15話 二百年前の亡霊ですか!?
「……おい。そんなに警戒するなって。悪かったよ、悪かった! もうしねぇから、機嫌直せって!」
そんな事を言ってくるが、信用などできない。一体、これで何度目だと思っているのか!
マリーベルはそう、シャーと気炎を吐いて威嚇する。旦那様は露骨に顔をひきつらせ、慄くように後ずさった。
――ティムを見送った後、マリーベルとアーノルドは工場の周囲を練り歩いていた。
彼が事を終えるまで、ある程度の注目を惹きつけておくこと。アーノルドの提案に是非は無い。
是非は無い、のだが。
「そんなに離れるなよ! 逆に不自然だろ!?」
二人の距離はやや遠い。というか、マリーベルが露骨に彼を避けていた。そうしないと、落ち着かないのだ。
まだ胸がドクドクと響き、しつこくがなり立てている。うるさい。うるさくて、たまらなかった。
何だか、頬まで火照ってきている気がする。恐らく、乙女の尊厳を害されそうになったからだろう。
危機感がそうさせているのだ。そうに違いないと、マリーベルは自分に言い聞かせた。
――旦那様は女の敵である。間違いない。あんな言葉を平気で吐いて、『ああいった』仕草を自然にやってのけるのだ。
(きっと、他の女の人にもああやってるのよ! 自然に距離を縮めて深めてそうしてパクッと――)
いやらしい。やはり山賊だ。獣だ。男は狼だ。
女をとっかえひっかえという噂は、やっぱり本当だったのだ!
あのままだと、マリーベルも――
(――あれ? 別に、いいんじゃないの?)
式も披露宴もまだとはいえ、宣誓書にサインは交わした。原紙も前に見せてもらったし、写しも保管してある。
マリーベルとアーノルドは夫婦だ。
『そういうこと』になっても、問題など無いはず。むしろ、子を孕む行為は望むところだった。
もしもアーノルドがその気になれないなら、それでもいい。マリーベルを正妻として扱って、これからも贅沢をさせてくれるなら、愛人の一人や二人問題ない。そう、思っていたのに。
――だったら、なんで私は、こんなに焦っているんだろう?
息を吸って、吐く。それを数度繰り返している内に、段々と気持ちが落ち着いてきた。
顔を上げてみると、やや離れたところに旦那様。世にも情けない顔をして肩を落としていらっしゃる。
何だか、笑いが込み上げてきた。
きっと、あれだ。ティムに対するあの態度のせいだ。
『人の命を報酬になんてしねぇよ』
あれは、あの言葉はマリーベルの心に染みた。何を偽善を綺麗ごとを、なんて思わない。
そうしてくれる人が、それを自然にやってのける人がこの世に居ること。そしてその人がマリーベルの伴侶であること。
その事実が、泣きたいくらいに嬉しかったのだ。
(もし、あの時。旦那様が傍に居たら……お母さんを助けてくれたのかな)
見る影もない程にやせ細り、蒼白な顔をしながらも、それでもなお美しく――そして、最後まで優しかった母。
もしも、あの時。何も出来ずにただただ泣きじゃくるばかりの自分の傍に、彼が居てくれたなら。
――しかたねぇな、分かったから騒ぐな! 泣くな!
そう言って、渋々と世話を焼こうとする彼の姿が目に浮かぶようだ。
時を遡ることなど出来ない。やり直しは効かない。
だから、それはあり得ない、『もしも』のお話。
でも、それを夢見る事で少しだけ、救われた気持ちになる。
それだ、それだけだ。だから、その後に続いて言われた、マリーベルへの言葉なんて些細な物。気にするほどの事じゃない。
だから、勘違いしてはいけないのだ。
(……信頼してくれてるってことだよね。きっと、そこに他意はないんだろうなぁ。旦那様だし)
本当に困った人だと、そう思う。
ぼうっとはしていたものの、さきほどの会話中、アーノルドの表情に陰が差したのをマリーベルは見逃していない。
(大方、子供を良いように言いくるめた、とか気にしているんでしょうけど)
全く、最後まで格好付けられない旦那様だ。
子供だろうと大人だろうと、その選択には責任が伴う。
自分から声を掛け、そうして道を選んだのはティムだ。
それくらい、アーノルドだって分かっているだろうに。
いや、分かってるからこそ、なのか。
ーーやはり、マリーベルが傍に居ないと不安だ。彼の持つ不思議な魅力は時として危険となる。善人だけじゃなく、良くないモノまで惹きつけてしまいそうな気がするのだ。
そっと、手を開いて握る。もしもの時は、自分が彼を守らねばと、そう決意するかのように。
もう一度息を吐き、マリーベルは前を向く。すると、いつの間にかアーノルドはその場に立ち止まり、こちらをチラチラと伺うように見ていた。何やら難しそうな表情。面倒くさい女だと思われたろうか?
