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17話 旦那様はズルイ人!

「発表会……ですか? あの、麻薬密造の件は――」

「そも、それが誤解なのですよ。論より証拠、これをご覧ください」


 ざわめく報道陣の前で、アーノルドが包みを開く。そこから出てきたのは、ガラスの瓶に収められた液体。美しい琥珀色をしたそれを掲げ、若き実業家は晴れやかな笑みを浮かべた。


「新王国では既に実用化されていて、我が国においては特許出願中なのですが――今回は特別に公開いたしましょう」


 ガラス瓶を見せびらかすように揺らすと、アーノルドはそれを天に掲げた。

 

「これは、新型の麻酔薬です。強い鎮痛作用を持ち、医師の管理の元で適切な服用をすれば、様々な場で活用が出来るのですよ。極端な外傷における痛みの緩和に手術への利用、神経痛などにも有効です」

「ま、麻酔薬――ですか? まや……」

「麻薬ではありません。どうも、その辺の誤解が広まっているようですね」


 大袈裟な仕草でため息を吐き、アーノルドはもう片方の手をマリーベルに差し出す。

その意図を察し、妻は夫へと『それ』を手渡した。


「どうぞ、あなた」

「ああ、有難う。さて、そこの――そう、そこの貴方。これをご覧ください。何に見えますか?」

「何って……えっと、ガヅラリーの強壮薬じゃないですか。子供の安眠用にも使う……」


 かの『安眠導入薬』を揺らしながら、アーノルドは笑う。


「――そう、子供たちを永遠の眠りに誘う……恐ろしい、悪魔の薬だ」

「な……っ!?」


 記者たちのざわつく声が大きくなる。それらを睥睨し、アーノルドは腕を組む。威圧するようなその動作に、先頭に居た男達が仰け反った。

 

「これには極めて強い常習性がある。万能の薬などとも謳われていますが、そんな物が在るわけがない。ある種の病には特効でもその他の物には危険な毒物ともなる。本来、薬とはそれ程に扱いが難しい物だ!」


 アーノルドの声に怒気が混じる。鬼気迫るようなその勢いは、とても芝居とは思えない。


(きっと、演技じゃない。旦那様は憎んでいる、怒っている。『薬』に纏わるその何か、に――)


 マリーベルの推測を肯定するかのように、アーノルドは熱弁を振るう。更に大きく声を張り上げ、腕を振りかぶり、高々と告げる。 煽動者の如きその仕草と声に呑まれ、記者たちは口を挟む事すら出来ずにいた。

 

「既に、論文も用意しております。その道の権威が書いたものだ。統計も取りました。エルドナークのある都市では、幼児死亡原因の実に六割以上がこの強壮剤――いや、それと類似する薬品によって命を奪われている!」

「ろ、六割以上……!?」


 悲鳴にも似た声が上がる。それは次々と伝播し、想像以上のどよめきを生んでいく。

 

「更に、この強壮薬に含まれている成分、その主材料となる木の実が問題だ。そう、それは栽培も輸入も禁止されている『オピウムの種子』なのです!」

「まさか……!? あの、ご禁制の――」

「そう。人心を狂わす作用があるとして、この国から根絶された代物だ。しかも、良いですか? この実は何と、彼の麻薬を製造するにあたっての代用品になる。これも、確かな筋から得られた話です。稀代の妙薬は――恐るべき魔の薬の原材料と成りうる!」

「な、なんと……!? そ、それが真実なら、これほどに恐ろしい事も無い! 広く、民衆に知らしめるべきだ!」


 興奮したような記者の声に、アーノルドは微かに苦笑を漏らす。

 『やりすぎだ』と呟く声が、マリーベルの耳に聞こえた。


「……この麻酔薬には、その木の実の近縁種が用いられている。もちろん、安全性は確保した物だ。抽出される成分も異なります」


 ざわめく記者たちに向けて、アーノルドは再び『麻酔薬』の瓶を揺らす。

 

「その研究用に仕入れたのが、ガヅラリーの強壮薬です。前から噂に聞いていましてね。どうも、わが社の新商品と効能を一部同じくするらしい、と。そうして詳しく調べて見てびっくりしましたよ。まさか、材料もその流用先も全てが違法。とんだ『万能薬』もあったものです」


 その眼に静かな怒りを湛えたまま、彼は肩を竦めた。

 その仕草一つ一つに、記者たちの目線が引き寄せられていく。

 

