141話 祝福の鐘
「いやはや、お恥ずかしい所をお見せいたしまして。秘蔵の庭園が観れると知り、どうにも興奮が抑えられず」
でっぷりと肥やした体を丸め、グローアが申し訳なさそうに謝罪する。
養母が苦笑混じりにそれを取り成すのを眺めながら、アーノルドは窓の外へと意識を向けた。
どうやら、雨足は遠ざかったようだ。
吹き荒れていた風も、収まりつつあるらしい。
「そろそろ、参ると致しましょうか。うかうかとしていては、また雨に降られるとも限りません。なにしろ、天空神は気まぐれなもの。雷と嵐に追い立てられては、たまりません」
涼やかな笑みを浮かべ、義母が皆を促す。
その表情にやはり、些少ながら陰りが見えるのは、妻の気のせいではあるまい。
かつての宿敵とも言える侯爵夫人。無惨な死を遂げた彼女を看取った事が、気丈な義母にも影響を及ぼしているのか。
今夜の晩餐で、少しでも心が晴れてくれれば良いが。
アーノルドはそう思いながら、小屋から出る。
生い茂る草木、葉から滑り落ちる雨露を横目に、一同は目的地へと再び足を進めた。
(成るほど、これは見事な物だな)
雲間から覗く陽の光が、濡れ跡を煌めかせ、聖域めいた美しい輝きを放っている。
これは妻も気に入るだろうと見て見れば、案の定。
マリーベルは淑やかな猫を被りながら、うっとりとした目で周囲を眺めているようだ。
空色の瞳がきらきらと輝く様は、それこそ神秘的だとアーノルドは思う。
恐らく、一日中見ていても飽きないだろう。
若さと生命力に満ち溢れた少女奥様の姿は、アーノルドの目に、あまりにも眩しく映った。
「おぉ、これが――!」
グローアが目を見開き、感嘆のため息を吐き出す。
どうやら、目的の場所に辿り着いたらしい。
段々と鼻息荒くなりつつある彼に警戒しつつ、アーノルドは『それ』に目をやった。
「これが、祝福の鐘……」
マリーベルが呟く。
十字状に続く段差のうえ、小高く盛り上がった花園の中に、それは在った。
「素晴らしい、素晴らしい、素晴らしいっ!!」
今にも涎を垂れ流し、飛び付きそうな程に興奮を高める有名芸術家。
しかし、彼のその高揚ぶりも、何となく理解が出来る。
アーノルドもまた、感嘆のため息を吐きだしてしまった。
「――こいつは、凄いな」
思わず口調が戻るほどに、その鐘は美しかった。
大きさそのものは、成人男性の背の、半ばほどだろうか。
その中央には、女神を思わせるの紋様が彫り込まれており、その手は祈るように組み合わされている。
相応の年月を経ているだろうに、その白銀の輝きにはいさかかの曇りも見えない。
雨上がりの直後だから、余計にそう思えるのだろうか。
差し込む陽光が、木々を通り抜けて淡く仄かに光を捧ぐ。
鐘を伝う滴がぼうっと煌めく様は、この世の物とは思えない、幻想的な光景であった。
「この鐘をここに奉じたのは、初代のハインツ男爵と聞いております」
義母・ベルネラが、目を細めながら口を開いた。
「この鐘の紋様、そのモチーフとなったのは、同じく初代の男爵夫人。男爵は、己の妻をこよなく愛したそうで、彼女が若くして儚くなった後、その魂を慰めるかのように意匠を施した、と」
不思議なことに、長年に渡り風雨に晒されてなお、この鐘は少しも欠けず、形を崩す事も無い。。
こうして、往時の輝きを今も保っているのだという。
「……旦那様」
マリーベルが、アーノルドの耳に唇を寄せる。
「『祝福』の気配がします。この鐘、そのものから」
「――なに?」
まさか、この鐘は名前通りだとでも言うのか。
物言わぬ白銀のそれを、アーノルドは注視する。
「どんな効力が及んでいるかは分かりませんが、恐らくは形を保つものではないかと」
