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156話 星に想いを


 今夜は、随分と星が良く見える。アーノルドは空を見上げながら、ふとそんな事を思った。

 仄かに瞬くそれを、古代の識者は人の魂と結び付けて考えたというが、それも頷けそうである。儚げな煌めきを見上げていると、何故か失われた命が、既にこの世に亡い者達の姿が。フッと頭を過ぎるから不思議な物だ。

 

(んな事を考えていると知られたら、またアイツに少女趣味だなんだと、からかわれそうだな) 

 

 アーノルドは星空を眺めるのが嫌いでは無かった。

 昔、弟や妹に良くせがまれ、屋根の上で彼らを肩車していた事を思い出す。

 

『にいちゃん、もっと背を伸ばしてよ! お星さま、捕まえるんだ!』


 月の光に照らされた、幼子たちの白い腕と、夜空に伸ばされた小さな、小さな手のひら。

 それが幻影のように、アーノルドの目の前にちらついた。

 

 ――感傷的になり過ぎ、か。俺らしくもねえ。

 

 微かに頭を振ると、アーノルドは指先をグラスへと差し向けた。

 テラスに在る小さな白いテーブルの上に置かれた、それ。透明な容器の向こうに透けて映る、鮮やかな赤色がやけに目に眩しい。

 口に含んで味えば、仄かな酸味の後、蕩けるような余韻が、舌の上に広がってゆく。

 馥郁たる香り。宝石を溶け込ませたかのような美しさ。確かにこれは、極上の逸品と言えた。


「どうだね? コルルトーシュの四十年ものだ。アストリアから取り寄せた自慢のものさ」


 グラスを掲げ、シュトラウス伯爵がそう告げる。言葉とは裏腹に、その声には今一つ精彩が欠けているように思える。

 しかし、あえてそれには触れず、アーノルドは素直に頷いておく。

 

「素晴らしいですね。ですが、一つ問題が」

「何かな」

「妻には、内緒にしておいて貰えますかね? こんな美味いものを私だけが飲んだと知られたら、命が危ない」


 冗談めかしてそう告げると、伯爵は微かに目を丸め――そうして、愉快そうに口元を緩めた。



 『――とっておきのワインを開けよう。少し、付き合ってくれたまえよ』

 

 

 クリフ・シュトラウスへの『言付け』を終えたのち、アーノルドは伯爵の誘いに乗って、このテラスへと足を運んでいた。

 屋敷の三階、吹きさらした場所にあるここは、成るほど眺めも良く、居心地も最高であった。

 ますます、後でマリーベルが不満を零しそうである。伯爵夫人とお茶をする、という名目で席を立った妻の様子を思い出し、アーノルドは少しばかり背筋が冷たくなった。

 

「流石はシュトラウス卿。ご相伴に預かれて、光栄ですねえ。いや、良い酒です」 

 

 そんなアーノルドの姿を余所に、この場に居るもう一人の人物が、うっとりとした声を上げる。

 そちらに視線を向けると、グラスを軽く揺らし、ラウル・ルスバーグが忌々しい程に優雅な仕草で微笑んでいた。

 名実ともに社交界の顔と呼ばれるだけの事はある。正真正銘の貴公子だけに、その姿は確かに絵になると、アーノルドでさえそう思う。


「良いですねえ、良いですねえ。爺様、私にも一杯」

「お前にはまだ早い。リーザから『くれぐれも』と言われているのだ。後で叱られては叶わんからな」

「黙ってれば、母上には分からないのに……」


 そう言って、口を尖らすのはフェイル・セルデバーグ。

 伯爵の孫である彼は、三人から少し離れた場所で、果実水を口にしているようだった。

 相変わらずの美食家ぷりは祖父譲りか。孫をたしなめる伯爵の姿は、何とも微笑ましく見えた。

 

 先ほどまであった、微かな緊張が緩和し、弛緩した空気が流れる。

 それを見計らったのか、どうなのか。老シュトラウスが、小さく息を吐く。

 その瞳は、並々と揺れる真紅の液体へと注がれていた。

 そう、彼はまだ。一口もグラスに口を付けてはいない。

 

「……あの、馬鹿者めが」


 ポツリ、と。絞り出すようにその声が夜空に響く。

 

