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幕間・8

 

 冷たい雨が、倒れ伏した幼い体を打ち据え、水と泥が温もりを奪い去ってゆく。

 痛さと苦しさ、凍えるような寒さが全身を蝕み、恐怖と寂しさが少女の心を絶望の彼方へと押しやっていった。

 

 ――しんじゃうんだ。

 

 少女は、そう思った。もう、手も足も、何もかもが動かない。

 自分を抱きしめ、温めてくれた母は既に亡く、小汚い浮浪児を救う手は何処からも差し伸べられない。

  

 ――やだ、やだ。わたしは、まだ。

 

 何も償えていない。誰にも出会えていない。

 遠い、遠い記憶の彼方。顔も名前も素性さえはっきりとしない、あの人。

 生と死の狭間。極限の精神状態が、幻覚を見せているのだろうか。

 自分は、ここではないどこかで、大切な人を傷つけ、裏切ったのだと。

 何故だか、少女はそう強く確信してしまう。

 

 でも、思い出せない。何も分からない。

 その事が悔しくて悲しくて、このまま誰にも看取られずに死んでいくことが恐ろしくて。

 それでも、ただ、ただ。か細い涙を流し続けるしかなくて。

 

「あうぅ……うぇ……え……」


 啜り泣く声すら出てこない。目の前が暗く冷たい闇に覆われてゆく。

 それでも、最期の力を振り絞り、少女は右手を伸ばし――

 

 

「――大丈夫かい?」 

 

 

 夢を見ているのかと思った。幻なのかとも思った。

 少女のその手を掴み取る、暖かい指先がそこにあった。

 

「え……?」


 霞んだ視界の向こう、たなびく金色の炎が見えた。

 

(きれ、い……)


 それは、暗い雨の中でも燦々と美しく煌めく黄金の髪であった。

 その持ち主であろう『彼』の瞳は、どうしてか驚愕に見開かれている。

 

「……ピ……ス――」


 誰かの名前だろうか。形の良い唇が呟いた言葉が、打ち寄せる水滴の中に消え失せてゆく。

 けれど少女は、その響きを何故か。とても懐かしいと、そう思った。

 

「ラウル様! 何をなさいます! お戻りください、雨が――」

「良いから、医者の手配をしてくれ! この子を連れてゆく!」


 ふわりと、何かの布地に全身が包まれた。

 目の前の『誰か』が自分の召し物を脱ぎ、それで少女の体を覆ったのだと、遅まきながら気付く。

 

「だ、め……ぬ、れ……」


 どうしてか、少女は。自分が助けられたことよりも、彼が雨に濡れる事の方が気になってしまった。

 冷たい雨に打たれる事を、許せないと。そう思ってしまう。

 少女が必死に伸ばした指先を、しかし彼は優しく手に取り頬に寄せた。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 その瞳があまりにも優しくて、切なくて。

 少女は息をするのも忘れたように、その顔をただただ見上げていた。  



 これが、少女――瑠璃と。

 彼女が生涯の主と定めた少年、ラウル・ルスバーグの出逢いであった。

 



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「瑠璃、瑠璃。紅茶を淹れてくれないかな?」


 主の訴えをしかし黙殺し、瑠璃は玄関口へと目を向けた。

 先ほどまで居た、あの人。今回の『依頼人』はどうにも不思議な女性だった。

 大きな眼鏡を掛けた、職業婦人らしき風体。何処か気取った喋り方をする所は、ラウルそっくりだとそう思う。


「あの、瑠璃? 紅茶が、欲しいんだけど……あの、欲しいんですけど……だめ?」


 段々と尻すぼまりになる声。瑠璃はため息を一つ吐き、彼の方へと向き直った。

 

「お金は入ったんですよね?」

「うん、勿論さ! たっぷりと頂いたよ! これで支払いも問題ないね、おつりが来るとも! 紅茶の葉どころか、ほらあのアンティーク・ランプ! 常々に欲しいと思っていた逸品もこの手に入る――」


 封筒を手に、ラウルが何やらベラベラと捲し立てた所で、瑠璃はそれを奪い取った。

 

