幕間
日が沈み始め、夕暮れの明かりが仄かに市街を照らす頃。
セントラル・バーラ・ブリッジ駅のホームは、仕事帰りの紳士達で溢れかえる。
ラムナック・中央街区の地下に広がる交通網。
その中でも最初期に作られたこの駅は、今年で開通から十二年目を数える。
その利用者数は王都最大手。近年の人口過密解消政策により、雇用の場があちらこちらに増えた現在のエルドナークでは、無くてはならない要のようなものだ。
薄暗いレンガ作りの壁にガス灯の火が輝き、それを蒸気の煙が遮って燻るような霧を生じさせる。
レパシスの木の浄化作用も、ここまではその恩恵が届かない。地表にほど近い場所に設置はされているはずなのに、まるで地下深くに閉じ込められたような息苦しさを覚える。立ち上がる煙が通気孔から外に流れ、淡い光に照らされ煌めく様は、幻想的ですらあった。
人によっては、まるで異界のようだと感じるかもしれない。おとぎ話に語られる、土穴の妖精族が住まう地。
そんな常世離れしたホームの一角。木造りのベンチに腰掛けて、ディック・マディスンは新聞を広げていた。
煙で眼鏡が曇るのも厭わず、ただ淡々と文字を追う。
安いインクで指を汚しながら新聞紙を捲るその行為を、何巡したろうか。
後にある、背中合わせのベンチから人が立ち上がる気配がし――やがて、別のそれと入れ替わる。
「『アレ』は黒幕について、それ以上は何も吐かなかったよ。ヒヒッ、精神がイカレちまったようだねぇ……」
耳障りな低い声。特徴的なその声に、ディックは待ち人が来た事を悟る。
ゲルンボルク商会の若き秘書は、そちらに振り向きもせず、新聞に目を落としたまま口を開いた。
「では、収穫は無し、と?」
「そうは言ってないさ、結論を急がない事だよぉ。若い頃から焦っちゃいけないねぇ」
「時は金なり、と。東洋の格言でもありますので」
「お堅い男だ」
背後で、首を竦めるような気配がする。
わざとこちらを苛立たせるような行為を行っているのか、その真意は読めない。
「――警視庁内で、何人かが麻薬取引を摘発された。それもやたらに手際が良い。それを束ねていた連中も、田舎に飛ばされて閉職へ、のコースだな」
「尻尾切り、ですか」
「そのまま、人生の幕を閉じてしまうかもしれんねぇ。怖い怖い」
ヤードの歴史は汚職との戦いの歴史であったと、ディックも知っている。
手に入れた権限の強さと重さに、狂う者は後を絶たない。
人の生き死ににも関わる大それたものから、ほんの小遣い稼ぎの小者まで。大小を数える暇がないらしい、と。
(……だが、このタイミングでの首飛ばし。ガヅラリー社へ司法のメスが入ったばかりだというのに、この始末、ですか)
「こちらなりに、目星は付けた。参考にしてくれ」
「どうも、助かります」
後ろ手に差し込まれたメモをさり気なく回収し、その文面を改める。
そこに書き連ねられているのは、中流から上流で名を売っている各界の名士や大商人、貴族や地主たちだ。
これにどれ程の信ぴょう性があるか。それはこれから検証を重ねなくてはならない。
そも、目の前の人物にどれだけ信が置けるものか。
(商会長はそれなりに腹を割って話せる、と。そう判断したようですが……油断は出来ませんね)
自分には、彼ほどの才も勘働きも無いと知っている。
だからディックは、決して空手形で判断はしない。
目の前にある情報が正しいかどうか。それがすべてだ。
「なぁに、これからも良きお付き合いを――ってやつさ」
またもや聞こえる、薄気味悪い笑い声。
こんな男と顔を突き合わせたま何日も過ごし、アーノルドはよく正気を保っていられたものだと感心する。
「貴方が欲する見返りはなんなのです? 麻薬を撲滅し、警察内に蔓延る汚職を一掃する――それだけが目的ではないのでしょう?」
「上流階級に通じるコネが欲しいのは、こっちも同じなのさ。人は調べられても、一介の警部では実際に接触が出来ないからねぇ」
人の縁は大事、大事。そう言って、彼――ベンジャミン・レスツール警部は嗤う。
それ以上、説明する気は無いのだろう。ならばこっちから切り込むか。デッィクは話を変える。
「貴方は、あの『人形』を食い入るように眺めていたようですが、何か気になることでも?」
「……あんな物が動くんだ。そりゃぁ驚くし、興味も抱くだろう?」
「それにしても、あれは異常でした。まるで恋い焦がれた相手に出会ったが如き、熱を含んだ視線だったかと」
惚けたような声を、しかしデッィクは信ずるに値しないと切り落とす。
「そうさなぁ、アンタは愛を信じるかい? 恋を素晴らしいと思うかい?」
「……愚問ですね。私は妻を心から愛しています。彼女に捧げる想いは神に誓って真摯なものだ」
どうせ、ディックの身内の事もこの悪食警部は調査済みなのだろう。それをこちらへの牽制と判断し、淡々とそう答える。
しかしベンは、そこで予想だにしない言葉を吐いた。
「それだよぉ。私のね、目的はそれなのさぁ」
「貴方、が……?」
「信じられないかね? 似合わないとお思いかね? だが、君が奥方へと誓うそれと同じく、私にとっては重要なことなのだよ。愛は素晴らしい、恋の味は苦くも甘い。忘れられないのさ、この年になっても……ね」
その声が、幾分か哀愁を含んでいる事にディックは少なからず驚く。
(まさか、上流階級層に恋のお相手が居るとでも……? この『悪食警部」に?)