「そんなにも大事に想う娘が居るなら、なぜ囲わなかった。名目的爵位カーテシーとはいえ、あやつも既に、複数の爵位持ちだ。実際に家令を預け、領地の運営にも携わらせておる。好いた女を傍に寄せ、守ってやるくらいの事は出来たはずだろうに!」


 そう言って、親の仇の如くワインを見つめると、彼はそれを一気に煽った。

 美食を常とする彼にしては、らしくもない暴挙。あれでは、味も何もあったものではないだろうに。

 

「あれはな、ようやく生まれた長男だ。上には娘ばかりが三人おる。別にそれがどうこう、というわけではないが、やはり甘やかし過ぎたのかもしれん」


 極上のワインを口にしたと云うのに、伯爵の表情は苦々しいものであった。


「シュトラウスの家は少しばかり変わっていてな。祖父殿の代から、両親が直接子育てに関わっている。もちろん、子守りメイド(ナーサリー)や乳母も入れておるが、他家とは比べ物に為らんほど、親子の関わりが多い」


 伝統的に続く貴族の子育てに関しては、マリーベルや義母から聞いている。

 中流階級層の家庭も似たような話ではあるが、貴族の家庭は更に輪を掛けたものであるらしい。

 同じ屋敷に住んでいても、大人と子供の間には、物理的にも分厚い扉と壁で仕切られている。家族の時間は持つには持つようだが、割合的に言えばごく少ないものだ。ゆえに、彼らは子守や乳母に情を深め、懐きやすいとも言われていた。

 

「少しばかり、真っ直ぐに育ちすぎた。そのような気がしてならんよ。清貧を心がける、などという昨今の風潮も、所詮は言い訳に過ぎん。公然と明言せずとも、愛人を持つ貴族など、珍しいものでもないというに」


 あの馬鹿者が。もう一度そう呟くと、伯爵はため息を吐く。

 

「手も出さず、抱きもせず。ただ、一年に一度会って、飯を食べ歩くだけだった、だと? その挙句に相手に死なれ、悲劇に酔うなど、全く情けないにも程がある! 三流の演劇でも、もっと良い脚本を書くぞ!」


 肩を震わす伯爵を眺めながら、アーノルドは先ほどの光景を思い出す。

 

 

『……彼女との間に、そういった事は一度もありません。ただ一夜、楽しい食事をし、酒を飲み交わした。それだけの関係でした』



 娼婦の娘と、名門貴族の長男。その奇妙な関係は、五年前から続いていたのだと言う。

 客を上手く引けず、腹を空かせていたらしいローラを見かけ、クリフが食事に誘ったのがきっかけであったとか。

 社交シーズンが終われば、長子である彼は領地に帰る事になる。だからかは分からないが、彼らは散々に呑んで食べて過ごした後、どちらからともなく、約束を交わしたらしい。

 

 

 ――また来年、この日に会おう。

 

 

 そうして、実に五年もの間、彼らはその約束を胸に秘め、一年に一度の逢瀬を楽しんでいたらしい。

 

「私や妻に配慮したわけでもあるまいに。馬鹿者め、馬鹿者め……」

「……それが、彼らなりの想い方であったのかもしれませんよ」


 延々と呟き続ける伯爵を見てられず、アーノルドが口を挟んだ。

 らしくないことをしようとしている、その自覚はあった。

 もしかしたら、この愉快極まる爺様が、見る影も無く震えている様が、ただ気に入らなかったのかもしれない。

 

「他人から見れば、どれ程に馬鹿らしく、くだらない行為であったとしても、それで当人達が納得しているのであれば――」


 アーノルドは給仕を呼ぶ事無く、瓶を手に取る。

 無言の伯爵に構わず、場末の酒場でそうするように、彼が持つ空のグラスへと朱い液体を注ぎこんだ。

 

「――父親と言えど、否定出来るもんじゃ無い」


 こつん、と。グラス同士を軽く合わせ、アーノルドはワインを口に含んだ。

 

「少なくとも、楽しい夢を見れたのでしょう。儚く、美しい夢を。ご子息にもお伝えした通り、あの娘の最期の言葉は彼への詫びと、幸せであった事を感謝するものであった。だったら、それが二人にとっては真実です」