「ご当主様より、無駄金を使わせるなと厳命されております。我慢なさいませ」

「いや、待つんだ瑠璃。君は僕の助手だろう。兄上は関係ないじゃないか」

「給金の一部は公爵家から頂いておりますので」


 封筒を開け、中身を確認する。

 入っているのは銀行券では無い、金貨だ。女王陛下のご尊顔が刻まれた、君主硬貨。それもかなりの額である。どうやら、中々に実入りの良い依頼であったらしい。


 とすれば、相応に難儀なものであったであろう事は想像に難くない。

 

(まあ、ラウル様なら問題は無かったでしょうけれど)

 

 ヘラヘラとした口調の、軽薄そのものな外面とは違い、彼は腕の良い『名探偵』なのだ。

 愛やら恋やらという、ふわっとしたもの専門の、ではあるが。 

 

「瑠璃? ランプは駄目かい? だったらあの、カーテンでも良いのだけれど。もしくは、南洋製の敷物ラグとか……」


 上目遣いにこちらを見る目が、子犬を思わせる。

 この瞳に、瑠璃は弱いのだ。

 ついに、口から『くぅーん』等と言い始めた主に頭を痛めつつ、探偵秘書は天井を仰いだ。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……ふう、これで全部かしら」


 商店から出ると、瑠璃は軽く息を吐いた。

 滞っていた支払や必要な買い物を済ませ、ようやく気が安らいだのだ。

 瑠璃の主、ラウル・ルスバーグは一般的な貴族のように、抱えの商人を呼び寄せる事を好まない。

 自身の足で市場に向かい、商店を巡り、そうして余計な物を山ほどに買い込んで来るのだ。

 

 なので、ここ最近は瑠璃が主の代わりに買出しに行くのが日課となっていた。

 

(この間は、新式だとかいう自動車を買い求めようとなさるし。気が抜けないわ)


 あの事務所の財政は、瑠璃の細腕に掛かっているのだ。

 

「あ、ルリ姉ちゃん! お買い物?」


不意に聞こえて来たその声に、瑠璃は足を止めて振り返る。

パタパタという音を立て、十歳前後と思わしき少年がこちらに駆け寄ってきた。

ニコニコと、嬉しそうに笑うその表情。弾んだ足取りを見て、瑠璃は自身の口元が綻ぶのを感じた。


「ええ、少しね。リット君はどちらへ?」


 リット、と呼ばれた少年がへへっと顔を綻ばせる。

 その顔色は良く、頬もふっくらとしてきたように思えた。

 ほんの少し前まで、彼が病気で明日も知れない体だとは、誰も信じられないに違いない。


「ティム兄に、お使いを頼まれたんだ!」


 ニコニコと笑うその表情に、思わず瑠璃も釣られてしまいそうになる。

 その、ティムという何も聞き覚えがあった。救貧院育ちだという彼が、実の兄のように慕っている少年。

 

 ――確かアーノルド・ゲルンボルクの妻・マリーベルが良く連れ歩く従僕だと、そう聞いたけれど。


 変な所で繋がりは出来るものだ。これが、縁というものだろうか。

 

「そういえば、今日はあのヘラヘラ兄ちゃん居ないの?」

「ええ、おうちで大人しくしていらっしゃると思うわ」

「姉ちゃんも大変だね。兄ちゃん、ツラだけは良いじゃん? 女の人にモテそうだし」


 同情の目線で見上げられ、苦笑する。 

 確かに、傍から見ればそう思えるかもしれない。

 けれど、瑠璃にとってのあの人は、唯一無二の主なのだ。

 

「兄ちゃんの後始末とか、お世話ばかりして、大変じゃない? 市場のオッチャンたちも皆、そう言ってるよ」 

「そうね、そうかもね。でも、それで良いのよ。私は、それが良いの」

 

 そう、あの人が居なければ。

 今こうして、瑠璃は明るい道を歩いてなど居られないのだから。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 瑠璃が覚えている最初の記憶は、幼い自身を連れて覚束ない足取りで歩く母の姿だ。

 優しかった人のようにも思う。儚い人だったようにも思う。

 

 故郷で起きた政変から逃れ、少ない従者と共に遠い異郷にやってきたのだと――朧げな記憶の中、母が語る姿を覚えている。服装に顔立ち、そして瑠璃というエルドナークでは馴染みの無い名前と文字。龍の国と呼ばれる、東方の地が己の故郷なのだろうと、今では瑠璃も察している。

 