とうとう懐から飴を取り出し始めた旦那様にくすり、と笑む。
――しょうがない、そろそろ許してあげようか。
弾むように足を跳ねさせ、マリーベルはアーノルドの傍に駆け寄るのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……なるほど、なるほど。この短い時間で良くここまで調べたな」
工場内を歩きまわって、どれくらいが過ぎたか。そろそろ変わり映えの無い景色にマリーベルが退屈してきたころ、ティムが戻って来た。
人気の無い敷地の隅へと三人が移動し、そうしてその成果が発表されるや否や、アーノルドが感嘆の声を上げる。
続いて横からそれを覗き込み、マリーベルも驚く。その手に握られた紙には、驚くほどの詳細な情報が書き綴られていたのである。
「はしっこい仲間を厳選して手分けしたからね。後は、オイラがそれをちょちょいと纏めておしまいさ。目録も都合よく置いてあったし、楽なもんだったよ」
ニヤリ、とティムが得意そうに笑う。マリーベルの弟にも通じる、ヤンチャそうな男の子の顔。
「でも、一体どこから入ったんです? 入り口も窓も警察官に見張られていたのに」
「言ったろ、子供の目線でしか分からない場所があるって。ほら、あそこだよ、あそこ!」
そうして指差された場所は、なんと建物の通気口。それは大人の体ではとても潜り抜けられないであろう、窓とも呼べないような小さな物だ。
「この工場は、珍しいくらいに働く連中の健康? とやらを気遣ってるらしいからね。オイラも幾つか工場を渡り歩いたけど、こんなのわざわざ付けてる所はそうそうないぜ」
総じて、工場における人員たちの扱いは劣悪なものだ。
ほの暗い場所での長時間労働。目は疲れて摩耗し、激しい機械の音は耳に障り、舞う粉は肺を病ませる。
こういった紡績工場において、例えば綿の製造は適度に温かくジメっとした空気が最適だと、マリーベルは本で読んだことがある。
年中寒さとお友達なこの国において、そういった環境を作るのは至難だ。だから、窓を閉め切って換気もせず、空気が澱むのを良しとする。通気の設備を整えるにはたくさんのお金がかかるから、こうすれば少ない予算で効果が得られるのだ。
――そこで働く者達の、心身の健やかさと引き換えに、だが。
「褒め言葉と受け取っとくよ。しかし……やはり、持ちこんでやがったか」
アーノルドが舌打ちと共に、紙を指で弾く。
「何か変なのあった? 麻薬とやらの現物は見付からなかったし、あるのはさ、ありふれた物ばっかだったよ」
「……これを見てみな」
アーノルドが差し出した『目録』を、マリーベル達は覗き込む。
「サンゴにイカの骨、オリウスの木の根にシナモンやローズピンク――あれ? これって歯磨剤じゃないです?」
マリーベルも自家製の物を作ろうと材料を取り寄せた事があるから、分かる。
それは、婦人雑誌に記載されていたレシピとほぼ同様のもの。
毎日の歯磨きに使う、薬剤の一種だった。
「そうだ、この国でも数少ない『原材料』が明記された代用薬物だな。うちの手洗い場にも設置されているモンだ。だが、ほれ。この一番下を見てみろ」
「……? これ、ガヅラリーの強壮薬じゃないですか。子供の安眠用に使うとか言う――」
工場に働きに出る女性にとって、泣き喚く幼子をどうあやしつけるか、が大きな問題だ。
これを一口飲めば、とたんに癇癪が収まり、安らかに眠るようになると大評判。しかもこれ、どういうわけか恐ろしく安価であるようなので、労働者階級の家庭でも容易く手に入るのだ。
