153話 夢の跡
ローラ・ハミルカルの亡骸は、サラや売春宿の意向もあり、速やかに埋葬の措置が取られた。
その手配はアーノルド達も手伝い、相応にお金やらなんやらも出したのだが……いつのまにやら故人を偲ぶという名目で、宴会めいた娼婦たちが集まり、語らいが始まってしまった。
無論、首謀者はサラである。鬱々とした場は嫌いだとばかりに、彼女は馴染みの仲間を引っ張り込み、ちゃっかりと酒やら料理やらをアーノルドに用意させ、そうして飲めや歌えやの大騒ぎ。
葬儀というより、お祭りのようなそれは一晩中続き、夜が明けるころには泥酔した人々が、死屍累々。雑多やたらに、そこらかしこに転がっていた。
途中からもう、タダ酒を飲みたい連中まで集まったのだろう。明らかに無関係と思われる通りすがりの男女まで混じっていたのだから、流石のアーノルドも苦笑を隠せなかった。
(随分と愉快な女だな。流石はマリーベルの姉貴分ってか)
アーノルド自身もしこたま飲まされたせいか、まだ体が重い。鈍る頭を左右に振ると、アーノルドは隣で寝息を立てている妻を見やる。
幸せそのものな笑顔で、涎なんぞを垂れ流す姿は、とても淑女とは思えない。
「だんなさまぁ……うえへへへ……♪」
一体、何の夢を見ているのやら。
ここ最近は、色々と忙しく疲れがたまっていたのだろう。元来が働き者とはいえ、ここ数ヶ月は慣れない社交の連続だ。それでも自分達の夢のため、思い切り贅沢をするためと。笑顔一つで頑張り続けている。
「まったく、俺にはもったいねえ嫁さんだよ、お前は」
とりあえず、この姿を他人に見られるのは色々な意味でよろしくない。ハンカチで口元を拭ってやり、その柔らかな肢体を胸元へと抱き寄せる。
(まぁ、当分は心配ないか)
宿の中は、見渡す限りに人が倒れ伏し、誰もが豪快にいびきをかいている。とはいえ、妻は見た目だけなら美少女である。それも極上の類の。不埒な事を考える輩が出ないとも限らない。
ゆえに、睡眠の誘惑に心を惹かれつつも、アーノルドまでそうなるわけにはいかないのだ。
「なんともまあ、だらしない顔して寝てるねえ」
「何だ、アンタは寝てなかったのか」
「こんくらいの酒、水みたいなもんだよ。飲み足りないくらいさ」
そう言って、サラは残った酒瓶から酒を掻き集めてグラスに注ぐ。いったい、どれだけ飲めば気が済むのか。とんでもない酒豪であった。
「でもさ、良かったよ。この子が幸せそうでさ。サリア――マリーの母親は、最後の最期まで娘の将来を心配していたからねえ」
「だろうな」
むにゃむにゃと何やら寝言を呟く妻を見下ろし、アーノルドは苦笑する。
まだあどけなさの残る表情。こうして見ると、彼女はまさに天使のように愛らしい。
情欲よりも、庇護欲に駆られてしまいそうだ。
目元にかかった髪を梳いてやると、マリーベルは気持ちよさそうに笑う。
出会ってからもう半年以上が経つが、日に日に愛しさが膨らみ、思いが募ってゆく。
十四も離れた年の娘に何を、と感じないではないが、それでも自分の気持ちに嘘は吐けない。
(俺が、また家族を持てるようになるとは、な)
そうして、それを泣きたくなるくらいに嬉しいと思う日が来るとは、考えもしなかった。
微かな罪悪感と共に、アーノルドはその幸せを噛みしめる。
「アンタの方も本気なんだねえ。いやはや、いいね。とても良いと思うよ」
「アンタの所の同郷連中には、散々に揶揄されたがな」
「あっはっは! この子を脅してかっさらってきた、とでも言われたかい? まあ、アンタは顔に迫力があるからねえ! 相応に苦労をしてきたんだろ? いいじゃないかね。なまっちろい半端な美形よりも、アタシ好みだよ」
「そいつは光栄だね」
こちらに向かって身を乗り出してくるサラを軽く牽制し、遠ざける。
すると、どうだ。彼女は妙に嬉しそうに笑ったではないか。試されていたか、と。アーノルドは露骨に舌打ちをして見せた。
「醜聞はごめんだぜ。特に女関係は、な。コイツにどんな目に遭わされるか、分かったもんじゃない」
「案外、恐妻家だねえ。色々と噂がある割に、誠実じゃないか」