「いわば『不壊』の『祝福』か。まぁ、時代を遡るほど、力の純度が濃かったろうからな。初代男爵が異能を持っていてもおかしくはない、が」
ふと、何かが引っ掛かる。
初代男爵の名は、ウィンダリア子爵家を探索した際にも見かけたものだ。
アーノルドは眉を顰めた。奥歯に物が挟まったような、もどかしさ。
言葉にできない奇妙な違和感が、胸を突く。
「この鐘の音、鳴らす事は出来ますかな!?」
そんなこちらの心情を思い計るわけもなく。
舌なめずりすらしつつ、グローア氏がギョロリと目を動かした。
充血しきった瞳から醸しだされる、圧倒的な執念。
裏社会の猛者とも散々にやりあってきたアーノルドをして、腰を引かせる迫力があった。
「え、ええ。もちろん。そこの紐を引けば――」
「やらせてくださいますか!?」
「ど、どうぞ」
あの義母ですら押されている。恐るべしは芸術家の情熱か。
嬉々として紐を掴んだグローア氏を見て、アーノルドは苦笑してしまう。
やがて、妙なる音が庭園に響く。
時計台の鐘の音とはまた違う、甲高くも麗しきそれ。
耳を蕩けさせるとは、このことか。
マリーベルも目を閉じ、幸せそうに微笑んでいる。
それが、そのことが。アーノルドは何よりも嬉しかった。
ここの所の騒動で、悩み苦しんだ妻。
まだまだ油断はならないが、それでも彼女には心安らかに居て欲しいと、そう思う。
――幸せであって、欲しいと。
そんなアーノルドの感慨を余所に、グローアは感動に打ち震えているようだ。
ビクンビクンと体を律動させる様は、陸に打ち揚げられた大魚を思わせた。
「その、えっと。ご満足いただけましたか?」
「ええ、ええ。これこそ至福。私は今、全身で喜びを味わっております」
蕩けた、を通り越して濁り切った瞳で芸術家は笑う。
その様子に慄きつつ、アーノルドはコホン、と。咳を出す。
義母曰く、ここからが本題だと言うのだ。彼をわざわざここへと招き寄せた、その理由。
それは――
「これをご覧くださいませ、ミスター・ローディアム」
「ほう、これは……?」
ベルネラが優雅な仕草で右手を差し出した。
白い手袋に包まれた指先が示すのは、祝福の鐘の、その向こう。
丁度真向かいに位置するその場所に、奇妙なオブジェがあった。
それは、清らかな笑みを湛えた女性の彫像だ。
その腹は膨らんでおり、そこへ口元を寄せて、語り掛けるように微笑んでいる。
「『待ちわびる女』――ですな。大陸争乱期に造られたという、子宝成就を願った調度品」
相次ぐ戦乱によって失われる命、その補填を願う大衆の祈りが結実した証。
国力増強の為もあったろうが、同モチーフになったものは数多い。
様々な職人、あるいは芸術家の手で多種多様の物が造りだされたと、記録にも残されているほどだ。
何時の頃からか、誰が言い出したか。それらを指した総称を『待ちわびる女』と、そう呼ばれた。
「しかし、これは――」
微かに、グローアが眉を顰める。
彼は意外なほどに軽快な動作で像に近付き、あちらこちらを眺め、様々な角度から観察してゆく。
「成るほど。これは珍しい。この作者は恐らく、ラ=ズリでしょうな」
「なっ……」
マリーベルが息を呑んだ。こちらを見上げる瞳が、驚きに揺らいでいる。
それは、アーノルドも同様である。
未来を描いた画家。アーノルド達の姿すら幻視したと思われる、伝説の――幻の芸術家。
「彼は、画家だったのでは?」
「いえ、それがですな。ラ=ズリが制作されたと目される、一連の制作群も見つかっているのですよ。絵画にのみならず、彫刻品も。識者によれば、弟子筋に命じて作らせたのでは、とも言われておりますが。デザインや、総指揮を取ったと思われるのは『彼女』であることに間違いない、と」
――彼女?
