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165話 過去は消えず


 窓辺から差し込む月光。

 その淡い輝きの下に、二つの影が伸びてゆく。

 動きは無い。どちらも身じろぎ一つせず、ただ静かに向かい合うのみ。

 凍り付いたような時間の中、柱時計の音だけが、カチコチと響いてゆく。

 

 どれ程にそうしていたか。先に動いたのは屋敷の主・アーノルドであった。

 自身の首元に迫る刃を、白けたように見つめた後、ひょいと視線をずらす。

 短剣を手に構えたクリフ・シュトラウスの――その、背の向こうへと。

 

「――アン、単なる酒宴での余興だ。問題ない」


 ハッとして、クリフが背後を振り向く。

 だが、彼がそうした時にはもう、微かな残影だけを引いて、幽霊メイドはその姿を消していた。

 そこにはただ、月明かりに照らされた無人の廊下が広がるだけ。

 よろめくように、二歩、三歩。クリフが、アーノルドから距離を取る。

 

「幽霊屋敷という噂は、真実だったのかな?」


 恐らくは、その輪郭くらいは捉えたのかもしれない。

 今見たモノが信じられないというように、目を瞬かせながら、クリフが短剣の柄へ指を添えた。


「護身用に持って来たものさ。伯爵家に古くから伝わる一品でね。嘘か本当か、千年前から継がれているそうだよ」

「へえ、通りでな。髭を良く剃れそうだと思ったぜ」

「良いね。お家が没落したら、理容師にでもなってみようかな。ビーフを切り分けるのは得意なんだ」

「そいつは豪快だ。起業したら教えてくれ。間違っても予約を入れないよう、秘書に伝えておくよ」


 のらりくらりと軽口を交わし、二人は笑みを交わし合う。

 

「酔わせたのは、俺の責任だからな。短剣を取り出したのを差っ引いて、互いにひとつだけ、質問に答えるってのはどうだい?」

「あぁ、それで良い。そうして貰えると助かるよ。それじゃあ、先に――」

「ドルトーン商会は、俺が潰した」


 はっきりとそう答えると、クリフの眉が露骨にしかめられた。

 

 ――美形ってぇのは、得だな。顔を歪めても絵になりやがる。

 

 そんなどうでも良い事をこねくり回しつつ、アーノルドは話しを進めてゆく。

 

「アレはそう、十年近く前になるか。ようやく商会の形が整い、多方面に手を広げ出した頃だ。地盤を固められた俺の最初の標的が、その商会だった」

「手加減はしなかったんだね」

「するつもりも無かった。徹底的に叩き潰したさ。あらゆるコネを使い、非合法一歩手前の方法を省みず、財産を欠片も残さないようにそう仕向けた。俺の悪評の大部分は、この頃のものだな。未だに響いているよ」


 ローラの素性については既に、ギリアム・ヒューレオン侯爵から聞き出している

 彼女が本当にそうならば、アーノルドへ恨みを向けるのは当然と言えた。

 過去を切り捨てる事など出来ない。どれ程に正当な理由があれ、手を下した事実は残る。

 だからこそ、例えば身内レティシアの薄暗い過去等を、アーノルドは敢えて肯定することは出来ないのだ。

 

「理由は?」

「質問は一つだけの筈だぜ、お坊ちゃま」

「手厳しいな、君は」


 クリフは短剣をくるりと回し、懐へ仕舞い込んだ。

 言葉とは裏腹に、さして残念そうな様子は全く無い。

 それを見て、アーノルドは嘆息ひとつ、再び口を開く。

 

「……復讐さ。それ以上でも、それ以下でも無い」


 ドルトーン商会。それは、アーノルドにとって色々な意味で苦々しい記憶をもたらす名だ。

 妻にさえ告げていない、己の過去と罪。そこに起因するものなのだから。


「そうか、そういう事か。なら、仕方が無いかな」

「仇を討たなくて良いのかい?」

「彼女自身が私にそう求めたのであれば、あるいは別だったかもしれないがね」


 古ぼけたジャケットの胸元を手で払い、クリフが苦笑した。

 

