146話 へこんでいる暇などありません!
「少し、明かりを入れましょうか」
老婦人の申し出に、ベルネラは微笑みながら頷いた。
彼女との会話が、ベルネラは好きだ。おっとりとした、上品な声が何とも心地良い。
「ありがとう、お願いするわ」
老婦人がカーテンを開き、朝の日差しを中へと取り込む。
硝子に反射し燦燦と煌めく輝き。その美しさにベルネラが目を細めていると、不意にノックの音が響いた。
こん、こんという控えめなもの。どこかおっかなびっくりとしたような、それ。
その音色に、ベルネラはすっかりと慣れてしまった。
扉の向こうに居るのが誰なのか。それだけでもう、判別が出来るくらいに。
「どうぞ、お入りになって」
そう告げると、老婦人――アリアンナが意を汲み取るように扉を開く。
中からひょっこりと顔を出したのは、愛らしい少女だ。
「おはよう、マリーベルさん。良い朝ね」
そう微笑みかけると、彼女はほんの少しだけ顔を強張らせてしまう。
――いけない、またやってしまったわ。
どう言い訳しようか、オロオロとしてしまう。どうにも実感が無く、呼び慣れないのだ。
しかし、そんなベルネラの気持ちを推し量ってくれたのか。
マリーベルは、すぐに輝くような笑顔を見せてくれた。
「おはようございます、お養母様。ご気分は如何ですか?」
こちらに心配を掛けまいとしているのだろう。
花が咲くような笑みと共に、少女はベルネラの元へと歩み寄った。
「ええ、随分と良いわ。今日は散歩をしようかと思うの」
「ご無理をなさらないでくださいね。あぁ、そのままで。起き上がらなくても大丈夫ですよ」
そっと、こちらの肩を抱き、少女はベルネラを寝かしつけてくれる。
なんて優しい娘なのだろうか。
ベルネラは、少女が愛おしくて仕方が無かった。
こんなにも可憐で慎み深い令嬢が自分の養女だとは。これ以上に無い幸福だ。
思わず、調和の神に祈りを捧げてしまいたくなる。
「どうなさったのですか、お養母様? 聖句など口ずさまれて」
「あら」
どうやら、声に出ていたらしい。
恥ずかしさに、顔が赤くなるのが分かる。
シーツの中に潜り込んでしまいたい。
「まあ、まあ。お養母様ったら。モグラさんになってしまわれましたの?」
くすくすと笑う声が、胸に染み入るようだ。
少女のその仕草には、悪意の欠片も見えない。
きっと、記憶を失う前は自分と彼女はさぞかし仲の良い母娘だったのだろう。
出来るなら、早く思い出したい。前の自分が何を考えて、どんなふうにこの娘と接していたのか。
頬を寄せ、愛おしむようにこちらに笑いかけてくれる少女に対し、ベルネラもまた精一杯の笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「随分とお顔の色が良くなられましたね。前ハインツ卿夫人――ベルネラ様の仰る通り、午後は外にお連れしてみようかしら」
祖母の言葉に、マリーベルは頷きを返した。あの分なら、無理をしなければ大丈夫だろう。
今しがた自分達がくぐった扉を、そっと振り返る。
あの向こうで微睡んでいる女性。自分の養母であるベルネラを思うと、胸が締め付けられそうになる。
「あの方の事は、アンさんと私にお任せなさい。貴女は、為すべきことを思う通りにやれば良いのです」
「お祖母様……」
柔らかな口調。穏やかに語り掛けてくれる祖母に、どれだけ救われているか。
「あちらでは、伯母様もお帰りをお待ちになっているのでしょう? なのに、こんな」
「良いのですよ。そんな事を気にするものではありません。今は、こちらの方が大事です」
そう、きっぱりと言い切ると、アリアンナは片目を瞑って見せた。
「私から、孫とふれ合う機会を奪わないで頂戴な。久方ぶりに、生きているという実感を味わっておりますよ。貴女が嫌だと言っても、押しかけますからね。覚悟なさい」
思いもかけない、若々しい仕草。
茶目っ気たっぷりのその気遣いに、マリーベルは胸が詰まりそうになる。
――あぁ、私は幸せだなあ。
周囲に、本当に恵まれている。恵まれすぎている。
だから、落ち込んでなんていられないし、へこたれている暇はない。
マリーベルは気持ちも新たに、強く拳を握りしめるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――ベルネラ・ハインツの肉体に損傷はなく、命にも別状はない。
けれど、その記憶は別。
彼女は、マリーベルや夫にリチャード、ハインツ男爵家に関わる全てを亡失してしまったのだった。
自分自身が『ベルネラ』という名であることは認識している。
日常的な会話も支障ないし、読み書きも可能。
