19話 その手のひらが、優しくて
『なんで、わたしはこんな力をつかえるんだろう?』
そう、疑問に感じたのはいつからだったか。
物心ついた時には既に、マリーベルは己が授かった『異能』の使い方を知っていた。
息を吸い込むその強弱に応じて、飛躍的に身体能力が――特に腕力が増大する。
大きく、深く息を吸えば、その力は人を遥かに超越し、まさに神がかった物理現象を引き起こす事も出来た。
『ねえ、だいじょうぶ?』
それは、善意だった。蜂に刺されて暴走する馬から、友達を助けようとしただけ。
雄々しく太いその馬脚を軽々と受け止め、持ち上げた。なんてことは無い、簡単なこと。
そう、本当は自分は凄いし、強い。こんな事だって出来るのだ。
あまり強い力を人に見せては駄目だと、そう母親から教わっていたのに。
マリーベルは彼女の言う、その本質的な意味を理解できていなかった。
なんでそんな事を母は言うのか、どうしても納得が出来なくて、不満だったのだ。
きっと、みんなは驚くし、凄い凄いと褒めてくれるはず。
大工をしている力自慢のおじさんを、皆がそう言って尊敬の目を向けていたから、間違いない。
だから、自分もそうやって褒めてくれるだろう、と。
マリーベルは、わくわくしながら友達の方を見て――
『マリーちゃん、こわい!』
――その言葉を突きつけられたのだ。
人は、人と違う生き物を嫌悪し、遠ざける。
それが、まだ小さく分別も付いていない子供なら尚更だ。
友達みんなから、怖いと、化け物だと怖がられて逃げられて。
マリーベルは、泣きながら母の元へと逃げ帰った。
いつも快活で元気な娘が泣きじゃくる様を見て、母はどう思ったか。
優しく頭を撫でながら、彼女はマリーベルを慰めてくれた。そうして、この力が『祝福』とそう言うのだと教えてくれたのだ。
神様からの、授かり物。人に無い特別な力。だからこそ、それを扱う事には、責任が伴う。
母は、頭が良くて素敵な女性だった。人とは違った力を持って生まれた娘に、思う所もあったろうに。
もうこの町には居られないのかと、怯えるマリーベルに微笑んでくれた。
『なあに、大丈夫! お母さんに任せない!」
次の日には、マリーベルのした事は単なる誤解だと広まっていたから、びっくりである。
目撃していたのが子供だけだったのが幸いした。怖い思いをしたせいで、幻覚でも見たのだろうと片付けられたのだ。
マリーベルの友達たちも、おずおずとした調子で謝ってきた。母は、彼らをどうやって言いくるめたのだろうか。
まるで、おとぎ話に出てくる、魔法使いみたいだと思った。彼女だけはいつだってマリーベルの味方だったのだ。
力を小出しに、それとなく周知させていくのを考え付いたのも、母親だ。
隠し事をし続けるなんてこと、娘には無理だと判断したのである。マリーベルは昔からおバカさんであった。
どうせ、いつかはバレるなら、ちょっと力が強い女の子だと、そういう風に周りの目を持っていこうとしたのである。
そして、それは成功した。力自慢のマリーベルの名は、大工のおじさんより有名になったのだ。
力を積極的に使う事で、それに頼り過ぎない方法を学び、加減を体得する。
マリーベルが母と死別する頃には、もう自分の力を嘆くことは無くなっていた。けれども、心に刺さった小さな棘は消えない、抜けない。無くならない。
『マリーは、ばけものだ!』
あの日の言葉は、いつまでも記憶の奥深くに眠って、時折思い出したかのように浮上してきた。
だから、マリーベルはことさら明るく振る舞った。元気の無い時でも、だからこそ快活に声を張り上げたのだ。
どんな境遇でも負けない、めげない、怯まない。甘えてなんか、いられない。
無条件に庇護される、子供の時代は終わってしまったのだ。
養母は、もしかしたらそんなマリーベルの気質を悟っていたかもしれない。事あるごとに、発破を掛けるかのように接してくれたのは有難かった。落ち込む暇も、嘆く暇もなく。彼女とぶつかり合いながら、日々を過ごしていけた。
だから、マリーベルはあの男爵家が嫌いになれない。
