142話 それは、とても不思議な物品です!
煉瓦と石造りの階段を降り、一歩、一歩。足元に気を配りながら地下へと下る。
湿った空気と、黴の臭いが鼻につくが、耐えられない程ではなかった。
(ウィンダリア子爵家の地下通路を思い出すなあ)
貴族というのは、隠し通路とか秘密の地下室とか造りたがるものなのだろうか。
周囲を仄かに照らす、ランタンの灯りを眺めながら、マリーベルはそんな事を思った。
「随分と用意が良いな?」
「探偵の身だしなみというやつさ」
アーノルドが半目で睨むが、相手の男性――ラウル・ルスバーグはただ飄々と、ランタンを軽く揺さぶって見せた。
どうにも油断のならない相手だ。敵か味方かはっきりしないのも気持ち悪い。
というか余裕ぶった態度が気に食わない。
「ていっ」
「おうっ!?」
途端、悲鳴と共に手元から零れ落ちたランタンをキャッチし、上から下から眺める。
ごく普通のランタン。特に妙な仕掛けとかは施されていないようだ。
「な、何をするのかな……?」
「申し訳ございません。薄暗いせいか、足元がふらついてしまいまして」
「いや、掛け声を上げなかったかい? 狙いすましたような一撃だったけれど!?」
「気のせいですわ」
にっこりと笑って見せる。
よろめいたふりをして、わき腹を指でぶすりと突いたのだ。
あの痛がりようは、演技とは思えない。
指から伝わる筋肉の緊張と反射から察するに、まだ傷は癒えていないのだろう。
少し安心した。王宮で賜れた傷薬のように、またぞろ秘伝の治療薬が云々、とかあってはたまらない。
何より、自身が与えた打撃の痕が、ちゃんと尾を引いているのが素晴らしい。
これなら、幾らでも対処の仕様はあるというものだ。
「おや、どうしました? ご気分でもお悪いので?」
「い、いや。何でもありませんよ、ミスター・ローディアム。少し古傷が痛んだだけで」
「左様ですか。それは大変ですな」
心配する素振りをみせながらも、彼の意識がラウルに無い事は明白だ。
その証拠に芸術家・グローア・ローディアムは、目をきらきらと輝かせ、壁をペタペタと触っている。
「おぉ、何とも素晴らしい……! この古めかしさ、黴混じりの空気! 脳髄が刺激されますぞ!」
まぁ、ご満悦なら良い事だ。マリーベルは素知らぬ顔でランタンを翳す。
光源はこちらに確保しておかなければ。いざという時に困る。
もの言いたげなラウルを無視し、後ろを振り向く。
頭上にある出入り口からは、陽の光が微かに差し込まれ、そこに心配げな顔の少年の姿が見えた。
言わずと知れた従僕、ティムである。見張り役として、地上に残しておいたのだ。
もう少しすれば弟が戻ってくるだろう。その時、説明役がいなければ困る。
ティム自身は非常に嫌そうなお顔をしていたが、これも従者のお役目と割り切って頂きたい。
「お、どうやら終点みたいだね」
ラウルが指差した先、そこで階段は途切れていた。
踊り場とも言える床の前方には、これまた古びた造りの扉があった。
「……『霊廟』に似ているな」
煉瓦で拵えたと思わしきそれを見て、アーノルドが呟く。
あぁ、と。マリーベルも頷いた。確かに、雰囲気が酷似している。
実はあの『大評定』が始まる直前、マリーベルも夫と共に、古城の地下を訪れていたのだ。
一応の念の為。いざという時の保険。布石を打ちたがる夫の案だ。
そうしてシュトラウス伯爵の手引きにより、霊廟の奥へとマリーベルは足を踏み入れた。
――そう、何の抵抗も無く、である。
古き血脈を保つ者以外を弾く、選別の墓所。
そこへ苦も無く入所出来たとあれば、間違いなくマリーベルには資格がある、ということ。
それは逆説的に、母に流れていた血が尊きものなのだという、何よりの証拠でもあった。
(……さて。この先にある物は何なのかな)
一体、いつの代の当主が拵えたものなのか。
相当に古い年代であることは見当が付く、が。