アーノルドは思わずグローアを凝視する。
「ええ、ラ=ズリには女性説もあるのですよ。そしてこれは個人的にではありますが、私はそう確信しております。絵のタッチや情熱の深さ。細やかさの中に、仄かな女の『熱』が宿っている。深く、ねっとりと蠢くもの。心をヴェールで覆い隠したような、透けて見える二重性」
像を見上げながら、彼は思いを馳せるように目を閉じた。
「ミスターから、興味深いお話しを聞いた後、ちょっとした伝手を使いましてな。そうして文献を色々と漁り、糸を手繰るうちに、『彼女』がさる侯爵家の姫君であったろうという確証を得ました」
「侯爵家の、ですって?」
「ええ。歴史上の文献からは名を抹消されたようですがね。英雄王アーラスには、若い頃に婚約者が居たらしいのですよ。そのご令嬢こそが、ラ=ズリの正体かと」
アーノルドは口笛を吹きたくなった。
彼は、下手な学者よりも博識だ。問題はそれが真実であるかどうか、だが。
(グローア・ローディアムは古典派の筆頭。その辺りに関する研究も、それこそ専門家にも引けを取らない、か)
成るほど。義母がここへ、彼を呼び寄せるよう言った理由も分かった。
これは確かに、重要な情報源だ。アトリエに通い詰めた甲斐もあったというもの。
英雄王アーラス。それを前世としたと思わしき男。
ラウル・ルスバーグの顔を、アーノルドは思い浮かべる。
婚約者。そこに愛はあったのだろうか。
数々の言動の謎を解くカギが、目の前の像に秘められている気がして、胸がざわつく。
「その家門は? 名は、お分かりになりませんか?」
「推測は立ちますが、明確ではありませんな。執拗に、それこそ念入りに消されている。私も当時の書簡を手に入れねば、分からなかったですから。そこから導き出されるのは、幾つかの名前ですな。リィズ・デュクセン、アリエール・グレーベル。そして――」
つらつらと挙げられる名前。それを聞きながら、段々と。
アーノルドもまた、その婚約者とやらの素性に、思い当たる物があった。
恐らく彼女は『選定者』。その『祝福』も、未来を幻視する類のものだろう。
すなわちは、未来予知。だとしたら、それに類する能力を発現しやすい家系は――
「――ラピス・レーベンガルド」
やはり、それかと、アーノルドは肩を竦めた。
どうやら自分達と、あの家門はよくよくと『縁』があるらしい。
マリーベルが仮面の変態から聞いた、『我が愛した血の末裔』という言葉にも当てはまる。
「当時の侯爵家で彼女が何を見て、どんな絶望を得たのでしょうな。何にせよ、これはまた随分と醜悪なモチーフだ」
「醜悪、ですか? 子を望む母の像が?」
「ええ。胎から微かに突き出た棘のようなもの。巧妙に刻まれた調和神の逆紋様。そして、彼女の顔に差す陰」
グローアが母子像の表情を指差した。
「これは、被っているヴェールの影に見えますが、そうではない。恐れですよ。彼女は怯えているのです。生まれてくる、『何か』に、ね」
「なに、か……」
「ええ。これらを称するモノを、浅学ながら私は他に知りませんな。神の敵対者にして、敬虔なる使徒への誘惑者」
それは、まさか。まさか、それは――
「そう、すなわち――『悪魔』です」
何かが、歯車めいた何かが。アーノルドの中で音を立てて回る。
それは、全身を走り抜ける、焦燥にも似た感覚。
一体なんだ、これはなんだ。アーノルドが正体を絞り出そうとした、その時だった。
「申し訳ございません、ミスター・ローディアム。私すこし、気分が優れませんで」
顔に手を当て、義母がふらりとよろめく。
慌てたようにマリーベルが駆け寄り、その体を支えるのが見えた。
「お養母さま? どうなさったのですか?」
「どうも、年甲斐も無く慌ただしくし過ぎたのが原因でしょうね」
グローアがいるせいか、いつになく淑女らしい言葉で娘へ語り掛けながら、ベルネラはかったるそうに息を吐く。
「母上。それでは、少し休まれてはいかがでしょうか。ここは、私が引き受けますゆえ」
心配そうに母の顔を覗き込んでいたリチャードが、手を振って自らの従僕へと指示を出す。
近くに控えているらしい、家令を呼ぶように彼が告げた所で、ベルネラがその手を抑えた。
「そんなに慌ててどうします。私はこれでも夫に貞節を誓った身。使用人とはいえ、他の男に体を触れさせる事は致しません」
「母上、またそんな……」
「お前が来なさい。ほら、こういうのを東の国では孝行と言うそうですよ。しっかり支えなさいな」
ぴしゃり、と。いつものように扇でリチャードの肩をはたき、ベルネラはふん、と胸を反らす。
相変わらずの気丈さだが、大丈夫であろうか。
その顔が妙に青白い。アーノルドと視線を合わそうともしないのも、気に掛かる。
「あぁ、もう。言い出したら聞かないんだから。申し訳ございません、ミスター・ローディアム。少し、席を外しますゆえ――姉上、義兄上。ここをお願いいたします」
