23話 噂の奥様、ご対面!
アーノルドの逮捕騒動から半月。
世論が期待する程のいざこざは鳴りを潜め、無気味な程に穏やかな日々が続いていた。
そうこうしているうちに、マリーベル達の結婚式まであと僅か。動きを見せない相手の事は気になるものの、まずは目先の事を片付けねばならない。本番である社交はその後だ。
とはいえ、足場固めは重要である。時期が来れば荘園屋敷に引っ込む上流階級とは違い、中流階級の面々はそうそう拠点を離れない。
よってその付き合いも社交期に限定せず、門戸は常に開かれていた。上に挑む前の予行演習にはぴったりである。
結婚披露宴で『お披露目』をした後は、そのまま中流階級の上層へとご挨拶がてらの社交に励む予定なのだ。
エルドナークは階級社会。その地位ごとに常識もマナーも異なるのが常。
中流階級層の扱いを体得するには、相応の準備が居る。
というわけで、来たるべき戦いの日に備え、マリーベルは自身の足りない所を埋めるべく、勉学に励んでいた。
のだ、が――
「うぅむ……! むむ、う……?」
「何やってんのさ、マリー。最近、ずっとその本抱えて唸ってるけど、そんなに難しい本なの、それ?」
紅茶と共に差し出された、呆れたようなその声に、マリーベルはため息で応えた。
「ふぅ……」
「茹だってんなぁ。旦那も心配してるぜ。ほら、甘い物でも飲んで少し休憩しなよ」
中々に気の付く少年である。有難く、そうさせてもらおうと、マリーベルは紅茶に手を伸ばす。
ミルクがたっぷりと入ったブライトカラーの液体を口に含み、ほうっと一息を吐く。舌から香る紅茶の芳しさ、その甘味が痺れるように脳に染み渡っていく。うむうむ、と奥様は頷いた。
エルドナークの紳士淑女の間で、今もなお激論が交わされているが、マリーベルはミルクをカップに先入れ方式である。自分好みの紅茶を淹れてくれた従僕に、少女夫人は満面の笑みを見せた。
「あぁ、美味しいですねえ……ありがとう、ティム君」
「どういたしまして。ケーキもあるよ。さっき届いた。何か旦那が手配してたんだってさ」
これまた、クリームがたっぷりと塗りたくられたケーキを見て、マリーベルは喝采を挙げる。
ラズベリーやチェリーで彩られた、花輪のような造形は、見ているだけで目に楽しく、お腹が減る。
こういうところ、旦那様はそつがない。心配性とも言えるが。ともあれ、有難くその好意を頂戴するとしよう。
自身の胴体ほどの大きさがあるそれに、奥様は意気揚々と向かい合った。フォークとナイフで切り分け、次から次へとお口へ運んでいく。甘い、美味い、素晴らしい!
