18話 幸せは長く続かないものなのです
――小屋の中に踏み入ったその時から、マリーベルは胸にざわめく物を覚えていた。
室内は薄暗く、すえた香りが鼻をくすぐる。
予備の機材置き場も兼ねているというそこは、床に硬質な鉄板が敷かれ、壁にも最低限の小さな窓しか付いていない。
そこから差し込む光に照らされ、『工場長』の輪郭が奇怪な影を結んでいる。
本能的な忌避感と、言いようのない親近感。
相反すべき二つの感情がない混ぜになり、不安の芽が首をもたげはじめる。
それは、夫と『工場長』との会話の最中にも、少女の胸の内で瞬く間に伸び上がり、やがて不気味な花を咲かせた。
――『畏怖』という、おぞましい花弁を。
「――お前、誰だ」
夫の誰何の声に、『工場長』は気味悪げに嗤う。
「……まび、くか」
その声が、不意に紡がれたのは、そんな時だった。
(……何? この匂い――)
マリーベルの背筋が総毛立つ。工場長から漂う香りが奇妙に変化した。
ぷんと薫る香水の匂いが急激に強まる。それは、例えるなら腐敗臭だ。腐り落ちる寸前の肉のような匂い。
幼き頃に下町で、何度となく嗅いだモノ。
――妙だ妙だとは思っていた。『彼』に初めて会った時から感じる、奇妙な嫌悪感。
胸がざわついて、止まらない。直感というよりも、これは本能的な物だ。
危険だと、この件に関わってはならないと、マリーベルの内で警鐘を鳴らしていた。魂が訴えていた。
そう、だから――マリーベルは夫が何を言おうとここまで付き添ったのだ。
「――旦那様、離れてっ!!」
「何……!?」
アーノルドが飛び退ったのは、それこそ彼の運か本能か。
何にせよ、妻の言葉に従ったそれが、彼の命運を分けた。
「んな……っ!?」
『工場長』が、腕を振る。
標的となったのは、二人の警察官。身柄を確保せんと左右から迫っていた彼らはしかし、宙を舞って吹き飛んだ!
肉の弾丸となった警察官たちが向かう先は、数瞬前までアーノルドが立っていたその場所。
恐ろしい勢いで叩きつけられた『彼』は、鈍い音と共に動かなくなる。
紅い、赤い液体がそこから流れだし、どくどくと広がっていく。
「あ、ア……あーのる、ド……ゲゲ、げるん、ボルク――」
「てめぇ、何だ……! 一体、何をしやがった!」
アーノルドの叫びに『工場長』は、その身を奇妙によじった。
腕が、足が。人間の可動域を超えて動作する。ベキベキという音は、骨や神経が砕け千切れる音か。
それとも――
「……動くな。一歩でも進めば、射殺する」
ベン警部が素早く動き、懐から拳銃を取り出し、構える。マリーベルはハッとして体をこわばらせた。
基本、ヤードは銃器の所持を行わないという。
携帯が許されてると言う警部・警視ですら、それを使わない事を誇りとしている――らしい。
強大な権限と引き換えに背負う責任。
ゆえにか、『工場長』を睨む悪食警部の瞳は、凄絶な輝きを宿している。
市民の身命を守る為ならば、誇りを捨てても躊躇わないのがラムナック警視庁の使命だと、そう物語るかのようだ。
「抵抗は止めて、床に体を伏せろ……!」
しかし、その言葉がまるで聞こえていないかの如く、『工場長』が恐るべき速さで疾駆する。
「ヒ――や、やめてくれ! 俺は、俺は上の命令に従っただけで――」
その標的となったのは、あの汚職警察官だ。
容疑者を守ろうと立ち塞がる警官二人を易々と弾き飛ばし、『工場長』は彼を掴みあげた。
「おお、おまえ、よよ、ようずず、み――」
舌足らずな言葉が言い終わらぬうちに、発砲音が響いた。
火花と共に高速で射出された『それ』が立て続けに工場長の体に吸い込まれてゆく。
ベン警部が放った弾丸だ。そう、マリーベルには『見えた』。
吐き出された三発の弾は、狙い誤らず確実にその背を穿った!