たとえ消えぬ炎の傷痕が胸に刻まれても、冗談を言い合える仲間も出来たし、可愛い弟も居た。
でも、それでも。一番欲しい物は、マリーベルの傍に無い。
自分が哀しい時、泣きたい時、優しく頭を撫でてくれた手の平はもう、消えてしまった。
二度と戻らない。帰って来ない。
そう、だって、もう――
――マリーベルを愛してくれた母は、この世に居ないのだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ぐしゃぐしゃに潰れた『それ』を見つめながら、マリーベルは油断なく目を凝らす。
体内から歯車が突き出し、手も足も原型を留めていない。どうやら、完全に『壊せた』らしかった。
異形が動く気配は、もうどこにも無い。
「マリー……ベル……?」
――どうして、だろう。
背後から聞こえるその呟きが、胸に痛い。
覚悟して行った筈なのに、手が震えてしょうがなかった。
マリーベルが息を吐くと同時、手の中の鉄版が重みを増し、指から滑り落ちるように甲高い音を立てて転がった。
「マリーベルッ!?」
ぐらり、と。世界が傾く。いや、傾いているのはマリーベル自身の体か。
床に叩きつけられる寸前、暖かくて逞しいモノに身が抱き留められた。
「だんな、さま……?」
「どうした!? 怪我をしたのか!? バカ野郎、無茶ばかりしやがって! おい見せろっ!!」
「え――」
焦ったような叫びと共に、アーノルドは何のためらいもなく妻の手を掴みあげた。
――そう。鉄版を軽々と持ち上げ、人知を超えた力で『あれ』を粉砕した少女の手のひらを、だ。
「血は出てねぇ――な。擦り傷もない」
マリーベルの手を見つめるその瞳に、怖れの色は何もない。何も見えない。
そこにあるのは、何処までも妻の身を案ずる――夫の、視線。
息が、胸が詰まる。何故か、マリーベルは無性に泣きたくなった。
「じゃぁ、体か!? どこだ! おい、見せ――」
「――れませんっ!」
ドレスの襟元を掴んで開こうとするその手を、慌てて止める。
「というか、こ、怖くないんですか……? 私、鉄の板をバキってして、バシュってやっちゃいましたよ……?」
「お? おぉ、そうだな! 確かに驚いたぜ! お前が力自慢だとは思っていたが、あそこまで出来んのかよ! こりゃ、ますます頭が上がらねえな。俺も、もう少し鍛え直すか。最近、体が鈍って来たしなぁ……」
なんでもなさそうにそう言うと、夫は自身の二の腕を摘まむ。
その様子をマリーベルは、呆然と見つめる他は無い。
そんな妻の眼差しをどう見たか。アーノルドはそっと顔を近づけ、マリーベルと目線を合わせた。
「そう、驚いたには違いねぇ、が――」
アーノルドは苦笑しながら、マリーベルの髪をそっと撫でた。
やめろ、もうするなと。そう何度も言った、その行為。
――だって、それはかつて、母が幼いマリーベルを慰めてくれたのと、同じ手付きだったから。
「舐めんなよ、これまでどれだけ俺がお前にビビらされたと思ってんだ! 一番はアレだな、初夜もどきの時! 覚えてるか? 俺を馬鹿力で押し倒したアレだアレ! あん時ほど身の危険と恐怖を抱いた事は無かったぜ……!」
ぶるり、と身を震わせ。そう毒づきながら。
優しく、どこまでも優しく。マリーベルの旦那様は、妻の頭を撫でてくれる。
「まぁ、あの恐ろしさに比べりゃ、んなの大したことはねぇよ。隠し事があったのはお互い様だ。それにお前の事だし、なんか事情があんだろ?」
マリーベルは頷く。震える体で、必死で頷く。
視界が歪む。世界がぶれて崩れて、何も見えなくなる。
「そっか。なら、後で聞かせてくれれば、それでいいさ。ありがとうな、マリーベル」
でも、あまり無茶すんなよ。そう言ってアーノルドは妻の頭を小突く。
それが限界だった。マリーベルの中の堤防が決壊する。
「だ、んなさまぁ……」
「どうした? おい、やっぱりどこか怪我を――」
応えたのは、マリーベルのお腹だ。
地獄の底から響くような低いうなり声が、そこからグゥゥゥゥゥと主張する。
脳とは違い、本能の器官は空気を読んではくれなかった。
