161話 密約
「ありがとな、ここでいい」
運転手へ背中越しに手を振ると、アーノルドは歩き出す。
肩口に当たる、幾つもの滴。小雨が降り出した通りを、ゆっくりと、踏み締めるように前へ前へと進んでゆく。
そうして辿り着いた建物を見上げ、軽く息を吸い込んだ。美麗な装飾が施された、白塗りの壁。曇り空の中でも良く映えるそれは、周囲の建築物からすればやや小さくあれど、だからこそ荘厳ささえ感じられる物であった。
今まで、何度となく訪れた場所。しかし、未だに慣れる気配が無い。誰かの前では虚勢を張れるが、一人になれば足も竦むし気分も滅入る。どれだけ金を持とうがきっと、根が小市民なのだろう。ちっぽけな、臆病者なのだ。
微かに頭を振ると、肺の中の物を絞り切るように息を吐き、アーノルドは門を潜った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「やあ、アーノルド! 随分とまた、ご活躍のようじゃないか。後で話を聞かせてくれたまえ」
「かのミスター・ローディアムを囲っていると聞くが、新作はどうなんだい? 独り占めも程々にな」
こちらを出迎える声に、軽く、しかし丁寧に挨拶を返し、アーノルドは部屋の奥へと目を向けた。
(あぁ、やっぱりな)
探し人は、程なくして見つかる。
いつもの定位置、小さなテーブルの前に佇み、静かにグラスを傾けているようだ。
専従の使用人からグラスを受け取り、アーノルドは真っ直ぐに『彼』の元へと向かう。
『クラブ』の内装も様式も、個々によってさまざまだ。前に一度訪れた事のある、レーベンガルド侯爵のそれのように、悪趣味極まり無い所もあれば、ここのように清廉を絵に描いたような場所もある。
所属する者たちの格を現すが如く、落ち着いた色合いの家具に装飾品。丁寧に磨かれた遊技台の傍を通り抜け、アーノルドはテーブルの上へとグラスを置いた。
「邪魔を致しますよ、ヒューレオン閣下」
「……いつも言っているが、ここでは敬称はいらぬ。階級の上下に関わらず、我らは同士であるゆえに」
「申し訳ない、どうにも慣れませんで。外でね、ついポロッと口に出したらと思うと、怖いんですよ」
相変わらずの無表情。東の国伝来の、能面を思い出す。
王太子の右腕にして、忠実なる腹心。影を操る『選定者』でもある、ギリアム・ヒューレオン侯爵。
その、感情を押し隠した横顔。ほんの一瞬、そこへ視線を走らせ、アーノルドはグラスを手に取った。
「……案外と、繊細なのだな」
「ええ、臆病者なんですよ。これでもね」
そこから先は、ひたすらに無言。ただ二人でワインを飲み続け、そうしてどれくらいに時間が経ったか。
飲み干したグラスを、ギリアムがテーブルの上へと置く。
「……話が、あるのだろう?」
告げたのは、たった一言だけ。相手の答えは聞かず、侯爵は身を翻した。
相変わらず、背中で語る男だ。そういう類の人間を、アーノルドは嫌いでは無かった。
侯爵の後に続き、隣室へと入る。
そこは何とも簡素な部屋であった。テーブルを挟み、ソファーが向かい合わせに二つ並んでいる。扉は頑丈で、壁も分厚そうに見える。少々手狭のようにも感じるそこは、密談をするには最適のように思えた。
「……大主教は難敵だ」
ソファーに腰を下ろすなり、ギリアムは開口一番、そう言った。
こちらの事情を正確に読み取っている。闇を思わせる薄暗い瞳は、まさしく影の如く。
ふと気を抜けば、呑み込まれてしまいそうだと、そう思った。
「今まで、お前達が相対してきたものとは、根本的に違う。大主教自身が脅威だというのではなく、彼が体現するものこそが、厄介なのだ」
感情の籠らぬ、淡々とした口調。
ギリアムが言わんとする事の本質に、アーノルドは薄々と勘付いていた。
「この国に於いて、調和を奉ずる信仰は特別なもの。国民の心に根付く、芯と言っても良い。教主たちが説くは道徳や理性、そして――」