ビクッと『工場長』の体が震え、一瞬硬直するも――
(止まらない……!? 意にも介してない!)
『工場長』が再び動き出す。
腕の筋肉が大きく膨れ、警察官の喉を握り潰さんと力が籠る!
「たた、たすけ――い、いやだ――」
「――テメェっ!」
「旦那様っ!?」
駆け出したのは、誰であろうアーノルドだ。
マリーベルの叫びを気にも止めず、全身で体当たりをぶちかます。
横合いからの衝撃を受け、『工場長』がもんどりを打って倒れた。
アーノルドは顔をしかめながらも素早く身を立て起こし、泡を吹く警察官を引っ張り上げる。
荒事に慣れきったようなその対応は、彼が潜って来た修羅場の多さを感じさせた。
しかし――そんな彼をして、この体験は未知の物だろう。その顔は驚愕に歪んでいる。
それは、マリーベルも同じ。恐ろしい光景を目の当たりにして、体が震えて動かない。
今こそ、その時が来たというのに。足が竦んでどうにもならない。
(――こんな時の為の『力』なのに……どうして!)
マリーベルの足を縛るのは、未知なるモノに対する本能的な畏怖と――
「ば、ばけもの……!」
――床に倒れた警察官たちが呻く、恐怖に満ちたその言葉。
『――こわい! マリーちゃん、こわい!』
『ばけものだ……! マリーは、ばけものだ!』
――過去から届く、幼い子供達の『声』が、鎖となってマリーベルの体に絡みつく。
(もう、とっくに乗り越えたと思ったのに! もう大丈夫だと思ったのに! なんで、どうしてっ!)
普段、積極的に使うようにしている『力』。既に自分の日常の一部だと、そう意識して飼いならした『異能』。
それを全力で振るわねばならないことが今、マリーベルは恐ろしくて堪らなかった。
眼差しの先に在るのは、少女が生涯を誓おうとする旦那様。
――あのひとに あの目で 見られることが
――どうしようもなく こわくて たまらなかった。
「おい、大丈夫か!? おい!」
「あ、あひ……ひ、あ――」
警察官の目はうつろで、焦点が合っていないように見える。
アーノルドが舌打ちし、震えるばかりの男を放り投げようとするも、極度の恐怖に支配されているのだろう。
逆に彼にしがみ付き、離れようとしない。そして、それは――致命的な隙になった。
「ぐあっ!?」
獣の如き動きで四つん這いになった『工場長』が、蹴りでベン警部を吹っ飛ばす。
勢いよく宙へ投げ出されたその体は、部屋の隅に積まれた『土産品』の元――大量の布地に突っ込み、姿が見えなくなる。
しかし、その代償も大きかったようだ。工場長の足は半ばからへし折れ、膝を屈してもがき始める。
どうやら、人間を超えた動きをしていても、物理的な現象からは逃れられていないようだ。
「ベン警部ッ! てめぇ――何ッ!?」
アーノルドの悲痛な叫びが、驚愕のそれに変化する。
マリーベルもまた、あまりの衝撃に息を呑んだ。
「なん、だと? 歯、車――!?」
そう。工場長のへし折れた膝から覗くのは肉片でも無ければ、骨でも無い。
硬質で無機質な――機械の、歯車。それは、きゅるきゅると耳障りな音を立てながら鈍く回転している。
どう見ても人間が有するものではない。奇妙に体を歪ながら、ぎくしゃくともがくその姿。
まるで、それは壊れかけた――
「――人形!?」
マリーベルの呟きに応えるように、『彼』はケタケタと哄笑する。
それは人ならざる、異形の笑み。恐ろしさとおぞましさに、少女の背筋が総毛立つ。
「やはり、レズナーじゃねぇな……! 誰なんだテメェは! アイツを何処にやった!?」
警察官を押しのけ、アーノルドがようやく姿勢を立て直した、その時。