 しかし、何をどう彷徨ったのか。従者たちは疫病に倒れ、次いで母もまた程なくして帰らぬ人となった。

 リットよりも更に幼い、十にも満たない年であった瑠璃。身よりもない異郷の娘が生きる術など、そうそうあるものではない。

 その姿形を周囲から気味悪く思われ、救貧院に辿り着くことすら思うようにいかず、腐った食べ物を口にしてようやく日々を生き抜いていた。

 

 母の後を追った方が楽ではないか。そう思ったことも一度や二度では無い。

 けれど、胸の奥から激しく軋むような衝動が、瑠璃を生かし続けていた。

 自分は、死ねない。まだ、死ねない。これもまた、当然の罰なのだ。

 

 覚えていない程の遠い過去、自分は何か大きな罪を犯したと、瑠璃はぼんやりとそう思っていた。

 理由は分からない。それが何なのかも理解できないし、覚えていない。

 それでも、その事をふと感じる度に、途方もない切なさと愛おしさが膨れあがるのは、確かなこと。

 

 その想いだけを胸に、必死に生き延びていたある日、瑠璃は遂に心身に限界を迎えてしまう。

 倒れ伏したその体に、降りかかる雨。死を覚悟したその時、瑠璃はラウルに救われたのだった。

 

 小汚い浮浪児に手厚く接し、生きる術を教えて導いてくれたのも彼。

 何とかしてその恩に報いたいと、公爵家のメイドとなり、更には探偵事業の秘書などという立場にも収まった。

 

(あの方の幸せこそが、私の幸せ)


 ただそれだけを想い、瑠璃は――

 

「――あら?」


 リットと別れ、歩き始めてしばらく。目の前を通り過ぎようとした少年の裾から、何かが滑り落ちるのが見えた。

 

「あの、落としましたよ」


 明らかに上等だと思われるハンカチ。それを拾い上げて、少年へと差し出した。


(……あら?)


 深々と被った山高帽の下、現れたのはまだあどけなさの残る少年の顔。

 スッと通った鼻筋といい、美しい空色の瞳といい、見目麗しい、という言葉がぴったりだ。

 後何年かすれば、社交界の淑女達でも放っておかないであろうという、整った顔立ち。

 

 着こなしや雰囲気から察するに、上流階級の子であろう。


(そんな子が、一人で出歩いているなんて)


 ここは王都の南東部。治安が悪いとは言えないが、南部や中央区に比べれば良いとも言い難い。

 瑠璃が出歩けるのは、ラウルの名前が後ろ盾になっていることと、自身にも腕に覚えがあるからだ。

 思わず周囲に視線を巡らすも、従僕らしきものは誰も居ない。

 

「ありがとう、お嬢さん。ご親切にどうも」


 少年は、気取った仕草で片目を閉じる。

 その表情には、迷子になった焦りなどは何処にも感じられない。


「お礼をしたいな。お手を煩わせたお詫びも兼ねて」


 少年は悪戯っぽく笑いながら、手の平を瑠璃の方へと差し出した。


(……なぜかしら。この子、誰かに似ているような)


 顔のつくりや瞳の色。そこに、誰かの面影を見出しそうになる。

 

「そういえば、貴女は()()()()()()()()()()()()()。時折、奇妙な想いに胸を苛まれる事があるだろう?」

「えっ」


 どきりとする。何故、それをこの子は知っているのだろう。

 透き通った水色の瞳。それが瑠璃の心の奥底まで見通しているようで、背筋に寒気が伝わってゆく。

 

「思い出させてあげようか」

「な、にを」

「君が君である、それ以前の記憶。遠い、遠い過去世の――」


 伸ばされた手の平が、瑠璃の顔を覆おうとした、その時だった。

 

「おっと、余計な手出しはやめてもらいたいな」


 聞き慣れた声と共に、瑠璃の体が後ろに引っ張られ、抱き込まれる。

 

「……ラウル様?」

「やあ、瑠璃。君が待ち切れなくてね。こうして迎えに来てしまったよ」


 のんびりとした口調。けれど、瑠璃は見た。

 主のその瞳に、剣呑な光が輝いてる。

 いつにない真剣な表情。一体何が起きたのかと、瑠璃は困惑を隠せない。

 