薬の成分は基本未公開であるので、アルコールと鎮痛作用のある薬を数種類混ぜて作るものらしい――としか、マリーベルは知らないが。
「冗談じゃねぇ。これには常習性がある。赤ん坊に定期投薬なんざしてみろ、食欲が失せて乳も飲まなくなり、痩せこけて死ぬぞ」
「え……!?」
これには、マリーベルだけでなくティムまで素っ頓狂な声をあげた。
「そ、そういえばうちの工場では、その類いの薬を飲むのも買うのも禁止だって言われてたっけ。副作用とやらが強いとかどうたら、ってーー」
マリーベルも思い出した。
前に広告で見て興味を惹かれ、購入を検討したところ、アーノルドの猛反対にあったのだ。
その時も、今のティムの言葉と同じく、「副作用がきついから絶対に買うな、使うな」と念を押された。
「で、でもさ! それ、普通に使われてるぜ!? 工場のみんなも黙っちゃいるけど、隠れて買ってるし。そうだよ、オイラの仲間内だって――」
「便利だからな。表面上は子供は大人しくなるし、そうしなければ母親が働きに出られねぇし、喰っていけねぇ。共倒れするよりはマシなんだろうが、問題はそこじゃない。それを誰も知識として身に付けていないのさ!」
忌々しげにアーノルドが地面を踏み鳴らす。こんなにも苛立っている夫を見るのは、マリーベルも初めてであった。
なんなら、自身に麻薬密造の疑いがかかっていると告げられた時よりも――憤っているようだ。
「成分が表示されていないからな、原材料が明記されていねぇからな、大々的に宣伝されているからな! だから、薄々妙だと勘付いちゃいても、手放せない。水は低きに流れるんだ。蝋燭の代わりにガス灯が普及したように、便利になった生活を引き下げる事は出来ねぇ……!」
ある町では、実際に調査が行われて警告もされ、論文も出されたらしい。
けれど、それも世相に広まる事無くいつの間にか消えてしまったと、アーノルドは罵った。
「で、でも! それに危険な常習性があるとして、普通に売ってるものでしょう? 麻薬と何の関係が――」
「麻薬の原材料はオリウスの木の根と、特定の海産物、更にある種の木の実らしい」
マリーベルの疑問に答えるかのように、彼は淡々と言葉を紡ぐ。先程の憤りは鳴りを潜め、その表情はゾッとするほどに冷たい。
それが、マリーベルには何故か、とても恐ろしく思えた。
「その木の実はな、ご禁制だ。栽培も禁止。この国に持ち込むことすら許されない。だから、それを液体状にしたものを詰めて外国から運び込んだ。薬品なら、原材料を明かさなくてもいい。法律で規定されていねぇってのはさっき言った通りだ」
アーノルドが忌々しげに舌打ちする。
「まぁそれでも、そうそう簡単に行くもんじゃねぇ。抜け道の対策くらい、役人もしているからな。だというのに、俺らが『それ』の成分を突き止めれたのも、ここ最近だ。どんな手品を使いやがったのか……」
「ま、まさか。その薬品ってーー」
マリーベルとティムは、同時に顔を見合わせた。
空恐ろしい考えが、脳裏に浮かぶ。
「そうだ、その『強壮薬』さ。そしてな、それらを特殊な調合をすることでな、出来るんだとよ」
指に摘まんだ紙を透かすように空にかざし、アーノルドが呟く。
「……二百年前にこの国を蝕んだ猛毒、『エスベレルの魔薬』が」
「……っ!」
知らなかった。マリーベルは愕然と、その紙を眺める他無い。
そんなに、身近にあるもので造れてしまうのか。その事実はあまりにも恐ろしい。
道を外れた者が企めば、容易に広めてしまえるではないか!