「ええ、任せて。お養母様をお願いね」
「くれぐれも、変な所を触ったり、壊したりなさいませんよう。先ほどみたいな事も、お気を付けくださいね!」
芸術家様の奇行に頭を痛めていたらしい義弟が、心配げにこちらを見る。
アーノルドもまた、任せておけと頷いてやる。
それでもまだ、気に掛かるのか。
何度も何度もこちらを見ながら、リチャードは従僕を連れ、母の手を引いて去ってゆく。
やがて、その姿が見えなくなった所で、グローアが呟いた。
「ふうむ、大丈夫でしょうか。心配ですな」
「ええ、どうも疲れが溜まっていたようで。お騒がせしました、ミスター」
アーノルドの言葉に首を振り、グローアが祝福の鐘へと目を移す。
その体が、不意に揺れる。慌てたように巨体が駆け出し、祝福の鐘の、その真下へと跪いた。
そうして、土をまた掘り返すような仕草を見せる。
「ミスター!? どうなさいました!?」
「これを、これをご覧ください!」
すわ、また奇矯かと慌てたゲルンボルク夫妻、それにティムの前で、グローアが足元を指差した。
「これは……何だ?」
雨で流れたのだろうか。花壇の土の下に、硬質な何かが見える。
石畳、だろうか。それにしても不自然な形だ。
アーノルドが目配せをすると、以心伝心とばかりに、マリーベルが息を吸い込んだ。
「おおっ!?」
あっさりとそれが引っこ抜かれる。流石の怪力、恐るべき権能だ。
可憐な美少女が起こした、超人的な行為。しかし、グローアは驚きを瞬時にひっこめた。
そう。その目は、石畳の下から現れた『それ』に釘付けとなっていたのだ。
「扉……?」
マリーベルが呟く。それは、煉瓦で作られた両開きの扉であった。
錠前のようなものが、取っ手に括りつけられている。
「開けられるか?」
「え、良いんです? さっきリチャードに壊すな、触るなって」
「一応の試しだ。やってみてくれ」
知りませんよ、とマリーベルは首を振りながら、息を吸い込んだ。
その取っ手に手を掛け、力任せに引きちぎろうとする――が。
「……ダメです。開きませんし、壊れません。というか、この気配。これも、『鐘』と同じ――」
「『祝福』か。やはりな」
これはどうにもならないだろう。
己の推測が当たったのを見て、アーノルドは頭を掻いた。
リチャードが戻って来たら、訪ねてみるか。いや、彼では知らない可能性もある。
ここはやはり、後で義母にその事を――
「あ、鍵ならここにあるよ」
「ん、おぅ。悪いな――って、なに?」
手の平に、ちゃらっと乗せられた銀の鍵。
それを差し出した張本人を見て、アーノルドは思わずのけぞった。
同時に、空気を切り裂いて拳が飛ぶ。
マリーベルが繰り出したそれを軽やかに避け、『彼』は地面に降り立った。
「おっと、相変わらず手が早い。いや、判断が早いのか。だが、ここはちょっと収めてくれると嬉しいね! 何せほら、御客人の前だ」
「何しに来やがった! ラウル・ルスバーグ!」
アーノルドが睨み付けた先、そこに立つ貴公子が涼やかに笑う。
「彼らが居る前だとマズいんだ。ほら、ここって『他家』に門外不出だろう? 平民の君たちならまだしも、一応は貴族の僕は入れない」
「不法侵入じゃないです!? 何を残念がるのかヘボ探偵!」
「その代わり、扉を開ける鍵を出そうと言うんだ。安心したまえよ、今日の僕は君の敵じゃない。これは、『彼』からの贈り物でもあるのさ」
いつの間にか、アーノルドの手の平にあった鍵は再び、ラウルの指先に摘ままれている。
「贈り物、だと?」
「ほら、侯爵との決闘に君は勝利したろう。その時に何か、言われなかったかな。褒美がどうこう、とか」
『――私に勝てば、報酬をやろう。君が望むであろう、垂涎の褒美だ』
レーベンガルドの言葉が、脳裏に蘇る。
そうだ、と。アーノルドは思い出す。
しかるべき時に、しかるべき手段で。あの男は、確かにそう言っていた。
(まさか、そういうことなの、か?)
あちらこちらに忙しく、中々に出かける時間も少なかったグローア・ローディアム。
それが丁度、作品の納品が終わり、予定していた招待会も主催者が欠席となり。
そうして、お互いの予定が擦り合わされたその日に、都合の良すぎる雨と風だ。
更に、不意に調子を崩し、この場を離れた男爵母子はどうだ。
まるで、そう。全てが予め、定められていたかのように――
「あいつ、まさか。最期に使っていたのか。自分の『祝福』を……」
「僕はこの先のモノを見たい。どうしても見たい。きっとそれは、君たちにとっても有意義だと思うけどね」
鍵を手の内で弄びながら、公爵家次男は実に嬉しそうに微笑む。
「知りたくはないかな? サウス・レーベンガルド侯爵が、君に。君たちに贈ろうと思っていた『報酬』の正体を」
次回は9/28(木)に更新いたします