からかっているのか。それともはぐらかされているだけなのか。
ディックがしばし迷っていると、背後で微かな音がする。
こちらの答えを期待してはいなかったか、ベン警部が無言で席を立ったのだ。
話は終わりだと、そういうことなのだろう。
そのまま彼がデッィクの傍を通り過ぎようとした、その時だ。
「――アストリアの『人形遣い』が王都に入った」
「……っ!」
今度は、紛れもない不意打ちだ。ディックは息を呑んだ。
「まさか、騎士人形の事ですか……? あれこそ、おとぎ話の産物では――」
「現存し、稼働する物があったそうだ。あちらの国家警察――その深部に属するお相手らしい。私も半信半疑だし、その目的も今の所は不明だがね」
「貴方は、どこでそのような情報を……?」
「蛇の道は蛇、というやつさ。アンタが気にする事じゃないねぇ」
こちらを見下ろす『悪食警部』の目は鋭く、奇妙な光を帯びている。
まさに蛇に睨まれた蛙の如く、ディックの背に冷たいものが走る。
しかし、呑まれてはならない。自分は、商会長の代理としてここに来ているのだ。
焦りや怖れを顔に出すようでは、あの人の隣に立つ資格は無い。
しばし、目線が交差する。
先に口火を切ったのは、ベンであった。
「エルドナークに『祝福』あらば、アストリアに『洗礼』あり。昔馴染みに教えてもらった、古い格言さ」
謳うように、懐かしむように、悪食警部は言葉を重ねる。
「良くも悪くも、時代は変わる。新しきものに古びたそれはとって変わられてゆく。レンジ一つとっても、そうだ。こうは思わないかな、ミスター・マディスン。我々は今、錆びついた神話の最終章に立ち会おうとしているのだと」
ディックの広げた新聞紙を顎で指し、ベンは目を閉じた。
「主は調和を尊ぶ。我らは偉大なる神の御導きに差配された、『登場人物』なのかもしれないねぇ」
「……貴方が運命論者とは知りませんでしたよ」
「これでも信心深いのさぁ。ちゃーんと敬ってますよぉ。人任せで何にもしてくれない、無能で残酷な神サマをねぇ」
嘲るようにそう告げると、警部は踵を返した。
真意を量ろうとする、ディックの視線に背を向けるようにして。
「それではねぇ、ミスター。あの強面の商会長と、彼の愛らしい奥方によろしく」
その言葉を最後に、雑踏の中へと悪食警部は消えて行く。
彼の背中を見送り、ディックは手に滲んだ汗を拭う。
噂の通り、一筋縄ではいかない人間だ。下手に気を許せば、こちらがパクリと喰われてしまう。
そんな物騒な雰囲気に満ち満ちていた。
(……厄介事が、次から次へと。毎度のことですが、あの人に付き合っていると退屈しませんね)
俺はそんなつもりじゃねぇ! という、いつもの怒鳴り声が聞こえてきそうだ。
最近、アーノルドのその顔から焦りが消えてきた気がする。生き急いでいるような態度が少しずつ鳴りを潜め、余裕と落ち着きを取り戻しつつあるように見えた。
(……あの奥様のお蔭なのでしょうね。良い傾向だと、喜ぶべきでしょうか)
長年彼を支え続けた自分に出来ない事を、少女はあっさりとやってのけた。
アーノルドの持つ目に見えぬ傷も、もしかして彼女なら癒す事が出来るのではないか。
(……東洋の格言では、ああいうのを割れ鍋に綴じ蓋、と言うのでしたか)
ディックに対し、探るような眼差しを向ける、あの少女の瞳を思い出す。
恐らく、あの娘はまだ気付いておるまい。境遇と性格から察するに、今まで『そういった』対象として見られたことも無く、相手を『そう』見たことも無いのだろう。
あの視線に込められた感情。それを、ディックも良く知っていた。
――それは、『嫉妬』だ。
(……何とも微笑ましい二人ですね。足りない部分を埋め合い、互いをぴたりと補完している。まるで、パズルの欠片のようだ)
彼らの関係は一方的な物にはなるまい。
『奥様』自身が悩み、抱えているだろう炎の痕も、アーノルドならどうにかしてしまうのではないか。
互いが互いを支え合い、寄り添える関係。それは、他人が踏み込めない夫婦だけの領域だ。
そこに一抹の寂しさを感じるのは女々しいだろうか。
ディックは薄く微笑むと、新聞紙を畳んだ。
「……さて、今夜はとびきりの煮込みを用意してくれているのでしたね。冷えた体には最適です。流石は我が妻、愛しのレティ」
懐から取り出した写真に口づけ、ゲルンボルク商会の懐刀は立ち上がる。
踏み込めない領域を持っているのは自分も同じ。
ディックにもまた帰れる場所と、待ってくれている人が居る。
その事が何だかたまらなく嬉しい。
手に持つメモを懐にしまうと、ディックは軽やかな足取りで歩き出した。
――目指すは一つ。愛しき妻の待つ、わが家へと。