「もしくは君が、純粋に金や利益目当てでそうしたならば、義憤にも駆られたろうが――」


 深い、深いため息を吐き、子爵は目を伏せた。


「――復讐ならばどうしようもない。他人が口を挟む事では無いな」

「すまねえな。あの一件は、俺の中でもまだ消化できてないんだ。言い訳をするつもりもねえんだが……」、

「いや、良いさ。人間、生きているだけで恨みを買うものだ。こちらこそ、無礼を詫びさせて欲しい」


 クリフの薄く笑うその姿が、妙に儚く見える。

 己と妻の予想が的中しつつあることに、アーノルドはやるせない思いを抱く。

 自分がその一端を担っているだけに、なおさら後味が悪い。

 

「さて、君が聞きたい事は何かな? 私に答えられる物であれば良いのだが」

「こっちが質問するのはひとつだ。アンタは、霧の向こうから響く声を聞いたのか?」


 その言葉を、あるいは予想していたのだろう。

 クリフは少しも動揺せず、ゆっくりと頷いた。

 

「君たちが屋敷を訪れる、少し前かな。ローラの子細を求めて街を歩いていた私は、乳白色の霧を見た」


 その言葉に、アーノルドは舌打ちする。

 こちらの動きを監視していたかのような、その手の早さ。

 正しく霧のように正体の掴めない敵を前に、改めてその脅威を実感する。

 

「『彼』は、ローラの過去を語ったよ。彼女が受けた仕打ちと、悲嘆の内に迎えた最期を切々とね。だから、私は驚いた。あの娘が『祝福』を有している事は知っていたが、そんな事情があったとは思いもよらなかったから」

「彼女は、何もアンタに打ち明けなかったのかい?」

「ああ、何も。自身の境遇に付いて、触れる事さえしなかった。ころころと良く変わる表情で、ぶつくさと文句を言いながら、それでも最後はいつも笑いかけてくれた」


 やはり、ローラ・ハミルカルとリチャード――初代男爵には繋がりがあったか。

 腹の底から煮えたぎるような激情が、ふつふつと湧いてくるのを感じる。

 

(好き勝手しやがって、あの野郎め!)

 

 タウンハウスでクリフと会った時、妙な違和感を覚えた事を思い出す。

 彼はあの時既に、初代男爵からローラの素性と――恐らくはその目的を聞かされていたのだろう。

 だとすれば、どんな気分でクリフはアーノルドと握手を交わし、恋人の思い出を語ったのか。

 

 

『三流の悲劇が横行する時代です。せめて残された思い出くらい、綺麗であって欲しいじゃありませんか』



 かつて、アーノルド自身が告げた言葉が、脳裏を過ぎる。 

 死者が敢えて胸に秘めて逝ったものを、臆面も無く曝け出し、せせら笑うその悪辣さ。

 その最期において、祈るように呟かれた言葉さえ利用してのける、用意周到さ。

 全く見事。素晴らし過ぎて、反吐が出る!

 

「『彼』は言ったよ。もう一度、愛する娘に逢える可能性があるならば――」


 唇を歪め、クリフが天を仰ぐ。

 

「――君はどうするか、とね」


 寒々しいものが、アーノルドの背筋を撫でてゆく。

 次期伯爵となるべき男が浮かべる、どこか虚ろな笑み。

 そこに、あまりにも危ういものを感じ取っていた。


「迷ったさ。あれほどに悩んだことは、私の人生でも数えるほどしかなかった。けれど、そうしている内に夜が明け、東区に『アレ』が掲示されてしまった」

「悪食警部を揶揄するような言葉が刻まれた、あの絵図か」

「あぁ。それ以来、霧が我が家に押し寄せる事は無かった。アレは夢だったのかもしれないと思ったが、聞かされた事実が耳から離れなくてね。どう処理して良いかも分からないまま悶々とするうちに、私はふらりと東区へ足を伸ばしていたんだ。もう一度、あの声が聞けないかと捜し歩いて……」