「うわぉ……それ、丸ごと食べんのかよ。見てるこっちの胃が甘ったるくなりそうだ! 良く太らねえなぁ、マリー」
乙女の腹は絶対無敵なのである。食べた分は動いて学んで消費すればいいのだ。
「ふぅ、落ち着きました。やはり疲れた時には甘い物ですねえ。うちの男連中は気が利いて何よりです」
「そらようござんした。んで? 何をそんなに苦戦してんのさ」
「いえ私、これでも上流階級のお嬢さまだったのですよ。末期はメイド家業に精を出していましたが、一応は男爵令嬢だったわけです」
そう言って、マリーベルは手に持った家政本を振る。
「中流階級のしきたりやマナーが、今一つ飲み込みにくくて。私、実践派なのですよね。本を読み込んで字じくり追うより、体を動かして経験として学ぶ方が性に合います」
「うん、分かるよ。良く分かる。分かり過ぎるほど分かる」
物凄い納得した顔で、うんうん頷く少年。何だろう、その言葉の裏に引っ掛かる物を感じる。
「誰かに教わるのが一番なのでしょうが、生憎とそういった伝手が無いのですよねえ……」
以前は王都の合唱クラブにも顔を出してはいたが、ここの所はご無沙汰であった。
件の『事件』が有名すぎて、ちょっと遠巻きにされてしまっているのである。寂しい。
誤魔化すように紅茶に向き合い、マリーベルは味を堪能した。
「今はほら、色々と事情が込み合ってますから。下手な人を引き込むわけにはいきませんし、難しい所です」
「だから独学で何とかしようとしてんのか。マリーは案外と真面目だよね。当たって砕けろ、くらいに思ってるものとばかり」
「それで砕け散って困るの、旦那様ですし。あの人の不利になることは、絶対にしたくないんです」
そこで、声が途切れる。
返事が来ないのを不審に思って顔を上げると、ティムは戸惑ったような視線をマリーベルに向けていた。
「……変わったなぁ、マリー」
「へ? 何がです? 私は前と同じですよ。金づるになって頂く以上、手は抜けませんし、やれることはやらなきゃ」
「いやでも、その顔――」
ティムが何かを言いかけた、その時だ。
コツコツという足音が、こちらに近付いて来る。特徴的なその音の主が誰か、確かめるまでもない
マリーベルは紅茶を置き、いそいそとハンカチで唇を拭った。
次いで手鏡を取り出し、軽くお顔と髪を整える。涎が出ていないか、髪はボサついてやしないか。
短時間であれど、チェックは慣れたもの。
最近は、いつもこうしているのだから、マリーベルの手付きは熟練のそれを極めている。
(うむうむ、よしよし、完璧です!)
すると何故だろう? ティムの顔がますます珍妙な変化を遂げた。
難しいお年頃だな、と。マリーベルは首を傾げる。何か悩みでもあるのだろうか。
「――教師役が見付かったぜ、マリーベル」
妻の自室へと足を踏み入れるなり、夫はそう言って得意げに笑った。
「本当ですか!? って、探してくれていたんです?」
「当たり前だろ、コレは俺にとっても大事なことだかんな。適役が居るから安心しな」
「やったー! 流石は旦那様!」
もろ手を挙げて、マリーベルは文字通りに飛びあがった。
「ほら、紅茶が零れるぞ? ちゃんと座ってろって」
「はぁい!」
「お、調子が戻ってきやがったな? それでこそマリーベルだ。ここの所はウンウン唸ってばかりだから、頭から煙でも吹くんじゃねえかと、ヒヤヒヤしたぜ」
そう言って、旦那様は優しく妻の頭を撫でてくれる。
前みたいに、『そういうの禁止!』と指摘はしない。だって、そうされるの気持ち良いし。
手のひらから伝わる、暖かな温もりに奥様はご満悦。
思わず、うっとりとしてしまいそうなくらい、心が安らいだ。
「んで、その相手だが――って、どうしたティム?」
「いや、いいよ。続けて、続けて。お邪魔なら外に出てるし」
「別に、そこに居ればいいだろ。んだ、その顔? 変な奴だな」
半目になって舌を出してる少年に、アーノルドも首を傾げる。
最近、ティムはたまーにこういう顔をするのだ。何故かと聞いてもはぐらかされる。
やはり、難しいお年頃であった。