扉の取っ手には、更にもう一つ錠前が掛かっている。
念入りな事だ。しかも、ここにも『祝福』の気配があった。
「……どうだ?」
夫の囁きに、マリーベルは頭を振った。
「変な音もありませんし、火薬の匂いなんかもしませんね。ただ、少し香るものがあります」
「毒物か?」
「いえ、ハーブとか、薬草に近いかと。人体に害のあるものではなさそうですが、この鍵も恐らく――」
マリーベルがラウルの方を振り向くと、彼は肩を竦めながら、もう一本の鍵を差し出した。
一体、どこから。どのようにして手に入れたのか。
探偵というより盗賊のような男だ。
マリーベルがそれを受け取るより早く、アーノルドがカギを掻っ攫い、妻の肩を引いて前に出た。
抗議をする間も無く、旦那様は鍵を開け、扉に手を掛けてしまった。
「旦那様」
「こういうのは、俺の役目だ」
ぴしゃりと言われてしまえば、口を挟む事も出来ない。
不服そうな妻へ笑いかけると、アーノルドがゆっくりと扉を開いてゆく。
「ほう!!」
グローアが、感嘆の声をあげた。
扉の向こうに広がっていたのは、予想外に美しい光景であった。
広々とした空間。床や天井のあちらこちらに埋め込まれているのは、水晶らしき結晶体か。
それらは内部に光源を持っているのか、淡く輝きながら周囲を照らしている。
暗き地下を抜けた先だからこそ、余計にそう思えるのか。
侵しがたき聖域。そんな感想が、マリーベルの脳裏に浮かび上がる。
「おぉ、おぉ、おぉ……!」
芸術家様はもう大興奮である。ふらふらと中へと入り、うっとりとした笑みを浮かべているようだ。
霊廟とは違い、この場所には血を選別するような機構は備わっていないらしい。
「ふむ……何とも美しい光景ではある、が」
周囲を見回していたラウルが、ある一点に目を留めた。
マリーベル達も、つられるようにして、『それ』を見る。
「――衣服?」
奥まった場所に備え付けられた台座のようなもの。
その周囲に吊らされているのは、上着やスカート――のように見える。
女物であることは明らか。だが、マリーベルが気になったのはその形状である。
「ちょ、あれ……短すぎません?」
襞の付いた、若草色のスカート。その丈は太腿ほどでしかない。
短衣のような簡素な物とも違う。見るからに上等な逸品。
上流階級に属する者が纏っていたのだろう。
しかし、こんな物を身に付けていたら、足が見え放題である。
はしたないの極みだ。
そろそろと近付き、直接触って確かめる。
指先から伝わる感触に、マリーベルは目を見開いた。
「何ですこれ、こんな手触りの良い布地、初めてです」
「不思議な意匠ですな。こちらは上着でしょうか。胸元に、紋章が縫い込まれていますね。貴族学院の制服に似ていない事もありませんが……」
グローアがこれまた淡い緑色の上着を手に取り、ほうっとため息を吐く。
「きめ細かい生地だ。裁断も見事。これはさぞかし名のある職人の仕事でしょうな。それに、こちらは――シャツ、ですか。首元に巻かれているのはスカーフではありませんな、タイに似ているが、はてさて」
「昨今は、女性用のそれが一部で流行し始めているようだけど、それとは意匠が異なるね。大剣と小剣を模したような形。紳士が身に付けても遜色なさそうな代物だ」
グローアとラウルが、真っ白なシャツを眺めながら、あれこれと薀蓄を語る。
マリーベルもまた唸った。スカートがいささか短すぎるとはいえ、全体的に色合いも良くて清潔的だ。
花が開くような明るさ、華やかさを感じる。若い女性向けに仕立てられたものだろうか。マリーベル好みの可愛らしさも感じるし、スカートの丈をもう少し調整すれば、着てみたいとすら思う。
――細部を良く覚えて、仕立て屋に注文してみようか。
上手くすれば、流行を作れるかもしれない。
旨い商売の気配。儲かりそうだ。お金の匂いがする!