 流石は旦那様だと、マリーベルは内心で舌を巻いた。仕込みもあるが、その声や手ぶりが他人の目にどう映り、どんな効果を発揮するのかを完全に見切っている。傍にいる自分でさえ、思わず見入ってしまいそうになった。

 

 アーノルドが高々と掲げた麻酔瓶を、すうっと横に滑らせる。

 それにつられるようにして、記者たちの目も『そこ』へと吸い寄せられた。


「恐るべき悪魔の薬と、人の体を癒す術となる薬。例えばこれの両方が薬局に並んでいたとしましょう。その違いと正しい用法を把握し、状況に応じて使い分ける自信が――貴女にはありますか?」

「え……っ!?」


 水を向けられたのは、記者陣の中ほどに居た女性記者だ。少しずつ増え始めている職業婦人、という人だろうか。

 この国の女性にしては珍しく幅広の帽子を被っており、大きな眼鏡を顔に掛け、灰色の婦人服を身に付けている。

 彼女は落ち着かなさげにソワソワと体を震わせ、それからゆっくりと首を振った。妙に上品な仕草だと、マリーベルは眉を顰めた。

 

「いいえ…‥無理、ですわね。専門の知識が無ければ不可能な事でしょう?」

「そう! だというのに、家庭医学において女性は未だ、医療行為を押し付けられている。家庭を守るべきは女だと、簡単な手術まで行わされているのが現状です。だというのに、その知識を得るべき場があまりにも少ない」


 嘆かわしい、とアーノルドも首を振る。

 

「近代の科学発展により、古来からの薬草学を否定し馬鹿にして駆逐したというのに、これだ! 経験から来る確かな知識を否定されて、広告のがなり立てるままに『評判の良い』とかいう薬を買う! その結果が先の都市だ! 馬鹿げているにも程がある!」

「……しかし、ミスター。貴方の言う麻酔薬とやらも、新王国では『兵隊病』紛いの結果を起こしているのでは?」


 不意に届いたその言葉が、熱を切り裂いて冷ややかな空気をもたらす。

 発言したのは、あの名物警部だ。このタイミングでなんて嫌な奴か。

 少しは手加減しろ。マリーベルはそっと彼を睨み付けた。

 

 そんな妻の目線を遮るようにアーノルドが前に出ると、彼は発言者へ向けて舌鋒を向けた。

 

「ええ、この前身となったらしい薬ですね。中毒性が高く、深刻な社会現象を起こしているとも聞きました。戦場での痛みだけでなく恐怖を緩和させる為に大量の服用をした結果だ。処方をした医者も、嘆いていましたよ。そんな使い方をするべきものじゃなかった、とね」

「貴方のそれは違う、と?」


 警部の蛇の如き視線とアーノルドのそれが宙で交差する。見えない火花がそこに散るのが、マリーベルにははっきりと視えた。

 

「さっきも言いましたが、量と使用法の違いです。これからは薬効を知らぬ限りは売買も服用も禁じ、制限すべきだ」

「無制限に誰でも薬局に行けば薬を買える。どんなに危険な成分のものでも関係なく。その状況を妨げたいとおっしゃる?」

「まさにそうだ! 私はここに()()()()! 記者の皆さんもこの論文を持ち帰って検討してください。私は未来ある子を奪い、命を嘲笑う全ての偽医療従事者を許さない!」


 話が予想外の方向に転がっていく。そう、記者たちは思ったろう。あるいは、これをどうネタにすべきか迷っているか。

 ざわめく声すら今は無い。いつしか誰もが口を閉じ、アーノルドと警部の舌戦を見守る観客と化していた。

 

「……そして、どうもそれを邪魔立てしようと騒ぐ者達が居るようで。今回の違法薬物の一件はそれです」

「し、しかし! 現に、貴方の所有する工場から麻薬が発見された、と――」

「これの事ですか?」


 アーノルドが懐から包み紙を取り出す。彼は片手で器用にそれを開くと、報道陣に見せ付けるように前へと突き出した。

 手のひらに鎮座しているのは、桃色の粉末だ。思わず、といった風に記者たちが顔を突き出し、前のめりになる。

 彼らを制するように、アーノルドはそれを一思いに傾け、呷った。


「――なっ!?」


 驚愕の悲鳴が唱和する中、アーノルドはニヤリと笑って包装紙をひらひらと揺らす。

 本当に悪戯が好きな旦那様だと、マリーベルはこっそりとため息を吐いた。

 

