表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/176

21話 『祝福』も万能ではありません


「疑問の一つは、レズナー工場長の『交換』ですね。彼は、いつから『人形』にすり替えられていたのか」

「少なくとも、小屋で会った時は人間のように思えたけどな。マリーベルはどう思う?」

「そうですねぇ……。言いようのない気持ちの悪さがしましたから、あの時点で『祝福』を使っていたのは間違いないとは思います。問題は、あそこに居たのが『どっちか』ですよね」


 ゲルンボルク商会の商会長室。

 真新しく、ぶ厚い壁に囲まれながら、四人の人間が顔を突き合わせて『会議』を進めていた。

 

 マリーベルとアーノルド、それにディックとティム。とはいえ、従僕の少年は情報共有の一環としてここに居るだけで、基本は口を挟まない。成り行きを黙って眺めるだけだ。自分のすべきことを良く弁えていると、マリーベルは改めて彼の聡明さに感心した。

 

「奥様自身の例や、方々の伝承を探る限りでは、どうも『祝福』は一人に一つ――の様ではあります。無論、例外もあるでしょうから盲信は出来ませんが」

「アストリアで最近開発されたとかいう、人型作業用の『人形』は、国外では動かせねぇと聞いた。とすると、下手をすれば人形を操る能力持ちと、レズナーに化けた能力持ちの二人が居る事になるな……」


 アーノルドが難しそうな顔をして腕を組む。

 

「霧で辺りを覆い隠したのも別々の奴ですよ。多分、あの凄い速さでビューって来たアレもそうじゃないかなぁ。となると、少なく見積もっても四人以上の『祝福持ち』が向こうに居るってことになりますねぇ」


 マリーベルはそう補足する。こちらは一人だけなのに、何という不公平か。調和の神様も加減しろ。

 

 けれど、分からないのは最後の嵐のような竜巻だ。アレには、『祝福』の気配を感じなかった。しかし、あんな凄まじい現象を科学とかそういったもので引き起こせるのだろうか。近年、急速に技術が発展しているといっても、いくらなんでも限度があるはず。

 だからといって、あんなトルネードが偶然・自然に起こったとは考えにくいし、あり得ない。

 

 一体、これはどういう事なのか。

 

 分からないことだらけで、マリーベルの頭は熱を帯びそうになる。甘い物が欲しい。お腹が空いた。

 

「飢えた狼みたいな目を止めろ! これが終わったらメシを喰わせてやっから!」

「本当ですね……? ここの所、『実証』を繰り返したお蔭でお腹の虫が泣きっぱなしなんですよぅ」


 奥様の力の原理が知りたいとかで、裁判だなんだ忙しい隙間を縫って、ディックに『祝福』を使う所を促されたのだ。マリーベルはお疲れなのである。

 

「ええ、ええ。その節はありがとうございます、奥様」


 あまりそうは思ってなさそうな態度で頷く眼鏡。本当にこの男は厄介で胡散臭いとマリーベルは思う。

 内心で何を考えているのやら。全く表に出さないから難物だ。

 それでも、夫と信頼関係で結ばれているのは良く分かる。マリーベルでは立ち入れない絆のような物が見えるのだ。

 

 ……その事が、奥様はあまり面白くないのである。

 

「それで、何か分かったんです?」

「はい。いわゆる『祝福』を使うには、幾つかの条件があるようですね」


 これで本当に有能だから腹立つ。

 むくれそうになっていると、マリーベルのその肩を夫が取り成すように叩いた。


「何だか最近、お前はディックに当たりが強ぇな。コイツも悪気はねぇんだ、勘弁してやってくれ。まぁ、だからこそタチが悪いとも言えるが」

「お褒めに預かり、光栄ですね。それで、条件ですが――」


 スッと指を一本立て、彼はマリーベル達の注視を促す。

 

「一つ目は、発動の為の『動作』。奥様の場合は、息を吸い込むという一連の行為がこれに当たりますね」


 そう、マリーベルの『祝福』は息を吸い、吐き出すまでの間に身体能力――特に腕力を強化する、というもの。

 その強度の違いは、吸い込んだ量の多寡に準じるのだ。

 