 そこでクリフが言葉を止め、何かをそっと呟く。

 それは、いつぞやアーノルドが霧の向こうから聞いた、あの言葉のように思えた。

 

「――『同盟』に、入るつもりか?」

「どうだろうね。何だか、良く分からないな。彼女が死んだと分かってから、変なんだ。足元がふらついて、ふわふわして。どんなに美味しいものを食べても飲んでも、腹も心も満たされない。おかしいだろう? シュトラウス本家の私が、だよ?」


 ――なるほど、爺様が心配するわけだ。

 アーノルドは、やりきれなさそうに首を振る。

 掌中の珠とも言える息子が、こうも飢え果ててしまっているのだ。

 父として、伯爵家の当主として。焦燥に駆られるのも当然と言えた。

 

「情けない話だよ。何が真実で、何が虚構なのか。もう、私には何も分からない。五年にも及ぶあの日々は、彼女と過ごしたあの夜は――本当に、在ったことなのだろうか。彼女が何を想い、どうして私に付き合ってくれたのかさえ、断言できる根拠が無い」

「だから、アンタはマリーベルの提案に乗り、俺に誘われるままに――こうして、酒を酌み交わしたのか」

「確かめたかったのさ、君を。父の信用を勝ち取り、王太子殿下にさえ認められ、挙句の果てには平民の身でありながらレーベンガルド侯爵を真正面から叩き伏せた。アーノルド・ゲルンボルクという人間を、私は知りたかった」


 そう告げるや否や、ジョッキを手に取り、クリフは底に残った麦酒を一気に飲み干した。

 

「このポーターを飲ませてくれて、感謝するよ。とても懐かしい味だった。お蔭で、ほんの少しだけ目が覚めたとも」


 何処までも優しく、切ない声。そうして、クリフは微笑んだ。

 

「すべきことがようやく定まった。あるいは、ローラは望まないかもしれないが――私はどうしても知りたい。知らねばならない」

「奴の誘いに与するかい?」

「いいや、霧に包まれ歩いては、足元さえ見えないだろう。下手をすれば、自分の願望をそこに映して、それで満足してしまうかもしれない。流石にそこまで、恥ずべき男になりたくはないな」


 覚束ない足取りで、しかしそれでも足を折る事はせず。

 己の意志を表明するかのように、クリフ・シュトラウスはアーノルドへと、再び歩み寄った。

 その右手には、もう。煌めく銀色の刃は握られてはいない。

 

 とするならば、応ずべき道は、一つしかない。

 立ち振る舞いを正し、アーノルドはゆっくりと紳士の礼を取る。

 

「手を貸して頂けませんか、閣下。代わりに私は、貴方の助けとなりましょう」

「願ってもないことだ。非才の身ではあるが、よろしく頼む」


 月の光の下、二人の男が静かに握手を交わす。

 瞬きせず、見つめあう瞳。そこには青白く輝く、紅蓮の炎が灯っていた。


「相手は未知なる者。何処に潜み、何処まで広がっているか分からない、不可思議な霧そのものだ。あの時『彼』は、私にこうも告げたよ。望むならば古きシュトラウスの血筋へ、再び『祝福』を与えよう――と」

「……へえ」


 握った手の平から伝わる震え。

 それは、どちらのものであったか。

 

「それでも、君は挑むのだな」

「アレには借りが多すぎましてね。そろそろ利子をたんまりと付けて、取り立ててやらにゃならんのです」

「そうか。ならば、そこに私の分も上乗せして貰って構わないかな?」


 クリフの口元に浮かぶ、凄絶な笑み。

 それを正面から受け止め、アーノルドもまた愉快そうに笑う。

 

 

「――ええ、存分に。霧の向こうで嫌らしくほくそ笑むあの野郎に、一発かましてやりましょう」

 


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