「おなかぁ……すきましたぁ……」
「んだ、そりゃ……!?」
はぁぁ、と。アーノルドの口から深い深いため息が吐かれる。
そこに安堵のそれが混じっているとは知りながら、マリーベルの顔は赤くなる。
色々な意味で恥ずかしい。穴があったら入りたいとはこの事だ。
「あ、そうだ! 悪食警部や、警察官の人達は――」
「――あぁ、警部は無事だ。部下を見てるようだな」
いつの間にか、悪食警部は起き上がっていた。倒れた部下たちを介抱し、動ける者には雑事を命じている。
どうやら、彼は大きな怪我は無かったらしい。そういえば、布きれの中に吹き飛ばされたのだったか。
悪運が強いようで、流石であった。
「商会長……奥様!!」
そこに、息を弾ませながら飛び込んで来たのはディックだ。遅まきながら、状況を察したらしい。
「何があったのです!? これは、一体……!?」
彼らしくもない焦り。慌ててマリーベル達の方に駆け寄ると、二人の体を触って無事を確認してくる。
「それだ、レズナーの顔したその化け物が、いきなり襲い掛かって来やがった」
「これが……?」
ディックが立ち上がり、手に持つステッキで『それ』を突いた。
やはり、動く気配は無い。何度か確認行為を繰り返した後、彼は『それ』の傍にしゃがみ込む。
悪食警部もまたその後に続き、よろめきながら歩き出した。
「皮膚のように見えますが、肌触りが違いますね」
「歯車に、金具……か。ヒヒ、これはまさしく等身大の人形、だぁな」
二人の言葉を聞き、アーノルドが眉を顰めた。
「なぁおい、確かアストリアの方で大々的な発表があったろ? 『花』の量産に成功した、とかいう奴だ」
「……あちら絡みの謀略だ、と?」
「どうだろうな。それにしちゃぁ、どうにもやる事が雑だ。それに確か、『アレ』は国外には持ち出せない筈――」
彼らが何の話をしているか、マリーベルにはサッパリ判らない。
ただただ空腹が募って辛い。辛すぎる。脳に血が回らない。
「旦那様、何か食べ物――」
乙女の尊厳と腹ペコを天秤に掛け、後者にそれは傾いた。
哀れな声で夫に訴えようとしたその時、鋭い声が背後から響く。
「マリー! 旦那! 危ないっ!」
聞き覚えのあるその声に、反応したのはアーノルドだった。
妻を抱えてその場から跳ねるように転がり、身を伏せる。
「ぐあっ!?」
悲鳴と共に、ディックが何かに跳ね飛ばされて倒れ伏した。
「ディック――!?」
アーノルドが必死に『それ』を目で追おうとするも、追いつかない。速い、速すぎるのだ。
咄嗟にマリーベルは息を吸い、視線に力を込める。
(――なっ!?)
マリーベルの『力』で強化された視力を持っても、追いきれない。息を吸い込む量が足らなかったか。辛うじて、影を捉えられるのみだ。
『それ』はどうやら、人間の様であった。男性――だろうか。黒い礼服のような物を身に纏っているように見える。
マリーベルが視認できたのは、そこまで。影は恐るべき速度で飛びあがり、工場のガラス窓を突き破りながら外へと消えた。
「しまった……人形が――!」
ベン警部の声に、皆の視線がそこに集まる。
そこに横たわっていた人形は、幾つかの歯車を残してその姿を眩ませていた!
「外に……商会長!」
ディックがよろよろと立ち上がり、指を差す。
アーノルドとマリーベルは顔を見合わせると、どちらからともなく駆け出した。
工場の出口を潜り、外へと足を踏み――
「――んなっ!?」
素っ頓狂な声をあげて、アーノルドが歩みを止める。マリーベルも同じだ。ポカンと口を開けたまま、呆然とそれを眺める他は無い。
――何も、何も見えなかった。工場の外は、乳白色の深い霧に包まれている。ほんの数歩先さえ見通せない。
「旦那様……私から離れないで……!」
背が、チリチリとする。焼けつくようにひりつく。これは、先ほどの『人形』から感じたものと同じ。
恐らくこれは、そう――マリーベルの『同類』の気配!
「――かな、聖なるかな……」
突如として、声が響く。右から左から、上から下から。あらゆる方向からそれは唱和する!