「勿論、今となってはレシピも秘中の秘だ。俺も、ついこの間まで知らなかったよ。口外したら下手すりゃ絞首刑もんだ」
「ちょっと待って!? オイラ、聞いちまったよ!?」
「あぁ、そうだな。この事を喋ったら子供でも地獄行きだ。主への聖句は覚えているか?」
「知らないよ!? ちょ、ちょっと旦那!?」
冗談だ、とアーノルドが笑う。心臓に悪いジョークである。
「どんなに金を積まれても言うな。これと同様の物を見かけたら俺に知らせろ。連絡の手段も教えておく。仲間内にもそれとなく伝えておけ」
「わ、わかったよ……」
ここまで脅しつけられれば、口外はすまい。ティムは年齢に似合わず聡い。
もしかしたら、彼が興味を覚えて調べるのを先んじて制したのかも、とマリーベルはそう思った。
「ルスバーグ初代公爵の功績のひとつが、この麻薬の撲滅だ。当時の王太子と協力し、徹底して歴史から葬った、らしい」
「それが、二百年の時を経て蘇った……?」
「……当時の組織の生き残りか、それとも門外秘のレシピが残っていたか。この強壮薬で材料を代用出来るというのも、つい最近判明したことらしい。ごく限られた者以外は調合法どころか、その素となる木の実さえ知らないーーはず、なんだがな」
それを、どうやってアーノルドは知ったのだろう。
そう疑問が浮かぶが、それよりも先にマリーベルが感じたのは、胸に湧き上がる強烈な嫌悪と怒りだ。
「……許せない」
アーノルドの話によれば、この薬が広まりつつあるのは労働者階級層。かつて、マリーベルも居た大多数の国民たち。ロクな知識も知恵もなく、喰い物にされるに適した人々!
脳裏に、やせ細った母の姿が過ぎる。彼女の死因は病によるものだが、その痛みや苦しみを和らげると謳われて広められたら、マリーベルだって飛び付かなかったとは言えない。
「あぁ、そうだ。こんな物を広めやがるのは許せねぇ。それを俺の工場で作ろうとしやがった、ってぇのもな」
「どうすんだい、旦那? 許せねぇのはオイラもそうだけどさ、動かぬ証拠がここに揃っちまってるんじゃ……」
「そ、そうです! 幾ら違うって言っても、実際に材料があって、物が作られてるんじゃ不利ですよ!」
大体、誰がどうやって運び込んだのか。それを明かさない事にはどうにもならない。
「そこで役立つのはコレだな。出入り業者の管理目録だ。門を通った記録が書いてある」
ティムから手渡された目録を掲げ、アーノルドが腕を振り回した。
「へぇ……こういうのって警察に没収とかされてなかったんですねぇ」
「……あぁ、そうだな」
いついつに、誰が入館したか。それが日ごと、びっしりと書かれている。
マリーベルはこういうものに詳しくはないが、何処も普通に行っていることなのだろうか。
少なくとも、男爵家では見たことが無かった。
「業者が入館する際は、簡単な身分証を予め発行して貸出し、提示させている。だから、常と違う奴が出入りすればすぐわかる」
もし目録そのものを改竄をされていたらどうするのか、ともマリーベルは思うが、それは既に対応法があるのだろう。
ぐるぐる、ぐるぐるとアーノルドは腕を回している。何かの健康法かと思うくらいのブン回しっぷりだ。疲れないのだろうか、あれ。
「じゃあ、後は出入り業者をコツコツ調べて、怪しい奴が居ないかを都度チェックしていくんですね! 面倒くさそう!」
「実際面倒極まりない。同情を禁じ得ないな」
他人事のようにそう呟く旦那様。
何を呑気な事を言っているのかと、マリーベルが訝しんでいたその時だった。
「……では、手間を省いて差し上げよう」
「――あっ!?」
ひょい、っと。横から伸びてきた手がアーノルドの手から紙を根こそぎ奪い取ってしまう。
「何を――って! あ、あっ!! 悪食警部!!」
「ご挨拶だなぁ、お嬢さん。ミスター。口汚い仇名を奥さんに言わせるの、どうかと思うがねぇ?」
「……うちの陰険眼鏡が教えたみたいだな。つうか、アンタがそんだけ有名なのが悪い」
ひひっと気味悪く笑って現れたのは、忘れもしない名物警部。ベンジャミン・レスツールその人であった。その後方には、何人かの警察官の姿も見える。