「それで、それで? 誰なんですか教師の方! 私も知ってる人です?」
「あぁ、ある意味ではな。ようやく手が空いたんで、こっちに構ってくれるそうだ」
アーノルドがニヤリと笑う。
「――お前も、その顔だけは、ようく知っている筈だぜ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そうして迎えた週末。
昼下がりのお屋敷に、『教師役』のその人はやってきた。
「はじめまして、マリーベルさん。お会いできて嬉しいわ」
そう言って、にこやかに微笑む妙齢の女性。痩身痩躯で小顔、全体的にほっそりとした印象ではあるが、か弱そうな雰囲気は何故か欠片も無い。波打つような薄い金の髪を後頭部で纏め、穏やかに笑むその姿は、まさに楚々とした美女だ。
聞いた話では、年は二十六歳。マリーベルよりも八つ上だ。落ち着いた大人の余裕と物腰が、表情にも表れている。柔和、という言葉がしっくりくる。
「ご挨拶が遅くなってごめんなさいね。少々、お掃除に手間取っていたもので……」
「ご夫人も、お掃除をされるんですか。話が合いそうですね!」
「ええ、しつこい汚れを落とすのが大好きなの。人が嫌がるような部分を受け持つのが私の得手よ」
それはいい、素晴らしい。
今まで周りに居なかった、温和で優しい姉のような女性に、マリーベルの好感度は急上昇だ。
そもそも、はじめまして、とは言うが、マリーベルに初対面という感覚は無い。
その姿はもう何度も見せつけられているのだ。半ば強制的に。
「改めて、名乗りますね。レティシア・マディスンと申します。いつも、主人がお世話になっておりますわ」
――そう。彼女こそがゲルンボルク商会秘書の妻。
あの知的眼鏡紳士・ディックの奥様なのだ。
「マリーベル・ゲルンボルクです! お噂はかねがね。こちらこそ、お会いできて嬉しいです!」
「まぁ、聞いた通り快活なお嬢さんなのね。うちの主人がご迷惑を掛けていないかしら」
「いえいえ、とんでもありません。いつも大変お世話になっておりますよ」
ディックとアーノルド。その距離が近いのが最近気になるマリーベルではあるが、お仕事面での有能さは認めざるを得ない。
とにかく良く気が付き、あらゆる面で主人の補佐を行う。時折こちらを見下したような笑みを浮かべるのが癪に触るが、それによってマリーベルの負けん気にも火が付く。
「総じて思うに、良きライバル……という所でしょうか。今の所、私がちょっぴり負け越していますね!」
「どうして商会長の秘書と奥様がライバル関係になるのか、今一つ良く分からないのだけれど」
レティシアは困惑したように頬に手を当て、ふうっとため息を吐いた。
「うちの人が、何かやらかしているのだけは理解出来たわ」
そう言うと、マディスン夫人は自身の夫へとジロッとした視線を向ける。
「誤解です、レティ! 私は常に貴女の美と清廉さ、妻の鑑とも言うべき所作を広めようと、日々模索しているだけで……!」
「模索しないで頂戴」
良かった、この人はまともだ。マリーベルは内心でホッとする。
夫婦そろって惚気られたら、たまったものではない。
「奥様、貴女は実に幸運ですよ。レティは中流階級層への社交にも通じておりますからね。まさに万能! 淑女の理想! そのたおやかさと儚さ、相反するような逞しさはもう、筆舌に尽くしがたく――」
「ディックったら、もうやめて頂戴な」
妻の制止の言葉も耳に届いていない。今のディックは絶好調であった。マリーベルは、こうも満面の笑みを浮かべた眼鏡を見たことが無い。
「あぁ、麗しの女神! 慈愛の化身! 叶うなら箱に閉じ込めて一生私だけが眺めていたい! 籠の中の金糸雀として、私の為だけにその美しい声を囀って欲しい!」
「ディック、やめて」
「おぉ、レティ! 我が運命! 彼の女王陛下の威光ですら、貴女の美しさの前では霞んで消えます! いっそ、王位を譲ってはどうかと具申を――」
「やめろっつってんだろ?」
あれ? 今、淑女とは思えないような下町言葉が飛び出したような。