礼儀作法だって忘れてはいないようなのに。
おぼろげに実家が何処で、両親が誰か。それを何となく覚えている程度。
今のベルネラは、貴族夫人としての拠り所を全て失ってしまっているのだ。
「あんなに穏やかなお養母様、初めて見た」
祖母と別れ、廊下を歩きながら、マリーベルがポツリとつぶやく。
「そうですね、以前のあの方とはまるで別人かと。まだ年若い頃から凛と立つ、まさしく貴婦人の鑑のような方でしたから」
まるでその様を見て来たかのように、幽霊メイド――アンがそう応えた。
だが、その意見には全面的に賛成だ。
今の養母は年齢よりも若く、あどけなく。可憐な少女のように思える時がある。
「背負うものが、色々とおありになったのでしょうね。負けん気の強い方でもありましたが、それはご実家の立場を慮る所が大きかったようで」
アンの言葉に、マリーベルはふと思う。
もしかしたら、ベルネラの本来の気質は『ああ』なのだろうか。
風になびく花々を愛で、お日さまの香りに目を細める。おっとりとした婦人。
それも頷ける話だ。
養母は苛烈なようでいて情に厚く、人の心に寄り添える人だ。
典型的な田舎貴族と蔑まれた父母の為に、あのように自分を繕ったのではないか。
「あの方は、奥様とお喋りをされているとき、とてもとても楽しそうでございましたよ」
「そう、かな」
「ええ、間違いなく。奥様もそのおつもりだったのでしょう? 付かず離れずの距離を保った、とても仲の良い『家族』であると、私とてそう思いましたとも」
「……ん。アンが言うなら、間違いないね」
マリーベルは、はしたなくも「うーん」と胸を反らし、深呼吸を繰り返した。
さて、くよくよしないと誓ったばかりだ。
何よりも今後の事を考えなくては。
「旦那様はまだ――って、うん?」
視線の先。廊下の角の向こうに、慌てたように影が消える。
マリーベルは足音に耳を傾け、その場所に見当を付けると、息を吸い込んだ。
「――何をやってるんです、ティム君?」
「おわぁっ!?」
肩をぽん、と叩いてやると、文字通りに少年が飛び上がる。
「ちょ、足音を殺さないでって言ったでしょ!? 心臓に悪いんだよ!」
「そんな隅っこで蹲ってる方が悪いんです」
逃げないように襟首を掴み、少年をその場に留める。
それでも抵抗するように彼は足をばたつかせていたが、やがて無駄だと諦めたか。
ため息をひとつ吐き、ティムはその場にへたり込んだ。
「ここ最近、変ですよ。何を遠慮してるんです?」
「いや、別に。その、まあ……」
らしくもなく、もじもじと肩を揺するティムを見て、アンがハッとした声を上げる。
「もしや、ティムさん! 奥様に、懸想を――!」
「違うよ!? 天地が引っくり返ってもあり得ないって! なんつう恐ろしい事を言うのさ!
失礼な。人を何だと思っているのか。
そんなマリーベルの憤慨を余所に、ティムは世にも恐ろしげに自身の肩を抱き、ぶるりと震え出した。
「旦那の前で言わないでよ、絶対に言わないでよ! 冗談にしても口に出さないでね!」
「そんな大仰そうに言わなくても。旦那様だってそれくらいわかりますって」
「マリーは知らないんだよ。例の疑惑でそっちが引きこもってた時、旦那がどんなに恐ろしい顔をしていたか!」
何と。その話は大変に興味深い。もっと詳しく聞かせて頂きたい!
マリーベルが鼻息を荒く迫ると、ティムは呆れたような目線を向けてきた。
「見た目がどんなに良くても、中身がこれじゃあなあ。百年の恋も冷める、だっけ? あれだよ、あれ」
「そうでしょうか? 私は、大変にお可愛らしい方だと思いますが」
「犬猫とか、そういう意味ならね」
大いに腰を引きつつ、ティムが口元をひん曲げた。
失礼な。大分に失礼な。乙女に対して何を言うか。
旦那様はそこが良いとマリーベルを愛してくれているのだから、これが正義なのである。
「最近まで自覚も無かった癖に。良く言うよ」
ぶつくさと言うその姿。使用人としては褒められたものではないだろう。
だが、余所様の前では礼儀に通じた立派な従僕。
そうして、そんなティムをマリーベルもアーノルドも気に入っているのだ。
「やっと調子が戻ってきましたか」
「う」
「スミスさんの件で悩んでいるんでしょう?」
言い当ててやると、ティムは決まりが悪そうに俯いてしまった。
家庭の事情に関しては、ある程度を聞いている。アーノルドが雇うにあたって裏も取った。
それでも、スミスが彼の父親だとは、マリーベル達も思いもよらない事実。
「髪型とか、人相も少し変えてたみたいだ。名前も違う。父さ――親父は、ジェイスだ。スミスなんて、聞いた事も無い」
それでも、彼は一目で分かったのだ。