「二つ目は、『代償』。奥様の可愛らしいお腹が減る音が、それですね。腕力の強化純度に応じて、体内の熱量――とでも言いますか、それが減るようです。減らせられるだけの物がなければ、祝福は授からない」


 一言余計な単語が混じったが、概ねはその通り。息を吸い込む量が少なければ、反動もまた弱くて済む。

 具体的に言うと、お腹の空き具合が違うのだ。


「最後は、推論になりますが――恐らくは『触媒』ではないかと」

「触媒、ですか?」


 それは、マリーベルも知らない。今一つ理解が及ばない言葉だった。

 

「息を吸い、それを体内に循環させるという行為は、肺を収縮させることで起きます。口か喉か肺か、そのどれかが鍵となり、それを介する事で祝福が起こる――のではないでしょうか」


 ディックが、片手に持っていた古めかしい書物を広げ、そこに描かれた絵をマリーベル達に見せる。

 

「これは三百年ほど前、不滅の英雄王と謳われた当時のエルドナーク君主・アーラス王です。彼は何やら不思議な力を持っていたと、そう伝承が残っていまして」


 秘書が差したのは、荘厳な戦衣装に身を包んだ男性の姿。彼は、口を大きく開けて何やら叫んでいるようだ。

 その間近に描かれているのは、跪いて震える兵士や貴族たち。それら挿絵の、横に添えられた文字をディックは指でなぞった。


「『轟き響く王の怒声は対する相手の虚実を暴く。何者も、神々でさえ英雄王の前で偽りを述べる事は許されなかった――』ここまで言えば分かりますね? そう、『声』です。彼は恐らく自身の声を媒介として、他者の心を操ったのでしょう」

「……成るほど。つまり――」


 アーノルドが、ちらりとマリーベルを見た。その先を彼は口にしなかったが、少女にも何を言わんとしたかは分かる。


(……呼吸を乱せば、私の『祝福』は発動できない)


 それは、マリーベルも薄々と勘付いていた弱点だ。

 

「つまり、こういうことです? 人形を操っていただろう『祝福持ち』も、何らかの触媒を持っているはず。霧使いも凄い速さの奴も、それは同じだと」

「その通り。まぁ、この推論が正しければ、の話ですが」


 だとすれば、光明も見える。『祝福』は決して万能の力では無い。マリーベル自身がそうなのだ。

 

 たとえ数が多くても、発動の条件を満たさないように立ち回れば、勝機はある。

 

「……出来れば、事は構えたくねぇけどな。あっちがまだ、敵か味方かもわからん」


 アーノルドが、唸るようにそう呟く。

 それは一体、どういう事だろうか。夫の言葉の真意が掴めず、さしものマリーベルも困惑してしまう。


「どうもな、一枚岩ではねぇ気もする。ガヅラリー社の強壮薬や目録を始末せずに置いておいたのもそうだ。他人に化けれるならよ、あそこのヤード共に姿を変えりゃぁ、中に入り放題・証拠も消し放題じゃねぇか。まるで、『それが目的だった』みたいに思えるな」

「そう、言われてみれば……」


 マリーベルはムムッと腕を組む。麻薬の主たる原材料がガヅラリーの強壮薬。その薬自体、色々と黒い噂が纏わりついていたものだ。旦那様が本社を叩き潰して乗っ取った顛末からも察せられるように、両商会は元々、敵対していた。アーノルドも昔から、あの会社の裏を暴こうと奔走していたらしい。

 

(だから旦那様を陥れて逮捕させようとしたのも、麻薬を作りだして世に流通させようとしていたのも。当然、ガヅラリー社――だと、単純にそう思っていたのだけれど、違うのかな?)

 

 『人形』もガヅラリー社の手の者かと考えていたが、そんな風に指摘されると確かに、不審な点が多いように感じる。これが推理小説なら、自分の痕跡を消すために他者を利用した、そんな黒幕が居るパターンであった。

 

 あの霧から聞こえてきた言葉。『主は堕落を禁じる』というのは、世間を騒がしていた『霧の悪魔』のもの。

 あの人形との騒動以来、追加の犠牲者は出ていないようだが、何か関係があるのだろうか。


 不謹慎ながら、少しワクワクする展開だ。マリーベルは思わず唾を飲み込んだ。

 二転三転して絡み合う謎。背後に潜む不気味な怪異。それを解くは名探偵の旦那様! 