ぴたり、と。ギリアムの視線がアーノルドを射抜く。
「――正義だ」
主は堕落を禁ずる。聖典の一節がふと、頭に思い浮かぶ。
霧の向こうからも聞こえたその言葉。それを聞いた時、アーノルドは内心、複雑な思いを抱いたものであった。
文明は改革により発展し、衣食住、何もかもが加速度的に進化してゆく。
その根底にあるのは、何だ。心正しく生きることではあるまい。
馬車の代わりとして、道を自動車が席巻し始めたのもそう。遠方に訪れることさえも、今は汽車がある。次から次へと、己の足よりも早い物を、人間は造りだしてゆく。何故なら、その方が便利であるからだ。
大多数の人々は、楽であることに勝てない。
欲望とは果てしない物だと、商人であるアーノルドは良く知っていた。
「質実剛健を良しとする風潮も、間違ってはいない。求める事が過ぎれば、人は容易く暴走するからな。律すること、戒めること。その為に神の教えはあるという。労働を利他行為として尊ぶのも、そこに在るのだ。ゆえに、お前とは相性が悪い」
「私が、成り上がりの商人だから――ですか」
「時代は移ろい、目まぐるしく変化してゆく。だからこそ、今。人々は危機感に心を揺さぶられているのだ。これまでの伝統的な価値観が、新技術の到来や改革によって少しずつ崩壊している。何事にも光と影があるのだ、アーノルド・ゲルンボルク。逞しく働き、明日へ希望を夢見る者が居る一方で、この発展が正しいのかどうか、悩む者達も少なくない。後者の筆頭が、教会の連中だ」
かつて、妻と交わした会話を思い出す。
新時代の商人たちが疎まれる、その理由について、彼女は正確に論じてみせたものだ。
「これまでの相手は、明らかに反社会的な行為に身を投じたり、虚構や欺瞞を操って事を為そうとしてきた。だが、今回は違う。わかりやすい悪では無い。道理が通ずるものなのだ。正しきことと、お前達は戦わねばならない」
まるで、他人事のような言葉。他人が聞けば、突き放したようにも感じただろう。
だが、その裏に秘められた真意を、アーノルドは確かに読み取っていた。
「お前の立場を縛るような改正案もそうだ。確かに急すぎるやり方であり、反発は多い。それでも、このまま議会に提出されれば、上下共に受け入れられてしまうだろうな」
「明らかに悪手だとしても、ですか」
「だが、正論ではある。慎ましく、心正しく生きよ。過剰を望まず、姦淫に溺れず、理性を保て。調和を崩す事無かれ。言葉の上では正しいのだ。そしてそれは、人権の弾圧だと喚く者達ですら、心の何処かでは認めざるを得ない」
それは、アーノルドとて十分に分かっていた事である。
綺麗ごとは、美しく耳に良く聞こえるからこそ、通りが良いのだ。
個人間では胡散臭く聞こえるものも、しかるべき立場の者が述べ、大多数に説くのであれば、この上なく有効的なものとなる。
「そうして、抑えつけた不満の吐き所を、上手く上手く逸らせば、こちらにとって大打撃となる、と」
「……そうだ。妨害処置としては、非常に効率的な手段だろう。目に見えず、陰から這いより、気が付けば足元を汚泥に嵌らせる。対処がしにくく、重しとしては十分なものだ」
聞けば聞くほど、こちらに不利な事象が揃っている。
相手が表立って敵対してこないからこそ、やりにくい。
何せ、ギリアムの言う通り、彼らは正しい事しか言っていないのだから。
(……こっちの弱点を突いてきやがったな。多分これは、リチャード――初代男爵の入れ知恵か)
義弟を連れ回し、会話技術や魅せ方をあれこれと仕込んだのは、他でも無いアーノルド自身だ。
こちらの手の内を、十分に学習しているのだろう。成るほど、これは確かにしてやられた。
何処までが『彼』の人格であったかは知らないが、こうもすっぱりと嵌められると、一種の清々しささえ感じてしまう。
だが、そう。それが分かっているからこそ、アーノルドはここへ来た。