「これは、単なる粉末ですよ。薬ですら無い。海産物の骨とシナモンを砕いて混ぜ、ローズピンクで色付けした物。いわゆる歯磨剤の材料ですね。まぁ、これくらいなら飲んでも体に影響はありません」

「歯磨剤……? ま、麻薬ではなく?」

「ええ。これもわが商会の新商品――の原料。何ら違法性はございません」

「で、では――」


 麻薬の話は何処から、と質問の声が出かかった所で、アーノルドが再び手を上げた。

 もう、記者陣は彼に踊らされるだけの操り人形のようなものだった。面白いくらいに行動を誘導されるその姿に、マリーベルは可笑しいやら呆れるやら。

 

(……手慣れたものよねぇ。怖い怖い)


 自分も油断しないようにしよう。そうマリーベルは密かに頷く。

 乙女気質な軟弱者――のようでいて、彼は百戦錬磨の大商人だ。気が付いたら、すっかりとのめり込まされていた、なんてあり得る話だ。アーノルドと共に生き、彼を守ろうとは誓ったが、盲信はしたくない。夫は誠実な人間であるとは思ってはいるが、まだ共に生活してからほんの二か月かそこら。まだ、マリーベルは彼の事を何も知らないに等しい。

 

「『違法麻薬』と、その原材料が運び込まれた事は事実ではあります――そうですよね、警部?」


 と、そこで。アーノルドが尋ね返したのは誰であろう、あの悪食警部。

 すると、どうだろう。卵顔をつるりと撫で、悪名高きヤードの警察官は低い声で嗤ったではないか。

 

「あぁ、あぁ! ヒヒ、ヒ……貴方の言う通り! 運び込まれたのは、今から二週間近く前。ちょうど、ミスター・ゲルンボルクを私が連行したその、前日にあたる」

「ぜん、じつ……?」


 もう、記者たちの理解を完全に超えたか、彼らはオウム返しに言葉を紡ぐしかない。

 そんな絶妙な合いの手に対し、ベン警部は愉快そうに頬を緩めた。

 

()()()()()()()()()。出入り業者を総ざらいするのは中々に骨が折れる仕事だったよ。他の荷物に紛れ込ませて、巧妙に隠されていたからねぇ。お蔭で寝不足極まりない」


 口元に手を当て、あくびをするマネをしながら、悪食警部は嗤う。


「だが、収穫はあった。ミスター・ゲルンボルクは潔白だと、この私が証言しよう」

「ご、誤認逮捕をしたと、そう言われるのですか、警部!」

「彼の身柄を狙う蛇は他にも居たからねえ。保護の為にも、必要な行為だったと確信している」

「ほ、保護……? あなた方は、いがみ合っていたのでは――」


 戸惑う記者たちの声に応えるように、警部はアーノルドへと目を向けた。

 神経質そうな眼差しが矢のように商会長を射抜くも、彼はその視線を真っ向から受け止め、頷いた。

 

「つまり、私は嵌められたと、そういうわけです。ですよね、警部?」

「ええ。勇み足をした者が警察内部にも居たようですな。最近は我がラムラック警視庁ザ・ヤードも例の『霧の悪魔』にてんてこ舞いだ。そんな気の緩みを利用した者の暴走だよ」


 そう言って、警部が顎をしゃくる。

 すると何処からか黒衣の警察官が数名、同じ服装の同僚らしき男を引っ立て来た。


「東街区で違法薬物を売りさばいていた警官だ。あろうことかその罪を擦り付ける為に業者を抱き込み、その矛先としてこの工場を選んだようで。理由はさきほど、ミスター・ゲルンボルクが述べた通り。危険な薬物を告発しようとした彼を、邪魔に感じたのだろうね」


 がくりとうな垂れる男は、ぶるぶると唇を震わせている。

 

「しかるべき裁きを受けさせると約束しよう。ミスターの成功を妬む者は少なくない。これからもそんな輩が増えると思うが、記者の皆様はどうぞ公正な記事を書いてくださいよ」


 ベン警部はいやらしげな笑みを浮かべ、ねっとりとした視線で報道陣を睥睨する。


「ヒヒヒ……ほら、何しろ私は悪食なので。皆様の『熱の籠った』取材には実に、食欲をそそられますからなぁ……?」


 その言葉に心当たりがあったのか。記者たちの間に緊張が走る。

 誰もが目を泳がせる中、アーノルドが頃合いを見計らったように手を叩いた。

 

「ここに正義は為されました! 悪評を受ける事も厭わず内部告発を遂げた警部に拍手を!」


 その言葉に促されるように、最初はまばらに。やがてそれは万雷の拍手に変わる。

 それを行っている記者たちの顔はみな一様に同じ。戸惑うような、呆気に取られたような、呆けたようなもの。

 

 

 ――何だ、これ?