 ハンチング帽を被ってパイプを咥えたアーノルドを想像し、マリーベルは内心で喝采を挙げた。意外と格好良いかもしれない! 奥様はミステリ脳なのである。

 

「何でニヤニヤしてんだ、お前……? まぁ、そもそもだ。麻薬の材料が強壮薬だとして、ンなモンを現場に堂々と置くか?」


 妻の方を怖々と見ながら、アーノルドは疑問を一つ一つ口に出していく。


「いくら原料が不明だったとはいえ、ベン警部のように警察内部に『それ』を知っている奴は居た。可能性はゼロじゃねぇ。だったら、バレる危険も十分にあると、普通は想像しねぇか? 天秤に掛けるにゃ、ちとリスクがデカ過ぎるな」

「ふむむ……! なら、こういう事ですか? 麻薬を作り、広めていた者は別に居て、ガヅラリー社も被害者だった、と……?」


 ――すごい。本当に推理小説の世界みたいだ!

 マリーベルの興奮が否が応にも高まる。創作の中に迷い込んでしまったかのように、不思議な高揚感が沸き上がった。まるで夢の中にいるみたいで、ふわふわとした空気がマリーベルを包みそうになる。

 

 とはいえ、これは現実。実際に被害者も出ているのだ。

 外道を許せないという気持ちもまた、少女の中で唸りをあげていく。だからか、無意識の内に拳をポキリポキリと鳴らしていたようだ。マリーベルを見ていた旦那様の顔が、露骨に引き攣った。


「ま、まぁそうだな。俺を嵌めようと、ヤードの一部を抱き込んでけしかけたのは、ガヅラリー社だ。それは間違いねぇ。だが、こと麻薬の密造に関してはお前の言う通りかもな」


 ふうっ、と。大きく大きくアーノルドはため息を吐く。口から洩れ出すその音には、どこか疲れたような響きがあった。

 

「欲を掻きすぎたんだろうさ。良くねぇモンまで引き寄せちまった。自業自得だし、同情はしねぇが――哀れには思うぜ」

「……商会長。つまり、あの『人形』の主は、我々を潰し合わせようとしたと、そういう事ですか?」


 ディックの問い掛けに、しかしアーノルドは首を竦めるばかり。


「さぁな。疑ってたらキリはねぇさ。まさに全ては霧の中。おっかなびっくり手探りで進まにゃならん。厄介なこと、この上ねぇな」


 けれど、そう言うアーノルドの顔は何処か楽しそうだった。

 前にも見た、獰猛そうな獣の如き笑み。闘争を喜ぶようなその表情に危うさを覚えつつ、しかしマリーベルは目が離せないでいた。

 けれど、妻のその視線をどう感じたのか。アーノルドは急に表情を失くし、息を吐いて天井を仰いでしまう。

  

「……ディック」

「はい、商会長」


 アーノルドの言葉に、秘書は即座に頷き立ち上がる。

 

「では、()()はこれで。ティム君、下でお茶でも如何でしょう。焼きたてのパイを運ばせますよ」

「え――あ、うん。頂こっかな」


 急に選択を振られ、ティムがこちらをちらりと伺う。

 それに対してマリーベルが頷いてやると、少年は得たりとばかりに立ち上がった。

 

 二人が退出し、部屋にはマリーベルとアーノルドが取り残される。

 何だか、居心地の悪い物を感じる。彼と暮らしてもうすぐ二か月になるが、こんな風に思ったのは初めてだった。

 そんな奥様の戸惑いを察したか、アーノルドがゆっくりと立ち上がりこちらに背を向けた。

 

「旦那様……?」

「マリーベル、まずは先に謝っておく。すまなかったな、俺の見積もりが少し甘かった。出てきた相手は、思ったよりも大物だ。得体の知れねぇ奴等を敵に回さなきゃならねぇかもしれん」