「善意のお礼だったのだけどねぇ」

「余計なお世話というやつさ。記憶をどうするかは、僕が決めるとそう言ったろう『盟主』殿」

「ふふ、随分と傲慢なことだ。本人に選ばせるのが一番良いと思うけど――あぁ、そんな怖い顔をしないでよ。冗談、冗談さ。君との約束は忘れてはいないよ」


 両手を上げ、少年は肩を竦める。

 年に似合わないおどけた仕草、謎めいた雰囲気と相まって、奇妙な違和感をまき散らしている。


(そうだ、この子)


 瑠璃は、そこでハッと気づいた。

 この少年は、いつだかに見た、あのマリーベル・ゲルンボルクの面影がある。

 

「ただ、そろそろ風見鶏をするのを止めたのかと、そう思ってね」


 くすりと、優雅に微笑む少年に、ラウルの目が細まった。

 

「いや、何も急かしているわけじゃあないよ。君は、その通りに生きれば良い。君は自由だ! 何者にも縛られず、強制されず、ただ心の赴くままに行けばいい。かつて為せなかった事を、思う存分にね」


 少年が何を言っているのか、瑠璃には全く理解が出来ない。

 彼は、ラウルの知己なのだろうか。

 しかし、それにしては二人の間に漂う雰囲気が、あまりにも緊迫しているように思える。

 

 そんな瑠璃の心を見抜いたのかどうか。

 少年は手のひらをくるりと掲げ直し、それをラウルへ差し伸べた。 

 

「もう二度と、最愛の人々をその手で殺めぬ道を。素晴らしき未来を歩みたまえよ、アーラス・エルドナーク」


 その名が響いた直後、瑠璃の心臓が跳ねた。

 息がつまり、呼吸もままならない。

 

「僕は」 

 

 そんな少女の体を優しく抱き直し、ラウルは告げる。

 

「ラウル・ルスバーグだ。忘れないでくれたまえ、盟主殿」

「ふふ、そうだね。そうだったね」


 愉快そうな笑い声を残し、少年の姿が霞んでゆく。

 霧だ。何処からともなく漂い始めた霧が、その全身を包んで朧げにしている。

 輪郭さえも見通せない程、色濃くなったヴェールの向こう、楽しげな声が響く。

 

「間もなく、僕が待ち望んだ時が訪れる。君がどう動いて、何を為すか。期待しているよ」


 一陣の風がぴゅうと吹き、霧が撒き散らされる。

 思わず目を閉じた瑠璃が、再びその眼を開いた時。

 そこには、あの少年の姿は何処にも見えなかった。

 

「あの、ラウルさ――」


 今のは夢か幻か。

 確認しようと振り返り、そこで瑠璃は息を呑んだ。

 

 こちらを見つめるラウルの表情。それはあまりにも切なく、痛々しい程に歪んでいた。

 何かを乞うような瞳。それはまるで、親に見放された迷い子のようで――

 

「ラウル様、行きましょう。早くしないと、夕食の支度に間に合いません」


 だから、瑠璃は。主の腕をそっと解いて、立ち上がる。

 

「瑠璃?」

「お紅茶の葉は買いました。ランプは後で、事務所に届けてくれるよう手配済みです」

「あ、えっと。注文してくれていたのかい?」

「仕方ありません。そうしないとラウル様は、一日中ブツブツと拗ねてしまわれるのですから」


 あえて何も聞かず、瑠璃はつんと顔を反らしてそう答える。


「あ、ありがとう瑠璃! それ、ずっと飾りたかったんだよ!」


 ラウルの口から洩れる、明らかにホッとしたような声。

 だから、瑠璃はそれ以上は何も聞かず、主の後ろへ下がった。

 

 本当は、ずっと前から気が付いていた。

 時々、切なげな祈りを持って瑠璃を見る、ラウルの視線。

 彼は、何かを知っている。何かを願って、祈っている。

 

 それが何であるか、瑠璃は敢えて知ろうとは思わない。

 

「さあ、参りましょう――ラウル様」


 地位や身分、生まれの違いなどで遠慮はしない。

 誰に何と言われようと、彼が望む限りは共に在る。

 それで、それだけで良い。他に願い、欲するものなど何も無く。

 あの冷たい雨の中、彼が抱きしめ与えてくれた温もりは、今も決して忘れはしない。

 

 ラウルが歩む道、それに寄り添い続けること。

 

――それだけが、瑠璃のたった一つの夢なのだから。

 

あと一回、幕間を明後日10/23(月)に投下します。



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