150話 旧交を温めますよ!
「へえ、こいつは凄い! なんとも上等な部屋じゃないか! アンタも、立派なお屋敷に住むようになったんだねえ」
お屋敷の応接間に、素っ頓狂な声が響く。
きょろきょろと周囲を見回したかと思うと、サラがひゅうっと口笛を飛ばす。
その仕草が、幼い頃の記憶と一致して、マリーベルは思わず吹き出しそうになってしまった。
――変わってないなあ、サラ姐さん。
前に故郷へ帰った時、そこに彼女の姿は見当たらなかった。
元々、流れ流れてあちらこちらを転々としていた人だ。
マリーベルが男爵家へ引き取られてから程なくして、サラもまたあの街を離れていたらしい。
「いや、悪かったねえ。そっちの予定もあったろうに。そのまま屋敷に招待してくれるとは思わなかったよ。何でもやってみるもんだね」
口調とは裏腹に悪びれもせずに、彼女はしれっと言い放つ。
そうそう、サラはこういう女性だった。マリーベルは感慨深く頷く。
思い出の中の姉貴分と、現在の姿があまりにも変わって無さ過ぎる。最後に会った時から十年以上が経つせいか、流石に相応の年月が顔に刻まれてはいるが、十分に往時の妖艶さを保っているように見えた。
チョコに似ていて美味しそうだと思った、色濃いブラウンの髪もそのままである。
すると、マリーベルのその視線に気付いたか。サラが苦笑しながら、やれやれと首を振った。
「おや、アンタまだこの髪が好きなのかい? 初めて会った時に、そのまま齧り付いてきたもんねえ。涎でダラダラにされちゃって、あの時はどうしたもんかと思ったよ」
「そ、そうでしたっけ。いやあ、もう覚えていないなあ、あはははは!」
嘘である。バッチリと記憶に残っていた。
確か、母が伝手を得て手に入れてくれた、あまぁいチョコの一欠けらが原因だ。
その当時から食い意地が張っていたマリーベルは、毎夜の如く夢に見るくらいに、あの甘菓子に焦がれていたのである。木も石も草も、目に映る全てがそう見えかねない程に、魅了されきっていたのを思い出す。
「サリアが、慌てて引っぺがしてくれるまで、アンタは吸い付いて離れなくてねえ。ヤバい薬でも染み込んでるのかと、皆に笑われたもんさ」
「ちょ、ちょっと姐さん! 昔、昔の話ですから!」
幼少時代のあれこれは、今となっては顔から火が噴き出そうな程に、恥ずかしいモノがいっぱいである。
それをようく知っているのが、目の前の女性なのだ。昔から、サラには頭が上がらなかったのを思い出す。
(旦那様に、おかしな子供だったと思われたら、どうするのよぅ!)
ただでさえ、それを語るサラは魅力的な女性なのだ。
血筋に南洋のそれが混じっているらしいと、前に聞いた事がある。
褐色の肌に、切れ長の緑の瞳が合わさり、ゾッとするような艶めかしい色気が感じられる。
そっち方面の魅力に乏しいと自覚しているマリーベルだ。旧知の仲、大好きな姐さんとはいえ、ちょっとそっちは気に掛かる。
浅ましいとは思うが、旦那様が目を奪われやしないかと、心配になる。
ちょっと微妙な乙女心であった。
そうして、恐る恐ると隣に座る夫へと目を移して、マリーベルは唖然とする。
何故か納得したとばかりに、彼はしきりに頷いているではないか。
目移りとか、それ以前の問題であった。
「……旦那様?」
「あ、いや。実に想像通りの子供時代だったとか、思ってねえぞ。満面の笑みかつ、大口開けて齧り付いたろうその光景が、目に浮かぶようだとか、そんな事も無い」
「だったらちゃんとしっかり、目を合わせてください」
いつもの得意技(目そらし)を見せるアーノルドを、じいっと睨み付ける。
遂には口笛まで吹きだして惚けだした彼の姿を見て、サラの方が限界を迎えたか。
彼女は、お腹を抱えて吹き出した。
「なんだい、なんだい! 仲良くやってるようじゃないか! 年の差があるからと心配はしていたけれど、あのマリーが『奥様』らしい顔をするとはねえ」
サラがはしゃいだように、手を叩き嬉しそうに微笑んだ。
それを見て、マリーベルは嬉しいやら恥ずかしいやら、いつもながら微妙な気持ちになってしまう。
結婚前のマリーベルを知る者は、大体が同じ反応をするのだ、実に不思議な物である。
どう言葉を返すべきか、悩み始めたところで、控えめなノックの音が響いた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
現れたのは、上品なドレスに身を飾った女性だ。
湯気が立つ紅茶を載せたティー・トレイを両手に持ち、涼やかな笑みを浮かべている。
「あ、お養母さま!? どうして――」
「アンにね、無理を言って代わって貰ったのよ。だって、マリーベルさんが子供の頃にお世話になった方なのでしょう? 是非ともご挨拶をしたくて」
ニコニコと笑ってそう言ってのけたのは、マリーベルの養母。ベルネラ・ハインツである。
好奇心に目を輝かせてサラを見る眼差しは、朗らかで快活そのもの。
茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せる仕草など、とても貴族の夫人とは思えない姿だ。
かつて、気難しいとさえ感じた威圧感は、もう欠片も無い。
今の養母は、何処となく少女めいた、春風のように若々しい雰囲気さえ漂っている。
「え、おかあさま……ってことは、マリーの、えっと」
「養母ですわ。ベルネラ・ハインツと申しますの」
「ハインツって……え、男爵夫人!? お貴族様!?」
余程に信じられない光景だったのだろう。サラはあんぐりと口を広げてしまっている。
そんな客人の不作法を気にも留める事無く、ベルネラは嬉しそうに微笑むばかり。
「マリーベルさんは、とても優しくて素敵な子でしょう? きっと、良い育ちと出会いに恵まれたお蔭だと思いますわ。血の繋がりは無いとはいえ、私にとっては大切な娘。この子がお世話になったこと、この場を借りてお礼申し上げます」
「あ、いえ! そんな、大層な事をしたわけじゃ……」
労働階級の人間にとって、上流階級の人間――特に貴族という人種は、まさしく雲の上の存在だ。
貴族としては最下級の男爵であっても、それには変わりない。
そんな天上人が、いっそ馴れ馴れしい程に丁重に、お礼まで告げてきたのだ。
サラにとっては、天地が引っくり返るような体験であることは、間違いないだろう。
マリーベルとしても、かつて親しくしていた姉のような人に、身内が礼を尽くしてくれるのは素直に嬉しい。
それでも、何処か。やりきれない気持ちが覗いてしまうのは、かつての養母の姿を知っているから、だろうか。
その後、二つ三つ会話を交わし、ベルネラはにこやかにその場を退出した。
「いや、何というか……出来た人だねえ。お貴族様ってのは、もっとこう気難しくて、とっつきにくい方々だと思ってたけれど」
何処か興奮気味に、感極まったようにサラが息を吐く。
「色々あって、ですね。今は少し調子を崩していらっしゃるようで。まあ、出来た人っていう評価は間違いじゃないですけど」
「そうかい、そうかい。何にせよ、あの態度は見せかけじゃないねえ。貴族のご夫人まで魅了しちまうたぁ、流石はマリーだ。やるじゃないか!」
心中の複雑さを隠し、マリーベルは曖昧に笑った。
最近の養母は、何と使用人の真似ごとも行うようになってしまったのだ。
屋敷の外には出られないから、せめて体を動かしたいと、アンやマリーベルが止めるのも聞かず、張り切る始末。
そうしていれば気も晴れるだろうと擁護してくれた祖母・アリアンナの申し出もあり、最近ではアンやティムも含めて、楽しそうに仕事に励む姿を見るようになっていた。
その姿には、最愛の息子を失った母の悲憤は感じられない。
それがマリーベルにとっては救いであり――苦悶でもあった。
「それで、ご婦人。用件をそろそろ聞かせてもらえますかね」
そんな妻の様子を見て取ったか、話を切り替えるようにして、アーノルドが口を挟む。
「貴族の夫人と話して、ああも感極まるほどに色めきだつくらいだ。今朝の騒動は、相当に勇気が要ったろうに」
「ああ、そうだねえ。でも、こっちとしちゃジョーク抜きに死活問題なんだ。無礼は許しておくれよ、ミスター。まさにそう、生きるか死ぬかの間際ってもんでね」
肩を竦めるようにして、サラが苦笑いをする。
「随分と大仰な話だな。あの集団の中に居たってことは、アンタはそっちの仕事を続けているんだろう?」
娼婦絡みの話かと、暗に告げるアーノルドに、サラが頷く。
「ああ、そうとも。今や世間の話題を掻っ攫い続けるあんた等だ。きっと、詳しく聞かせてもらえるんじゃないかと思ってね。ちょいと便乗させてもらったのさ」
「何か困りごとがあるのですか? 今朝方は、娼婦のお仕事を弾圧するとかなんとか、そんな物騒な話をしていたようですけど」
「困りも困り、大困りさ。何としても確かめたい事と、出来れば叶えて欲しい個人的なお願い。その二つがあってねえ」
紅茶のカップを口に寄せながら、サラは目を閉じた。
あぁ、とマリーベルは思い出す。
これは、彼女の癖だ。幼少の頃、マリーベルが母には言えないような相談事を持ちかけた時もそうだった。
こうして両目を閉じ、静かに話を聞いてくれていたのを思い出す。
「まず聞きたいのは、あれだ。法律の事さ。上客を引くためにそれなりのものは身に付けたが、どうにもそっちは難しくてね」
「ほ、法律ですか? 姐さんの口からそんな言葉が出るなんて」
「あぁ、似合わないだろ? だが、そうも言ってられなくてね」
中身を優雅に飲み下すと、サラはカップをテーブルの上に置く。
微かに硬質な音が響き、耳を通り抜けてゆく。
それを見計らったようにして、彼女は眼を開き、マリーベル達をそっと見据えた。
深い緑の瞳が、憂いを帯びたように淡く輝く。
「――アタシら娼婦を、街から閉め出す法律。それが間もなく出来上がるってぇのは、本当なのかい?」




