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159話 大主教の思惑とは!?



 あれはそう、結婚式を行う少し前。

 社交界に挑むにあたって、マリーベルは夫と、こんな話をした事があった。

 

「言われるまでもないかもしれませんが。教会とは付かず離れず、適切な距離を保つようにしましょう」

「あぁ、分かってる。聖職者っつう連中はアレコレと喧しいのが常だが、この国は特にうるさいからな。こっちを目の敵にしているようにさえ思うぜ」

「ようにさえ、じゃなくて。実際にそうだと思いますよ」

「なに?」


 訝しげな顔をする夫に対し、マリーベルはすまし顔で言葉を続ける。

 

「教会が主として推奨しているのが、労働行為です。人は与えられたる天分を持って良く働き、それぞれの仕事を全うすべし。ミサなんかでも良く語られますよね」

「あぁ、覚えてるぞ。ガキの頃、近所の牧師がそんな事を言ってたっけな。要は規範ってやつだろ。道徳とか、そういうやつ」

「その通り。労働とは、すなわち善行なんです。神に報いる道だ、なんて言う人も居るとか」


 雇用主がミサへ行くのを許さずとも、嘆く必要は無い。労働という行為を持って、貴方は神へ奉仕しているのだ。

 今よりも労働が、徒弟制度でガチガチに縛られていた時代。そんな説話が、実際に語られていた事もあったらしい。


「その根拠は聖典における原罪がどうこう、ってやつらしいですが、それは別に放っておいて構いません。大事なのは、労働行為は基本的に、他者の為に在るべし――という論でして。いわゆる、公共の福祉ってやつですね。汝、隣人の幸せの為に尽くしなさい。利他行為こそが、労働の本来の姿だと」

「待て待て、つうことは……あぁ、そうか!」


 やはり、この人は勘が良い。呑み込みが早い、とでも言うべきだろうか。

 髪を掻き毟るアーノルドを見ながら、マリーベルは満足げに微笑んだ。

 

「旦那様たち、この時代における新世代の商売人。彼らは大体の場合、その最終目標は上流階級入りをすること、ですよね? 地主ジェントリの一員となり、目指すは働かずにお金が入る不労所得。お貴族様のような生活、ってやつです」

「階級を飛び越える行為。忌避される理由の一つが、そいつか!」


 思い当たる節が山ほどにあったのだろう。

 旦那様のお顔が、見る間に不機嫌になってゆく。

 

「神にも背く、呆れた行為。調和を乱す大罪。金銭欲に塗れたおぞましい心を捨て去り、身の程を知って悔い改めるべし。そいで、日々を清廉潔白に生きろってか」

「いや、そこまでは言いませんけど」

「言われたんだよ、実際な」


 恐らく、説教師たちに随分と暴言を吐かれたのだろう。アーノルドのこめかみが、あからさまにヒクついている。

 これが正しい道でござい、なんて。いかにもな聖人面で言われたら、まぁ憤る気持ちも分からなくは無かった。

 

「というか、それじゃあ貴族や地主共。上流階級のお偉方はどうなんだ。まさにその、働かない連中の筆頭だろうが」

「そこなんですよ。実際、その辺りを突いて批判する人も居ますし、反対に怠け者を揶揄する時、『ただし、ジェントルマンは除く』等と慌てて注釈を付け加える人も居ます」

「なんだそりゃ」


 全く持って同意見である。マリーベルも、養母からその話を聞いた時は、似たような事を思ったものだ。

 

「ただ、貴族は自領において各種の裁量権を持ちますからね。司法官とか兼任してる例も少なくありませんし。あれ、幾ら勤勉に働いてもお給料とか出ない、全くの無償行為なんですよ」

「嘘だろ、対価も無しに働いてんのかよ」

「それこそ、利他行為の極みですね。それに、全くのタダってわけじゃないですよ。得られる賞賛、名誉なんかが報酬ですし。そも、領主として当然の役割だ、なんて意見もあります」


 大昔の戦争もそうだが、政治とは、伝統的な貴族にとってはある意味、趣味と言える。

 いかに己の自己実現欲を満たすか。他者へ尽くす行為なども、その一環に過ぎない。

 

「その辺もあって、貴族と教会の距離は、中々に微妙なものです。一応、国教会の最高責任者は女王陛下、って事にはなってますが、実際の所は北と南の大主教がそれを担ってる形になりますね」


 エルドナーク南東部・ヒィナ大聖堂に教座を敷く、ヒィナ大主教。

 そして、その次席であり、北部の教区を統括するヨルグ大主教。

 エルドナークの国教会、何百万という信者を従える、忠実たる神の僕たち。


 特にヒィナ大主教は、宮中の席次も第一位。首相よりも上なのだ。現大主教・ジョーゼフはまだ年若いながらも、相当のカリスマを持った男のようである。決して粗末に扱って良い相手では無い。