先手を打つのが、自身の主義だ。身動きが取れなくなる前に、新しく手札を増やさなくてはならない。
それに、ここまでの話を聞いて、逆説的に得たものがある。それだけでも、十分な収穫であった。
「今日は、随分と口を滑らせてくれるのですね。こんなにも長く、貴方と話をしたのは初めてだ。
「……必要であれば、そうする」
「そうですか。それでは、もう少しお付き合いいただきましょうかね」
アーノルドは、用意した紙束を伏せ、テーブルの上へと滑らせる。
「……これは?」
「非常に貴重な代物ですよ。ともすれば、エルドナーク建国に関する秘密が、紐解かれるかもしれない」
ピクリ、と。ギリアムの眉が微かに動く。
ここまでの会話から、察せられる事実。アーノルドの思っている事が確かであるならば、彼の職務上、この中身を知り得て置く必要が有る筈なのだ。
アーノルドは、侯爵の背後を見据えつつ、胸元の懐中時計をそっと抑える。
そこから返って来る反応に、己の勘が当たった事を確信する。
「そこの、あぁ――その片隅です。そんなせまっ苦しい暗がりで盗み聞きをしている彼から、貴方は聞いている筈だ」
部屋の装飾品から落ちる影、一見して何も異常な所は見当たらない。
だが、懐中時計に宿る幽霊メイドの感覚は誤魔化せるはずもなく――
「……なるほど。こちらの事情も察している、か」
「ヒントをくださったお蔭ですよ。そこの名探偵にも一応、礼を言っておきます」
アーノルドの言葉を受け、影がゆらゆらと揺らめいたように見えた。
それが、答えであった。
「さてさて、それでは商談を始めましょうか」
紙を指先で抑え、アーノルドはゆっくりと微笑む。
すると、どうしたことか。氷のように凍てついた侯爵の表情に、変化が訪れた。
眉尻を下げ、口元を僅かに緩め――笑った、のである。
「……お前は非常に面白いな、アーノルド・ゲルンボルク。殿下がお気に召されるわけだ」
「ご評価いただき、光栄でございます」
おどけたように紳士の礼を取ると、アーノルドは更に別の用紙を複数並べる。
丁寧に、一枚ずつ。人物画すら添えたそれを見て、ギリアムが目を細めた。
「……ほう、見事なものだな。ローディアムの作か」
「ええ、せっかく囲っているわけですし。学者紛いの事だけでなく、本業も頼まなければ失礼かと思いまして」
並べられた用紙、それをじっくりと眺めていたギリアムが、不意に目を瞬かせた。
「……彼女も、か。夫人は知っているのか?」
「いえ、独断です。勝手走ったことはまぁ、後で蹴りの一つでも受けて詫びるとします」
「恐妻家なのか、愛妻家なのか。良く分からんものだな」
両方である。何事にも光と影があると言ったのはギリアムだ。
それは、夫婦関係においても適用されるものなのである。
「まず一つは、この人物たちに関して。知っている限りを教えて頂きたい。どうせ、調べ上げているのでしょう?」
「良いだろう。その取引を呑む。他には何だ?」
「ええ、私もそろそろ名が売れてきた頃だ。ここらで少し、人脈を広げようかと思いましてね。だが何せあの屋敷は、色々と噂が多い。呪われた場所、などと囀る方々も少なくない」
嘆かわしい事だと、アーノルドは肩を竦める。
「新しき時代を夢見る上流階級の方々や、神さまの忠実な僕をご招待するにあたって、確実に大丈夫だという証明を頂きたいのですよ。それには、是非とも貴方のお力添えが必要でございまして」
「なに?」
今日は、初めて揃いだと、アーノルドはそう思う。
何せこの、氷と鉄で顔を作ったような男が、驚く姿が見られたのだから。
「アーノルド、お前はまさか――」
「ええ」
堪え切れなかったのか、影の向こうから、吹き出したような声が聞こえる。
それを横目に、アーノルドは極上の笑顔で頷いた。
「ジョーゼフ・グラン大主教様を、是非とも我が屋敷にお招きしたいのです」