あの家令が、自身の父親だと。
「何が何だか、オイラにはわかんねえし。でも、アレがマリー達の敵になったってのは確かなんだろ? 男爵閣下の姿をした『何か』と手を組んでさ、長年一緒に居たマリーを、あっさりと裏切ったんだ!」
昂ぶった気持ちを堪えるように、ティムは自身の膝を殴りつけた。
段々と、彼が何を案じているのか。マリーベルは悟り始めていた。
「お互いに、クソな父親には苦労しますね」
「言い方!?」
おっといけない、昔の癖が出た。
(まぁ、私の方は良いんだけどね。お蔭で色々と理解が出来たし。そうだとするなら、そりゃあ私を娘とは思えないでしょ)
腑に落ちるとは、この事だ。
むしろ、先代男爵――ドルーク・ハインツに、少しばかり同情してしまう。
真実がそうであれば、マリーベルを厭う理由も良く分かるというもの。
それはまあ、向こうからしてみれば、ごく当たり前の感情であろう。
(でも、ティム君は――)
前からそう。彼が自身の父について語る時、何処か懐かしげにしていたのを、マリーベルは見過ごしていない。それは何処か必死に、嫌いになろうとする理由を絞り出そうとしているように見えた。
きっと、何だかんだ言っても。
彼は父親を、慕っていたのではないだろうか。
「ティム君は、ここに残ってくれますか?」
「何を言いだすんだよ、急に。元々はそっちが脅して強引に雇ったんだろ」
「まぁ、そうなんですけどね。これから先はほら、更に厄介極まる状況ですし。ティム君の言う通り、貴方の父親と殺し合いをするかもしれない」
ティムの目が、微かに戸惑いに揺れた。
「もう少しすれば、議会の開催。そこで、旦那様と私は勝負を仕掛けます。もしかしたら、『敵』はそれを狙っているのやもしれません」
「何が、言いたいのさ?」
「ティム君が望むなら、ですけど。新王国の方に避難も出来ますよ。向こうの商会で働く算段は付けています。貴方なら、何処でもやっていけるでしょう。ディックさんの甥だとかいう方が、面倒をみてくれるとか。その才覚を生かせるようにすると、約束しますよ」
マリーベルはそこまでを言い切ると、一旦言葉を止め、ティムの顔を覗き込んだ。
もう一人の弟のように思っている少年。
そこに、『あの子』の姿を見出し、ほんの少し胸が痛んだ。
「でも、それでも。ここに居てくれると言うのなら。私達に力を貸してください、ティム君」
「……っ!」
ティムの顔が、泣きそうに歪む。
「いい、のかよ? だって、オイラはあの親父の息子だよ!? 信用なんて出来るのかよ! あんた等を裏切らないって保証があるのかよ!」
「裏切るなら、その機会はいくらでもあったでしょう? それにね、もしもそうなった時は――」
マリーベルは、少年に向かって微笑んだ。
「――私と、旦那様の見る目が無かった。それだけの事です」
ティムの顔が、面白いくらいに歪む。
そうして、泣き笑いのような表情をしたかと思うと、彼は目を伏せた。
「は、はは……ほんと、あんた等ってさあ」
服の裾を握りしめ、心の底から絞り切るように。少年は言葉を吐き出す。
「夫婦そろって、同じことを言うんだからさ……」
その言葉が肯定の返事と受け取り、マリーベルは微笑む。
主の笑顔に対し、ティムは埃を払って立ち上がると、深呼吸。
ややあって、真剣な目でこちらを見据えた。
「ありがとう、マリー。オイラに、機会をくれるって事だよな」
「生かすかどうかは、ティム君次第ですよ」
「分かってる。その時が来たら、連れて行って――いや」
頭を振り、少年は頷く。
「着いて行く。マリー達と一緒に、何処までも」
その眼差しと顔立ちが、何処となく凛々しく、引き締まったように思える。
男の子の成長は早いと言うが、あれは本当なのだろう。
少しのきっかけさえあれば、急に変わって――
『――姉さま』
弟の微笑みが頭の片隅を過ぎる。
自分も、もしもの時は覚悟を決めなくてはいけないのだろう。
出来るか、出来ないかではない。やらなくてはならないのだ。
弟の魂が辱められたまま、永遠に『悪魔』に縛り付けられるなら。
あの子の姉である、自分が、この手で――
「――奥様」
アンが、こちらに向かって振り向いたのは、その時だった。
「ご来客のようです」
「え、どなた?」
アンがそっと目を閉じ、何かを探るように天を仰ぐ。
ややあって、告げられた名は、マリーベルにとっては馴染みが薄く、しかし関わりが深いものであった。
「セリーヌ・ド・ラ・リシュヴェール警部――」
マリーベルは、そう呟く。
女性記者を名乗り、マリーベル達に近付いた、アーノルドの知己。
古の騎士人形を操る、『人形遣い』の、その名前を。
次回は10/10(火)に更新します。