 

 

 そう、一様に表情に書いてある。少なくとも、マリーベルにはそう見えた。

 

「さぁ、お開きだ。皆様、お帰りはあちら。うちの工場で出来たお土産も用意してありますよ。出口で受け取ってください」


 アーノルドがサッと手を上げると、それを受けてディックが姿を現す。彼はにこやかな笑みを浮かべ、有無を言わさず記者たちを先導していった。

 

「……旦那様は」


 マリーベルも笑顔を崩さず、夫の腕を掴む。

 

「……やっぱり、ずるいです」


 そのままギリギリと締め付けるも、彼は表情を崩さない。脂汗を一つ流すだけだ。

 

「……黙っていたのは悪かったよ。だけど、ほら言ったろ?俺の周りは有能だって」

「知りません、旦那様のバカ」


 ぷいっとそっぽを向く。こっちがどれだけ心配したと思っているのか。

 だというのに、この男はこれだ。あの状況下で誰が想像できるというのか。

 あの逮捕劇がそもそもお芝居で、悪食警部が――初めからアーノルドの協力者だった、なんて。

 

「ヒヒ……敵を騙すにはまずは味方から、と言うからねえ。悪く思わないでおくれよ、お嬢さん。だから、その拳を握りしめるのは止めて欲しい。それ以上近付いては駄目だ。冷静に、冷静に……!」


 真剣な表情で後ずさる名物警部。いかにもな悪人面で出てきておいて、この結果は何だと問い質したかった。

 これが推理小説なら落第点だ。物語に出もしなかった人物を黒幕でござい、と突き出すとは何だ。読者を愚弄しているのか。ハンチング帽子の名探偵に謝れ、ひれ伏せ。マリーベルは激怒しかかっていた。

 

「後で何でもするから、この場は勘弁してくれ! それに、『物語に登場した黒幕』ならもう一人居るぜ」

「……確かに」


 ああ、そうだった。肝心な捕り物はまだ、終わっていないのだ。

 マリーベルが気遣わしげに夫を見つめる。真実は、いつでも残酷なものだ。

 

 妻の瞳から目を逸らすようにして、アーノルドが視線を落とす。

 

 

 ――そう、本番は、ここからなのだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ――『それ』は、薄暗い小屋の中にうずくまり、ただじっと足元を見つめていた。

 

 遠くから聞こえてくるのは、喧騒。何十人もの人々の声が響いて、耳朶を打つ。

 それらを一つ一つ聞き分け、内容を吟味する。どうやら、天秤は傾いたようだった。

 

 ――予想外であった。想像の範疇を超えていた。一筋縄ではいかぬとは思っていたが、あの男がここまでやる、とは。

 

 穴だらけの理論を押し通す舌鋒の鋭さと、度胸。資本の多くは新王国の方に在るとは知っていたが、動きが早い、早すぎる。

 『それ』が望んだ事とはいえ、こうもあっさりと()()()()()()()()()()()()()()

 今頃、彼の国は大騒ぎだろう。損して得取れ、は商人の基本であったな。『それ』の表情に笑みが浮かぶ。

 

 アーノルド・ゲルンボルク。

 彼は一体、いつからこの図を描いていたのか。利用したつもりでいて、利用されたのは『それ』の方であった。


(……注意すべきは、『あの娘』の方では無かった、か)


 桃色の髪の少女。恐らく、『それ』と同類であろう貴族令嬢の姿が、脳裏に浮かぶ。

 あの日、あの時。こちらを探るように向けられた、空色の瞳を思い出して、『それ』は愉快そうに体を揺さぶった。

 

(それに――あぁ、なんてこと。こんな形で再会するとは!)