 弱気とも取れる言葉。しかし、アーノルドの声に後悔の響きは無い。


「まだ、式も披露宴も挙げてねぇ。記者共には打ち明けたが、それは俺の不名誉って事でどうにでもなる。幸い、悪い噂には事欠かんしな」

「それは――」


 己の体が震えるのが、分かる。彼が何を言わんとしているか、マリーベルは悟った。

 

「今後も、お前や男爵家への援助は欠かさん。何なら、新王国の方に移るといい。この国に居るよりも安全だし、居場所も生活も保障する。だからな、よく考えて選んでくれ。ここが分水嶺だ」

「旦那さま……」

「一つは、なんら保証も無いまま、このまま危ない橋を渡り続けるか。そして、もう一つは――」


 そこで言葉が、途切れる。二人の間に沈黙が流れた。

 息をするのも拒むような、しばしの間の後。アーノルドが再び口を開く。

 

「俺と――」


 夫の発したその言葉を聞き逃すまい、と。少女はただ静かに耳を傾けた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 


(――俺は、いつもこうだな。初めて会ったあの日からずっと、こいつに嫌な事ばかりをさせちまう)


 明かさせたくない秘密を暴かせて、曝け出させて。本当に学習をしない男だ。三十を過ぎたいい大人が、情けない。


 恥じたように向けた背中に、視線が突き刺さる。

 痛いほどのそれは、一人の少女から発せられたもの。その無言の圧力に屈してしまいそうな自分に気付き、アーノルドは密かに苦笑を漏らした。

 

 神の前で永遠を誓ったわけではない。けれど、彼女は確かに自分の妻であった。

 

 初めて顔を合わせた時の衝撃は、未だに忘れられない。大の男でも持ちあげられるか怪しい巨石を振り上げ、屋敷の門扉に投擲しようとしていたあの光景。たまに夢に見る事があった。

 

(世の中に、こんなとんでもない貴族令嬢が居た、なんてな……思いもしなかったぜ)


 騒がしくて、喧しくて、すぐに手が出る足が出る。常識外れの台風娘!

 彼女と過ごす日々は、毎日が刺激やスリルに満ちていて、いつも振り回され、ぶん回され、アーノルドを慌てさせた。

 マリーベルは本当に破天荒で、元気が良くて快活で、誠実で真面目で――

 


 ――いつしか、アーノルドは少女との暮らしを楽しいと思い始めていた。

 


 こんなにも声を荒げ感情を剥き出して、他者と接したのはいつ以来だろう?

 心を許したディックやその妻とでさえ、ここまでぶつかり合いはしなかった。

 

 

『いっぱい、栄養のある物を用意しますから。真っ直ぐ家に帰って来てくださいね』

 

 

 ――自分に『また』帰れる家があったと、教えてくれて。



『ふわぁ……お紅茶美味しい……!』



 ――いつだって何だって、美味そうに物を喰って飲む姿に微笑ましさを覚えて。

 


『私は、旦那様の妻になりましたから。つまり、身も心も全て、貴方に預けたんです』



 ――疲れた心に染みる言葉をくれて。

 

 

『ちょ、止めてって何度も言ったでしょう! 旦那様はもう、もうもうもうもうっ!』



 ――照れたようにむくれる姿が可愛らしくて、安らぎを感じて。

 

 

(参ったな……。俺は、どうかしちまったらしいぜ)


 いつの間にか、マリーベルの存在はアーノルドの中で大きな比重を占めるようになっていた。

 

 ほんの二か月かそこらの夫婦生活。だというのに、これはどうした事だろうか。

 こんなにも自分はチョロい男だったろうかと、また苦笑が漏れそうになる。

 

 彼女が、何処か妹を思い出させたから、だろうか。かつて、()()()()()()()()()()妹を。

 それとも、もっと別の。自分自身でも分からない感情がそこにあるから、か。

 

 本当は、もっと早くに言い出すべきだった。忙しいとはいえ、話す機会は幾らでもあったのに。

 ずるずる、ずるずると。今日まで引き延ばしてしまったのだ。

 