潰れた鼻をフンっと慣らし、髭一つない顎をつるりと撫でて、悪食警部は愉快そうに体を揺らした。
「ど、泥棒!! 人の物を勝手に取らないでくださいっ! 警察の癖に何をするんですかっ!?」
「ひひひ……いやね、これは――って力強っ!? お嬢さん、お嬢さん! 顔面を鷲掴むのはいけませんな……!」
「離してやれ、マリーベル。紙が千切れる」
「紙の前に、私の面の皮が引きちぎれそうだったが……?」
冷や汗を流しながら後ずさるベン警部。その手には目録が握られたままだ。
何故止めたのか、とマリーベルが振り向くと、何故か旦那様まで一緒に後ずさり始めた。
「その顔を止めろ……! 夢に見そうだ!」
「人の物を盗ったら戦争なんです! それに、あの目録は旦那様のお金に繋がるものじゃないですか! つまり私の財産も同様なんですよ! 奪うってんなら命を覚悟して貰わないと……!」
「……ミスター。貴方は、奥さんにどういう躾をしているので?」
人を犬や猫みたいに言わないで欲しい。怖々とこちらを伺うベン警部に、唸って威嚇する。
「とにかく、落ち着け! 話が進まねぇ!」
「ひひ、本当に面白い奥さんを貰ったものだ。『あの』ミスターが形無しでは無いか。良い見世物だねぇ……」
そう言って、じりじりとマリーベルから遠ざかろうとするベン警部。
駆け寄ろうとするも、アーノルドに襟元を抑えられていては動けない。変に力を入れたらお高い外出着が千切れてしまいそうだ。
「何で、止めるんですかっ! 行っちゃいますよぉ!」
「これは証拠の一つだからねえ。警察の権限で押収させてもらうよ、お嬢さん。改竄されては大変だ」
悪徳警察官そのものの顔で嗤う悪食警部。憎たらしさの極みにあるその禿げ頭を鷲掴もうと、マリーベルが両手を突き出す。
「早く行け、警部。こいつの手は瓜とかそのまま握り潰すぞ、多分」
「ひひ、ひ……っ!? あなた、何時の間に猛獣使いに鞍替えしたので……?」
――誰が猛獣か、失礼な!
ますます喚こうとするマリーベル。それを前と後ろからアーノルドとティムが制止する。
「止めろって、マリー! 相手はあの悪食警部だろ!? 下手に手を出したら連行されるぞ!」
「そうだ、落ち着け、落ち着けって! どうどう、どうどうどう……」
だって、だってと、マリーベルは涙が出そうになる。
アレは、ティムが頑張って手に入れた物だ。小さな子供が危険を冒してまで、自分に出来る事を為してくれた物だ。
アーノルドが不当に訴えられ、逮捕された事実をひっくり返せるかもしれないものなのに。
「……そんな顔をするなよ。大丈夫、大丈夫だ」
宥めるように頭を撫でられる。夫の、その手のひらの温かさが何とも言えず、マリーベルは黙り込んだ。
その隙を突くかのように、警部はその場を走り去る。脇目も振らない駆け足だ。死に物狂いのようにも見えた。
「……本当ですか? 証拠も何も、全部抑えられちゃってるのに?」
「あぁ、嘘は言わねえさ。悪ぃな、二人とも。今は堪えてくれや」
バツが悪そうに苦笑し、アーノルドはマリーベルとティムの背中を押して、歩き始める。
「警部!? 何故ここに!?」
「貴方の担当は、確か――」
工場の中庭を抜けた所で、ざわざわと、そこらかしこから声が聞こえてくる。
警視庁の連中も、内部で統率がされていないのだろうか。戸惑うような声が多い。
「さぁ、とにかく腹ごしらえでもするかね。ティム、この辺でお勧めはあるか?」
「え、あ……あぁ、あるよ。安くてそこそこ美味い店!」
「よしよし、いいぞいいぞ。ディックの野郎が居たんじゃ商会長の格式がどうたら煩くて、そういう店に行けねえからな」
そう言って、舌なめずりをするアーノルド。やたらと大袈裟な仕草は、妙に芝居がかっていた。
空元気、なのだろうか。無理してはしゃいでいるように見えて、マリーベルの目には痛々しく映る。
「旦那様……」
「ほら、お前も行こうぜ。お高いメシじゃねぇが、たまには良いもんだ」
差し出されたその手を、マリーベルは怖々と掴む。
――今は、彼を信じる他は無い。
強く、強くその指先を握りしめ、マリーベルは夫と共に連れ添うようにして歩き出した。