「敵に回すのは得策じゃねえ、ってこったな。ったく、この国は相変わらず色々と面倒くさいぜ」

「単にお金を儲けるだけなら、それこそ新王国とか、そっちで商売した方がずっと良いとは思います」


 そう言いながらも、夫がその道を選ばないであろうことは、マリーベルにもなんとなく分かる。

 短い付き合いであるが、それくらいは察せられるようになっていた。


「そんなんでも、俺の生まれた国だからな。一度決めた事だ、諦めはしねえ」


 そうして、妻の視線に応えるように、アーノルドは期待通りに笑うのであった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「まったく、どこもかしこも例の一件のことばかりですねえ」


 お屋敷アンソニーの一室。

 新聞を広げながら、マリーベルは記事へと目を移した。

 でかでかと、一面に描かれた絵図は、件の大主教が起こした『奇跡』のものだ。

 光り輝く煌めきの中、穏やかな笑みを浮かべる聖人の姿。

 古の宗教画が指し示すような、その情景。付記には、現代に起きた神の恩恵だなんだと、大仰に書き立てられている。


「まさか、本当にあんなあからさまな演出を行いやがるとは、な。神サマを欺くような真似をしていいのかよ」


 マリーベルが腰かけたソファーの、その真向いで。

 コーヒーを啜りつつ、アーノルドが忌々しげに述懐する。

 

「あの後、群衆たちも警官隊も。みーんな、毒気を抜かれたみたいになって、そのまま解散しちゃいましたからね」

「出来過ぎだ。幾らなんでも、ご登場のタイミングが良すぎる」


 大主教が王都に滞在していた事は、マリーベルも知っている。

 予め、この事を知っていたかのような、その動き。

 どうにも、怪しい。怪しすぎる。

 

 在野の『選定者』の可能性もあり得なくはないだろうが、これまで得た情報が、一つの推測を導き出していた。

 

リチャードはやはり、大主教の手元に居るんでしょうか」

「そっちの線も考えて動くべきだ。状況っつうのは、常に最悪を想定すべし。悪食の野郎がそう言っていたぜ」


 とはいえ、相手が相手だ。

 貴族さえ手が出しにくい、教会勢力。その事実上の最高権力者。

 しかも今回の件で、生き神も同様の扱いを周囲から得ている。

 それを敵に回すとなると、戦い方も慎重に組み立ててねばならないだろう。

 

「フローラ様の時と、同じ手を使いますか? エルドナーク北部を総括するヨルグ大主教を担ぎあげる、とか」


 宮中席次も第三位。伝統的に、次席として扱われる、もう一人の大主教。

 国教最高位の役職にありながらも、立場上はヒィナ側――ジョーゼフ・グラン大主教の二番手に位置する身。

 それが、神の奇跡だなんだと、散々に持ち上げられているのだ。

 彼にしても、この状況は面白くないに違いない。

 

「いや、あの時とは状況が違う。そもそも、あちらへの直接的なコネがねえしな」

「ランドルフ殿下や首相閣下に口添えを頼むとか」

「あぁ。俺もな、それを考えはしたんだが――」


 アーノルドが、躊躇いながら言葉を続けようとした、その時。

 

「失礼いたします。マディスン夫人がいらっしゃいました」

「来たか。ここへ通してくれ」


 壁をすり抜けるようにして現れた、幽霊メイドの言葉に、アーノルドがため息とともに腕を組む。

 その様子を見て、マリーベルも何やら嫌な予感を覚えざるを得ない。

 

 やがて、部屋へと現れたレティシアの表情は、その予想を決定づけるものであった。

 

「ヨルグ大主教――ウェイン・アスクライアが倒れたと、電報が入ったわ。意識も無く、回復は絶望的――」

「やっぱりな。先手を打ってきやがったか」


 報告に対するは、苦々しい声。夫を見れば、彼は肩を竦め、コツコツと。指先でテーブルを叩いている。

 

「恐らく、後任には『都合の良い』男が選ばれるはずだ。連中にとっての、な」


 それが邪推で終わってくれれば良いと、心からそう思う。

 けれども、これまで起こった幾つもの事件からすれば、結び付けて考えるな、という方が難しかった。


「それに、アーノルド。あの日、大主教の傍に付き従っていた、細目の男だけれど」

「何だ、何か心当たりがあんのか?」

「顔を変えてはいるようだけど、仕草や雰囲気が一致するわ。足運びも特徴的であるし、それにあの冷たい眼差し……忘れられるものではなくてよ。恐らく、私の『身内』だった男ね」


 その言葉が発せられた瞬間、夫の様子が一変する。

 余程に意外であったのか。先ほど告げられた、大主絡みの件よりも、反応が劇的でさえあった。

 