「くそ……姿を見せやがれ!」
アーノルドの声に応えたのは、哄笑。男とも女とも付かぬ、さざめき声。
「釣り合いこそ至上。過分を求める事無かれ。天秤を傾けさせること、なかれ――」
「これは――」
「聖典の……聖句!?」
エルドナークの国民なら、誰もが幼き頃より慣れ親しんだ言葉。それが今、霧の中から朗々と響き渡る。
「――覚えておくがいい『主は堕落を禁じる』と」
最後に聞こえたそれは、明確な意思を伴ってマリーベル達二人に届く。
何故だろう? 何処かで聞き覚えのある声だ。マリーベルがもっと聞き出そうと耳をそばだてた、その時だった。
――轟音と共に、暴威が天を貫く。霧を巻くように唸る旋風が、嵐となって周囲に吹き荒れた。
それは、目も開けられない程の凄まじい烈風。バタバタと音を立て、周囲の積み木や工具が次々に宙を舞う。
「――今度はなんだっ!?」
叫びと共に、マリーベルの体が抱き寄せられる。それが誰だか、確かめるまでも無い。
飢えを訴える腹を無視して息を吸い込み、手足に力を込めると、少女は夫の体にしがみ付く。
轟々と吹く風が止んだのは、それから間もなくのこと。顕現した時と同じく、唐突にそれは矛を収める。
「いったい、何だったんだ……?」
……いつの間にか、霧も晴れていた。辺りは静けさを取り戻している。
まるで、夢でも見ていたようだが、アレは確かに現実に起きた事だ。
その証拠に、周囲は燦燦たる有様である。工場の壁は剥がれ落ち、レンガは崩れ、木々はなぎ倒されている。
「商会長……!」
泡を喰ったようにディックやベン警部が駆け寄って来る。その足取りは確かなもので、重傷を負っているようには見えない。
どうやら、みな無事なようだ。マリーベルもホッと息を吐き――
「――で? 何でここに居るの、ティム君?」
最後尾で身を震わせている少年に、そう問い掛けた。
「い、いや! マリー達が心配でさ……! そしたら、何か親方が化け物になっちまうし、マリーはとんでもない力を出すしで、もう何が何やら……!」
どうやら、この悪戯坊主は陰で隠れて見ていたらしい。
それもどうやら徹頭徹尾、余すことなく全てを、だ。
周りを警察官で固めていたのに何処から――と思った所で、マリーベルは思い出す。
そういえばこの子供は、道なき道を探し出す名人だった。
「そしたらさ、すげぇ何かが木をへし折りながら一直線に来るっぽいのが見えて……その、声を上げて……だ、ね……」
その事実を、聡明なこの少年も気付いたのだろう。
段々と言葉が尻すぼみになってゆく。だがもう遅い、遅すぎる。
「ディック、確保しろ」
「はい、商会長」
「ひぇっ!?」
主の言葉に忠実に応える秘書の鑑。ディックに背を摘ままれ、少年の小柄な体が浮かび上がった。
「な、何も言わないよぅ! オイラ、誰にも言わないからさぁ……っ!」
じたばたと、必死でもがくティムを眺めながら、アーノルドが肩を落とす。
「巻き込んじまった、か……どうするよ?」
「ですねぇ、これはもう、しょうがありませんねぇ。えぇ、丁度良いと思うしかないかと」
アーノルドとひそひそ言葉を交わし、マリーベルは同情の籠った目で少年を見る。
「ねぇ、ティム君。前に私が言ったこと、覚えてます? 裏路地で冗談めかして脅した、アレですアレ」
「え……? ま、まさか……」
聖母の如くニコリと微笑み、マリーベルはゆっくりと頷いた。
「――知ったからには、お前も同罪だぁ!」
「ひぃぃぃぃ、やっぱりぃぃぃ!?」
アーノルドが首を振りながら、気の毒そうな顔で少年の肩に手を置く。
それを見ながら、マリーベルは息を吐いた。
今更、誤魔化しは利かない。これはもう運命と呼ぶしかないだろう。
何だろう。とてつもなく大きな、歯車のような『何か』が動き出したように、マリーベルは感じる。
もう引き返せないのは、ティムだけではない。自分自身も同じなのだろう。
アーノルドも妻の考えを悟ったか、ぼやくように髪を掻き上げた。
「……使用人の当てが、見つかっちまったなぁ」
その呟き声は、風に揺られて空へと消えていった……