 線も細く、か弱げなウサギだった『彼』が、今はまるで蛇のようだ。

 年月は人を変える。『それ』も『彼』も、昔のままでは居られない。

 それは十二分に分かっていた筈なのに、一抹の寂しさを感じる。

 

「――よぉ、元気かい?」


 昔日に想いを馳せていたせいか、反応が遅れた。

 響いたその声に、『それ』が顔を上げる。

 

「どれもこれもが、おかしいことだらけだったぜ。在るはずの無い強壮剤の運び込みに、歯磨剤に使う原料の、その発注変更。数週間前、誰かさんの強い要望で決まったそうだな。紹介料を懐に入れるつもりかと、噂になっていたぞ」


 声の主は、淡々と淡々と言葉を連ねてゆく。


「ガヅラリーの強壮薬の注文は、一切合切禁止している。そう商会の規定で決まっているのは、言わずと知れたことだ。そして物の出入りには必ず許可証が要る。例外は二つだけだ。時には強制捜査権限を持つヤードとーー」


 眼光が鋭く輝く。

 その剣呑な視線に晒されながらも、『それ』は答えない。


「ーー守衛や荷物番を抱き込み、黙らせるだけの力と地位を持つ野郎だ」


 腹の底に低く響くような、その声には確かな怒りがあった。


「コイツが、全てを吐いた。考えてみれば、当たり前だったな。この工場の責任者に隠れて、『あれ』を密かに運び込む、なんて出来やしない。材料と現物。それぞれ別々に持ち込んだとすれば、辻褄が合う」


 カツ、カツ、と。靴音と共に人影がこちらに近付いて来る。

 その背後には、項垂れた黒服の警察官。両脇を同僚たちに抑えつけられているようだ。

 

(――しくじったか。さて……コイツは『何処まで喋った』のやら)


 『それ』が沈黙を守っている事に、苛立ちを覚えたのか。

 人影は、『それ』の目の前に立ち、地面を踏み鳴らした。

 

「あの管理台帳に、『強壮薬の記載がなかった』のが、逆にお前への疑いを深めた。そりゃあ、ヤードも証拠物件として挙げないわけだ。だが、悪いことは出来ねぇし、目や口に鍵は掛けられねぇもんだ。証言も証拠もある。欲に目が眩んだ奴には見えねぇ位置から、ガキどもがばっちりと目撃していたそうだ」


 人影――アーノルド・ゲルンボルクが、そう言って顎をしゃくる。

 

「強壮薬を購入したルートも調査済みだ。なんなら、サイン入りの伝票を見せてやろうか?」


 大したものだと、『それ』は感心する。

 この短い時間で良くもそこまで調べあげたものだ。

 人脈もまた力。どうやら『ガヅラリー社』が思ったよりも、彼の協力者達は広く深い所に居るようだった。

 

 『それ』は内心で笑みを溢す。

 身の丈に合わぬ欲に身を焦がすからこうなるのだ。

 

 だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 そんな『それ』の胸の内を知る筈もなく、アーノルド・ゲルンボルクは疲れたように首を横に振った。


「答えろ、どうして俺を裏切った。『上』の連中に命じられたか? それとも金に困ったか。だったら何で相談しなかった」


 何処か悲しげな、哀切すら帯びた声。演技とは思えない。心からそう思っているようだ。

 甘い男だ。成るほど、と『それ』は密やかに納得する。

 

(――『この男』が信を置いていたのも頷ける。あの御方の言う通りだった)


 まだ、何かを喚いているようだが、それは聞き流す。雑音を気にしている暇は無い。

 アーノルドの問いには答えず、『それ』は彼の後方に目を移す。

 

 左右からにじり寄って来るのは、『悪食警部』の部下たちか。

 それを命じた本人は制帽から覗く目を輝かせ、こちらをじっと見据えている。 

 

(ひとり、ふたり、さんにん――)

 

 『それ』の目が、アーノルドの背に張りつく少女の姿に目を留める。

 

「はち、にん……すこし、おお、い、な――」


 『それ』の口から洩れた声に、アーノルドが目を見開く。

 

「工場、長――レズ、ナ―?」


 ああ、そうだ。『この男』はそんな名前だったか。


 『それ』が記憶を探る間に、ゲルンボルク商会の若き長はこちらの異変を感じ取ったらしい。

 妻を背に庇って、拳を顎先と胸元に構えている。

 拳闘の姿勢ポーズ。それを見て確信を深める。やはり、この男は只人か。

 それが何よりの収穫だ。そう、アーノルド・ゲルンボルクは『選定者』では無い。

 

 

「――お前、誰だ」


 

 その言葉に応えるは、笑み。

 

 『それ』の口元が、三日月に裂けた。窓から差し込む日の輝きが逆光となり、『レズナー工場長』の姿を暗がりに落とし込む。


 ーーそうして『それ』は影のごとく、嗤った。


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