マリーベルの聞き間違いだろうか。きっと、そうに違いない。最近、何かと疲れている。そうだ、これは幻覚だろう。
だから、夫の肩をギリリと掴んで、壮絶な笑みを浮かべている奥様の姿なんて見えない。きっと気のせいだ。
「現実を直視しろ、マリーベル。アレがまぁ、アイツの本性だ。結婚してから大きな猫を被り始めたが、根っこは変わらねえ」
「うへぇ……」
旦那様に背中をポン、と叩かれる。マリーベルは何とも言えず、肩をがくりと落とした。
素敵なお姉さんだと思ったのに、やはり『あの』ディックの妻だけあって一癖も二癖もある人だ。
でもまぁ、裏表が分かりやすい方が安心ではある。女なんて、大なり小なりみんな表面を取り繕っているものだ。
そう思えばまぁ、受け入れられる。
夫とも付き合いの長そうな女性だし、是非とも仲良くして欲しいとマリーベルは思う。
「ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いします、レティシアさん! 遠慮せずにビシビシと鍛えてくださいね!」
「まぁ、そう言って貰えて嬉しいわ。貴族のご令嬢出身だと聞いてはいたけれど、偉ぶらずに接してくれるのは助かります」
と、そこで。レティシアは含みのある笑みをアーノルドに向ける。
「素敵なお嫁さんを貰ったのね。貴方にはぴったりじゃないかしら?」
「どういう意味だおい」
「そのままよ。随分と大事にしてるみたいだし、相性も悪くなさそう。良かったわね、商会長」
くすくすと笑う夫人に、アーノルドはブスッとした表情を崩さない。
その顔を、いかにもおかしそうにレティシアは眺めているようだ。
「さぁ、早速レッスンを受けたいと思います! マディスン夫人、どうぞこちらへ」
するりと、マリーベルがその間に滑り込むようにして、さり気なく二人の距離を開ける。
ディックも言っていたが、時は金なり。時間は大切なものだ。お金持ちになる秘訣である。
それ以外に他意はない。少しお顔が近すぎるんじゃない? なんてマリーベルは思ってもいないのだ。
「あらまぁ、まぁ――愛されてるのね、商会長?」
「私はもっと貴女を愛していますけどね!」
すかさず横入りしてくる眼鏡秘書。
再び始まる美辞麗句の嵐に、レティシアはうんざりとした顔をしている。
「いや、良く見てみろマリーベル。ほら、レティシアの態度に注目するんだ。そうだ、あそこだ。いかにも拒絶している風に見えるだろ? だが、それが素人の浅はかさだ」
「あさはかさ」
「よく観察すれば、一目瞭然だ。そら、思わせぶりにちらちらと、目線を横流ししている。あれはな、『もっと言って』と催促しとるんだ。あいつは昔から、そういう性質なんだ。言っておくが、惚れてる度合いを比べたらディックのそれより、レティシアの奴のが更に酷い」
「うわぁ……」
何の遊戯か。やはり似た者夫婦であった。
しかし、それよりも。マリーベルには気にかかる事があった。
「……良く見てるんですね、旦那様。お相手は人妻なのに、いやらしいです」
「人聞きの悪い事を言うなや! その獣を見るような目は止せ!」
慌てて否定する所が何だか怪しい。
アーノルドはマリーベルの旦那様なのだ。よそ見をするのは倫理に反すると声を高くして言いたい。
「お前、最近少し変じゃないか……? 色々張り切るのも分かるけどさ、ちったぁ休めよ? 無理して体を壊したら元も子もねえぞ」
「あ――」
――今、自分は何を考えていたのか。
マリーベルは、内心の焦りを誤魔化すように手を振った。
「だ、大丈夫ですってぇ! 私はこの通り、元気の塊のような健康優良美少女です!」
「自分で言うか、それ? まぁ、お前が大丈夫っつうなら良いけどさ」
そう言って笑うアーノルドの姿に、マリーベルは何故かきゅうっと胸が締め付けられるような想いを抱く。
「――成るほど。割れ鍋に、綴じ蓋、ねぇ」
聞こえてきた声に顔を向けると、レティシアがマリーベル達を見て優しそうな笑みを浮かべていた。
それが何だかむず痒くて、マリーベルはどうして良いか分からずに俯いてしまうのだった。