(……楽しかった、本当に楽しかったんだ。お前と暮らした、この二か月間は――)


 ――泣きたいくらいに、嬉しかった。

 

 とっくに諦めた筈の、自分には得る資格が無いと思った筈の『家族』が、『家庭』が。

 暖かくて安らぐ、心休まる居場所が。もう一度手に入ったような、そんな気がして。

 

 だから、マリーベルとの生活を、手放せなかったのだ。

 


(でも、これ以上は甘えられねぇよな)


 今なら判る。アーノルドが逮捕されてからあの『人形』と対峙するまで。

 妻が、片時も夫の傍を離れようとしなかった理由が。

 

(俺を、守ろうとしてくれていたんだな)


 あの時の、絶望に目を潤ませた少女の眼差しを思い出す。

 マリーベルの力が恐ろしくなかった、と言えば嘘だ。神の御業としか思えない現象を前に、足が竦みそうになったのも事実。

 だが、彼女の体が傾いだ時。その顔が泣き笑いに歪んだのを見た、その時。

 

 恐れも何もかも、アーノルドの頭から吹き飛んでいた。

 

(あんなに知られるのを怖がっていたのに、それでも俺の為に戦ってくれたんだな。本当に馬鹿だよ、お前は……)


 彼女は、何も知らずに嫁いだ。その結果、予想だにもしなかった恐ろしい相手と立ち向かわざるを得なくなった。

 『祝福』に対抗できるのは『祝福』。いざとなれば、真っ先に狙われるのは彼女だ。それは理解しているはず。

 だというのに、それを気にした風もなく。マリーベルはいつものように笑って協力してくれた。

 

『そう思うなら、こんな問題はチャチャっと片付けて、何処か旅行でも行きましょうよぅ。療養は必要ですし、私、海水浴とか行きたいです! もう候補地もリストアップしていてですね……!』


 いつかの明日を夢見て、キラキラと輝いていたその瞳。

 綺麗だ、と。素直にアーノルドはそう思った。

 

 だから、その眼が二度と開かなくなるかもしれない、そんな未来は許せなかった。 

 

 今なら戻れる。今ならこんな暗く恐ろしい世界に関わらずとも良い。

 

(あれは、たぶん『警告』だろうな。引き返すか否か、それを俺達に突きつけた――)


 霧の中から聞こえた聖句を思い出す。その声の裏に秘められた真意を、アーノルドは直感的に悟っていた。

 

 

 『――天秤を傾ける事なかれ』

 


 これ以上踏み込むつもりならば、容赦はしないと。そういう事だろう。 

 だとしても勿論、アーノルドは引くつもりはない。身命を賭してでも叶えなければならない夢が、願いがあった。


 けれど、妻は。あの娘は違う。こんな事で命を危うくする必要は無い。

 何も知らずに巻き込んだ少女を、そこまで利用しつくして良い筈が無い。

 

 マリーベルは幸せになるべきだ。

 幼い時から苦労して、アーノルドも含む大人たちの都合に振り回され続けた少女。

 そこに彼女の意志が、果たしてあっただろうか。


 だから彼女に、選択肢を与えてやりたかった。その手で幸運を掴む道を、示したかった。

 どんな運命を定めるにせよ、せめて自分で選ばせてあげたかった。

 

 例えその結果、あのお日さまのような笑顔が、アーノルドの傍から消えてしまったとしても。

 もう二度と、彼女と触れ合う事が出来なくなったとしても。

 それでも、構わない。


 

 ――マリーベルの、その手を離す決意を、アーノルドは固めたのだ。



「俺、と――」


 アーノルドは、ゆっくりと、口を開く。

 マリーベルは今、どんな顔をしているだろうか。

 これから言い放つ言葉を聞いて、どう思うだろうか。

 

 薄情な夫に怒るか、怒鳴るか、それとも――

 


『――旦那様!』



 脳裏に霞んで優しく響く、その笑い声を振り切るようにして。

 

「――離縁、するかだ。マリーベル」


 妻に背を向けたまま、アーノルドはそう告げた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