「……まだ、生き残りが居やがったのか。しかも、よりにもよって大主教の側仕えに、だと?」

「しぶといわよねえ、全く。忘れたい過去ほど、絡みついて離れないものね。厄介であるけどまあ、自業自得かしら」

「自棄になるなよ。お前にはディックが居るってこと、忘れんじゃねえぞ」


 唸るようなアーノルドの言葉に、レティシアが苦笑する。


「あなたこそ、可愛い奥さんが居る事、心に留めておきなさいね。良かれ悪しかれ、私達はもう、昔の様には動けないのだから」


 それは何処か自嘲するようであり、半ば誇らしげなようにも感じる、不思議な笑みであった。

 マリーベルは、二人の会話が何を意味するのか、分からない。

 彼ら――ディックも含めた三人には、前から特別な絆めいたものが有るとは感じていた。

 過去。マリーベルが知らない、昔話。そこには恐らく、妻でさえも立ち入れない、彼らだけの物語があるのだろう。

 

 それが少しだけ悔しく、羨ましかった。

 

「……後で話す。今回の件にも、関わりある事とあれば、お前に黙っている道理はねえ」


 それを敏感に察知したのか。アーノルドが妻に向け、真剣な表情で、そんな事を語り掛ける。

 本当にズルイ旦那様である。もう少し、鈍感であってくれれば、どんなに良かったか。

 

 ちらりと横目に見たレティシアは、変わらず麗しい笑みを湛えているものの、目元が微かに震えていた。

 らしくも無い、その仕草。

 姉の如く慕う彼女もまた、こちらを妹のように可愛がってくれている事を、マリーベルは良く理解している。

 

 だから、マリーベルは身を乗り出し、夫の手元――握られた拳へと、そっと指先を添わせた。

 

「必要な事だけで構いません。言いたくないことは、言わなくて良いと思いますよ。誰だってそんな過去、一つや二つあるでしょうに」

「マリィ……」

「レティシアさんは私にとって、目指すべき淑女の一人。夫婦仲の睦まじさも含めて、憧れのお姉さんみたいな人です」


 だったら、それでいいじゃありませんか。マリーベルはそう言って、微笑んだ。

 

「あ、でも。実は昔の女だったとか、そーいう爛れた関係があったら、再燃焼しないでくださると、助かります!」

「ちげぇよ! んな恐ろしい事をするか! 俺とこいつは、んな関係になった事は、一度もねえ!」

「ホントですか? 今度、ディックさんにその辺を詳しく――」

「聞くな、絶対にやめろ! アイツ、切れたら面倒くせぇんだよ! するなよ、絶対にするなよ!?」


 それは、振りという奴だろうか。マリーベルは口元を隠し、オホホと淑女スマイルをぶちかます。

 焦ったお顔の旦那様は、何とも言えずに可愛らしかった。

 

「全く、マリィと来たら。貴女はこんな時でも、全然変わらないのね」


 堪え切れない、というように。レティシアがお腹を押さえて吹き出した。

 先ほどまでのとは違う、心底可笑しそうな笑い声。

 やっぱり、自分達はこうでなければいけない。深刻な過去がどうとか、そんなの笑い飛ばしてやればいいのである。

 大切なのは、今。こうして自分達が一緒に居られる、その事実だけなのだ。

 

「それで、旦那様? どうなさるおつもりで?」

「恐らく、あの場にレティシアが居た事を、向こうも勘付いているだろうな。あの糸目男も、わざと顔を見せた可能性すらある」

「煽動した人間が居た事も含めて、意図的だったということですね。とすると、東区に置かれた写真っぽいあれも、向こうが?」

「いや――」


 そこで、アーノルドは黙り込む。何か、他の確証があるのだろうか。

 

「マリーベル、少しばかり別行動だ。ちょうど今日は、会合の日でもある。確かめたい事が出来た」

「……無茶はしないでくださいね、絶対にしないでくださいね」

「お、振りか?」


 先ほどの意趣返しとでもいうように、意地悪そうな笑みを返す旦那様。

 思わず口を尖らせると、アーノルドは慌てたようにマリーベルの頬を撫でた。

 

「なあに、アンも連れて行く。危ない事はしねえさ。ただ、やられっぱなしじゃ気が済まねえだろ?」

「それは、そうですけれど」

「それに、今回の件。俺の考えが正しければ、向こうにとっても予想外の事であるだろうぜ」


 どういう意味だろうか。マリーベルが首を傾げると、アーノルドがいつものように肩を竦めた。

 

「何でもそうだが、急いた行動には、相応のしわ寄せがくるのさ。どんな祝福を受けていようと、神さま自身にはなれない。運命を操ろうとした、レーベンガルドの野郎もそうだったろう? 必ずそこに綻びが起こり、歪さが浮き出るもんだ」


 アーノルドは懐からコインを取り出し、それを指で弾く。

 金色の尾を引き、宙に舞う煌めき。

 光の輪を目で追う妻を見ながら、彼は片目を瞑った。


「――せっかく、表に出て来てくだすったんだ。ご期待通り、思う存分に引っ掻き回してやろうや」


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