そう思って夫の方を見れば、彼は台座の上に乗せられた鞄の方に目を奪われているようだった。
「革、かこれ。頑丈そうだし、金具も単調な造りのようで、恐ろしく精巧だ。こんな物、古い時代に造れたとは思えねえ。衣服もそうだが、これが量産品だとすれば、尚更だ」
「え?」
量産品? これが? どれもこれも、どう見ても一点物の最上品だ。
マリーベルが目を瞬いていると、アーノルドが鞄を置き、息を吐く。
「接着面が殆ど見えねえのもそうだが、縫い跡がどれも画一的だ。あまりにも精確で、緻密過ぎる。人の手で出来るものじゃねえ。明らかに機械生産したものだ。相当に優れた紡績機を使っているな。とすれば、掛かるだろう費用からして、大量に作った方が金が浮く」
あくまで推測だけどな。そう言って、アーノルドがその横に目を移す。
ずらりと並んでいるのは、本や小物だ。どれもこれも、馴染みの無いものばかり。
アーノルドはその内のひとつ、小さな板を持ち上げた。
マリーベルもまた、夫の横からそれを覗き込む。
鉄で出来た、細長い板。そう顕わすしかない。
大きさは、旦那様の手のひらより少し小さい程か。表面はつるつるとした、ガラスのような形状。両横には微かな凹みのような物が幾つもある。
裏返すと、見慣れない文字と共に、小さな丸いレンズのようなモノが二つ並んでくっついていた。
「顕微鏡、でしょうか? それにしては変な形ですね」
「材質も、鉄にしては恐ろしく軽い。手触りも異様に滑らかだ。何に使うものなんだ、これは」
旦那様に分からないモノが、マリーベルに理解出来る筈もなく。
夫婦そろって、不思議な物品の数々に眉をひそめてしまう。
「……なるほど。これらは、どうやら初代男爵夫人の物らしい」
「え」
「見たまえ、ここに詩が記されている。詠み人の名は、初代のハインツ男爵のもの。そして刻まれているのは『我が愛しき妻』から始まる、何とも熱烈な愛の詩だ」
淡々と語るラウルの瞳に、次第に熱が宿りはじめた。
どうやら、彼お好みの展開になってきたようだ。
「時を超えてなお胸を打つ名文! あぁ……素晴らしい! 情熱的だ!」
「神秘的な聖域めいた場所に残された、愛の証! ううむ、ううむ! 脳が踊ってきましたぞ!」
踊るな。マリーベルが思わず口に出してしまいそうな程、二人の紳士は喜び猛っている。
旦那様はと見てみれば、彼も少しばかり胸を打たれているように思えた。
心に純情可憐な乙女を飼っている夫のことだ。
死してなお紡がれる愛の証! とか、そういうのに弱いのだ。滅茶苦茶刺さるのだ。
「や、でもおかしいですよ。これらが初代男爵夫人の持ち物だとしたら、それは千年近く前のこと。旦那様も言った通り、そんな時代に、とてもこれらを作れるような技術があったとは思えません」
というか、現在のエルドナークでも、こんな物を思い付き、再現するのは難しいのではないか。
マリーベルは、台座に並ぶ幾つかの本を手に取った。
装丁も紙質も、何もかもが流通している本とは、一線を画している。
「見て下さい、これ。このページに並んでるのなんて、写実画じゃない! 明らかに色付き写真ですよ! こんなもの、千年も前にあってたまりますか!」
「確かに、幾らなんでも技術が新し過ぎる。どういうことだ? 近年になってからねつ造されたにしても、する意味がねえ」
「あ! これ、王都の絵図じゃないです? ここにほら、時計塔がありますし」
マリーベルは、見開いたページを指差す。
そこに描かれているのは、見慣れた街並み。色鮮やかな王都を書いた挿絵だ。
「こっちには、白黒だけれど写真もありますね。書かれている文字は読めませんけど、やっぱりここ最近に造られたものですよ、これ! 明らかに現代の王都を――」
そうしてページを次々とめくり――マリーベルは、息を呑んだ。
「なに、これ?」
そこに在ったのは、立ち並ぶ高層の建物の写真。
新王国で見たような――いや、それよりも更に高く、大きく、造りも豪奢だ。
更に驚いた事に、道を走っているのは見た事も無い形の車。
談笑する人々の服装も、現在の流行とはまるで異なるものばかり。
肌も顕わな服を着ている女性も多く、しかも娼婦のようにも思えない。
見慣れた時計塔が映っている事から、そこが王都である事は間違いないはずなのだが。
「どれ、何がありましたか!? ふうむ、これは――」
本を覗き込んだグローアが、目を見開いた。
