何もありませんでしたし、気のせい、気のせい……」
「な、何をぶつぶつ言ってんのさ。やめてよ、マリーがそうしてると、こっちまで怖くなってくるし!」
気味悪そうに、辺りを見回すティム。
その様子を眺めていると、何だか気持ちが落ち着いてきた。
自分の代わりに怖がっている人が居ると、逆に平気になってくるアレだ。
(やはり使用人は良いですね。精神の安定にぴったり!)
口に出さずにひっそりと笑うと、マリーベルはティムの背中を押してその場を去るのだった――