「神様に永遠を誓っちまったからな。一生に一度と決めた女は裏切れねえよ」
ひゅう、と。サラが口笛を吹く。ニヤニヤした顔が何とも腹立たしい。
「でも、本当に感謝しているよ。ローラの為に色々と手を尽くしてくれて、心から有難いと思っている。これだけ多くの人間に見送ってもらえて、あの娘も少しは寂しさが紛れるだろうさ」
ローラ・ハミルカルというその娼婦は、自分の事をあまり語りたがらない女性であったらしい。
多くの娼婦がそうであったように、彼女もまた未来に対する展望も目的も無く。ただ、生きる為に金を稼ぎ、夜の街を歩く。時には宿の店主からの斡旋なども引き受けていたらしいが、気性が災いしたか。左程に人気のあるわけでもなかったようだ。
「特に、食事に関して興味が薄かったね。口に入ればそれでいい、みたいな所があった。いや、むしろ進んで粗食をしているような節もあったねえ」
懐かしそうに笑うサラを見ながら、アーノルドはふむ、と。腕を組みつつ先を促す。
「金はそこそこ貯めていたようだけど、手元に残っていたのは僅かなものだったさ」
「とすると、残りは銀行に?」
「いんや。衣装代にね、使っちまったようなのさ。どうも色々と新調したらしくてね。生活すら切り詰めて、貯めに貯めた金でさ、仕立ての服なんぞをわざわざ注文したってえんだから、豪気なもんだ」
娼婦は何も、肌を顕わな服を着て客を引くわけではない。他国ならいざ知らず、このエルドナークでは特にそうだ。
それなりに身なりを取り繕った女でなければ、疎む者も少なくないのだ。
だから、上等な客を求める者ほど、服装には気を遣う。ローラも、その例におもねると考えられなくはなかった。
「知ってるかい? アタシ等みたいな労働階級者の底辺が、一年がかりで稼ぐ金。それを娼婦となれば七日かそこらで手に入れられる。勿論、元が少ないんだから、アンタやお貴族様からすれば微々たる違いでしかないだろうけどね」
女性の賃金の低さは、今でも度々と議論に上るほどに顕著であった。
だが、彼女の口調には皮肉も悪意も感じられない。単に、純粋に。事実だけを述べているようであった。
「そこをいくと、マリーは本当に幸せ者だよ。似合いの旦那に巡り合えた上に、美味い物を食べて良い服を着せてもらえて。夢が叶ったようで、良かったねえ」
「夢?」
「ん、聞いてないかい? まあ、小さな子供の頃の話だからね」
目を細め、サラは感慨深そうにそれを語る。
「大人になったらお姫様みたいに綺麗なドレスを着て、お腹いっぱいに美味しい物を食べて、広いお家で暮らしたい! そんな風にはしゃいでいたよ。まあ、サリア――母親には内緒にしていたようだけど」
「アンタにはこっそりと語っていたってわけだ」
「この子、何だかんだで気を遣う性質だからね。アタシみたいにいい加減な女になら、話しても構わないと思ったんだろうさ」
何が可笑しいのか、サラは愉快そうに肩を揺らし、頬と口元を緩ませた。
「だから、驚いたよ。語る夢はどんな風に贅沢がしたいか、母親に楽な暮らしをさせてやりたいか。そればっかりだったのに。色恋沙汰に無縁だったあの子が、あんな風に『女』の顔をするとはねえ」
ニマニマと、いやらしさ全開の目で、サラはアーノルドの全身を舐めまわすように見つめた。
「気付いていたかい? この前屋敷に来た時、向けられていたあの子の視線。嫉妬していたんだよ、アタシにね! 何とも愉快な話じゃないか! あのマリーが、まさか恋する乙女みたいになっちまうとはねえ!」
「といっても、アンタが最後に会ったのはまだ十にもならねえガキのあいつだろ。そりゃ、成長もするだろうさ」
そう言うアーノルド自身も、子供の頃のマリーベルも今のマリーベルも、根っこはあまり大差ないとは思っている。
引き起こされるエピソードの数々が、現在の妻のそれから容易に想像が付くものばかりだからだ。
「そうだねえ。この子から相談を持ち掛けられていたアタシの方が、逆に相談する側になるとはねえ。大人になったねえ、マリーも」
しみじみと語りながら、サラがマリーベルの頬を撫でる。