「……陳腐な言葉だな。単なる綺麗ごとに過ぎん」

「でしょうね。でも、そんな言葉で表すことも出来ない人間が、世の中には多いんですよ。弄ばれて捨てられて、最期はただ朽ちるのを待つだけ。そんな女を、幾らでも見て来ました。それに比べたら――」


 少なくとも、クリフ・シュトラウスの中には、愛と呼べる何かがあったのだ。

 それは、ローラにとって救いだったのではなかろうか。

 その想いが彼女に伝わっていたのかどうか。それはもうアーノルドの知る所では無いが、そうであったと信じたい。

 

「三流の悲劇が横行する時代です。せめて残された思い出くらい、綺麗であって欲しいじゃありませんか」


 アーノルドの言葉が、心に響くとは思わない。当人でも無い男の言葉など、通じるかは怪しい。

 けれど、少しでも。息子の痛みを我が事のように想う父親への、慰めとなってくれれば良いと、そう思うのだ。

 

 伯爵は無言のまま、グラスをゆっくりと口元へ運ぶ。

 アーノルドはそれを見つめたまま、同じようにワインを煽った。

 

「……相変わらず、ロマンチストだねえ、君は。本当に商人なのかい?」


 ラウルが愉快そうに笑うと、片目を瞑る。

 

「まあ、今回ばかりは僕も彼の意見に賛成ですよ。深く深く想い合ったものほど、得てして純粋で、余人が口を挟めるものではありません。口付けさえ交わしていない娘が、恋人の為に思いつめることなど、良くある話だ。僕も経験があるから分かりますよ」


 星空へ移したラウルの視線は、遠く――ここではない何処かを見つめているかのようだった。


「そうそう、件のローラ・ハミルカル嬢ですが、元は商家の娘であったようで。家が破産し、お決まりのような流れで娼婦の道へ足を踏み出したみたいですね」

「……随分と手際が良いな」

「これでも探偵だからね。言ってみればそう、僕の得意分野だよ、君」


 おどけたように肩を竦め、謎めいた笑みを浮かべる『名探偵』。

 その表情は、何処か作り物めいているようにさえ思える。

 

 いつぞやの庭園での一件以来、社交の場でラウルと会う機会は少なくなかった。

 リチャードの行方も含め、あれこれとアーノルドも尋ねたものだが、全てをのらりくらりと躱される始末。

 掴みどころの無さでいえば、あのレーベンガルド侯爵よりも上。敵か味方かはっきりしない分、彼よりも余程に厄介な存在だった。


(……あるいは、どっちでもないのかも、な)


 彼と出会ってから数か月。こと、ここに至り、アーノルドの中で一つの疑惑が生まれていた。

 そしてそれは、数々の騒動を経て、確信に近いものへと変じている。

 

 後は、確証だけだ。

 アーノルドの予想が正しければ、彼が今夜ここに訪れた事も、気まぐれではない筈なのだ。

 偶然と思わしき事象ですら、疑って掛かること。もしかしたら、思わぬところから糸が繋がる可能性はある。

 妻の旧知であるサラが運んできたこの一件。娼婦の取り締まりや、ローラ・ハミルトンの悲劇も、もしかしたら――

 

「……ん?」


 そこで、アーノルドは気付く。

 月明かりに照らされた、庭園の向こう。門の辺りに蒼白い光が差した。

 ガスの燃焼灯に似た、それ。不審に思って目を凝らすと、たちまちの内に影が浮かび上がった。

 

「……蒸気自動車?」


 その呟きを聞きつけたか、伯爵がアーノルドの方に近寄って来る。

 老シュトラウスは眉を顰め、招かれざる訪問者を見極めようとしているようだった。

 

「旦那様。その、ご来客です」


 やや慌てた口調で、執事らしき男がテラスへとやってくる。

 よほど、意外な相手が現れたのか。その表情は、困惑に満ちていた。

 

「ふむ、誰だね」

「ベ、ベンジャミン・レスツール警部です」

「悪食警部殿、だと? 用件は何だね」


 主の言葉に、執事は頷く。

 

「はい、その……娼婦殺しの連続殺人事件の件で、クリフ様に御話を伺いたいと、そう仰るのです!」


 叫びにも似たその訴えを耳にし、アーノルドはハッと振り向く。視線の先の名探偵は、さして驚きもせず。ただ、涼しげな顔で、ワイングラスを口許へと傾けていた。

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