「何とも文明の発達した光景ですな。道を走っているのも、明らかに外燃機関の車とは異なる。更にここのこれ、これです! 空を飛んでいると思わしき機械! まるで鳥を模したような、流麗な意匠は――」
血走った目で、グローアがページを捲りつづける。
あまりにも異様な仕草であるが、今のマリーベルには気にもかからない。
それよりもっと異質なものが、ここには溢れているのだから。
「そう、か……そういうことか」
誰かが、慄くようにそう呟く。
弾かれたようにそちらを見れば、ラウルが強張った顔で身を震わせている。
いつも飄々とした、彼らしからぬ様子。
夫と二人、顔を見合わせていると、不意にグローアが声を張り上げた。
「ううむ! ううむ!! そうだっ! この文字、古き時代のエルドナーク語に近い!」
「なんですって? 読めるのですか!?」
「ええ、何とか。綴りに共通するものがありますな。そして頻繁に出てくるこの単語、これは恐らく都市の名前でしょう。リョームォ……ではない、リョンロ――でもない」
アーノルドの問い掛けに応じつつ、芸術家はブツブツと呟く。
「…………ロン、ドン?」
ややあって、グローアの口から確信的な言葉が紡がれた、その時だった。
「……え?」
後ろ髪を引かれるような、誰かに呼ばれたような。
不思議な感覚に襟元を掴まれ、マリーベルは後方を振り向いた。
そこには、誰も居ない。何の気配もない。
なのに、何故だろうか。マリーベルは、唾を呑み込んだ。
背を滑り落ちるような、不安の影。
「どうした、マリーベル?」
「旦那様――」
名状しがたき悪寒。
それを何とか口に出そうとするが、どうにも上手くいかない。
やきもきとしつつ、それでも語意を振り絞って伝えようとして――ふっ、と。
マリーベルは足元へ目を移した。
気のせいだろうか? いや違う。確かに、今。ここから底が――
「旦那様っ! 逃げて!!」
「――なにっ!?」
夫の肩を押すのと、その地響きが足を捉えたのは、殆ど同時であった。
「地震……いや、違う! この部屋そのものが揺れていやがるのか!?」
何かの仕掛けか。揺れは次第に勢いを増し、水晶の欠片が天井から落ち始める。
「旦那! マリー!!」
異変に気付いたのだろう。ティムの声が上から響く。
「駄目です、来ないで! 離れてください!」
見る間に地が裂け、岩盤が崩れ始めてゆく。
マリーベルは素早く夫を小脇に抱きかかえ、次いでグローア氏をひょいっと摘まみあげた。
「マリーベル!?」
「うぉぉぉっ!?」
もう、猶予は無い。
一息に駆け上がるか、さもなくば天井をぶち抜いて上へ出る!
(そうだ、ラウル・ルスバーグは――)
両手は塞がっている。彼まではどうにもならない。
マリーベルが侯爵家次男坊の方へと顔を向け――そして、つんのめるように足を踏みとどまった。
揺れが、急に収まった。先ほどまで響いていたうねりが、すっかりと消え去っている。
(いえ、違う。緩やかになったんだ。進行が極端に『遅く』なっている――)
「行きたまえ。僕はもう少し、ここに用がある」
ラウルがいつになく真剣な面持ちで、そう告げる。
その表情からは、いつもの人を茶化したような雰囲気が、一切感じられない。
いや、それどころか。ひどく焦っているようにさえ見えた。
「僕一人なら、どうとでもなる。さあ、早く行くんだ、間に合わなくなるぞ」
「なに?」
「王室舞踏会で僕が述べた発言を思い出せ。これ以上は言えない、そういう『盟約』になっている」
一瞬、マリーベルは迷う。
彼の言葉に従うべきか、それとも――
「出るぞ、マリーベル。ローディアム氏もいる。ここは、安全策を取るべきだ」
判断を下したのは、アーノルドだった。
その顔に、汗がにじみ出ているのが見える。
今の会話の何かから、彼の頭脳に閃くものがあったのだろうか。
先の舞踏会でのあれこれを思い起こしつつ、マリーベルは頷いた。
「……分かりました。しっかり、掴まっててください!」
「待て、待て待て! またこんな体勢か!? 自分で歩ける、走れる! 下ろせって、おぉぉぉいぃぃぃ……!」
アーノルドが何やら喚くが、黙殺する。この方が手っ取り早いのだ。
そうして、一瞬だけ。マリーベルは台座の方へと振り返る。
謎めいた衣服や本、鞄などの道具の数々。蒼い輝きの中に浮かぶそれらを目に収める。
(……考えるのは、後! 今は――)
マリーベルは後ろ髪引かれる思いを抱きつつ、迷いを振り払うように地を蹴った。
次回は明後日、9/30(土)に更新いたします。