慈しみに満ちたその表情。心から妹分の幸せを祈っているのだろう。
自分が知らない絆のようなものが垣間見えて、アーノルドは微笑ましく思うと同時に、微かに嫉妬を覚えている自身に気付く。
(……ったく、俺はそんなに独占欲が強かったかねえ)
自重をせねばなるまいと、改めて心に誓う。
女を愛するのは良いが、鎖に繋いで束縛するようなやり方は、アーノルドの性に合わない。
某王太子殿下の優雅な微笑みを頭の隅に押しやり、肩を竦める。
「しかし、どうかねえ。あの探偵さん、あんだけの話でさ、お相手の貴族サマを突きとめられるのかねえ」
サラの心配も当然であった。何せ、ローラの想い人というのは、あまりにも情報が少なすぎた。
彼女自身が殆ど何も語らず、それらを心に秘めたまま、亡くなってしまったからだ。
サラ自身も熱に浮かされた夢うつつで頼まれただけで、それ以上は突っ込んで聞いていなかったという。
「手がかりとしては、メイズという名前の若い紳士だという事と――この紋章、か」
手書きの用紙を手に取り、アーノルドが呟く。
メイズというのは、豊穣神の名だ。マリーベルの母、サリアがそうであるように、牧師の家に生まれた者などはこれを家名として名乗る事が少なくない。だからこそ、それをファーストネームにする事は、まず無く。恐らくは偽名であろうと推測が経つ。
だとすれば、相手が本当に貴族かどうかも、怪しい所ではある。
「見覚えはないのかい?」
「あぁ、俺だけじゃなく、マリーベルもそのようだ」
生前のローラが話してくれた、数少ない手がかり。
それが、この紋章だ。貴族ならば誰もが持つ、家紋。しかし、それが何処の家のものか、全く分からない。
アーノルドも主要な貴族全てのそれを、頭に叩き込んだ筈ではあるが、該当する物に覚えが無いのだ。
アーノルドよりも遥かにそれらに詳しいマリーベルであっても、それは同じであった。
適当な偽物なのか。それとも、何か勘違いがあったか。
(紋章院に問い合わせるか、それともメレナリス閣下辺りに伺ってみるか……)
伝手はある。だが、その結果として何も分からない、という事実に終わったとしたら。
それは、ローラという娘があまりにも不憫ではないか。
「俺達の方でも、動いてはみる。あまり期待はしねえで待っててくれ」
「あいよ。ま、駄目で元々だからね。気にしないでおくれ」
サラはあっけらかんとしたものだが、アーノルドはそうも言っていられない。
何せ、亡くなった娼婦は『祝福』の使い手だったのだ。
リチャードの体を乗っ取った初代男爵絡みの人物が相手でも、何もおかしくはない。
そんなアーノルドの様子を見てどう思ったか。
サラはひょいと表情を変え、いやらしく笑った。
「それは置いといて、だ。ねえ、アンタ。夜の方はちゃんと上手くいってるのかい? 体の相性ってえのは大事だよ。それ物別れに終わっちまった連中を何人も見ているからねえ。一応、最低限の知識は教えておいたけど、何となく心配でね」
「あれは、アンタの仕込みだったのか!」
未遂に終わった初夜、紳士暴行事件を思い出し、アーノルドは背筋を震わせた。
未だにちょっぴり、心的外傷としてまざまざと胸に残っている、痛ましい出来事。
無理矢理よくない、絶対に駄目。それは、父の教えだけでなく、アーノルド自身の経験と結びつき、深く心に刻まれていた。
「何だい、蒼い顔をして。満足できなかったのかね。んじゃ、今度アタシから男をそそり立たせる技を直々に……」
「せんでいい、せんで! これ以上アイツが妙な方向に暴走したら、手に負えん!」
新婚当初なら、いざ知らず。
妻に深く深くのめり込んでしまっている今のアーノルドが、それをされて自制できる自信が無い。
様々な問題を抱えている現状、彼女が子を孕むような事態を起こすわけにはいかないのだ。
いざという時、彼女が身を守れないような状況は避けるべきである。
――さて、どうやって話を止めるべきか。
根掘り葉掘りと夫婦生活を聞きだしてこようとするサラを前に、アーノルドは頭を捻り始めたのだった。