「旦那様ッ!!」
工場長――だったモノが、不意に身を屈めたかと思うと、足元の『それ』を掴む。
ひょいっと無造作に、摘み上げられたのは黒光りする、小さな短筒。
――拳銃。
「まびかれ、るイノチ、は――おまえ、か? あーのルド・げるん、ボルク――」
ゆっくりと、緩慢な動作で工場長の手が持ち上がる。
その銃口は、ぴたりとアーノルドの顔面へと向けられて――
「――ッ!」
瞬間、マリーベルの頭から恐怖の全てが吹き飛んだ。
それは、未知の怪物に対する怖れであり、これからすべき行為への恐れであり、『彼』に知られてしまう事への畏れであった。
『――正直でいいな。お前と居ると、落ち着くよ』
いつぞやの、ダンスの練習に励んだあの日、あの夜に聞いた夫の言葉。
何処かホッとしたようなその声が、脳裏に蘇る。
『お前が俺を選んでくれて良かったと、心からそう思う』
もう、彼はそんな事を感じてはくれなくなるだろうか。
意地を張ったあの時とは違い、今ならわかる、理解できる。
幼児扱いされていたのが心に引っ掛かったのは、夫と対等な立場で居たかったから。
庇護される子供でなく、寄り添い支え合える関係。それに焦がれた、憧れた。
だから『ああ』言われて、マリーベルは嬉しかった。そう、本当は飛び上がるくらいに嬉しかったのだ。
自分を高く売り込めたのだと、気に入ってもらえたのだと、受け入れてもらえたのだと。
――家族となった人に、マリーベルは気の休まる場所だと思って貰えたのだ、と。
零れそうになる涙を堪え、胸の痛みも何もかも、全てを振り切るようにして。
マリーベルは、アーノルドの前へと飛び出した。
「馬鹿――下がれ! 逃げろ!!」
夫の叫びを背に、マリーベルは素早くしゃがみ込む。
そこにあるのは、鉄板。機械を固定するための分厚い鉄の塊。
マリーベルは大きく、大きく息を吸い込むと――それをあっさりと引き剥がした。
「――なっ!?」
背後で上がった声に、胸が再び軋む。しかし、今はそんな事に構っていられない。
火薬音と共に、マリーベルの視界へ『それ』が滑り込む。
弾丸が一発、二発――最初のそれ以外は、軌道を外れている!
息を止めたまま、鉄板を全力で振り抜く。甲高い音と共に銃弾が弾かれ、明後日の方向へと飛んでいった。
「――ッ!!」
反動の勢いを殺さず、マリーベルは地を蹴った。体を捻ったままの姿勢で、『それ』へと直進する!
「ア、が――!」
肉がひしゃげるような、嫌な感覚が手に残る。けたたましい音と共に人形の体が吹き飛び、機械にぶつかって動かなくなった。
それを見届けたマリーベルは鉄板を持ったまま、その場に立ち尽くす。そう、立ち尽くすほか、出来なかった。
背から感じる視線が痛い。今、彼は――旦那様は、どんな目をして妻を見ているのだろうか。
今までの、冗談めかして披露した馬鹿力とはまるで桁が違う。
マリーベルが見せたのは、まさに人知を超えた恐るべき能力。言い訳なんて、利くはずもなかった。
『――マリー、泣かないの。これはね、化け物の力なんかじゃないわ』
それは、遠い過去。奇異の視線で見られ、泣きじゃくる娘に、母がくれた言葉。
『いい、それはね。きっと神さまが下さった御力よ。お母さんね、聞いた事があるの。昔は、そう――『選ばれた』人達がこの国に居たんだって』
それは、天から授かった異能。
伝説の英雄王も備えていたとされる、偉大なる神の力。
今となっては、おとぎ話にのみ語られる、古びた伝承の残り香。
人はかつて、それを――
「マリー……ベル……」
――――『祝福』と、そう呼んだ。